『宋史』現代日本語訳:卷四十七 本紀第四十七 瀛國公二王附(崖山の戦い)

推奨BGMはこちら

原文

二月戊寅朔,世傑部將陳寶降。己卯,都統張達以夜襲大軍營,亡失甚衆。癸未,有黑氣出山西。李恒乘早潮退攻其北,世傑以淮兵殊死戰。至午潮上,張弘范攻其南,南北受敵,兵士皆疲不能戰。俄有一舟檣旗僕,諸舟之檣旗遂皆僕。世傑知事去,乃抽精兵入中軍。諸軍潰,翟國秀及團練使劉俊等解甲降。大軍至中軍,會暮,且風雨,昏霧四塞,咫尺不相辨。世傑乃與蘇劉義斷維,以十餘舟奪港而去,陸秀夫走衛王舟,王舟大,且諸舟環結,度不得出走,乃負昺投海中,後宮及諸臣多從死者,七日,浮屍出於海十餘萬人。楊太后聞昺死,撫膺大慟曰:「我忍死艱關至此者,正爲趙氏一塊肉爾,今無望矣!」遂赴海死,世傑葬之海濱,已而世傑亦自溺死。宋遂亡。

世話に和らげたる書き下し


二月戊寅(つちのえとら)朔(ついたち)、世傑(せいけつ)部將陳寶(ちんぽう)降(くだ)る。己卯(つちのとう)、都統(たいちょう)張達夜を以(もちい)て軍營(ぐんぜい)を襲うこと大(おおい)にして、亡(ほろ)び失(し)にたるもの甚(はなは)だ衆(おお)し。癸未(みずのとひつじ)、黑き氣(もや)有りて山西に出づ。李恒早(つと)に潮退(しおひ)くに乘りて其の北を攻め、世傑淮兵(わいへい)を以て死戰(たたかいたたかい)すること殊(はなはだ)し。午(ひる)潮上るに至りて、張弘范其の南を攻め、南北敵を受け、兵士皆な疲れて戰う能(あた)わ不(ず)。俄(にわか)に一舟(いっせき)有りて檣(ほばしら)の旗僕(た)れ、諸舟(ふねぶね)之檣の旗遂(つい)に皆な僕る。世傑事の去りぬるを知り、乃(すなわ)ち精兵(しこお)を抽(ぬ)きて中軍(はたもと)に入(い)る。諸軍(もろいくさ)潰(つい)え、翟國秀(たくこくしゅう)及び團練使(だんれんのおさ)劉俊等(ら)、甲(よろい)を解きて降る。大軍中軍に至るも、暮に會(あ)い、且(か)つ風雨(のわき)ありて、昏(くら)き霧四(よ)も塞(ふさ)ぎ、咫尺(しせき)も相い辨(わか)た不(す)。世傑乃(すなわ)ち蘇劉義(そりゅうぎ)と與(とも)に維(つな)を斷(た)ち、十餘(とおあまり)の舟を以て港を奪(ぬ)け而(て)去り、陸秀夫衛王の舟に走るも、王の舟大(おおい)にして、且つ諸舟(ふねぶね)環(くろがねのわ)もて結びたれば、度(わた)るに出で走るを得(え)不、乃ち昺(へい)を負いて海中に投げたれば、後宮(こうきゅう)及び諸臣の多く從いて死する者あり。七日、屍(しかばね)の浮びて海於(に)出でたるもの十餘(あまり)萬人。楊太后昺の死を聞き、膺(むね)を撫(な)でて大いに慟(わなな)きて曰(いわ)く、「我れ死を忍びて艱關(かんなん)此(ここ)に至る者(は)、正(まさ)に趙氏(ちょうし)一塊(ひとかけ)の肉爲(た)る爾(のみ)、今や望み無き矣(なり)」と。遂(つい)に海に赴(おもむ)きて死し、世傑之(これ)を海濱(すなはま)に葬り、已(おえ)るにし而(て)世傑亦(ま)た自ら溺(おぼ)れ死せり。宋、遂(つい)に亡(ほろ)ぶ。

書き下し

二月戊寅朔、世傑部將陳寶降る。己卯、都統張達夜を以て軍營を襲うこと大にして、亡び失えるもの甚だ衆し。癸未、黑氣有りて山西に出づ。李恒早に潮退くに乘じて其の北を攻め、世傑淮兵を以て死戰すること殊し。午潮上るに至りて、張弘范其の南を攻め、南北敵を受け、兵士皆な疲れて戰う能わ不。俄に一舟有りてほばしらの旗れ、諸舟之檣の旗遂に皆な僕る。世傑事の去りぬるを知り、乃ち精兵を抽きて中軍に入る。諸軍潰え、翟國秀及び團練使劉俊等、甲を解きて降る。大軍中軍に至るも、暮に會い、且つ風雨ありて、昏き霧四も塞ぎ、咫尺も相い辨ぜ不。世傑乃ち蘇劉義と與に維を斷ち、十餘舟を以て港をけ而去り、陸秀夫衛王の舟に走るも、王の舟大にして、且つ諸舟環もて結びたれば、度るに出で走るを得不、乃ち昺を負いて海中に投げたれば、後宮及び諸臣の多く從いて死する者あり。七日、屍の浮浮びて海於出でたるもの十餘萬人。楊太后昺の死を聞き、膺を撫でて大いに慟きて曰く、「我れ死を忍びて艱關此に至る者、正に趙氏一塊の肉爲る爾、今や望み無き矣」と。遂に海に赴きて死し、世傑之を海濱に葬り、已るにし而世傑亦た自ら溺れ死せり。宋、遂に亡ぶ。

現代日本語訳

〔宋祥興帝祥興2年/元世祖至元16年/1279〕二月戊寅の朔日、張世傑の部将だった陳宝が元に降った。己卯、都統の張達が夜陰に乗じて元軍に大反撃を仕掛けたが、返り討たれておびただしく多くの兵を失った。

癸未、黒いもやが山西に揚がった。元将の李恒が早朝の引き潮に乗じて宋軍の北を攻めたので、張世傑は淮地方の兵を率いて反撃したが、苦戦に苦戦を重ねた。昼になって潮が満ちてくると、元将の張弘范が宋軍の南を攻めたので、南北から挟み撃ちに遭い、宋の兵士は皆疲れて戦えなくなってしまった。

そのさなか、宋軍の一艘の艦が耐えきれずに軍旗を降ろした。それをきっかけに、次々と諸艦が軍旗を降ろし、全て降服してしまった。張世傑は事がすでに終わったのを知り、配下から精兵を抜き出して、祥興帝の御座船に向かった。各部隊は潰滅し、翟国秀と、義勇軍司令官の劉俊らが、鎧を脱いで降服した。

元の大軍が宋の近衛艦隊に近づいたが、日が暮れ、さらに風雨が激しくなって、しかも黒い霧が四方を塞ぎ、手の先すら見えない闇となった。張世傑は蘇劉義と共に、艦と艦をつなぎ止めていた綱を断ち切り、十隻あまりを引き連れて、港を抜け出して去った。

宋の宰相の陸秀夫が、祥興帝の御座船に向かったが、御座船はあまりに巨大で、しかも他の船と結わえ付けられていたので、船から船に飛び移るのに、よろよろと向かうしかなかった。そこで祥興帝を背負い、共に海中に身を投げた。後宮の女官や諸官がそれに続いた。

七日、おびただしい水死体が打ち上がり、その数は十数万人に達した。楊太后は祥興帝の死を聞き、胸を撫でつつわなわなと震えて泣いた。「私が死ぬような思いで耐え続けたのは、宋帝室の一員だったからだ。だがもう、望みは無くなった。」そのまま海に走って身を投げた。張世傑は太后を砂浜に葬り、礼を終えてから、自分も後を追って海に身を投げた。

宋、遂に亡ぶ。


論語詳解232子罕篇第九(29)歲寒くしてに戻る

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



関連記事(一部広告含む)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. […] ただし宋儒に関して言うと、最後だけは立派で高慢ちきの責任を取った(→崖山の戦い)。 […]

  2. […] ともあれ始皇帝から康有為まで、つまり中華帝国の始まりから終わりまで、名にこだわる儒者の執念は続いた。康有為が「道家の隆盛に惑わされて」などと言っているが、宋儒も最後は文天祥のように、「名を惜しんで」滅びていった(→『宋史』崕山の戦い)。 […]