論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰衣敝縕袍與衣狐貉者立而不恥者其由也與
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰衣弊縕袍與衣狐狢者立而不恥者其由與
慶大蔵論語疏
衣〔尚皮廾〕1緼2〔衣𠂊巳〕3与4衣狐狢者4立而不恥者4其由也与4
- 「弊」の異体字。「唐薛良佐墓志」刻字近似。
- 「縕」の異体字。「唐濮州臨〓縣尉竇公夫人崔〓墓誌銘」刻。
- 「袍」の異体字。「〓西南詔古碑 付嘉慶三年記」(南詔)刻。
- 新字体と同じ。「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……者立,而不佴者,其由也239
標点文
子曰、「衣弊縕袍、與衣狐狢者立而不佴者、其由也與。」
復元白文(論語時代での表記)
縕袍 佴
※狐→(甲骨文)・狢→貉。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「敝(弊)」「與」「也」の用法に疑問がある。本章は前漢儒による創作である。
書き下し
子曰く、弊れたる縕袍を衣て、狐狢を衣たる者與立ち而佴ぢざる者は、其れ由也與。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「破れた綿入れを着て、狐の毛皮のコートを着た者と並んで立っても恥ずかしく思わないのは、子路だろうか。」
意訳
子路も死んだか…。
ボロを着て立派な身なりの者と並んでも、恥ずかしがらなかったのはあいつだけだったな。
従来訳
先師がいわれた。――
「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者と並んでいても、平気でいられるのは由だろうか。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「穿著破舊衣服,與穿著狐皮貉皮衣服的人站在一起,而不感到慚愧的人,大概衹有子路吧?
孔子が言った。「破れたボロ服を着て、キツネやムジナのかわごろもを着た人と共に立って、恥ずかしがらない人は、たぶん子路だけだろうな。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
衣(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”上着を羽織る”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。
敝(ヘイ)
(甲骨文)
論語の本章では”破れた”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「弊」は異体字で15画。字形は「巾」”ぬの”+埃を示す点+「攴」”棒を持った手”で、汚れた布をはたいて清めるさま。甲骨文では埃の数や棒の有無など字形の異同がある。原義は”洗う”。甲骨文では地名に用い、金文には情報が無く、戦国の竹簡で「幣」”供え物”、「弊」”破れ疲れる”の意が、漢代の出土物で「蔽」”覆う”の意があると言う。詳細は論語語釈「敝」を参照。
慶大蔵論語疏では「〔尚皮廾〕」と記す。未詳だが「唐薛良佐墓志」刻字に近似。「弊」の異体字。
(古文)
慶大本以降の古注では「弊」と記す。初出は不明。画家としても有名な北宋の郭忠恕『汗簡』に伝承古文が載る。古文の字形は「敝」+▽形。▽形の意味するところは分からない。『学研漢和大字典』は「敝」に両手を添えて”やぶる”の語義をより明瞭にした字という。詳細は論語語釈「弊」を参照。
縕*袍*(ウンポウ)
論語の本章では”綿入れの防寒着”。「縕」は綿状の”クズ麻”で、『大漢和辞典』では縕袍を”貧乏人が着る粗末な衣類”と解する。ただし「縕著」と同義とし、クズ麻や古い絹綿を詰めた綿入れ服を指すと言う。
(篆書)
「縕」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。同音は𥁕を部品とする漢字群で、論語時代の置換候補は無い。”わた”の意では漢音は「ウン」、”だいだい色”の意では「オン」。詳細は論語語釈「縕」を参照。
慶大蔵論語疏では「緼」と記し、「灬」を「一」と草書がきしている。上掲「唐濮州臨〓縣尉竇公夫人崔〓墓誌銘」刻。
論語の本章、定州竹簡論語ではこの部分を欠いているので、「縕」の字が前漢中期には存在したか、別の文字になっていたことになる。
(前漢隷書)
「袍」は論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「衤」”衣類”+「包」”すっぽりつつむ”。体全体を布団のように包んで保温する衣類の意。詳細は論語語釈「袍」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔衣𠂊巳〕」と記す。上掲「〓西南詔古碑 付嘉慶三年記」(南詔)刻。南詔は唐の時代に四川省にあった独立王国で、この碑が刻まれた賛普鐘十四年はAD765。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章、文中ではでは”~と”。文末では”…か”。後者の語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。上掲「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
狐*(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”キツネ”。初出は甲骨文。初出の字形は「亾」(亡)”逃げる”+「犭」”けもの”。悪賢く素早く逃げ去るキツネのさま。甲骨文のあとは戦国の金文まで時代が空いており、現行字形が「犭」+「瓜」になったのは、殷周革命で言語が変わったとしか思えない。詳細は論語語釈「狐」を参照。
貉*(カク)→狢*(カク)
(金文)
論語の本章では、アナグマやタヌキのような中型の狩猟対象となるけもの。おそらくはむじなへん「貉」ではなくけものへん「狢」と記され、アナグマの意。日本語での訓読「むじな」同様、文献上でアナグマを指すのか、タヌキを指すのか、似たような別のけものを指すのかは、極めて判断しがたい。
むじなへん「貉」の初出は西周早期の金文。字形は「豸」頭の大きなけもの+「各」。「各」は音符でなければ、「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、やってくること。「貊」の異体字とされる。「貊」の初出は西周早期の金文。日本名「むじな」のユーラシアでの汎用種「アナグマ」は、畑の作物を荒らす害獣でもあるらしく、呼ばないのにやってくるけものを指すか。春秋末期までの用例はほとんどが人名または地名だが、一例のみトラ・シカ・オオカミでない狩猟対象となるけものの意に用いた例がある。詳細は論語語釈「貉」を参照。
武内本は「唐石経…狢貉に作り」とあり、対して現存最古の古注残巻である慶大蔵論語疏は、ちょうど偏の部分に虫食いがあり、むじなへん・けものへんを判別しがたい。が、おそらくけものへん。
むじなへんでなく、けものへんで「狢」と記したのは現存最古の古注完本である宮内庁蔵清家本。京大蔵清家本、正平本『論語集解』も、けものへん「狢」と記す。対して京大蔵唐石経と、現存最古の紙本論語である宮内庁蔵南宋版『論語注疏』ではむじなへん「貉」と記す。伝承の新古で言えば、けものへん「狢」の方が古いと言える。
ところが江戸末期の鵜飼文庫『論語義疏』ではむじなへん「貉」と記している。これは室町から江戸時代にかけて、中国の版本を参照して訂正したと考えるのが理が通る。論語の古注は中国では一旦滅び、清代に日本から逆輸入したが、その間の日本伝『論語』も、中国からさまざまな影響を受けていたことが分かる。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(楷書)
けものへん「狢」の初出は不明。アナグマの頭が細いのに対し、タヌキは丸く大きい。従って漢字の字形から見れば、「貉」はタヌキ、「狢」がアナグマと判断する根拠はある。現代中国語ではアナグマを「狗獾」(コウファン)という。イヌのたぐいと見られていることになる。
ただしパンダを大熊猫(タァシオンマオ)といい、猫のたぐいでもあると考えていることになる。対してレッサーパンダを小熊猫(シャオシオンマオ)というから、猫っぽい熊であるレッサーの大きい奴、という感覚になろうか。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。「教育部異體字字典」によると出典は「交阯都尉沈君神道二」。
立(リュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”立つ”。立って共に並ぶこと。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
恥(チ)→佴(ジ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”はじる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。
(戦国文字)
定州竹簡論語は「佴」と記す。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。「恥」とは音も語義も違い、おそらく前漢時代の当て字。『大漢和辞典』は”たすけ”・”ならぶ”・”つぐ”の語釈を載せる。詳細は論語語釈「佴」を参照。
”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意か、「なり」と読んで断定の意に用いている。本章は他の部分で後世の創作が確定するので、詠歎に解さねばならない理由が無い。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
「也與」二字で「かな」と読み詠嘆と解することは可能だが、論語時代の漢語には原則として熟語が無い。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に載り、それよりやや先行する『史記』仲尼弟子伝に全文が再録されている。だがそれ以外の誰一人、春秋戦国を含めた先秦両漢で引用や再録していない。となるとかえって『史記』が疑わしくなる。
それに目をつぶれば論語の本章は、前漢の董仲舒一党が偽作して論語にねじ込み、董仲舒の弟子に当たる司馬遷が『史記』に記してウソの上塗りをしたが、儒者の嫌いな子路持ち上げばなしなので、後の世の誰も引用しなかった、と考えると筋が通る。
元ネタは論語公冶長篇25、「子路曰く、願はくは車馬衣輕き裘、友與共にし、之を敝り而憾むこと毋からむ。」だろうが、この公冶長篇の章も春秋時代の漢語としては穴だらけのニセモノ。ただし董仲舒より前の『韓詩外伝』に類似の文字列がある事から、本章よりは古い。
解説
この子罕篇は、20~23までが顔淵についての思い出話、前章から次章までが子路に対する思い出話、そして次々章が「歳寒くして…」と泣き濡れたような回想ばなし、その次とさらにその次は、孔子が弟子一同との生涯を振り返ったような話、そして最終章は辞世の句としか思えない話。従って本章も、子罕篇の後半をレクイエム的に仕立てるための創作と考えていいだろう。
魯哀公十五年(BC480)・孔子72歳、顔回死去の翌年だが、衛に仕えていた子路は内乱に巻き込まれて世を去った。その模様は『史記』の列伝に記されている。論語の本章はその死を暗示するため作られたもの。子路は一門きっての剛直な弟子で、それにふさわしい死を遂げた。
子路が公宮に入ろうとすると、弟弟子の子羔(シコウ)が門から出てきたのに出会った。子羔は「門はすでに閉じています」と言ったが、子路は「まあとにかく行ってみよう」と言った。子羔は「無理です。わざわざ危ない目に遭うことはありません」と言ったが、子羔は引き止められずに公宮から出て、子路は入って門前に立った。
公孫敢が門を閉ざして「入るな」と言うと、子路は「公孫どの、貴殿は利益に目が眩んで逃げたな。拙者はそうではない、俸禄分は主君の危険を救うつもりでござる」と言った。たまたま外に出る使者があったので、入れ替わりに子路は門を入った。そこで大声で叫んだ。
「太子どの、孔悝どのは役立たずですぞ。殺しても代わりはいくらでもござる。それにしても太子どのは昔から臆病でござった。孔悝どのを放しなされ。さもないと下からこの見晴らし台に火を付けますぞ。」
太子は震え上がって、石乞・孟黶(ウエン)を台から降りさせて子路と戦わせた。戈で子路を撃ったところ、子路の冠の紐が切れた。子路は「君子は死んでも冠を脱がないものでござる」と言って、紐を結び直している内に殺された。(『史記』衛世家)
顔回の前年には孔子は一人息子の鯉を無くしており、息子と愛弟子を立て続けに失った孔子には大きな打撃となった。それもあってか、孔子は翌年に死去している。なお本章は、古注の時代までは次章と一体として読まれた。分けて読むようになったのは新注からである。先行する北宋の『論語注疏』までは、古注同様次章と一体化して解している。
以下、古注は本章部分のみ記す。
古注『論語集解義疏』
子曰衣弊緼袍與衣狐貉者立而不恥者其由也與註孔安國曰緼枲著也
本文「子曰衣弊緼袍與衣狐貉者立而不恥者其由也與」。注釈。孔安国「緼とは麻を着ることだ。」
新注『論語集注』
衣,去聲。縕,紆粉反。貉,胡各反。與,平聲。敝,壞也。縕,枲著也。袍,衣有著者也,蓋衣之賤者。狐貉,以狐貉之皮為裘,衣之貴者。子路之志如此,則能不以貧富動其心,而可以進於道矣,故夫子稱之。
衣は尻下がりに読む。縕は、紆と粉の組み合わせの音である。貉は胡と各の組み合わせの音である。與は、平らな調子で読む。敝とは、壊れることである。縕は、苧麻で作った衣類である。袍は、中にワタが入った衣類である。たぶん下等な衣類であろう。狐貉は、キツネやムジナの皮で作ったかわごろもで、衣類の中でも高価な品である。子路の心意気はこのようであった。つまり貧富の差が気にならなかったのである。そして孔子の聖なる道を突き進むことが出来た。ゆえに先生は讃えたのである。
「ゆえに先生は讃えた」かも知れないが、本章を偽作した漢の帝国儒者はそのような気がさらさら無かったに違いない。次章で見るように後漢の儒者は本章での子路についてゴマスリを書いているが、おおざっぱに言って儒者は、子路は乱暴者という悪口しか言っていないからだ。
余話
ドテラマン
論語の本章に言うように、子路は本当に破れどてらを着てウロウロしたのだろうか? 若い頃はそうかも知れない。あるいは本章の別伝と思しき記述が以下の通り、『孔子家語』にある。
子路盛服見於孔子。子曰:「由!是倨倨者何也?夫江始出於岷山,其源可以濫觴,及其至於江津,不舫舟,不避風,則不可以涉,非惟下流水多邪?今爾衣服既盛,顏色充盈,天下且孰肯以非告汝乎?」子路趨而出,改服而入,蓋自若也。子曰:「由志之!吾告汝!奮於言者華,奮於行者伐。夫色智而有能者,小人也。故君子知之曰知,言之要也;不能曰不能,行之至也。言要則智,行至則仁。既仁且智,惡不足哉?」(『孔子家語』巻二・三恕第九10)
子路が豪華な衣装を着て孔子の前に現れた。
孔子「子路よ。何でそんな派手な服を着ているんだね。あの大河・長江も、その初めは岷山の谷川で、やっと盃を浮かべられる程度に過ぎない(「濫觴」の出典)。だが下流に来ると、風のない日に舟に乗らねば、到底渡れるものではない。それはひとえに、あまたの小川を集めて水量が多くなったからだ。お前のようにいかつい男が、そんな派手な服を着ていれば、みんな怖がって、何も言ってくれなくなるぞ。」
子路は消え入るように走り去り、着替えて再び孔子の前に出た。いかにも満足しているかのような顔である。
孔子「子路よ。よぉく覚えておくんだな。よいか、ベラベラしゃべる奴はお調子者だ。ズシズシと歩き回る奴は威張りん坊だ。小賢しい小知恵をひけらかす奴は、しょせん馬鹿者だ。一人前の貴族たる者、そうした区別を知っている、これを知というのだ。言葉のかなめは結局これだ。その上で、出来ない事を出来ないと知る、これが行動のかなめだ。言葉にかなめがあれば、つまり智恵者だ。行動にかなめがあれば、つまり仁者(理想の貴族)だ。仁者でもあり知者でもあるなら、一体何をそれ以上自分にくっつけようと言うのかね。」
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