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論語詳解205泰伯篇第八(21)禹は吾間然とする*

論語泰伯篇(21)要約:後世の創作。聖王たちの中で、王は比較的、史書の記述が具体的です。それは自分の生活を質素にして、治水や神霊の祭祀にお金を掛ける事でした。完璧だ、と孔子先生は評したという作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰禹吾無間然矣菲飲食而致孝乎鬼神惡衣服而致美乎黻冕𤰞宮室而盡力乎溝洫禹吾無間然矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰禹吾無間然矣/菲飲食而致孝乎鬼神/惡衣服而致美乎黻冕/𢌿宮室而盡力乎溝洫/禹吾無間然矣

  • 「冕」字:〔罒免〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……絻a,卑宮室而211……

  1. 絻、今本作「冕」、二字同。

標点文

子曰、「禹吾無間然矣。菲飮食而、致孝乎鬼神、惡衣服而、致美乎黻絻、卑宮室而、盡力乎溝洫。禹、吾無間然矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 禹 金文 吾 金文無 金文間 金文然 金文矣 金文 飲 金文食 金文 而 金文致 金文孝 金文乎 金文鬼 金文神 金文 䛩 金文衣 金文服 金文 而 金文致 金文美 金文乎 金文市 金文免 金文 卑 金文宮 金文室 金文 而 金文盡 尽 金文力 金文乎 金文淢 金文 禹 金文 吾 金文無 金文間 金文然 金文矣 金文

※黻→市・絻→免・洫→淢。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「乎」の用法に疑問がある。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、われ間然ことあぐることなりのみいひうすくしこのゐやなきみたまかみいたし、衣服ころもしくしかざりにしきのころもかぶりいたし、みやいやしくしちからほりみぞつくす。われ間然ことあぐることなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「禹王は私にとって付け入る隙がない。普段の飲食を節約して、亡き人の魂にお供えし、普段の衣類を節約して、かざりのついた礼服礼冠を作り、宮殿の造りを節約して、治水工事に力を入れた。禹王は私にとって付け入る隙がない。」

意訳

孔子 人形
禹王は完璧だ。粗末なものを食べてお供えに回し、粗末なものを着て礼服で政治を盛んにし、粗末な住まいに住んで治水工事に予算を回した。本当に完璧だ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「禹は王者として完全無欠だ。自分の飲食をうすくしてあつく農耕の神を祭り、自分の衣服を粗末にして祭服を美しくし、自分の宮室を質素にして灌漑水路に力をつくした。禹は王者として完全無欠だ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「禹,無可挑剔。他自己粗茶淡飯,而祭品卻很豐盛;自己衣服樸素,而祭服卻很華美美;自己宮殿簡陋,卻盡力興修水利。禹,無可挑剔。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「禹は、とがめることが出来ない。彼自身は飲食を質素にしたが、祭礼の供え物は非常に豪華にした。自身は衣類を質素にしたが、祭礼の衣服は非常に豪華にした。自身の宮殿は質素にしたが、治水工事には尽力した。禹は、とがめることが出来ない。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

禹(ウ)

架空の夏王朝の開祖で架空の聖王。

禹 金文 夏禹王
(金文)

初出は殷代末期の金文。同音に「于」「羽」「雨」「芋」など多数。つまりありふれた音の言葉で、声調まで同じくするのは「羽」「雨」「宇」”軒・屋根”のみ。「羽」に目をつぶれば、イモリのたぐいを意味するだろう。また同音に「雩」”あまごい”があり、初出は甲骨文。古書体とされる字形には大きな変遷があるものの、現伝の禹王を指すとは断じかねる。詳細は論語語釈「禹」を参照。

現伝の『史記』によると、丘を沈めるような大洪水を十三年かかって治水して収めたという。
書経図説 導黒水副図

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

閒(カン)

間 金文 間 字解
(金文)

論語の本章では”(非難すべき)隙間”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「間」。ただし唐石経も清家本も新字体と同じく「間」と記す。ただし文字史からは旧字「閒」を正字とするのに理がある。「ケン」は呉音。初出は西周末期の金文。字形は「門」+「月」で、門から月が見えるさま。原義はおそらく”かんぬき”。春秋までの金文では”間者”の意に、戦国の金文では「縣」(県)の意に用いた。詳細は論語語釈「間」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”~であるさま”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

間然

論語の本章では、”隙間をつついて非難すること”。武内本は「間然は間焉に同じ、間とは非なり。無間然とは非難すべきなきをいう」という。『学研漢和大字典』は論語の本章を載せて、”すきまを指摘する。疑わしいところや欠点をとりあげて非難すること”という。

論語の時代、熟語はほとんど存在せず、一漢字一語義が基本だった。従って「間然」は、”間のようなことである様子”でしかなく、「間」の形容詞化した状態でしか無い。「間」の原義はどうころんでも”ま”でしかなく、「間然」は”間隔のある”であり、”非難”の意は持たない。

「間然」という漢語で指摘できるのは、論語の他の章はもちろん、春秋戦国時代のいかなる書籍にも見られないことで、初出は前漢の董仲舒が書いたとされる『春秋繁露』。だがこれも後世の創作と言われ、確実な初出は後漢が滅びかかったころに書かれた荀悦の『漢紀』。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。『定州竹簡論語』はこの部分を欠いている。つまり「禹吾無間然矣」という孔子の言葉は、後漢まで成立が下る。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

菲*(ヒ)

菲 隷書 菲 字解
(前漢隷書)

初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「非」”離れる”。ひらひらと離れるような薄っぺらい木の葉のさま。同音に「霏」”雪の降るさま”、「妃」など。戦国末期の『荀子』に「菲ケイ」”草で作った喪服と荒い布”として見える。ただし現伝の『荀子』が当時の文字列を必ずしも保存しているわけではない。詳細は論語語釈「菲」を参照。

飮(イン)

飲 甲骨文 飲 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飲む”。初出は甲骨文。新字体は「飲」。初出は甲骨文。字形は「酉」”さかがめ”+「人」で、人が酒を飲むさま。原義は”飲む”。甲骨文から戦国の竹簡に至るまで、原義で用いられた。詳細は論語語釈「飲」を参照。

食(ショク)

食 甲骨文 食 字解
(甲骨文)

論語の本章では”食べもの”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「シュウ」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”…であって同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

致(チ)

致 甲骨文 致 字解
(甲骨文)

論語の本章では”捧げる”。『大漢和辞典』の第一義は”おくりとどける”。初出は甲骨文で、人がものを持って送り届けるさま。金文では”与える”の語義を獲得した。『学研漢和大字典』によると、自動詞の「至」に対して、他動詞として用いる、というが、”至る”の語義で「致」が用いられる例が、戦国時代の竹簡にある。詳細は論語語釈「致」を参照。

孝(コウ)

孝 甲骨文 孝 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”年長者に対する年少者の奉仕”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「艸」”草”または”早い”+「子」で、なぜこの字形が「孝」と比定されたか判然としない。金文の字形は「老」+「子」で、子が年長者に奉仕するさま。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では「」「」に通じ、”~に”の意味。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

鬼(キ)

鬼 甲骨文 鬼 字解
(甲骨文)

論語の本章では、角を生やした”オニ”ではなく、”亡霊・祖先の霊”。字形は「シン」”大きな頭”+「卩」”ひざまずいた人”で、目立つが力に乏しい霊のさま。原義は”亡霊”。甲骨文では原義で、また国名・人名に用い、金文では加えて部族名に、「畏」”おそれ敬う”の意に用いられた。詳細は論語語釈「鬼」を参照。

神(シン)

神 金文 神
(金文)

論語の本章では、あらゆる神や超自然的存在。新字体は「神」。台湾・大陸ではこちらがコード上の正字として扱われている。初出は西周早期の金文。字形は「示」”位牌”・”祭壇”+「申」”稲妻”。「申」のみでも「神」を示した。「申」の初出は甲骨文。「申」は甲骨文では”稲妻”・十干の一つとして用いられ、金文から”神”を意味し、しめすへんを伴うようになった。「神」は金文では”神”、”先祖”の意に用いた。詳細は論語語釈「神」を参照。

殷代の漢字では「申」だけで”天神”を意味し、「土」だけで”大地神”意味し得た。「示」は両方を包括する神霊一般を意味した。西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。論語語釈「示」も参照。

惡(アク/オ)

䛩 金文 悪 字解
(金文)

論語の本章では”粗末なものにする”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。ただし字形は「䛩」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。初出の字形は「言」+「亞」”落窪”で、”非難する”こと。現行の字形は「亞」+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。

衣(イ)

衣 甲骨文 衣 字解
(甲骨文)

論語の本章では”衣類”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。

服(フク)

服 甲骨文 敏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”衣類”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。

美(ビ)

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”かざり”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

黻(フツ)

市 甲骨文 黻 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”礼服”。初出は甲骨文。ただし字形は「市」。甲骨文の字形は「水」+「止」”足”+「兮」”鳴子”。水時計で刻んだ時刻を報知することを示すか。現行字体は「黹」”刺繡した生地”+音符「フツ」。同音に「弗」「紱」”ひも・祭服”など。甲骨文では、時間を表す言葉として用いられたらしい。西周の金文では「いち」と区別されず、”いちば”の意に用いた。春秋中期の金文では、”礼服の前掛け”の意に用いた。詳細は論語語釈「黻」を参照。

冕*(ベン)→絻*(ベン)

免 甲骨文 論語 冕冠
(甲骨文)

初出は甲骨文とされる。ただし字形は「免」と未分化。現行字体の初出は楚系戦国文字。甲骨文の字形は跪いた人=隷属民が頭に袋のようなものをかぶせられた姿で、「冕」”かんむり”と解するのは賛成できない。殷代末期の金文には、甲骨文と同様人の正面形「大」を描いた字形があり、高貴な人物が冠をかぶった姿と解せる。現行字形は「ボウ」”かぶりもの”+「免」”かぶった人”。殷代末期の金文は、何を意味しているのか分からない。春秋末期までに、人名・官職名に用い、また”冠”の意に用いた。詳細は論語語釈「冕」を参照。

絻 篆書 絻 字解
(篆書)

定州竹簡論語は「絻」と記す。初出は前漢中期の定州竹簡論語。「冕」の異体字とみなした場合は甲骨文だが、まるで字形が違うので賛成できない。字形は「糸」”つな”+「免」”引っ張る人”。「免」は春秋末期までは”かぶり物をかぶった人”の意だが、漢以降になると明らかに字形が異なる。”冠”と解せる場合のみ、「冕」が論語時代の置換候補になり得る。詳細は論語語釈「絻」を参照。

卑*(ヒ)

卑 甲骨文 卑 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”高さを低くして粗末なものにする”。初出は甲骨文。字形は「甲」”うちわ”+「又」”手”。貴人に団扇を扇ぐ奴隷の意。甲骨文では”奴隷”の意に、春秋末期までの金文では”~させる”・”ひくい”・”終える”の意に用いた。詳細は論語語釈「卑」を参照。

宮*(キュウ)

宮 甲骨文 宮 字解
(甲骨文)

論語の本章では”宮殿”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「吕」(金)”青銅”。高価な青銅器を備え付けた宮殿の意。「グウ」は慣用音、呉音は「ク・クウ」。甲骨文では地名に用い、その他「于宮無災」の文字列が多く見られるが、地名か”宮殿”か明瞭でない。春秋末期までに、人名、”祖先廟”・”宮殿”の意に用いたが、音階などの意に用いたのは、戦国以降に時代が下る。詳細は論語語釈「宮」を参照。

室(シツ)

室 甲骨文 室 字解
(甲骨文)

論語の本章では”部屋 ”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。

盡(シン)

尽 甲骨文 尽 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つくす”。新字体は「尽」。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。上掲の金文は戦国末期のものだが、甲骨文から存在する。字形は「又」”手”+たわし+「皿」”食器”で、食べ尽くした後食器を洗うさま。原義は”つきる”。甲骨文では人名に用い、戦国の金文では原義に用い、また”ことごとく”を意味した。詳細は論語語釈「尽」を参照。

力(リョク)

力 甲骨文 力 字解
(甲骨文)

論語の本文では”ちから”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。

溝*(コウ)

溝 秦系戦国文字 溝 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”水路”。おそらく「洫」に対して”用水路”を意味する。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「氵」+「冓」”一対の毛槍”。毛槍を二本立てて測量して開削した水路の意。同音に「冓」を部品とする漢字群など。戦国の竹簡から”みぞ”の意に用いた。詳細は論語語釈「溝」を参照。

洫*(キョク)

洫 隷書 洫 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”水路”。おそらく「溝」に対して”排水路”を意味する。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。字形は「氵」+「血」。血がほとばしるさま。上古音の同音は存在しない。『墨子』明鬼篇に「於是泏洫𢵣羊」とあり、”血を出させる”と解せる。論語時代の置換候補は日本語音で同音同訓の「淢」。西周中期の金文に、”みぞ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「洫」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は事実上の初出が前漢中期の定州竹簡論語。再出は次の通り。

  • 菲飲食:後漢和帝の詔勅として南北朝時代の『後漢書』に所収。
    「昔夏后惡衣服,菲飲食,孔子曰吾無閒然。」
  • 致孝乎鬼神:前漢末~新の『楊子法言』に所収。
    「將致孝乎鬼神,不敢以其犁也,如刲羊刺豕,罷賓犒師,惡在其犁不犁也。」
  • 惡衣服:前漢中期『史記』平津侯父主伝に所収。
    「夏禹卑宮室,惡衣服,后聖不循。」
  • 致美乎黻冕・卑宮室:戦国時代の『列子』楊朱篇に所収。
    「及受舜禪,卑宮室,美紱冕,戚戚然以至於死。」

論語の本章が前漢儒の偽作であるのは動かしようがないが、それまでの禹王伝説を取り込んではいる。

解説

論語の本章が創作であることはいいとして、孔子は禹を知っていたのだろうか。西の果ての秦国で当時拝まれていた証拠はあるが、どうやらこっそり拝んでいたらしく、全中華周知の古代聖王だったかどうかは明らかでない。詳細は論語泰伯編18余話「禹の創造」を参照。

孔子と入れ替わるように生きた墨子は、堯舜と並んで禹に言及しているが、気になるのは数カ所、禹を聖王の筆頭に挙げた記述があることだ。

昔之聖王禹、湯、文、武,兼愛天下之百姓,率以尊天事鬼,其利人多,故天福之,使立為天子,天下諸侯皆賓事之。(『墨子』法儀)

使不知辯,德行之厚若禹、湯、文、武不加得也,王公大人骨肉之親,躄、瘖、聾,暴為桀、紂,不加失也。(『墨子』尚賢下)

故昔三代聖王禹湯文武,欲以天之為政於天子,明說天下之百姓,故莫不犓牛羊,豢犬彘,潔為粢盛酒醴,以祭祀上帝鬼神,而求祈福於天。(『墨子』天志上)

昔三代聖王禹湯文武,此順天意而得賞也。(『墨子』天志上)

故昔者三代聖王禹湯文武方為政乎天下之時,曰:必務舉孝子而勸之事親,尊賢良之人而教之為善。…故昔者禹湯文武方為政乎天下之時,曰『必使飢者得食,寒者得衣,勞者得息,亂者得治』,遂得光譽令問於天下。(『墨子』非命下)

昔者,三代之聖王禹湯文武,百里之諸侯也,說忠行義,取天下。(『墨子』魯問)

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

『墨子』は清末になって再発見され、その間の儒者による改竄を免れているという。しかし墨子が世を去ってからかなり過ぎた戦国時代に、弟子によってまとめられたと言われている。その間に、世間で新たに売り出された堯舜が紛れ込んだとすれば、もとは禹しか知られなかったことになる。

つまりこういうラノベが成立するのだ。

  1. 孔子の時代、禹はともかく堯舜は知られなかった。
  2. 孔子没後、墨家を立てた墨子が、何らかのきっかけで秦と接触し、工人集団の祖先神として禹を祭り上げた。それゆえに禹には治水伝説がある。
  3. 墨子没後、儒家を復興した孟子が、禹より偉い=中国的価値観ではより古い聖王として舜を祭り上げた。
  4. 孟子の在世中か没後に、儒家に対抗するためおそらく道家が、舜より偉い聖王として堯を祭り上げた。その他の学派も対抗上、より偉い聖王をでっち上げた結果、黄帝やら嚳やら顓頊やらが偽造された。
  5. 中国の古代史は、分けが分からなくなった。

その結果が本章のような、他人の夢話のようなつぶやきである。禹も神話上の創作人物には違いないが、『史記』の記述は堯よりは多い。むしろその多さにうんざりするのは、理由は舜や大臣たちとの、なれ合いの褒めあいばかり書いてあるから。

具体的に禹が何をやったかと言えば、丘を沈め天に届くばかりの大洪水があって、舜が禹の父親のコンに治水を命じたのだが、九年かかっても洪水が引かなかった。そこで鯀を殺して息子の禹に治水を命じた所、曲尺や水準器を携えて全国の山を測量し、みごと水が引いたという。

それに要した期間は十三年。鯀より長いのに処刑されなかった理由は書いていない。

鯀とは大きな魚のことで、禹とはヘビやトカゲを言う。つまり両者とも水の象徴で、治水技術を持つ集団の祖先神だったのだろう。功績を褒められて舜の後継者となった禹が、贅沢をしなかったことは論語の本章とほとんど同じ記述が『史記』にある。

余話

滅ぼすウロボロス

さてこれで論語の泰伯編を読み終えたわけだが、全21章のうち、文字史的に明らかな偽作の章が13(×)、内容的に偽作が疑われる章が4(△)という結果になった。

論語泰伯編
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
内容
真偽 × × × × × × × × × × × × ×

「呉」は孔子と呉使節の応対ばなし。「曽」は孔子の弟子でなく家事使用人だった曽子の自慢ばなし。「帝」は居もしなかった古代の聖王ばなし。

しかも生き残った4章(○)のうち、第9章「民は由らしむべし、知らしむべからず」の「使」の字には用法上の疑問がある。第17章「学は及ばざるがごとく」には論語時代の置換字を必要とし、しかもやはり用法上の疑問がある。

それらには目をつぶることにしても、偽作率は17÷21=81%という高率に及ぶ。目をつぶらなければ90%だ。論語を真に受ける間抜けはたびたび書いたので閲覧者諸賢もうんざりだろうが、改めて統計を出してみると訳者はアホウのように口を開けて茫然とするしかない。

それにしてもざっと二千年間、儒教を国教扱いにした中国の、無数の儒者の誰一人、論語の半分は偽作であることに、気付かなかったとは考えづらい。だがそのような書き物が、一切残っていない理由は簡単だ。孔子が本当は何を言ったか、知られると権力が困ったからだ。

歴代の皇帝は天子を自称した。だが孔子は無神論者だった(論語解説・孔子はなぜ偉大なのか)。天神を否定するからには、それに下界の統治を任されたと自称する、皇帝の存在理由は消失する。そんなアブない思想が、実は国教開祖の教説だったと知れたらたまらない。

唐の帝室が老子の末裔を名乗り、国初は儒教に肩入れしなかったのは、匈奴の末の鮮卑人だったからというよりも、太宗李世民の側近に、孔子のそのような一面を知っていた者が居たからだろう。だから李世民は儒教経典の解釈を、国家が独占すべく『五経正義』を作らせた。

そして孔子の言行録である論語は、科挙(高級官僚採用試験)の試験科目に入れなかった。隋唐の科挙は儒教一本槍でなく、法律や数学専門でも受験できたが、もちろん儒教でも受験できた。科挙を始めた隋帝国はその科目として明経科を置いたが、試験内容は明らかでない

つまり明らかに論語を科目から外したのは、唐だと言えるに止まる。その理由を通説では、識字階級なら論語を読んでいることが前提だったからとするがそうでもない。最も格の高い科挙の科目に秀才科があり、暗記力を問う明経科と違って、儒教を基礎とした論文試験だった。

その答案に、「皇帝の権力に存在理由など無いと孔子様が仰った」と書かれてはたまらない。論語を論ずるのを帝室が恐れたと考えた方が分かりやすい。だから論語が科挙の科目に入るのは論語をよく知らないモンゴルの元帝国からで、それも国が傾いてからやっと科挙を始めた。

事実上、元を滅ぼした明と最後の清帝国が論語で官僚を採ったといえるのだが、その解釈は朱子の注に基づいた。朱子は一部論語の史実性を疑ってはいるものの(論語泰伯編20余話)、天が居ないなどとは書かなかった。その代わり極めて抽象的、つまりオカルトに論語を解釈した。

だから論語の言葉も空理空論、丸暗記するだけのものと天下承知で試験したわけで、「皇帝権に根拠無し」と書かれる恐れは無かった。加えて明の開祖洪武帝は中国史上三本指に入るシリアルキラー清帝国はささいな言葉で書いた者を一族皆殺しにする征服王朝だった。

我田引水牽強付会を甚だしくすれば、論語を科挙の科目に入れちまったから、明清の皇帝は独裁者というくたびれる仕事をしなけりゃならなくなったし、役人は口を閉ざした米つきバッタにならざるを得なくなった。これでは孔子が実は何を言ったか、書こうとする動機が無い。

つまり論語に載った孔子の肉声も、無かったことにして済ませていたわけだ。かような存在そのものを消去するやり口は、二次大戦中の日本で跋扈した、「敵性語廃止」にも見られる。天皇も政府もそんなことは言わなかったが、尻馬に乗ったサディストが嬉しそうにやった

だが尻馬乗りは天皇や政府にとり、都合がよかったに違いない。英語が出来てしまえばこんな戦争に勝てるわけが無いと知れるから、権力は困るのである。

『論語』泰伯篇おわり

お疲れ様でした。

『論語』泰伯篇:現代語訳・書き下し・原文
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