論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰麻冕禮也今也純儉吾從衆拜下禮也今拜乎上泰也雖違衆吾從下
- 「純」字:最後の一画を欠く。唐憲宗李純の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰麻冕禮也今也純儉吾從衆/拜下禮也今拜乎上泰也雖違衆吾從下
- 「冕」字:〔日免〕。
慶大蔵論語疏
子曰麻𡨚1(麻〔冖八免〕)2礼也/今也純/吾從衆/拜下礼也/今拜乎上太也/雖〔辶麦〕3衆吾從下
- 「冕」の異体字。「東魏司馬昇墓志銘」刻。
- 傍記。「〔穴免〕」は「冕」の異体字。「隋尉氏女富娘墓誌銘」刻。
- 「違」の異体字。『龍龕手鑑』(遼)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「麻絻a,禮也;今也純,儉也b,吾從衆。[拜乎c下,禮]213……
- 絻、今本作「冕」。
- 也、今本無。
- 乎、今本無。
標点文
子曰、「麻絻禮也。今也純、儉也。吾從衆。拜乎下禮也。今拜乎上太也。雖違衆、吾從下。」
復元白文(論語時代での表記)
※絻→免・純→屯・儉→虔・太→大。論語の本章は、「絻」「也」「乎」「泰」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、麻の絻は禮也。今也純なるは、儉か也。吾は衆に從はむ。下乎拜むは禮也、今上に拜むは太る也、衆に達ふと雖も、吾は下に從はむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「麻の冠は作法である。今はまさに絹を使のは、節約である。私は大勢に従う。下で拝むのは作法である。いま上で拝むのは傲慢だ。大勢に逆らいはするが、私は下で拝むのに従う。」
意訳
あー。今日の礼法の授業は冠からじゃな。あー、礼法の規定では麻の冠をかぶるが、あれは繊維をほぐすのが大変で、チト値が張る。じゃから今は絹の冠で代用するが、これはまあ、節約にもなるからいいじゃろう。
あー、次は主君への礼拝じゃな。礼法の規定では階下から拝むことになっておる。今はずかずかと階段を上がってから拝む者が多いが、これはいかん。太々しいにも程がある。世間様にそむこうとも、私はやらぬし諸君もやっちゃいかん。えー、次に…。
従来訳
先師がいわれた。――
「麻の冠をかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「用麻布做禮帽,是以前的規定;現在都用絲綢,比較節約,我隨大衆。在堂下拜見君主,是以前的規定;現在都堂上拜,沒有禮貌。雖然違反大衆,我還是贊同在堂下拜。」
孔子が言った。「麻布で礼帽を作るのは、古いしきたりで、現代では絹を使う。比べると節約になるから、私は世間に従う。宮殿の壇の下で君主を拝むのは、古いしきたりで、今は誰もが壇上で拝む。お行儀が良くない。世間とはやり方を変えるが、私はやはり壇の下で拝むのに賛成する。
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
麻*(バ)
(金文)
論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣏟」”麻の原糸”。麻ひもで想像できるように、麻の原糸(ヘンプ)は太さが不揃いの繊維が絡まったような形をしている。それを屋根の下で整えて紡績するさま。初出の字形はよくそのさまを伝えており、「十」”きぬた”で繊維を打ってほぐすさま。「マ」は唐音(遣唐使廃止から江戸末期までに日本に伝わった音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「メ」。春秋末期までに、”あさ”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「麻」を参照。
麻が非常に人手の掛かる繊維だったことは、戦国最末期の『呂氏春秋』に見える。論語郷党篇7余話「何で織った」を参照。
植物のアサと言ってもアサ科のいわゆる大麻だけではなく、枲はイラクサ科の”からむし・ちょま”であり、芛(初出は説文解字)は”ジュートあさ”で中国原産とされる。亜麻はカフカス原産とされ、相当する漢字は無いようだから、論語の時代には無かっただろう。
冕(ベン)→絻(ベン)
(甲骨文)
初出は甲骨文とされる。ただし字形は「免」と未分化。現行字体の初出は楚系戦国文字。甲骨文の字形は跪いた人=隷属民が頭に袋のようなものをかぶせられた姿で、「冕」”かんむり”と解するのは賛成できない。殷代末期の金文には、甲骨文と同様人の正面形「大」を描いた字形があり、高貴な人物が冠をかぶった姿と解せる。現行字形は「冃」”かぶりもの”+「免」”かぶった人”。殷代末期の金文は、何を意味しているのか分からない。春秋末期までに、人名・官職名に用い、また”冠”の意に用いた。詳細は論語語釈「冕」を参照。
慶大蔵論語疏では「麻」と続け字にして「𡨚」と記し、「麻」「〔冖八免〕」を傍記している。「𡨚」は「冕」の異体字で「東魏司馬昇墓志銘」刻。上掲「〔冖八免〕」も「冕」の異体字で「隋尉氏女富娘墓志銘」刻。
(篆書)
定州竹簡論語は「絻」と記す。初出は前漢中期の定州竹簡論語。「冕」の異体字とみなした場合は甲骨文だが、まるで字形が違うので賛成できない。字形は「糸」”つな”+「免」”引っ張る人”。「免」は春秋末期までは”かぶり物をかぶった人”の意だが、漢以降になると明らかに字形が異なる。”冠”と解せる場合のみ、「冕」が論語時代の置換候補になり得る。詳細は論語語釈「絻」を参照。
古注によると、麻の素材は安価だが、作るのに手間がかかったという。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では「禮也」では「なり」と読んで”~である”。断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。だからといって「や」と読んで”…だなあ”、詠嘆の意に取るのは無理がある。「今也」では「や」と読んで”…こそまざに”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
純(シュン)
「純」(甲骨文)
論語の本章では”絹糸”。「純」の初出は甲骨文。論語の春秋時代までは「屯」と書き分けられていなかった。現行字体の初出は戦国時代の金文。「ジュン」は呉音。「屯」の字形の由来は”カイコ”。原義は”きぬ(いと)”。甲骨文では”一対の”・”あいだじゅう”を意味した。金文では”厚い”・”大きい”、”衣類のふち”を意味した。戦国の竹簡では、”すべて”を意味した。詳細は論語語釈「純」を参照。
儉(ケン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では、”節約である”。新字体は「倹」。初出は秦の戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語の時代の置換候補は「虔」。字形は「亻」”人”+「僉」(㑒)で、初出が春秋末期の金文である「僉」の字形は、「亼」”あつめる”+「兄」二つ。「兄」はさらに「口」+「人」に分解でき、甲骨文では「口」に多くの場合、神に対する俗人、王に対する臣下の意味をもたせている。『魏志倭人伝』で奴隷を「生口」と呼ぶのは、はるか後代の名残。「儉」は全体で、”多数派である俗人、臣下らしい人の態度”であり、つまり”つつしむ”となる。詳細は論語語釈「倹」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
衆(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”大勢の人”。「眾」と「衆」とは異体字。初出は甲骨文。字形は「囗」”都市国家”、または「日」+「人」三つ。都市国家や太陽神を祭る神殿に隷属した人々を意味する。論語の時代では、”人々一般”を意味した可能性がある。詳細は論語語釈「衆」を参照。
拜*(ハイ)
(金文)
論語の本章では”おがむ”。初出は西周早期の金文。字形は「木」+「手」。手を合わせて神木に祈るさま。西周中期の字形に、「木」+”かぶり物をかぶり目を見開いた人”があり、神官が神木に祈る様を示す。新字体は「拝」。春秋末期までに、”おがむ”・”うけたまわる”の意に用いた。”任じる”の用例は戦国時代から。詳細は論語語釈「拝」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”~で”。目的語、この場合は場所を指定する。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
下(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”殿前”。御殿の回廊に繋がる階段の下。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”殿上”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
泰(タイ)→太(タイ)
論語の本章では”太々しい”。
(秦系戦国文字)
「泰」の初出は秦系戦国文字。同音に大・太。従って”大きい”・”太い”の意を持つ場合にのみ、大・太が論語時代の置換候補となりうる。字形は「大」”人の正面形”+「又」”手”二つ+「水」で、水から人を救い上げるさま。原義は”救われた”→”安全である”。
『説文解字』や『字通』の言う通り、「太」が異体字だとすると、楚系戦国文字まで遡れるが、漢字の形体から見て、「泰」は水から両手で人を救い出すさまであり、「太」は人を脇に手挟んだ人=大いなる人の形で、全く異なる。詳細は論語語釈「泰」を参照。
(楚系戦国文字)
慶大蔵論語疏では「太」と記す。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は同音の「大」。字形は「大」に一点加えたもので、『学研漢和大字典』『字通』は「泰」の略字と見なし、「漢語多功能字庫」は「大」の派生字と見なす。詳細は論語語釈「太」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
違(イ)
(金文)
論語の本章では”そむく”。初出は西周早期の金文。字形は「辵」”あし”+「韋」”めぐる”で、原義は明らかでないが、おそらく”はるかにゆく”だったと思われる。論語の時代までに、”そむく”、”はるか”の意がある。詳細は論語語釈「違」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶麦〕」(unicode:2E792)と記し、『龍龕手鑑』(遼)所収。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期埋蔵の定州竹簡論語に見える。前半カンムリについてのウンチクは、前漢中期の『塩鉄論』憂辺6に孔子曰くとして再出。『塩鉄論』については、本章同様「儉」の字を用いた論語八佾篇4余話「文系おたくのメルヘン」を参照。
後半、殿上殿下での拝礼については、春秋戦国時代を含め、先秦両漢の文献に見えない。再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』。
あるいは後半は、後漢儒による追加の可能性がある。前漢儒といわれる孔安国が注を付けているが、この男は実在そのものが疑わしい。高祖劉邦を避諱していない箇所があるからだ。
解説
論語の本章は孔子塾の授業の実況中継。まぎれもない弟子の回想。先にこの論語子罕篇1で、本章を孔子の独白に分類したが、こうやって改めて吟味すると、本章もまた回想に分類した方が理に叶っている。
章 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
内容 | 回 | 回 | 独 →回 |
回 | 回 | 対 | 回 | 独 | 独 | 回 | 回 | 回 | 対 | 回 | 独 | 独 |
章 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 |
内容 | 独 | 独 | 独 | 評 | 評 | 評 | 評 | 独 | 独 | 独 | 評 | 評 | 独 | 独 | 独 | 独 |
こうした礼式の授業は、屋外に設けられた壇上で行ったらしい。少なくとも中国の文化人はそう理解していた。
なお本章で用いられた「麻」の字は意外に新しく、初出は西周早期の金文。”アサ”を意味する「𣏟」も「枲」もさらに新しく、初出は楚系戦国文字。「麻」があるのに「𣏟」がない、というヘンテコな時代は想像しがたいから、𣏟の字も西周早期にはあったのだろうが、意外にアサの出現は新しい。
一方「糸」はそれだけで”絹糸”を意味するとされ、初出はもちろん甲骨文。すると中国ではアサより前に絹糸の利用が始まったのかと思いたくなるが、こればかりは考古学的発見を調べないことにはなんとも言えないだろうし、訳者はそちらについては素人である。
木綿が中国に現れるのは唐末から宋代にかけての十世紀で、毛織物はモンゴル帝国まで時代が下る。新疆や青海と言った遊牧民居住地からは、紀元前1900年頃の毛織物が出土しているが、元は羊飼いの部族だった周はなぜか、毛織物を造らず毛皮のままで用いた(→梁国兴・邓景元「毛织物发展历史」/中国古代毛织物)。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰麻冕禮也今也純儉吾從衆註孔安國曰冕緇布冠也古者績麻三十升布以為之純絲也絲易成故從儉也拜下禮也今拜乎上泰也雖違衆吾從下註王肅曰臣之與君行禮者下拜然後升成禮時臣驕泰故於上拜也今從下禮之恭也
本文「子曰麻冕禮也今也純儉吾從衆」。
注釈。孔安国「冕は緇布の冠である。昔はつむいだ麻三十升の布で作った。純とは絲である。絲は簡単にできるので、だから節約になった。」
本文「拜下禮也今拜乎上泰也雖違衆吾從下」。
注釈。王粛「臣下が君主に礼を行うとき、御殿の下で拝み、その後で昇殿することが作法にかなう。当時の臣下は驕っていたので、だから昇殿して拝んだ。そこへ改めて殿下に拝むのは、作法でも丁寧な所作である。」
新注『論語集注』
子曰:「麻冕,禮也;今也純,儉。吾從眾。麻冕,緇布冠也。純,絲也。儉,謂省約。緇布冠,以三十升布為之,升八十縷,則其經二千四百縷矣。細密難成,不如用絲之省約。拜下,禮也;今拜乎上,泰也。雖違眾,吾從下。」臣與君行禮,當拜於堂下。君辭之,乃升成拜。泰,驕慢也。程子曰:「君子處世,事之無害於義者,從俗可也;害於義,則不可從也。」
本文「子曰:麻冕,禮也;今也純,儉。吾從眾。」
麻冕とは、黒布で作った冠である。純は、絹糸である。儉は、節約することである。黒布の冠は、三十升(宋代の1升は0.9488ℓ)以上の麻材が作るために要り、一升で八十本の糸が出来るから、つまり二千四百本の糸が必要で、とても目が細かくて作りにくい。いっそ絹糸を使った方が安上がりになる。
本文。「拜下,禮也;今拜乎上,泰也。雖違眾,吾從下。」
家臣が君主にお辞儀する際は、御殿の下で拝むべきである。君主が応えて会釈してから、やっと御殿に上がるべきである。泰とは、おごり高ぶることだ。
程頤「君子が世渡りをするには、何事も正義に叶っていなければならない。それなら、皆に合わせても悪くない。だが正義にかなっていないなら、皆がしようともしてはならない。」
今なら位取りや8×3ごとき、平均的な小学生なら誰でも知っている。だが宋代は「学者」がこうやって自慢する価値があるものだった。儒者が賤しんだ商人なら当然もっと高度な算術を知っていたが、タコツボの村人である儒者は、この程度のことを自慢し合ったわけだ。
論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
なお朱子が麻の冠を、わざわざ「緇布」”黒布”と断っているのにはわけがある。白い冠は喪服の一部で、昭和の幽霊ものコントで演者が、ひたいに白い三角形のハチマキを巻いていたのは、亡者の略式冠だったからだ。
童子有老而未冠者。考官問之。以孤寒無網巾對。官曰。只你一嘴鬍髯。勾結網矣。對曰。新冠不好帶得白網巾。
ある儒者、科挙(高級官僚採用試験)の二次試験を長年受け続けたがぜんぜん合格しない。そのまま爺になってしまったが、儒者頭巾をかぶらないまま試験に臨んだ。試験官が「なんで頭巾をかぶらない?」と聞くと、今なお独り者でいるほど貧乏しており、頭巾も買えないという。
試験官「ならお前さんの、その長いヒゲで頭巾を編んではどうかね。」
爺儒者「初冠で白頭巾とは縁起が悪うございます。」(『笑府』巻二・未冠)
葬礼に白冠をかぶるのは少なくとも漢代には作法として定められ、士大夫(役人階級)が亡命する際にも葬礼と同じ格好をしろと言われた。
大夫、士去國,祭器不逾竟。大夫寓祭器於大夫,士寓祭器於士。大夫、士去國:逾竟,為壇位鄉國而哭。素衣,素裳,素冠,徹緣,鞮屨,素冪,乘髦馬。不蚤鬋。不祭食,不說人以無罪;婦人不當御。三月而復服。
大夫(上級貴族)も士(下級貴族)も、生国を去る時には、先祖伝来の青銅器を携えてはならぬ。生国に置いてゆけ。大夫は大夫に、士は士に祭器を預けよ。大夫や士が生国を去る時には、国境で祭壇を築いて、故郷に向かってわあわあと泣け。その時の衣装は、白い上着、白い袴、白い冠。しつらえは縁縫い一本糸の敷物、履くのは飾り無しの革靴、住まうのは白いテント、乗るのはたてがみを切りそろえない馬。ヒゲを剃ってはならない。お供えをするほどの豪華なものを喰ってはならない。人に話しかけてはならない。以上を守れば、亡命しても無罪とする。(『小載礼記』曲礼下89)
余話
中華無宿
「亡命」を『大漢和辞典』は前漢末の『急就篇』につけられた注をもとに「命は名で、名籍を脱すること」というが、「命」のカールグレン上古音はmi̯ăŋ(去)、「名」はmi̯ĕŋ(平)で微妙に違うから、儒者の空耳なのだろうか。ならどういう意味かと問い詰められたら窮するが。
初出はどうやら前漢中期の『史記』らしい。
張耳者,大梁人也。其少時,及魏公子毋忌為客。張耳嘗亡命游外黃。外黃富人女甚美,嫁庸奴,亡其夫,去抵父客。父客素知張耳,乃謂女曰:「必欲求賢夫,從張耳。」女聽,乃卒為請決,嫁之張耳。張耳是時脫身游,女家厚奉給張耳,張耳以故致千里客。乃宦魏為外黃令。名由此益賢。陳餘者,亦大梁人也,好儒術,數游趙苦陘。富人公乘氏以其女妻之,亦知陳餘非庸人也。餘年少,父事張耳,兩人相與為刎頸交。
張耳は大梁(現開封市)の出身である。若い頃、地元魏国の信陵君の取り巻きになっていたことがある。張耳は亡命して外黄(現河南省商丘市)に流れた。
外黄の大尽に娘がいてたいへんな美人だったが、どういうわけか日雇い人足の妻になった。当然夫から亡(に)げ出し、父親の取り巻きに「かくまって下さい」と頼んだ。取り巻きは張耳の人となりを知っていたので、娘にこう勧めた。「立派な夫が欲しいなら、張耳の嫁になりなさい。」女が言う通りにすると言うので、取り巻きはすぐさま口利きをして、前夫との始末を付けてやったから、女は張耳に嫁いだ。
この時張耳は身を逃れて浮浪人の身分だったが、女の実家がたっぷりと持参金を付けたので、張耳はゆかりのある人々を呼び寄せて取り巻きに出来た。それであっという間に有名になったのでまもなく魏の政府から外黄の市長に任じられた。それで名前にますます箔が付いた。
ところで陳余も大梁の出身だが、儒教で人をクルクルパーにするのを好み、たびたび趙国の苦陘(現河北省定州市)に出掛けては就職活動をしていた。苦陘の大尽・公乗氏が陳余を見込んで娘を嫁がせたが、陳余がただ者でないと知っていたからである。陳余は年下だったので、張耳に対し父のように仕えたが、張耳は対等の友人扱いして互いに兄弟分となった。(『史記』張耳陳余伝)
中国史上で有力者の「客」とは私兵とかパシリのヤクザの意だが、この「客」も同じで、「乃卒為請決」とは女が承知したのでそのまま前夫に「言う通りにしないとあの世へ行くよ」のたぐいを言って震え上がらせた、の意。面倒くさいいきさつを暴力でブチ切ったわけだ。
とまれ原文から察するに、前漢の漢語で「亡命」とは、「脱身游」→浮浪人の身分に落ちることであるらしい。原文に「刎頸の交わり」とまで記された両人だが、このあと秦の統一→滅亡→楚漢戦争と激動する時代の中で、一転して互いの首を狙うほどの仇敵になる。
中華文明の然らしめるところで、なんとも非情な話ではある。
参考記事
- 論語学而篇4余話「中華文明とは何か」
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