論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰君子易事而難說也說之不以道不說也及其使人也器之小人難事而易說也說之雖不以道說也及其使人也求備焉
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰君子易事而難悅也/悅之不以道不悅也及其使人也器之/小人難事而易悅也悅之雖不以道悅也及其使人也求備焉
- 「悅」字:〔兌〕→〔兊〕。
定州竹簡論語
……人a,器之。小人難[事也b],356……人也,求[備焉]。」357
- 今本人下”也”字。
- 小人難事也、今本作”小人難事而易說也”。
標点文
子曰、「君子易事而難悅也。悅之不以道、不悅也。及其使人、器之。小人難事也。悅之雖不以道悅也。及其使人也、求備焉。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※「悅」→「兌」。論語の本章は、「焉」字が論語の時代に存在しないが、無くとも文意はほとんど変わらない。「易」字の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、君子は事へ易くし而悅ばしめ難き也。之を悅ばしむるに道を以ゐ不らば、說ば不る也。其の人を使ふに及び、之を器にす。小人は事へ難き也。之を悅ばしむるに道を以ゐ不と雖も說ぶ也。其の人を使ふに及ぶ也、備はれるを求め焉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「君子は仕えやすいが、喜ばせ難いものだな。喜ばせるにも道理が通っていなければ、喜ばないからだ。君子が人を使うには、人を道具にする。凡人は仕えにくいな。喜ばせるに道理が通っていなくても、喜ぶからだな。凡人が人を使うには、人に能力を求めてしまう。」
意訳
君子は仕えやすいが、機嫌を取るのは難しい。道理が通らない利益は嫌がるからだ。しかも君子は、使う者をよく観察して、何にしか向いていないか知っているのだ。
対して凡人は仕えにくいが、簡単に喜ぶ。道理がどうであろうと、利益があれば飛びつくからだ。ところが凡人は人を見ないから、使う者に必ず万能を求める。仕えがたいのも当然だ。
従来訳
先師がいわれた。
「君子は仕えやすいが、きげんはとりにくい。きげんをとろうとしても、こちらが道にかなっていないといい顔はしない。しかし人を使う時には、それぞれの器量に応じて使ってくれ、無理な要求をしないから仕えやすい。小人は、これに反して、仕えにくいがきげんはとりやすい。こちらが道にかなわなくても、きげんをとろうと思えばわけなく出来る。しかし人を使う時には、すべてに完全を求めて無理な要求をするから仕えにくい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「為君子做事容易,但使他高興卻很難。討好不當,他是不會高興的;他用人時,總能量材而用。為小人做事難,但使他高興很容易。討好不當,他也高興;他用人時,總是求全責備。」
孔子が言った。「立派な人物のために働くのはたやすい。ただし彼を喜ばそうとするのは非常に難しい。機嫌を取ろうにも気に入らなければ、彼は喜ぶばせることが出来ないからだ。彼は人を使う際、才能を見抜いて適所に用いる。つまらぬ人間のために働くのは難しい。しかし彼を喜ばすのは非常にたやすい。機嫌を取りさえすれば気に入らなくとも、彼は喜ぶ。彼は人を用いる際、いつも完璧に仕事を仕上げることを求める。」
論語:語釈
子 曰、「君 子 易 事 而 難 悅(說) 也。說 之 不 以 道、不 悅(說) 也。及 其 使 人 (也)、器 之。小 人 難 事 (而 易 悅(說)) 也。說 之 雖 不 以 道、悅(說) 也。及 其 使 人 也、求 備 焉。」
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では”貴族”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
易(エキ)
(甲骨文1・2)
論語の本章では、”…しやすい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、「匜」”水差し”に両手を添え、「皿」=別の容器に注ぐ形で、略体は「盤」”皿”を傾けて液体を注ぐ形。「益」と語源を同じくし、原義は”移し替える”・”増やす”。古代中国では「対飲」と言って、臣下に褒美を取らせるときには、酒を注いで飲ませることがあり、「易」は”賜う”の意となった。戦国時代の竹簡以降に字形が乱れ、トカゲの形に描かれるようになり、現在に至っている。論語の時代までに確認できるのは”賜う”の意だけで、”替える”・”…しやすい”の語義は戦国時代から。漢音は”変える”の場合「エキ」、”…しやすい”の場合「イ」。詳細は論語語釈「易」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”仕える”。字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そしで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
難(ダン)
(金文)
論語の本章では”めったにない”→”難しい”。初出は西周末期の金文。新字体は「難」。「ダン」の音で”難しい”、「ダ」の音で”鬼遣らい”を意味する。「ナン」「ナ」は呉音。字形は「𦰩」”火あぶり”+「鳥」で、焼き鳥のさま。原義は”焼き鳥”。それがなぜ”難しい”・”希有”の意になったかは、音を借りた仮借と解する以外にない。西周末期の用例に「難老」があり、”長寿”を意味したことから、初出の頃から、”希有”を意味したことになる。詳細は論語語釈「難」を参照。
說(エツ)→悅(エツ)
論語の本章では”喜ぶ”。現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損し、唐石経は「說」と記し、清家本は「悅」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。よって「悅」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(楚系戦国文字)
「說」の新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
「悅」(楚系戦国文字)
「悅」の初出は戦国時代の竹簡。新字体は「悦」。語義は出現当初から”よろこぶ”。論語時代の置換候補は部品の「兌」。詳細は論語語釈「悦」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章、「及其使人也」では、「や」と読んで主格の強調”まさに”。それ以外は「かな」と読んで詠歎の意”だなあ”に用いている。「なり」と呼んで断定の意と解することも可能だが、この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
道(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”(まともな)方法”。道理が通っていること。「道」は、動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。この語義は春秋時代では確認できない。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。動詞としての用例は戦国時代の竹簡から。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。詳細は論語語釈「道」を参照。
及(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~すると”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”という指示詞。人を使おうとする君子を指す。論語の本章に限っては、”自分の”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”させる”→”使う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
器(キ)
(金文)
論語の本章では、”道具にする”。自由自在に使いこなすこと。初出は西周早期の金文。新字体は「犬」→「大」と一画少ない「器」。字形は中央に「犬」、周囲に四つの「𠙵」”くち”。犬を犠牲に捧げて大勢で祈るさま。原義は大規模な祭祀に用いる道具。金文で人名に用いられた例がある。詳細は論語語釈「器」を参照。
うつわは茶碗なら茶かご飯、皿なら焼き物や乾き物といったように、ほとんどが単能で、皿に茶を注げば飲みにくい。君子は人を観察して、何に向いているかを分かった上で使え、ということ。
小人(ショウジン)
論語の本章では”平民”。孔子の生前、仮に漢語に存在したにせよ、「小人」は「君子」の対となる言葉で、単に”平民”を意味した。孔子没後、「君子」の意が変わると共に、「小人」にも差別的意味合いが加わり、”地位身分教養人情の無い下らない人間”を意味した。最初に「小人」を差別し始めたのは戦国末期の荀子で、言いたい放題にバカにし始めたのは前漢の儒者からになる。詳細は論語における「君子」を参照。
「君子」の用例は春秋時代以前の出土史料にあるが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は戦国中末期の「郭店楚簡」からになる。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
求(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”求める”。初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
備(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”完備していること”。初出は甲骨文。字形は〔亻〕”ひと”の背に〔𤰇〕矢をいれたえびら。矢を射る用意が整ったさま。「ビ」は呉音。西周の金文から、”えびら”・”備わる”の意に用いた。詳細は論語語釈「備」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では”~てしまう”を意味する完了のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「焉」の字の春秋時代における不在はどうにもならないが、無くとも文意がほぼ変わらず、「焉」字も事実上「也」字の異体字であって、本章は史実の孔子の発言と捉えてよい。いささか「君子」を高慢ちきに描いているきらいはあるが、春秋時代という太古での、貴族と庶民の視野の広さや深さは埋めようのない断絶だったろう。
論語の本章も、「君子」と「小人」の対比話だが、孔子の生前は徹頭徹尾、君子とは貴族であり、小人とは庶民や凡人を言い、孔子は区別はしても差別はしてない。
孔子曰:「吾有所恥,有所鄙,有所殆。夫幼而不能強學,老而無以教,吾恥之;去其鄉,事君而達,卒遇故人,曾無舊言,吾鄙之;與小人處而不能親賢,吾殆之。」
孔子「私には、恥ずかしく思うこと、卑しく思う事、危ないと思うことがある。若いうちから勉強に励まなかったのは、恥だと思う。田舎から出てきて主君に仕え、出世した頃に郷里の人と出会ったとき、昔通りに優しくしないでふんぞり返るような行いを、卑しいと思う。小人と一緒にいる時に、その中でも偉い人を見出して親しめないのを、危ないと思う。」(『孔子家語』三恕7)
最古の出土が論語と同じく定州漢墓竹簡である『孔子家語』で、論語の内容を論証するのは自家撞着に陥るが、すくなくとも「小人」を普通の庶民と見なす解釈、元々の孔子の出身階層であるとする解釈が、論語と同時代にもあったことが分かる。
戦国時代や秦漢帝国の儒者が、「君子である我らをもっと重用せよ」と迫るためにでっち上げた可能性がないではないが、文字史的に春秋時代の漢語としてほぼ通用することから、史実であると判断した。
解説
食材も調理法も限られた地域で質素な食事を生涯続けざるを得ない人に、贅を尽くした美食の味を想像することは出来ないように、人間の視野も立場や経験がものを言う。他地域との交流を絶ち、素朴に質素な生活をする牧歌的な風景を讃える思想が古代中国になかったわけではないが、その代表である『老子道徳経』も、「君子」が視野の狭いままでいてよいとは書いていない。
現代でも人間は群れて生きる動物だが、古代となれば孤立して生きるには人間の持つ技術力がか細すぎて、まず不可能だった。つまり人々は何らかの共同体の一員として生きており、共同体の大部分を占める「小人」=庶民は、左右に倣って生活していればそれで済んだ。
時間的・空間的に、より幅広い視野を持つ必要があるのは、国や共同体を指導する「君子」=貴族であり、小人がそんなものを備えてしまえば、指示されるいちいちに不満が高まって共同体を追い出されるしかない。つまり自滅するほか無いわけで、「鵜の真似するカラス」は極めて危険だった。
孔子塾に入門してくる弟子は、ほとんどが貴族への成り上がりを目指した庶民で、それゆえにそれまで自分が備えようもなかった広い視野を、孔子に説教される必要があった。例えば本省に言う、”人には向き不向きがある。それを見極めて使え。何でもやってくれるなどと思うな”という教えは、人を使う立場の君子になるのでなければ、必要ないし危険でもある。
論語を読む現代人が気をつけねばならないのはこの点で、”自分は君子か?”と自問しなければならない。君子でもないのに論語を読みかじって君子になったつもりでいると、ともするとただの高慢ちきにおちいってしまう恐れがあるからだ。
余話
(思案中)
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