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論語詳解207子罕篇第九(2)達巷の党人いわく*

論語子罕篇(2)要約:後世の創作。ある村の村人が、孔子先生をはやし立てます。「孔子先生はお偉いな、あんなに一生懸命勉強したのに、何の役にも立っていない。」吹き出す先生。微笑ましい話ですが、そのまま史実とは言えません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

達巷黨人曰大哉孔子博學而無所成名子聞之謂門弟子曰吾何執執御乎執射乎吾執御矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

達巷黨人曰大哉孔子博學而無所成名/子聞之謂門弟子曰吾何執執御乎執射乎吾執御矣

  • 宮内庁本同。

慶大蔵論語疏

1子聞之謂門弟子曰吾何執/執〔彳上卩〕2乎執射乎/吾□3𢓦

  1. 復数字欠損により判読不能。
  2. 「御」の異体字。「魏女尚書馮迎男墓誌」(北魏)刻字に近似。
  3. 欠損により判読不能。

※論語の本章は、現存最古の論語の版本である定州竹簡論語に次いで古い慶大蔵論語疏が一部残る。詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。慶大蔵論語疏は慶應義塾が元画像をネット公開したため参照した。この論語子罕篇と他に郷党篇しか残っていないが、現存最古の古注系論語になる。中国で隋代以前に筆写されたとされ、それゆえ現伝論語の祖本である唐石経より古い文字列を伝えている。その代わり書体がいわゆる楷書とかなり異なる。その研究は慶大による出版に反映されているのだろうが、価格が高価に過ぎて買えず、読みに行くにも手間がかかる。よって訳者独自で書体を調べ書き留めた。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……弟子曰:「吾何[執?執]御乎?[執射]乎」吾執御212…….


→達巷黨人曰、「大哉孔子、博學而無所成名。」子聞之、謂門弟子曰、「吾何執。執御乎、執射乎。吾執御矣。」

復元白文(論語時代での表記)

達 金文巷 金文人 金文曰 金文 大 金文哉 金文子 金文 博 金文学 學 金文而 金文無 金文所 金文成 金文名 金文 子 金文聞 金文之 金文 謂 金文門 金文弟 金文子 金文曰 金文 吾 金文何 金文執 金文 執 金文御 金文乎 金文 執 金文射 金文乎 金文 吾 金文執 金文御 金文矣 金文

※巷→コウ 外字。論語の本章は、「黨」の字が論語の時代に存在しない。「巷」「博」「成」「名」「謂」「門」「何」「執」「乎」の用法に疑問がある。本章は前漢儒による創作と言うしかないが、「黨」の字を省いても実は文意が変わらない。

書き下し

達巷たつかうともがらひといはく、おほひなるかな孔子こうしひろまなところしと。これいて、門弟子もんていしひていはく、われなにをからむ。たづならむゆみらむわれたづななりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

タツ村の村人が言った。「孔子は偉大だ。幅広く学んでどこにも名声を得ていない。」先生はこれを伝え聞いて弟子に言った。「私は何をしようか。御者になろうか。射手になろうか。私は御者になろう。」

意訳

孔子 人形
達村の村民が囃して歩いた。「♪孔子先生はお偉いな、何でも知ってて何にもなれない。」

目撃した弟子「けしからん、百姓どもがこんな事言ってました。」
伝え聞いた孔子「はっはっは。では御者になろうか、猟師になろうか…御者になろう。」

従来訳

下村湖人

達巷という村のある人がいった。――
「孔先生はすばらしい先生だ。博学で何ごとにも通じてお出でなので、これという特長が目立たず、そのために、却って有名におなりになることがない。」
先師はこれを聞かれ、門人たちにたわむれていわれた。――
「さあ、何で有名になってやろう。御にするかな、射にするかな。やっぱり一番たやすい御ぐらいにしておこう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

貴族區的人說:「孔子真偉大!博學多才,樣樣都是專家。」孔子聽說後,對學生說:「我的專長是什麽?是駕駛?是射擊?大概是駕駛吧。」

中国哲学書電子化計画

貴族街の人が言った。「孔子はまことに偉大だ。博学多才で、何もかも達人の域に達している。」孔子が話を聞き終えて、弟子に言った。「私が得意なのは何かね?馬車術かね?弓術かね?多分馬車術のことだろう。」

論語:語釈

達(タツ)

達 甲骨文 達 字解
(甲骨文)

論語の本章では固有名詞の地名。初出は甲骨文。甲骨文の字形は↑+「止」”あし”で、歩いてその場にいたるさま。原義は”達する”。甲骨文では人名に用い、金文では”討伐”の意に用い、戦国の竹簡では”発達”を意味した。詳細は論語語釈「達」を参照。

巷(コウ)

巷 金文 巷 字解
コウ 外字」(金文)

論語の本章では”むら”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は戦国晩期の金文。ただし『字通』によれば、「コウ 外字」と書いて西周初期の金文にある。同音は「鬨」”たたかう”・「項」”うなじ”・「鬨」”戦う”。字形は「人」二人の間に「土」で、原義は”境界”。日本語で同音同訓の字には、論語の時代の文字が見つからない。詳細は論語語釈「巷」を参照。

論語の本章では町とも横町とも取れるが、『字通』を参照すると、国野制における国人の居住地とは思えず、”むら”と解釈するのが一番いいように思う。少なくとも古くからの”まち”ではなく、新開地、新興住宅地といったところだろう。

黨(トウ)

党 金文 党 字解
(戦国末期金文)

論語の本章では、”町内会”。新字体は「党」。初出は戦国末期の金文。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。ただし物証とは言えない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

大(タイ)

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

論語の本章では”偉大である”。初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。

博(ハク)

博 甲骨文 博 字解
(甲骨文)

論語の本章では”幅広く”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”あまねくゆきわたる”。初出は甲骨文。ただし「搏」”うつ”と釈文されている。字形は「干」”さすまた”+「𤰔」”たて”+「又」”手”で、武具と防具を持って戦うこと。原義は”戦う”(「博多」って?)。”ひろい”と読みうる初出は戦国中期の竹簡で、論語の時代の語義ではない。詳細は論語語釈「博」を参照。

學(カク)

学 學 金文 学
(金文)

論語の本章では”学んだ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”…するところの事項”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

成(セイ)

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

論語の本章では”実を結ぶ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

名(メイ)

名 甲骨文 名 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”有名になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミョウ」は呉音。字形は「夕」”夕暮れ時”+「𠙵」”くち”で、伝統的には”たそがれ時には誰が誰だか分からないので、名を名乗るさま”と言う。甲骨文では地名に用い、金文では”名づける”、”銘文”の意に用い、戦国の竹簡で”名前”を意味した。詳細は論語語釈「名」を参照。

博學而無所成名

論語の本章では、”博学なのにどこでも名前を知られていない”。「無」は”ない”だが、『大漢和辞典』によると『詩経』魯頌・泮水に「無小無大、從公于邁」とあるように、”かかわらず・論ぜず”の意味もある。

すると「博学にして所無くして名を成す」と読めなくもない。そうすると「博学でどこでも有名になっている」と解せる。その場合は下の句の解釈も修正の必要があり、よ~し褒められてお父さんがんばっちゃうぞとばかり、「馬車も弓矢も得意じゃよ? どっちが見たい? 馬車でいいかね」となる。しかしこの読みは楽しいものの、やや無理がある感じがする。

ある漢字=語が、どこまでその効力を及ぼすかを管到と言うが、管到は後ろに及びはするが前に及ばない。中国語は古代からSVO型の言語だからだ。ゆえに「無所成名」のうち「所成名」は「無」の管到であり得るが、「成」は「無所」を管到できない。つまり「所成名」が無い、とは言えても、「成名」の対象として「無所」は本来ならあり得ない。

ところが歴代の儒者が、無茶苦茶な注釈を古典に書き込んだせいで、前に及ぶ管到があり得ることになってしまった。ただし論語は最古の古典の一つだから、そうしたデタラメで読んではならない。あくまでも管到は後ろへ、従って孔子は”何一つ有名になっていない”。

この点古注新注の中国儒者は、珍しく孔子にゴマスリせず、「どこでも有名になっている」と解していない。現代中国でのゴマスリ解釈は、一体どこから出てきたのだろう?

古注『論語集解義疏』

註鄭𤣥曰達巷者黨名也五百家為黨此黨之人美孔子博學道藝不成一名而已


注釈。鄭玄「達巷とは町内会の名である。当時は五百家で一党を作った。この町内の人が、孔子は博学なのに何の名声も得ていないのを褒め讃えたのである。」

新注『論語集注』

博學無所成名,蓋美其學之博而惜其不成一藝之名也。


朱子「博學にして名を成す所無しとは、たぶんその学識が深いのに、惜しいことに何の名声も得ていないのを褒め讃えたのだろう。」

答え合わせは解説にて。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

論語の時代、「聞」は間接的に聞くことで、直接聞く事は「聴」と言った。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”言う”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

門(ボン)

門 甲骨文 門 字解
(甲骨文)

論語の本章では”学派の”。この語義は春秋時代では確認できない。「モン」は呉音。初出は甲骨文。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。

弟子(テイシ)

論語の本章では”(曽子の)弟子”。「デシ」は慣用音。「弟」が”若い”を、「子」が”学ぶ者”を意味する。現代日本での学生生徒児童は敬称ではないが、論語の時代、学問に関わる者は尊敬の対象であり、軽い敬意を世間から受けた。

孔子が弟子に呼びかける「君子」は”諸君”と訳して良いが、もとは「諸君子」の略であり、「君子」とは論語の時代、すなわち貴族を意味する。また孔子やその他の者が孔子の弟子連を「二三子」と呼ぶ場合があるが、これも「二三人の君子」の意で、軽い敬意がこもっている。

また後世の「諸子」は、これも「諸君子」の略であり、目下の若者に使う言葉ではあるが、軽い敬意がこもっている。

弟 甲骨文 論語 戈
「弟」(甲骨文)

「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形はカマ状のほこ=「」のかねを木の柄にひもで結びつけるさまで、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になった。甲骨文・金文では兄弟の”おとうと”の意に用いた。詳細は論語語釈「弟」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

執(ショウ)

執 甲骨文 執 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に取る”この語義は春秋時代では確認できない。。初出は甲骨文。「シツ」は慣用音。字形は手かせをはめられ、ひざまずいた人の形。原義は”捕らえる”。甲骨文では原義で、また氏族名・人名に用いた。金文では原義で、また”管制する”の意に用いた。詳細は論語語釈「執」を参照。

御(ギョ)

御 甲骨文 御 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手綱”。「ゴ」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形は同音の「馭」と未分化で、「ヨウ」”あざなった縄の手綱”+「セツ」”隷属民”で、御者を務める奴隷。原義は”御者(を務める)”。のちさまざまな部品が加わって「御」の字となった。甲骨文では祭礼の名や地名・国名、また「禦」”ふせぐ”の意に用いられ、金文では加えて”もてなす”、”管理・処理する”、”用いる”の意に、また官職名に用いられた。詳細は論語語釈「御」を参照。

御 異体字
慶大蔵論語疏は「〔彳上卩〕」と記し、「教育部異體字字典」にも見えないが、上掲「御」の異体字「魏女尚書馮迎男墓誌」(北魏)に似ている。

孔子塾で教授された教科を「リク芸」というが、その中に「御」があった。士以上の貴族は、戦時には将校として出征せねばならかったからである。平民もまた徴兵されたが、ほとんどは輜重兵か歩兵を務めた。対して貴族は、当時の主力兵器である戦車を操り、戦った。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…か”。疑問を表す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

射(シャ)

射 甲骨文 射 字解
(甲骨文)

論語の本章では”射る”。初出は甲骨文。「シャ」の音で”射る”を、「ヤ」の音で官職名を、「エキ」の音で”いとう”・”あきる”の意を表す。甲骨文の字形は矢をつがえた弓のさま。金文では「又」”手”を加える。原義は”射る”。甲骨文では原義、官職名、地名に用いた。金文では”弓競技”(義盉蓋・西周)の意に用いた。詳細は論語語釈「射」を参照。

君子=当時の貴族は戦時の将校を兼ねており、武芸として弓術は必須だった。孔子塾の必須科目、六芸にも入っている。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の『史記』孔子世家に再録されており、定州竹簡論語より若干先行する。また後漢初期の『漢書』董仲舒伝に、司馬遷と同時代人である董仲舒の上奏文として「達巷黨人」が見える。

臣聞良玉不瑑,資質潤美,不待刻瑑,此亡異於達巷黨人不學而自知也。

董仲舒
私めが聞いておりますところでは、質のよい宝石の原石は磨かずにおくもので、もともと美しいのですから、磨く必要も無いということです。これは達村の村民が学びもしないのに自然と孔子の偉さを理解していたのと変わりはありません。(『漢書』董仲舒伝23)

この男はいわゆる儒教の国教化をすすめた人物だが、その過程でニセモノを大量に論語や儒教経典にねじ込んだ。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

従って仮に論語の本章の偽作者を求めるとするなら、董仲舒こそがふさわしい。だが上掲の通り、「黨」の字を省いても文意が全く変わらない。だがしかし、あまりに引用が無く、漢字の用法に疑いが多いことから、何らかの史実の断片の可能性がある、と言えるに止まる。

解説

現代中国での解釈のようなゴマスリの元は、おそらく清代に入ってからで、清儒の毛奇齢は『論語稽求篇』の中でこう言っている。「稽求」とは三田あたりから三浦の先まで走る真っ赤な電車ではなく、「かんがえ求める」の意。

大哉孔子節博學而無所成名非惜其無名也鄭康成謂此邦之人美孔子博學不成一名故夫子以謙承之所謂不成一名者不是無名言非一技之可名也

毛奇齢
孔子先生はお偉いな、の一節だが、博学にして名を成す所無し、というのは、無名を惜しんだのではない。鄭康成曰く、「その国の人は、孔子は博学なのに何の名声も得ていないことを褒め讃えたので、先生は謙遜してその評価を受けた。」だが、いわゆる”不成一名”は無名を意味するのではなく、先生の学識が(広大すぎて)ほんの少しの名づけようも無いことを言ったのだ。

この男の話は割り引いて受け取る必要がある。「無名を意味しない」と言い張るゴマすりの元ネタが論語泰伯編19「大なるかな堯。…民よく名づくるなし」であるのは明白だが、該当の章はもちろん泰伯編の8割以上がニセモノだと知ったからには間抜けな言い分でしかない。

もちろん聖王堯舜禹も、後世にこしらえられた架空の人物である。

加えて毛奇齢が本当に「博学」の儒者だったかどうかも怪しい。少なくとも人でなしではあった。毛は明末に生まれ、清が成立すると隠れ回ったが、実は殺人を犯して逃げていたらしい。確かに評判の高い学者ではあったが、人を捕まえては馬鹿にするので嫌われていた。

宋儒によく似ている。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

ただし儒者の人気取りで政権を安定させたい清朝にとって、毛奇齢を招くことには政治的効果があり、「博学鴻儒科」=ものすごい碩学の大先生、との名目で朝廷の顧問官に任じられた。言うなれば運がいいだけの男であり、話を真に受けてもよいことになりそうにない。

上掲の一節もひいきの引き倒しでしかない。それにしても達巷を「貴族街」と断じた論拠は何だろう? 「巷」はどう読んでも都心から離れた郊外で、しかも閑静な住宅地などではない。だが理由を追った所で、同様の根拠無きゴマスリが見つかるだけだろう。

余話

よくちょん切れる

もし仮に、論語の本章が何らかの史実を伝えるものだとすれば、孔子も老成した晩年のことで、五十代初頭に得意の絶頂にあったときなら、「愚民どもが無礼である」とまとめて首をちょん切ってしまっただろう。だからこそ貴族にも庶民にも嫌われて亡命するハメになったのだが、放浪やその他の苦労で孔子が円熟化したことは、本章にも読み取ることが出来る。

(孔子が中都のまちの代官になった。まちじゅうにおまわりとチクリ屋をばらまいたので、)肉屋は目方を誤魔化さなくなり、男女は疫病やみのように互いを避けて道の端と端とでソーシャル・ディスタンスを実践、落とし物をネコババする者は絶え、勘定を踏み倒される行商人はいなくなった。(『史記』孔子世家)

生存意志が猛烈な中国人が、チクリ屋や首チョンパなしでネコババや踏み倒しをやめるわけがない。だが論語の本章に言う「達巷」はどこか、もはや誰にも分からない。孔子の屋敷がどこにあったのか、現在の伝・孔子の屋敷(孔府)はすっかり都市に埋もれているという。
曲阜 孔府

論語時代に魯の都城・曲阜の城内にすでにあったとすると、村民が通りがかったのかわざわざ押しかけたのか、若い衆が大勢で囃して通ったのか。あるいは政敵の差し向けた街宣集団で、いやがらせに押しかけたのか。しかしそれでも、孔子は意に介さなかったわけ。

さらに上掲の通り、論語の時代には直接聞く事を「聴」と言い、伝聞で聞くのを「聞」と言うから、村人は孔子の屋敷に押しかけたのではなく、どこか孔子のいないところで囃していたのを、弟子が聞いてふんがいし、孔子に告げ口したことになる。

これは「権力はからかわれるうちが花」という事実をいくぶんか反映する話で、聞かれたら首が飛ぶようなことを、聞こえるように村民は言わなかっただろう。だが弟子というチクリ屋を大勢抱えた孔子の耳に、逃れず聞こえてしまったというわけ。

だから思う。北朝鮮人民は闇夜で自国の放送を、どんな気持で聞いているんだろう。

踏んだら孕んだ!
孕んだ振る降る般若だ
童貞擦る無駄、フン出る春巻きハム無理
チン毛ちぎり、看板塗る飛騨!
安眠煮る焼酎!
安打!?半田ゴテ適時打!
原チャリ盗んだ!
よくチョン切れるハサミだ!

∧_∧  ___
<ヽ`Д> / ̄/ ̄/
( 二二二つ / と)
|   /_/_/
|   |

(AA弐典より引用・一部改)

今ではネットより前の世界など想像も付かないが、ほんの前世紀末まで、一国単位で閉じきった国はいくらでもあり、もちろん権力者はからかわれないばかりか、聞こえてくるのは高い周波数で叫ぶ賛美の声だけだった。だが今では中共政府でさえ、その間抜けに気付いている。

だから同じ批判者でも、世間受けの悪いもと共産党幹部おやじだと気軽に首をちょん切ってしまうが、香港の若い女性人権活動家だと外圧が怖いので禁錮10ケ月で済まさざるを得なかった。ロシアがクリミア奪取の時にパクロンスカヤ氏を前に立てたのと事情を同じくしている。

うはー不気味の壁。

おっさんをシメても他人は誰一人悲しまないからだ。これは何を意味しているのか? 生物的にオスはたいていメスより数が多く、生殖を担うメスに対して生存上のバクチを担う。霊長類の場合高齢のオスだと子供にさわりのおそれがあるから、実は生物界にオッサンは必要ない。

あっそう。ならこんな世の中に用なんかないんだ。と見切るとオッサンも楽になる。人もからかわれるうちが花で、誰もからかってくれないオッサンが核廃棄物になりおおせた例はすでに記した(論語泰伯編4余話)。九分九厘当人も、面白くない世を送っているに違いない。

そう生まれついていないなら愛されなくていい。恐れるべきはからかわれないことだ。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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