論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰譬如爲山未成一簣止吾止也譬如平地雖覆一簣進吾往也
- 「譬」字:へん〔𡰪言〕つくり〔辛〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰譬如爲山未成一簣止吾止也/譬如平地雖覆一簣進吾往也
慶大蔵論語疏
子曰〔𡰪𨐌言〕1如為2山未成一蕢2止吾止也/〔𡰪𨐌言〕1如平地〔口衣隹〕3覆一蕢2進吾往也
- 「譬」の異体字。『干禄字書』(唐)所収字近似。
- 「爲」の異体字。新字体と同じで草書書き。「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
- 「簣」の同音同訓。
- 「雖」の異体字。「魏內司楊氏墓志」(北魏)刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「[吾未見]231…… ……不隋者,其回也與!」232
※事実上「なし」。定州竹簡論語の一簡は、19~21字とされる。簡231号が最大の21字として、前章の「好德如好色者也」7文字を引くと14字分残る。さらに次章の「不隋(惰)者」より前の部分「子曰語之而」5字を引くと9字分残る。本章の26文字を記すのは物理的に不可能。錯簡の可能性は可能性に過ぎない。あるいは簡231号と簡232号の間に、もう一枚の簡があったのだろうか。
標点文
子曰、「譬如爲山。未成一蕢、止吾止也。譬如平地。雖覆一蕢、進吾往也。」
復元白文(論語時代での表記)
譬 蕢 譬 覆蕢
※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。定州竹簡論語に本章が記されるべき物理的平面が無い。「如」「未」「也」「平」「地」「進」の用法に疑問がある。本章は前漢中期以降の創作である。
書き下し
子曰く、譬へば山を爲るが如し。未だ一蕢に成らざるの、止むは吾が止む也。譬へば地を平かにするが如し。一蕢を覆すと雖も、進むは吾が往く也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「例えば山を造るようなものだ。一かごの土を盛らない、それは自分が止めたのだ。例えば地面を平らにするようなものだ。一かごの土を盛る、それは自分が進めたのだ。」
意訳
勉強とは、山を造るのと同じで、ほんの僅かな仕上げを怠けるだけで全て台無しになる。地面をならすのと同じで、ほんの僅かな穴埋めでも、その分進む。止めるも続けるも、お前たち次第だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「譬如堆山,還差一筐,沒堆成就停了,功虧一簣是自己造成的;譬如填坑,衹倒一筐,繼續填下去,堅持不懈是自己決定的。」
孔子が言った。「例えば山を造る時に、あと僅か一かごだろうと、出来上がる前に止めてしまえば、一かごのせいで台無しになったのは、自分がしたことだ。例えば穴を埋めるときに、ただ一かごだろうと、続けて穴を埋めるなら、頑張り抜いたのも自分がしたことだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
譬(ヒ)
(篆書)
論語の本章では”たとえると”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」+「辟」”王の側仕え”で、”たとえる”の語義は戦国時代以降に音を借りた仮借。『大漢和辞典』で音ヒ訓たとえるは「譬」のみ。詳細は論語語釈「譬」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔𡰪𨐌言〕」と記す。「辛」に横一画多く、旁のようにした書体で書いている。上掲『干禄字書』(唐)所収字から「口」を欠いた字形。
本章は定州竹簡論語に欠いているが、論語雍也篇30では「辟」と記している。初出は甲骨文だが”たとえ”の語義は春秋時代では確認できないので、「譬」の論語時代の置換候補にならない。詳細は論語語釈「辟」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”造る”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
「爲」の異体字。新字体と同じで草書書き。上掲「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
山(サン)
(甲骨文)
論語の本章では、”山”。初出は甲骨文。「セン」は呉音。甲骨文の字形は山の象形、原義は”やま”。甲骨文では原義、”山の神”、人名に用いた。金文では原義に、”某山”の山を示す接尾辞に、氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「山」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
成(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”出来上がる”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。
一(イツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”ひとつの”。「イチ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
簣*(キ)
(金文大篆)
論語の本章では”もっこ”。土を運ぶかご。論語では本章のみに登場。初出は不明。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。文献的には論語の本章のほか、『尚書』旅獒篇にも見られるが、いわゆる先秦時代の儒教経典は、前漢以降の偽作が疑われる書ばかりなので信用できない。確実な初出は前漢中期の『塩鉄論』が、論語を引用する形で用いているが、孔子の言葉だとは言っていない。字形は「⺮」+「貴」”かつぐ”。同音は存在しない。『尚書』には「為山九仞,功虧一簣。」とあり、”もっこ”と解せる。詳細は論語語釈「簣」を参照。
慶大蔵論語疏では同音同訓語「蕢」と記している。詳細は論語語釈「蕢」を参照。
日本のもっこは棒を通して二人で担ぐが、中国のもっこは一人で背負ったらしい。
未成一簣
「成」が自動詞で「一簣」が目的語(英語的には補語というべきか)。それを「未」で否定した句形。「いまだ一簣に成らざる」と訓読する。以下の理由から、「一簣を成さざる」ではない。
「いまだ一簣を成さざる」と読んで、”そもそも、たったの一かごも土を積まない”と解することも出来るが、下掲前漢中期の『塩鉄論』に同様の文字列があり、文脈上、”ほぼ出来上がったが、あと一かごを積まない”と解さないと文意が通じない。
大略を示すと、先の武帝の時代に、対匈奴戦争を中途半端で終えたから、みすみす匈奴を取り逃がして強大化させた、と言ったあと、「未成一簣」を言ったので、”あと一かご”の意となる。
止*(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”やめる”。初出は甲骨文。字形は足の象形。甲骨文から原義のほか、”やむ”・”とどまる”と解しうる用例がある。また祭りの名の例も見られる。詳細は論語語釈「止」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
孔子は一人称としては、「予」を用いたことが多い。目下に対する自称で、弟子相手の言葉。ここでは「吾」になっているから、孔子は自分がもっこ担ぎする気はないのである。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、本章が史実なら「かな」と読んで詠嘆の意、偽作なら「なり」と読んで断定の意の可能性が高いが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
平(ヘイ)
「平」(金文)
論語の本章では”たいらにする”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。字形の由来と原義は不明。金文では人名に用い、戦国時代の金文では地名、”平ら”を意味した。詳細は論語語釈「平」を参照。
地*(チ)
(玉石文)
論語の本章では”地面”。この語義は春秋時代では確認できない。確実な初出は春秋末期の玉石文。ただし字形は「䧘」。春秋末期までの字形は「阝」”はしご”+「彖」”虫”で、虫が這い上がってくる地面を指すか。詳細は論語語釈「地」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔口衣隹〕」と記す。「魏內司楊氏墓志」(北魏)刻。
覆*(フウ)
(戦国金文)
論語の本章では”かごをひっくり返して土をこぼす”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「襾」”覆う”+音符「復」。「復」は甲骨文からあるが、初出の「复」は麺やパン生地を薄くのばす、両側に持ち手の付いたローラーの象形で、のち「彳」”みち”が付いた。行き帰りの行程を”繰り返す”の意。”くつがえす”の意では漢音は「フク」。”おおう”・”かぶせる”・”伏兵”では「フウ」、「フク」は慣用音。詳細は論語語釈「覆」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”前に進める”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
往(オウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”進む”。初出は甲骨文。ただし字形は「㞷」。現行字体の初出は春秋末期の金文。字形は「止」”ゆく”+「王」で、原義は”ゆく”とされる。おそらく上古音で「往」「王」が同音のため、区別のために「止」を付けたとみられる。甲骨文の字形にはけものへんを伴う「狂」の字形があり、「狂」は近音。「狂」は甲骨文では”近づく”の意で用いられた。詳細は論語語釈「往」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に無い。欠損したのだと言い張ることは出来るが、欠損を証す情報が無いから、無いものはもとから無かったと考えるのが「オッカムのカミソリ」に合う。
前半「たとえば山を…」部分は、前漢中期の『塩鉄論』に見られるが、孔子の発言と断っていない。
大夫曰:「初,貳師不克宛而還也,議者欲使人主不遂忿,則西域皆瓦解而附於胡,胡得眾國而益強。先帝絕奇聽,行武威,還襲宛,宛舉國以降,效其器物,致其寶馬。烏孫之屬駭膽,請為臣妾。匈奴失魄,奔走遁逃,雖未盡服,遠處寒苦墝埆之地,壯者死於祁連、天山,其孤未復。故群臣議以為匈奴困於漢兵,折翅傷翼,可遂擊服。會先帝棄群臣,以故匈奴不革。譬如為山,未成一簣而止,度功業而無繼成之理,是棄與胡而資強敵也。輟幾沮成,為主計若斯,亦未可謂盡忠也。」
宰相が言った。「(先君武帝のころ、)当初、李広利将軍は大宛(フェルガナ)に攻め入ったが勝てずに帰り、朝臣は先帝を怒らせないようにするため誤魔化したので、西域の漢配下の諸国は皆崩壊して匈奴の支配下に入った。これで匈奴はますます強くなった。先帝は家臣の出鱈目に耳を貸さず、武威郡を再興し、また大宛を襲わせたので、大宛は国をこぞって降服し、国宝を献上し、駿馬を贈って寄こした。このうわさを聞いて烏孫の諸族が恐れ、属国になりたいと申し出た。これで匈奴は慌てふためき、現住地に逃げ帰った。西域諸国の全てが漢に服属はしなかったが、匈奴兵は本国から遠い地での気候や地形の厳しさにはなはだ苦しみ、壮健な兵でも祁連山・天山のふもとで討ち死にし、連れていた子はみなしごになってそのまま異郷の土に還った。これで漢の朝臣は匈奴の苦戦を言い立て、戦力を叩き潰す好機だから、今こそ攻めようと議論した。だが先帝はこの意見を採り上げず、その結果みすみす匈奴を取り逃がした。例えるなら山を築くのに、あと一かごを盛る前にやめてしまうようなもので、業績を挙げようと図っても成果を積み上げるのを怠れば失敗に終わることわりで、これが西域を放棄し匈奴を強める結果になった。政策が行き当たりばったりだったせいでうまくいかず、主君の考えをダメにしたとはこのことで、忠義を尽くしたなどとはぜんぜん言えない。(『塩鉄論』西域3)
また『尚書』(書経)周書・旅獒篇2に「為山九仞,功虧一簣。」とあり、「九仞の山をつくるに、功し一簣に虧く」と読み、”14mほどの築山を造るのに、最期の一かごを積まなければ何もしなかったのと同じ”の意だが、「仞」の初出は前漢隷書、「虧」は後漢の説文解字、「簣」は上記の通り初出不明なほど新しく、漢以降の儒者のでっち上げと断じるしか仕方が無い。
結局論語の本章は、初出が後漢から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』で、事によると成立は南北朝にまで下りうる。『塩鉄論』も論語や『尚書』ともども、後世の儒者がいじくらなかった可能性は皆無に等しい。
解説
論語の中でも、こうまではっきりと偽作の証拠があるのは珍しい。本章の内容そのものは、教師としての孔子の口から出てもおかしくないが、現代日本のいかにも頭の悪い教師ですら言いそうなことでもあり、偉大な師の言葉として残す価値は感じられない。
そしておそらく本章を元ネタに、上掲『尚書』の偽作もでっち上げられた。「高さ九仞の山を築こうとしても、最後のもっこ一杯を盛らねばやり遂げたとはいえないぞ。」いわゆる「九仞の功を一簣に欠く」の故事成語の出典だが、成立は本章よりさらに下るわけだ。
ただし価値ある人間の営みを、山盛りや地ならしに例える例は古くからある。
『列子』は詳細を知りがたい古典だが、そこに収められた楊朱の学説は、孔子没後に墨家と天下を二分するほどの勢いだったと孟子が証言している。その裏で儒家はほとんど滅亡同然だったわけだが、この寓話は流行り、あるいは漢帝国の儒者の偽作のネタを提供したことになる。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰譬如為山未成一簣止吾止也註苞氏曰簣土籠也此勸人進於道徳也為山者其功雖已多未成一籠而中道止者我不以其前功多而善之也見其志不遂故不與也譬如平地雖覆一簣進吾往也註馬融曰平地者將進加功雖始覆一簣我不以其見功少而薄之也據其欲進而與之也疏子曰至往也 云子曰云云者此戒人為善垂成而止者也蕢土籠也言人作善垂足而止則善事不成如為山垂足唯少一籠土而止則山不成此是建功不篤與不作無異則吾亦不以其前功多為善如為善不成吾亦不美其前功多也故云吾止也云譬如平地云云者此奬人始為善而不住者也譬於平地作山山乃須多土而始覆一籠一籠雖少交是其有欲進之心可嘉如人始為善善乃未多交求進之志可重吾不以其功少而不善之善之有勝於垂成而止者故云吾往也
本文。「子曰譬如為山未成一簣止吾止也」。
注釈。包咸「簣とは土を入れる籠である。この話は人に道徳へ進むよう勧めたのである。山を造るにあたって、既に随分土を積み上げても、最後の籠一杯を積まないで止めてしまったら、既に積んだ土も無駄になる、ということだ。途中で止めてしまうような軟弱物は、手助けしてやらない、ということだ。」
本文。「譬如平地雖覆一簣進吾往也」
注釈。馬融「地面をならそうとするなら、まず籠一杯を掘り崩さねばならない。掘り返した量が少なくても、それは問題にならない。飽くまで掘り進めようとする意欲に、私は味方するのだ、ということである。」
付け足し。先生は進む先の極致を言った。「子曰くうんぬん」とは、人が善き意志で起こしたことを、一歩手前の途中で止めてしまうことを戒めたのである。蕢とは土を入れる籠である。人が善き意志で始めたことを途中で止めてしまえば、つまり善事が完成しない。山を造るのにあと一歩の所で、籠一杯の土を積むのを止めれば、絶対に山は出来上がらない。これを”詰めが甘い”と呼び、最初からやらないのと同じである。だから、それまでの積み上げがどんなんに大きくても、私もまた評価しない、と言ったのである。善事も同じで途中で止めてしまえば、私もまたそれまでの善行がどれほどよろしくても、誉めない、と言ったのである。だから「吾止也」と言った。
「譬如平地うんぬん」は、善事を始めるに当たって、ぐずぐずするな、と人に勧めたのである。平地に山を造るのに譬え、山には大量の土が要るが、始めは籠一杯の土を盛ることにある。一杯は少ない量ではあるが、突き進む意志が籠もっており、誉めるに値する。人が善事を始めるのもこれと同じで、僅かな善事ではあっても、突き進む意志がこもっており、高く評価するに値する。だから、私はやった量が少ないからと言ってダメとは言わない。善事をやり遂げた者を褒めるのだ、と言ったのだ。だから「吾往也」と言った。
新注『論語集注』
子曰:「譬如為山,未成一簣,止,吾止也;譬如平地,雖覆一簣,進,吾往也。」簣,求位反。覆,芳服反。簣,土籠也。書曰:「為山九仞,功虧一簣。」夫子之言,蓋出於此。言山成而但少一簣,其止者,吾自止耳;平地而方覆一簣,其進者,吾自往耳。蓋學者自彊不息,則積少成多;中道而止,則前功盡棄。其止其往,皆在我而不在人也。
本文「子曰:譬如為山,未成一簣,止,吾止也;譬如平地,雖覆一簣,進,吾往也。」
簣は、求-位の反切で読む。覆は、芳-服の反切で読む。簣は土かごである。書経に、「為山九仞,功虧一簣」とある。孔子先生の言葉は、たぶんこれを引用したのだろう。言うこころは、築山を築くのに最後の一かごを盛らなければ、それはやめたという事で、自分が自分でやめたのだ。地面をならすのに一かご分くぼ地に盛ったなら、それはやったという事で、自分が自分でやったのだ、ということだ。たぶん勉強する者が自分で自分を励ましてやめないなら、少しの努力でも大きな成果がある。だが途中でやめたら(論語雍也篇12)、それまでの努力も水の泡になる。やめるもやるも自分次第で、人のせいには出来ない。
余話
まっさらにしてやる
日本では地形的制約から、原語の漢籍以上に「九仞の功を…」の説教が言われすぎた。
冷戦期の米艦載機に、EA-6プラウラーがあった。機種は電子戦機で、敵のレーダーや通信を傍受し、妨害し、必要とあれば電波の発信源を破壊できるミサイルを搭載した。プラウルprowlとは「うろつく」の意だが、rとlの区別のつかない日本人には別に聞こえる。
英語でploughまたはplowと記される農具プラウがあり、日本語ではスキと訳されるが正確ではない。トラクターや牛馬に引かせる大型農具で、強い力で草ぼうぼうの地面を切り裂きまっさらに掘り起こす。ゆえにプラウラーと聞けば「まっさらにしてやる」の脅威を感じる。
アメリカの大平原は言うまでもなく、中国でも大行山脈以東は平原だったから、早くから牛馬に引かせたプラウが登場した。ヨーロッパでもドニエプル川からドン川にかけて広がる黒土地帯(チェルノーゼム)があり、西欧でも人口増大期では森を切り開いて大耕地が造成された。
対して日本ではプラウの訳語がないように、大耕地がそもそも存在せず、ちまちまと園芸的農業に終始した。例外が見られるのは北海道の開拓からである。ゆえに日本人の根性には、効率性を度外視して、とにかく「精を出す」ことを評価するなにがしかが根付いた。
評価するとは軟らかな表現で、実情は説教する者のサディズムと結びついた、弱者への無理難題の押しつけである。訳者の世代は親以上の年長者に、二言目には「戦争中はどうたら」と言い返せない理屈付きで苦痛や欠乏を強要されたが、まことに日本人らしいけしきと言える。
同様に論語の本章や「九仞」の説教が造られた後漢末から南北朝は、古代中国の崩壊期で、わずかな他人への情けが即座に自分の死につながる救いのない世の中だった。つまり一人でも多くの他人をクルクルパーにして食い物にする必要から、本章のような絵空事が作られた。
従って中国人の進化史は、そういう絵空事を真に受けないようにますます進化した。前後の漢儒が気法楽なことを言って済ませていられたのは、偶然に地球環境がよかったからで、ひとたび寒冷期となればとうてい澄ましてはいられない。それが後漢の崩壊だった。
現代人が論語や漢文を読み、時に書き手の正気を疑いたくなるのは、まことに結構な時代の結構なご身分な者が書いた絵空事だからで、それゆえに暇つぶし以外で読もうとするなら、原文の裏まで読まないと意味が無い。本章もその例で、偽作者の気持ちになる必要がある。
それを踏まえた上で、プラウを施される我が身を返り見るとき、施しをせせら笑うべきだと気付くだろう。湾岸戦争のイラク兵は、闇夜で何が起きているかも分からないまま、徹底的に目潰しされて壊滅した。格闘戦機をいくら持とうと、強力な電子戦機にやられてしまう。
だが格闘戦機や攻撃機や輸送機その他もないと、やはりいくさに勝てないのだ。陰険な工作しかしない連中が、その虚弱を白状するのと同様で、何事にも近道ばかり追い求めると、たいてい失敗するばかりか、自分の成し遂げたことに自信を失い、万事の元気まで失われる。
元気を失えば全てを失う。プラウが押し寄せると承知で、目を見開き耳を澄ますことだ。わずかな兆候をないがしろにせず、直感を信じて逃げ隠れし、そして進む。プラウへの冒進を押し付けてくる連中は「戦争中どうたら」同様のサディストだから、聞く耳を持たなくていい。
過去は取り返しようがないが、未来の自分は救いうる。だが未来は知れきった放物線でなければ、微積分を解いても決して分からず、海図のないまま大海を進むしかない。だが進まないと生きることさえ難い世が、今目の前に押し寄せている。プラウを恐れず行く以外に無い。
一簣を欠いた九仞の山は、九仞より一簣だけ低い山に過ぎない。無かったことには決してならない。他人に始めから完璧を求めるのは、春秋の君子にふさわしくない不心得だと孔子も言った(論語子路篇25)。漢文を読むのに一簣を欠こうとも、九仞近くの山なら出来る。
それは普段の意志決定も、同じに違いない。
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