論語詳解231B子罕篇第九(28)もとらず求めず*

論語子罕篇(28)要約:先立った弟子の子路が、毎日お説教の歌を繰り返していたと、孔子先生がしのんだという作り話。先生の科白部分にニセモノはありませんが、歌っていたという詩の歌詞にニセモノの疑いがあります。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

「不忮不求、何用不臧。」子路終身誦之。子曰、「是道也、何足以臧。」

校訂

定州竹簡論語

……終身誦之。子曰:「是道也,240……

復元白文

不 金文不 金文求 金文 何 金文用 金文不 金文臧 金文 子 金文路 金文論語 終 金文身 金文頌 金文之 金文 子 金文曰 金文 是 金文道 金文也 金文 何 金文足 金文㠯 以 金文臧 金文

※誦→頌。論語の本章は忮の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である。

書き下し

もとらずむさぼらず、なんからざるを用ゐん。子路しろ終身しゆうしんこれしようす。いはく、みちなんもつしとするにらむ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 子路
『詩経』に「道理にもとらず、強欲にならず、何ごともよくないことをしない」とある。子路は生涯これをとなえていた。
先生が言った。「その生き方が、どうしてよいと言えるだろうか。」

意訳

子路 ニセ ニセ孔子
子路「♪踏み外しませぬ~欲しがりませぬ~、悪いことも致しませぬ~。」

子路よ。いつもその歌を歌っていたな。あれはそんなに大層な教えではなかったのだが。

従来訳

論語 下村湖人

詩経に、有るをねたみてこころやぶれず無きを恥じらいこころまどわず、よきかなや、よきかなや。とあるが、由の顔を見ると私にはこの詩が思い出される。」 子路は、先師にそういわれたのがよほど嬉しかったと見えて、それ以来、たえずこの詩を口ずさんでいた。すると、先師はいわれた。――「その程度のことが何で得意になるねうちがあろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

「不嫉妒不貪婪,有何不好?」子路終身記著這話。孔子知道後,又說:「這是應該做到的,怎值得滿足?」

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「妬まない、貪らない。何の良からぬ事があろうか?」と子路は生涯この話を記憶していた。孔子がそれを知ったあとで言った。「これはやって当然のことで、それで満足となる理由がないが?」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

。』 、「 。」


忮(シ/キ)

論語 忮 古文 論語 忮
(古文)

論語の本章では”さからう”。『大漢和辞典』による語義は”もとる・さからう・そこなう”。例によって多義語だし、歌詞でもあるから解釈のしようはいくらでもある。

論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はȶi̯ĕɡ(去)。同音は支とそれを部品とする漢字群、枝、祇”くにつかみ”、肢・胑”てあし”、禔”さいわい”、坁”とまる・さか”。近音同義に「抵」tiər(上)があるが、初出は秦系戦国文字

詳細は論語語釈「忮」を参照。

臧(ソウ/ゾウ)

臧 金文 論語 孔子 TOP
(金文)

論語の本章では”よい(こと)”。「臧」は「蔵」の古い書体で、意味は同じく”かくす”。詳細は論語語釈「臧」を参照。

なお孔子の生まれた頃には、魯国には門閥三家老家=三桓以外にも有力氏族があり、ゾウ氏もその一つだった。孔子の生まれた翌年に当主が放逐されて力を失ったが、論語にも二人の臧氏について言及がある(論語公冶長篇17論語憲問篇15)。

臧氏追放については、『春秋左氏伝』襄公二十三年条を参照。

不忮不求、何用不臧

論語 求 金文 論語
「求」(金文)

論語の本章では、”おきてにそむかない、求めない、よくないことをしない”。『詩経』邶(ハイ)風・雄雉に載せられた歌詞の一部。

論語:解説・付記

論語の本章は前回同様、子路の訃報を聞いた孔子のつぶやきと解せるように挿入されている。朱子は前回の引き続きと解し、子路をたしなめる孔子の風景とする。しかしこの論語子罕篇は、孔子最晩年の記事が集中しており、本章も子路の死を暗示している。

子路が歌っていた歌詞の全文は以下の通り。

『詩経』国風・ハイ風「雄雉」

雄雉于飛、泄泄其羽。(雄雉ここに飛ぶ、エイ泄たる其の羽)
我之懷矣、自詒伊阻。(我之おも、自らのこうれい)

雄雉于飛、下上其音。(雄雉ここに飛ぶ、下上しょうかす其の音)
展矣君子、實勞我心。(ぶる君子、まことなやます我が心)

瞻彼日月、悠悠我思。(るは彼の日月ジツゲツユウ悠たり我が思い)
道之云遠、曷云能來。(道之遠きを云うや、なんぞ云う能く來たると)

百爾君子、不知德行。(ももたるなんじ君子、知らざる德行トクコウ)
不忮不求、何用不臧。(忮ら不求め不、何ぞから不るを用いん)

オスキジは飛ぶ 翼を広げて
我が憂いは 我から悩ます
オスキジは飛ぶ その声が鳴り響く
あなたは振る舞い 私を悩ます
昼夜を眺めて なお尽きぬ憂い
果て無き道を 帰るはいつの日か
君子の諸君よ 徳を知っているだろうに
踏み外さず貪らず なぜに不善を事とするや

論語の本章に関しては、史実を疑う理由は詩の歌詞部分にあり、つまり現伝の『詩経』ともども疑わしいわけだが、論語だけで手一杯の訳者には、詩経の真偽うんぬんまで面倒見切れない。史実だと思うならそれでもいいと思う。そしてこの部分を除けば、論語の本章は史実であってもおかしくない話ではある。

以下、儒者の感想文。古注は前章と一体に解している。

古注『論語集解義疏』

子曰衣弊緼袍與衣狐貉者立而不恥者其由也與註孔安國曰緼枲著也不忮不求何用不臧註馬融曰忮害也臧善也言不忮害不貪求何用為不善疾貪惡忮害之詩也子路終身誦之子曰是道也何足以臧註馬融曰臧善也尚復有美於是者何足以為善也疏子曰至以臧 云子曰云云者衣猶著也弊敗也縕枲著也狐貉輕裘也由子路也當時人尚奢華皆以惡衣為恥唯子路能果敢率素雖服敗麻枲著袍裘與服狐貉輕裘者並立而不為羞恥故云其由也與顔延之云狐貉緼袍誠不足以䇿恥然自非勇於見義者或以心戰不能素泰也云不忮云云者孔子更引疾貪惡忮詩證子路徳美也忮害也求貪也臧善也言子路之為人身不害物不貪求徳行如此何用不謂之為善乎言其善也云子路終身誦之者子路得孔子美已才以為美故終身長誦不忮不求何用不臧之言也云子曰云云者孔子見子路誦之不止故抑之也言此不忮不求乃可是道亦何足遇為善而汝誦之不止乎言尚復有勝於此者也顔延之云懼其伐善也 註孔安國曰緼枲著也 枲麻也以碎麻著裘也碎麻曰緼故絮亦曰緼玉藻曰縕為袍是也

孔安国 馬融
本文「子曰衣弊緼袍與衣狐貉者立而不恥者其由也與」。
注釈。孔安国「緼とはチョマで作った衣類である。」

本文「不忮不求何用不臧」。
注釈。馬融「忮とは侵害することである。臧は善である。侵害せず貪らずにいれば、どうして不善をする必要があるか、ということである。むさぼりの悪、侵害を憎む歌である。」

本文「子路終身誦之子曰是道也何足以臧」
注釈。馬融「臧とは善である。やはりその場で満足するなら、どうして善事を行う必要があるか、ということである。」

付け足し。先生は善事を行う窮極を言った。「子曰くうんぬん」とあり、衣は着ることである。弊とは破れることである。縕とはチョマである。狐貉とは軽いかわごろもである。由とは子路のことである。当時の人は華美を尊び、粗末な衣服を恥じた。ただ子路だけが平然として質素な服を着続けた。破れたアサの綿入れを着ていても、キツネやムジナの毛皮で作った高級品を着た人と並び立って、恥とは思わなかった。だから「其由也與」と孔子は言った。

顔延之「狐貉と緼袍は、まことに誇りでも恥でも無い。ところが義を見て勇なき者どもは、あるいは心がくじけて、質素に着て満足することが出来なかったのだ。」

「不忮うんぬん」とは、孔子が更にむさぼりの悪を憎む詩を引用して子路の美徳を明らかにしたのである。忮は侵害することである。求はむさぼることである。臧は善である。子路が人を傷付けず、ものを貪らないことを言ったのである。その徳の行いがこのようであれば、そうしてどうしてこれを膳と評価ぜずにいられるだろうか。だからその膳を言ったのである。

「子路終身誦之」とは、子路は孔子の美点を見習って、自分でも美点を実践できた。だから生涯「不忮不求何用不臧」の言葉を繰り返した。「子曰くうんぬん」とは、孔子が子路がこの言葉を繰り返して止まないのを見て、押しとどめたのである。この「不忮不求」の通りなら、すでに道を正すことが出来るのであり、どうして善事を行うにあたって間違えることがあろうか。それなのにどうしてわざわざ言葉を繰り返して止まないのだ、ということである。その前にやるべき事があるだろう、ということである。

顔延之「押しつけがましい善になるのを心配したのである。」

注釈。孔安国「緼はチョマの着物である。」

枲はアサである。アサをほぐしてかわごろものようなものを着るのである。ほぐしたアサを緼という。だから絮(ショ、わた・綿入れ)のことを緼とも言う。玉藻に「縕で袍を作る」と書いてあるのはこのことである。

新注『論語集注』

忮,之豉反。忮,害也。求,貪也。臧,善也。言能不忮不求,則何為不善乎?此衛風雄雉之詩,孔子引之,以美子路也。呂氏曰:「貧與富交,彊者必忮,弱者必求。」

終身誦之,則自喜其能,而不復求進於道矣,故夫子復言此以警之。謝氏曰:「恥惡衣惡食,學者之大病。善心不存,蓋由於此。子路之志如此,其過人遠矣。然以眾人而能此,則可以為善矣;子路之賢,宜不止此。而終身誦之,則非所以進於日新也,故激而進之。」

論語 朱子 新注 謝良佐
忮は之と豉の組み合わせの音である。忮とは害なうことである。求とは貪ることである。臧とは善である。「不忮不求」と言えるなら、つまりどうして不善が出来ようか。これは『詩経』衛風の雄雉の詩である。孔子はこれを引用し、子路の美点を讃えたのである。

呂氏(詳細不明)「貧乏人が金持ちと付き合えば、強い方はいじめ、弱い方はたかる。」

生涯繰り返したというのは、つまり自分が実践できるのが嬉しかったのである。その代わり、道を追い求めなくなってしまった。だから先生はこの言葉をオウム返しに言って、子路を戒めたのである。

謝良佐「悪衣悪食を恥じる(論語里仁篇9)のは、学問をする人間の大敵だ。善の心が無いからだ。思うに子路もそうでなかった(※原文と逆の意味に取らないと意味が通じない)。子路の性根はこうであり、他人とは大きく異なった。だが世の有象無象だろうと悪衣悪食に平然と出来るなら、善事を行えるに違いない。子路の賢明は、これに止まらないだろう。そして生涯繰り返したが、それは毎日進歩した原因ではない。だから孔子は進歩するよう励ましたのだ。」

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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