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論語詳解203泰伯篇第八(19)大なるかな堯*

論語泰伯篇(19)要約:後世の創作。伝説の聖王・ギョウは、具体的に何をやったかほとんどわかりません。ただ天下はそれでよく治まった。ああすごいすごい、と鳥のような声を出して感心するニセ孔子先生。論語の中でも指折りに愚劣な章。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰大哉堯之爲君也巍巍乎唯天爲大唯堯則之蕩蕩乎民無能名焉巍巍乎其有成功也煥乎其有文章

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰大哉堯之爲君也巍〻乎唯天爲大唯堯則之/蕩〻乎民無能名焉/巍〻乎其有成功也/煥乎其有文章

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「大哉堯之爲君也。巍巍乎、唯天爲大、唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也、煥乎、其有文章。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 大 金文哉 金文之 金文為 金文君 金文也 金文 魏 金文大篆魏 金文大篆乎 金文 唯 金文天 金文為 金文大 金文 唯 金文堯 金文則 金文之 金文 宕 金文宕 金文乎 金文 民 金文無 金文能 金文名 金文 魏 金文大篆魏 金文大篆乎 金文 其 金文有 金文成 金文功 金文也 金文 乎 金文 其 金文有 金文文 金文章 金文

※巍→魏(金文大篆)・蕩→宕。論語の本章は「焉」「煥」の字が論語の時代に存在しない。「焉」は無くとも文意が変わらないが、「煥」の不在はどうしようもない。堯は孔子の生前には創作されていなかった。「文」の用法に疑問がある。本章は王莽またはその配下の儒者による創作である。

書き下し

いはく、おほいなるかなげうきみ巍巍乎たかだかし、ただてんおほいなりとる、ただげうこれのつとる。蕩蕩乎ひろらかなり、たみづくるあたかり巍巍乎たかだかしくして、いさおせるなり煥乎きらぎらとして、文章ふみり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「すばらしいことだな、堯が君主であったさまは。高々とそびえ立っている。ただ天だけを大きなものとした。そしてひたすら天意に従った。広々としていて、民はその政治をどう言ったらいいか分からなかった。そびえ立って業績が上がった。光り輝くように、文章があった。」

意訳

孔子 人形
堯の政治のすばらしさは、私には想像が付かない。高々とそびえ、ひたすら天に従ったという。あまりの漠然としたひろやかさに、民も呆然として指をくわえているしかなかっただろうな。いや、すばらしい。しかも光り輝くような古典があったのだ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「堯帝の君徳は何と大きく、何と荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さを共にしている。その徳の広大無辺さは何と形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然たるとに眼を見はるのみである。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「堯當君主,偉大崇高,可比於天!他的恩德,無法形容!他的功勞,千古留芳!他的制度,光輝燦爛!」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「堯が君主だったことは、偉大で崇高で、天にも比べられる。彼の恩恵は、どう言ってよいか分からない。彼の功績は、千古不朽の素晴らしさだ。彼の定めた制度は、キラキラと輝いている。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

大(タイ)

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

論語の本章では”偉大である”。初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

堯(ギョウ)

尭 甲骨文 堯 字解
(甲骨文)

架空の聖王。ともに架空の人物である架空の王朝夏の開祖は禹、それに帝位を譲ったのは舜、それに帝位を譲ったのが堯とされる。

初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にものを載せ、跪く人「㔾」で、これがなぜ「堯」の字に比定されたか判然としない。金文の字形は上下に「土」+「一」+「人」で、頭に土を乗せた人。甲骨文・金文では身分ある人間を正面形で「大」と描き、ただの人は横向きに「人」と描き、隷属民は跪かせて「㔾」と描く。金文の「堯」は横向きであることから、聖王「堯」の意ではない。春秋末期までの用例は、全て人名または氏族名または青銅器名で、聖王の名ではない。詳細は論語語釈「堯」を参照。

孔子の生前、禹王はすでに創作されていたが(前章余話参照)、それ以前の舜は孟子による創作で、さらにその前の堯を孟子はしつこく語っているが、それらの発言が史実の孟子による言葉かどうかは分からない。荀子も同様で、少なくとも堯の創作は戦国後半になってからだろう。

ちなみに肛門付近の寄生虫「ギョウチュウ」は、漢字では虫へんに堯と書く。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…だとする”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

君(クン)

君 甲骨文 君 字解
「君」(甲骨文)

論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「𠙵」”くち”で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。「尹」に「𠙵」を加えた字形。甲骨文の用例は欠損が多く判読しがたいが、称号の一つだったと思われる。「先秦甲金文簡牘詞彙資料庫」は、春秋末期までの用例を全て人名・官職名・称号に分類している。甲骨文での語義は明瞭でないが、おそらく”諸侯”の意で用い、金文では”重臣”、”君臨する”、戦国の金文では”諸侯”の意で用いた。また地名・人名、敬称に用いた。詳細は論語語釈「君」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「や」と読んで”…だなあ”。詠嘆の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

巍巍乎(ギギコ)

巍 金文 巍 魏 字解
(戦国金文)

論語の本章では、”高々と並びそびえ立つさま”。論語では本章と前章のみに登場。音からは、ギザギザした山頂を示してもいる。

「巍」の初出は戦国時代の金文で、ただし字形は部品の「魏」。論語の時代に存在しない。部品の「魏」は『説文解字』に地名として登場するのが初出。西周の諸侯国として、また戦国の七雄として魏国が存在し、論語の時代にはすでに都市国家として存在し、弟子の子夏が仕えたと言うから、言葉や文字があったのは確実。ただし当時の字形が伝わらない。漢帝国で通用した隷書では、「嵬」と書かれた。詳細は論語語釈「巍」を参照。

定州竹簡論語の「魏」は”高くそびえる”を意味し、一説に「巍」は「魏」の原字とされる。詳細は論語語釈「魏」を参照。

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

「乎」の初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

唯(イ)

唯 甲骨文 唯 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ただ~だけ”。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。

天(テン)

天 甲骨文 天 字解
(甲骨文)

論語の本章では”天”。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”のっとる”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

唯天爲大(ただてんのおほいなりとなる)

論語の本章では”天だけが(自ら)偉大な存在となる”。漢語は甲骨文の昔から現代北京語に至るまで、SVO型の言語だから、「唯天爲大」とあれば”天だけが大きくなる”であって、”天だけを大きくする”ではない。

日本語にも「この道は通れます」と言うように、主格の位置にある語が目的語である場合は漢語にもあって、業者は「受事主語」と名づけているが、名づければおかしな言葉がまともになるわけではないし、漢文が読めるようになるわけでもない。

ただし、論語の本章を偽作した者は、おそらくは「唯堯則之」”堯だけがその道理に従った”と句形を揃えるために、文法を無視してこういう珍妙な語順にしたのかも知れず、その場合は「受事主語」を受け容れて”天だけを偉大な存在とする”と解する、通説が正しいことになる。

経文と同じで、聞く者に意味が分からない方が有り難がられるような文章では、唱えやすいよう句形を揃えることは、文法に従うよりよほど重要だし、実用的でもあるからだ。

ただし漢文を読めるようになりたい、あるいは論語に何が書いてあるか知りたい諸賢には、漢語はどこまでもSVOが原則であり、それで読めないような文句は壊れた、あるいは壊された漢語であると判断できるように心掛けて頂きたい、と切に訳者は望んでいる。

蕩蕩乎(トウトウコ)

論語の本章では”ひろびろとしているさま”。

蕩 隷書 蕩 字解
(隷書)

「蕩」の初出は前漢中期の『定州漢墓竹簡』。字形は「艹」+音符「湯」。草が水に流されて揺れ動く様。春秋末期の金文から、「湯」に「蕩」”好き放題に流れる水”→”(音が)遠くまで響く”の意がある。上古音で同音の「宕」が同義で、「唐」にも”おおげさ”の意がある。論語時代の置換候補は部品の「湯」、または上古音で同音同訓の「宕」(去)。「宕」の初出は甲骨文。詳細は論語語釈「蕩」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

名(メイ)

名 甲骨文 名 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”名づける”。初出は甲骨文。「ミョウ」は呉音。字形は「夕」”夕暮れ時”+「𠙵」”くち”で、伝統的には”たそがれ時には誰が誰だか分からないので、名を名乗るさま”と言う。甲骨文では地名に用い、金文では”名づける”、”銘文”の意に用い、戦国の竹簡で”名前”を意味した。詳細は論語語釈「名」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「ぬ」と読んで、断定を意味することば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

民無能名焉

論語の本章では、”民はそれが何であるか名付けようもなかった”。「民」は堯の政治を「名」づける「能」が「無」いままで「焉(おわ)」った、ということ。

『史記』堯本紀を読んでみても、ひたすら偉い偉いと書いている部分を除くと、天体観測をしてカレンダーを作ったことしか書いていない。強いてつけ加えるなら、後継者に賢者の舜を選んだことが挙げられる。

帝政ローマの五賢帝時代の始まりはネルヴァ帝だが、即位した時すでに高齢で、業績と言えば賢者のトラヤヌスを後継者に指名した事のみと言われる。それも名君の条件には違いない。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

成(セイ)

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

論語の本章では”達成する”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

功*(コウ)

功 金文 功 字解
(金文)

論語の本章では”業績”。初出は西周早期の金文。初出の字形は「工」”工具”+「テツ」で、「屮」はおそらく農具の突き棒。全体で工具で作業するさま。原義は”功績”。現行字体は「工」+「力」だが、その初出は前漢の隷書で、おそらく書き間違えと思われる。戦国末期の金文では、「工」と書き分けられなかった事例がある。同音に「公」「工」「貢」「攻」。西周の金文には、「工」を「功」と釈文する例が複数あり、”功績”と解せる。春秋末期までに、”功績”以外の用例は確認できない。詳細は論語語釈「功」を参照。

煥*(カン)

煥 篆書 煥 字解
(篆書)

論語の本章では”明るいさま”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「火」+「奐」”大きい”。火が大きく明るくなったさま。同音は「奐」とそれを部品とする漢字群、「歡」など「雚」”コウノトリ”を部品とする漢字群。前漢中期の『史記』司馬相如伝に「煥然霧除」”明るく霧を払う”として見られる。すると前漢から存在した可能性があるが、物証が出ていない。詳細は論語語釈「煥」を参照。

文(ブン)

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

論語の本章では”文字”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

章(ショウ)

章 金文 章 字解
(殷代金文)

論語の本章では”文字列”。初出は殷代末期の金文。字形は〔䇂〕(漢音ケン)”筆刀”+亀甲で、亀甲に文字を刻むさま。原義は”文章”。「漢語多功能字庫」によると、金文では”玉器”(㒼簋・西周中期)の意に用いた。詳細は論語語釈「章」を参照。

文章(ブンショウ)

論語の時代には原則として熟語が存在しないため、一字一意として解さなければならない。すると「文」は”文化的な何か”、「章」は”文章”と分けて訳すべきなのだが、本章は明らかに後世の偽作であり、”文章”と解してかまわない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、定州竹簡論語に存在しない。前漢中期の定州竹簡論語に存在しないからと言って、その時代以前に論語の本章が存在しなかった証拠にはならないが、存在した物証が無いので、前漢中期以前には本章は存在しなかったと考えるのが理に合う。

前漢年表

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論語の本章は、孔子没後一世紀に生まれた孟子の言行録である『孟子』滕文公上篇4に同文が記されているが、『孟子』も論語同様、後世の儒者によっていじりにいじり回されており、歴史人物としての孟子がそのように言った証拠にはならない。

本章が明確に現れるのは後漢初期の王充『論衡』、同時期の班固『漢書』からで、古注に新代の包咸が注を付けていることから、前漢を滅ぼし新を建てた王莽が、でっち上げたラノベと判断してよい。無内容と偽善の甚だしさは、王莽の趣味、また時代風潮によく合っている。

後漢年表

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論語の本章の創作意図は、この泰伯篇を膨らますためと想像する。元ネタは論語八佾篇4「大哉問」、論語泰伯編18「巍巍乎。舜禹之有天下也、而不與焉。」で、後者の言い廻しをめんどくさくした上でのニコイチと言える。

解説

論語の本章は、むしろ中国での解釈のように読むのがよいかも知れない。生まれたときに目出度い雲がたなびいた、の類の、頭のおめでたい独裁者が喜びそうなファンタジーで、こんなものを真に受けろと言われて読まされた、歴代の儒者に、ここばかりは同情したくなる。

中国は土地が広いだけに風景の規模も大きく、黄河や揚子江は時に対岸が見えず海のように見えるという。蕩蕩の語義は上記の通りだが、こうした大河も「蕩蕩として流れる」と表現される。これは文字では伝えきれない。

大なるかな堯Photo via https://pixabay.com/ja/

論語の本章で孔子が、「ギギコ。トート-コ。カンコ」と怪鳥けちょうが鳴くような賛辞しか言わされていないのは、本章が偽作された漢代、現伝の『史記』と大して変わらない伝説しかなかったからだろう。おそらく堯は、暦作りの技術者集団の祖先神だったのではないか。

渾天儀
「一年を三百六十六日と定め、三年に一度うるう月を挟んで暦を正した」(『史記』堯本紀)とあるのは、古代としては非常に高度な技術で、天体の高度を計るにも、正確な目盛りの付いた観測機器がなければできないことだ。1mm刻みの物差しを自作するのを想起されたい。

お手本の物差しがあっても大変な作業だが、観測以前に度量衡の制定が必要だし、さらに数学的知識も必要になる。論語時代で言えば、すでに暦は諸侯国で自作できるようになっていたが、それでも作り誤った記事があり(論語八佾篇17)、たかがカレンダー、ではなかった。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰大哉堯之為君也巍巍乎唯天為大唯堯則之註孔安國曰則法也美堯能法天而行化也蕩蕩乎民無能名焉註苞氏曰蕩蕩廣逺之稱也言其布徳廣逺民無能識名焉巍巍乎其有成功也註功成化隆高大巍巍也煥乎其有文章註煥明也其立文垂制復著明也


本文「子曰大哉堯之為君也巍巍乎唯天為大唯堯則之。」
注釈。孔安国「則とは従うことだ。堯がよく天に従い、世の人をクルクルパーにして大人しくさせたのを讃えたのだ。」

本文。「蕩蕩乎民無能名焉。」
注釈。包咸「蕩蕩とは広々としていることだ。堯のクルクルパー政策があまりに広がりすぎたため、民は何をされているのかも分からなかったのだ。」

本文。「巍巍乎其有成功也。」
注釈。政策があまりに高々とそびえるようだったのを巍巍と表現した。

本文。「煥乎其有文章。」
注釈。煥とは明るいことだ。文章に書き記して民に法令を呉れてやったから、政策がはっきりとして明るかったのだ。

すでに記した事だが、前漢儒とされる孔安国は、高祖劉邦の名を避諱しないなど、実在が疑わしい。

新注『論語集注』

子曰:「大哉堯之為君也!巍巍乎!唯天為大,唯堯則之。蕩蕩乎!民無能名焉。唯,猶獨也。則,猶準也。蕩蕩,廣遠之稱也。言物之高大,莫有過於天者,而獨堯之德能與之準。故其德之廣遠,亦如天之不可以言語形容也。巍巍乎!其有成功也;煥乎,其有文章!」成功,事業也。煥,光明之貌。文章,禮樂法度也。堯之德不可名,其可見者此爾。尹氏曰:「天道之大,無為而成。唯堯則之以治天下,故民無得而名焉。所可名者,其功業文章巍然煥然而已。」


本文。「子曰:大哉堯之為君也!巍巍乎!唯天為大,唯堯則之。蕩蕩乎!民無能名焉。」
唯とは…だけ、のような意だ。則とは、従う、のような意だ。蕩蕩とは、ひろびろとしているさまだ。ものごとのうち最も高くて大きいのは、天より以上のものはないことを言った。そして堯だけが天に従う能力を持っていた。だからその能力は広くはてしなく、天を言葉で説明できないのと同様だった。

本文。「巍巍乎!其有成功也;煥乎,其有文章!」
成功とは、政策実行のことだ。煥とは、明るいさまだ。文章とは、礼儀作法と音楽と法律のことだ。堯の能力は言葉で言いようが無かった。目に見えたのは「文章」だけだった。

尹焞「天のはたらきはあまりに大きく、何もしないで万事を成り立たせる。堯だけが天に従って天下を治めた。だから民はその政治をどう言っていいか分からなかった。言葉で言えたのは、政策と法律が高々と明るかったことだけだった。」

余話

こどもだまし教室

こども論語塾 こども論語教室

おそらく論語の本章を自ら、あるいは命じて偽作した王莽だが、高校世界史的知識では、度の過ぎた儒教狂信者で、制度や法律を全て周代の昔に戻そうとしたため、内政外交が破綻して王朝と自らを滅ぼしたとされる。だが度の過ぎた同時代の狂信は王莽ばかりでない。

王莽敗滅後の天下取りに最終勝者となった後漢開祖の光武帝も、度が過ぎる儒教の狂信者で、オカルトマニアだった。詳細は論語解説・後漢というふざけた帝国を参照。中国の正史は前王朝を滅ぼした現政権が書かせるから、前王朝は頭のおかしい暴君ぞろいと書き記すのが通例。

従って王莽の狂信がどこまで本当だったのか疑って当然なのだが、狂信のありようが光武帝そっくりだから、おそらくは史書が伝えるのとほぼ同じような人物だったと見てよい。王莽とその新王朝については独立した正史が無く、『後漢書』は王莽についてほとんど述べていない。

代わりに後漢初期の班固が『漢書』の中で、王莽について扱った。だが後漢の公式見解として、新王朝を正式な王朝として認めす、ゆえに皇帝について記述すべき本紀には記さず、「王莽伝」を立てて臣下同然に扱った。光武帝は漢を「復興」したのが立て前だったからである。

その結果『漢書』王莽伝は上中下に分けて書かねばならないほど大部になった。日本でのみ有名な中国の歴史物語『十八史略』は、はるか後世の南宋の時代に編まれたが、後漢の立て前をそのまま踏襲して新を王朝として認めず、「西漢」=前漢の一部として書き記した。

「正史」のなんたるかは、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

また後漢が滅びたのち、『後漢書』が成立した頃の南朝・梁の武帝は、子供に文字を教えるための教科書として、文章家として有名だった家臣の周興嗣に「千字文」を作らせた。このテキストは戦前まで日本でも重んじられたので、旧制中学以上の教養人はよく知っていた。

「千字文」はいろは歌のように、同じ漢字を二度使わず、かつ初歩的な読書に必要な千文字で構成された。つまり作文に無理があり、「三」「北」「春」「山」などが含まれていない。このためたびたび焼き直しが作られ、その中でもっとも普及したのが「三字経」だった。

発祥は南宋ごろと言われる。その文中にこうある。

高祖興,漢業建。至孝平,王莽篡。
光武興,為東漢。四百年,終於獻。


高祖劉邦が大出世し、漢帝国を創業した。だが平帝の時代になって、王莽が帝位を奪った。

すると光武帝が大出世し、後漢帝国を創業した。前後の漢帝国は四百年続き、献帝の時代に滅びた。(「三字経」)

「三字経」は改訂を繰り返して中華民国でも用いられた。王莽についてこれが何を意味するかと言えば、まだものに判断が付かない子供に、「王莽は悪党だ。帝位と王朝はニセモノだ」とすり込んでいたことになる。こういうすり込みは根が深く、そう簡単に剝がれない。

例えば本章を含め論語が全て史実だと思い込むのも、度の過ぎた狂信ですり込みの一種。

無知は誉められないが、洗脳はもっと愚かしい。子供にうそデタラメを教え込む罪深さを思えない者だけが、論語教室のたぐいを開けるのだろう。世の親御さんが子の将来を憂うなら、他願的に投票率の低下を歎くなどするより、自活的に子供を洗脳から護ってはどうだろう。

トルコ国旗
トルコ共和国建国の父、ケマル・アタテュルクは、少年時代に数学と語学の才を士官学校で認められ、「ケマル」”完璧”と教官から名づけられた。革命後は逝去までトルコを独裁したが、自身が優等生だっただけに、愚劣な教師がどんなに子供を不幸にするか知っていたのだろう。

「子供にウソ教えやがったらタダじゃおかないぞ。」そう言わんばかりの写真が残っている。

対してソ連は子供にウソでたらめを教え込んで、みんな頭がおかしくなって69年で崩壊した。中朝韓が同様に子供へウソを仕込んですでにその程度は過ぎた。お上の言うことを真に受けないのが定着している中国人はともかく、朝韓はもうそんなに長くは持つまい。

フルシチョフが小学校を視察した。一人の児童に声を掛ける。

フ「君のお母さんは誰だね?」子「母は偉大な我が祖国です。」
フ「ほう! お父さんは誰だね?」子「父は英知ある共産党です。」
フ「うむ! 君こそ新時代の我が国を支える子だ! 便宜を図ってあげるから、将来の希望を言ってみなさい。」

子「孤児。」

***

「フルシチョフはブタだ!」とモスクワの大通りで叫びながら走っていた男が逮捕された。早速10年3ヶ月の収監と判決が出た。

3ヶ月は元首侮辱罪で、10年は国家機密漏洩罪で。(ソ連政治小話「アネクドート」より)

『論語』泰伯篇:現代語訳・書き下し・原文
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