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論語詳解220子罕篇第九(16)出でては則ち公卿*

論語子罕篇(16)要約:後世の創作。仕事では主君や上司に仕え、家庭では年長者に仕え、葬儀には精一杯努力し、大酒を飲んでも悪酔いしない。これぐらいなんでもない、とニセ孔子先生。これだけ出来ても、春秋の君子は務まりません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰出則事公卿入則事父兄喪事不敢不勉不爲酒困何有於我哉

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰出則事公卿入則事父兄喪事不敢不勉不爲酒困何有於我哉

慶大蔵論語疏

子曰出則事公〔弓即〕1/入則事父〔口九〕2/喪事不敢不勉/不為3〔氵一丷目〕4困/何有扵5我㦲6

  1. 「卿」の異体字。「魏東安王太妃墓誌」(東魏)刻。
  2. 「兄」の異体字。「魏武昌王妃吐谷渾氏墓志」(北魏)刻。
  3. 「爲」の異体字。新字体と同じだが「灬」を「一」と草書書きしている。「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
  4. 「酒」の異体字。「唐霍漢墓誌銘」刻。
  5. 「於」の異体字。『新加九経字様』(唐)所収。
  6. 「哉」の異体字。「魏邑子二十七人造象」(北魏?)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[出則事公,入則事]父兄,喪事不敢[不免a,不230……

  1. 免、今本作”勉”。免借為勉。

標点文

子曰、「出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不免、不爲酒困、何有於我哉。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 出 金文則 金文事 金文公 金文卿 金文 入 金文則 金文事 金文父 金文兄 金文 喪 金文事 金文不 金文敢 金文不 金文 不 金文為 金文酒 金文困 甲骨文 何 金文有 金文於 金文我 金文哉 金文

※困→(甲骨文)。論語の本章は、「勉」の字が論語の時代に存在しない。「免」「何」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、でてはすなはきみまへつぎみつかへ、りてはすなは父兄ちゃうじゃつかへ、とぶらひことあへつとめずんばあらず、さけくるしみをさざること、んぞわれらむ

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「家を一歩出れば政府高官に仕え、家庭内では年長の男性に仕え、葬儀を力の限り行い、酒での苦しみを起こさない。何が私にあるだろうか。」

意訳

孔子 人形
出勤したら上司に仕え、家では年上を世話し、葬儀では懇ろに仏を弔い、酒を飲んでも飲まれない。私にとってこれぐらい、何でもないさ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「出でては国君上長に仕える。家庭にあっては父母兄姉に仕える。死者に対する礼は誠意のかぎりをつくして行う。酒は飲んでもみだれない。――私に出来ることは、先ずこのくらいなことであろうか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「在外獻身祖國,在家孝順父母,盡力辦好喪事,不酗酒,對我有什麽問題?」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「外では身を祖国に捧げ、家では父母に孝行を尽くし、力の限り盛大に葬儀を行い、酒を呑んでも乱れない。私にとって、これらに何の問題があるだろうか?」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”役所に出勤する”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~の場合は必ず”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「事公卿」「事父兄」では”目下として働き奉仕する”。「喪事」では”行事”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。春秋末期までに、”仕事”・”命じる”・”出来事”の意に用いた。”奉仕する”とズバリ解せる例は戦国時代にならないと現れないが、”臣従する”の用例は西周早期から見えるので、”奉仕する”の語義は拡大解釈すれば、当時からあったと言えなくはない。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

公卿*(コウケイ)

論語の本章では、本章が史実なら”国君と上級家老”。後世の偽作なら”政府高官”。「卿」は論語では本章のみに登場。

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

戦国末期まで「公」は王に次ぐ爵位の最上位を意味し、周代に「太師・太傅・太保」の三公があったというのはおそらく漢儒のでっち上げ。前漢武帝の時代にならないとそういうファンタジーは現れない。

四月戊寅,奏未央宮。…康叔之年幼,周公在三公之位,而伯禽據國於魯,蓋爵命之時,未至成人。


(元狩六年=BC117)四月戊寅、宮城の正殿で奏上した。「…衛の康叔はまだ年若かったので、周公が三公の職を務め、息子の伯禽に魯を領国として任せましたが、考えますと授爵の時、まだ成人していなかったのではないかと思われます。」(『史記』三王世家)

前漢年表

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三公を設置したのは帝政期の秦とされ、丞相(宰相)、太尉(元帥兼陸相)、御史大夫(監察長官)の三職が相当するとされるが、秦が三職を「三公」と呼んだ史料を見たことが無い。

対して前漢は三職を置いたが、爵位については皇帝に次ぐ王があるが宗室に限られ、臣下の爵位は最高位を「関内侯」と呼んで「公」ではなかった。ただし上掲の通り前漢中期の武帝の時代には「三公」のファンタジーが出来上がっており、三職を「三公」と呼んだのは間違いない。つまり論語の本章が偽作とするなら、「公」とは政府の最高官を意味している。

卿 甲骨文 卿 字解
「卿」(甲骨文)

「卿」の初出は甲骨文。字形はたかつきに山盛りに盛っためしを二人で挟んで相対する形。宴会のさま。卿(U+2F832)・「卿」(U+2F833)は異体字。「キョウ」は呉音。甲骨文は磨滅が激しく語義を解読しがたい。殷代末期から西周早期にかけての金文には、人名の用例が複数見られる。西周早期から”閣僚級の家臣”の意に用いた。春秋時代での語義は、「郷」=邑を領地に持つ上級貴族の意で、国公に次ぐ地位の者を指した。詳細は論語語釈「卿」を参照。また論語解説「春秋時代の身分秩序~卿大夫士」を参照。

卿 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「〔弓即〕」を若干崩して記す。「魏東安王太妃墓誌」(東魏)刻。

あるいは遊び字「〔弓昇〕」とも釈文できる。慶大本が筆写されたとされたのは隋唐時代で、中国語音史では中古音が近い。「昇」のカールグレン中古音はɕi̯əŋ(平)、「卿」はkʰi̯ɐŋ(平)で音通とまでは言えないが、「昇」の原字である「廾」は漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「キョウ」で、「卿」の呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)も「キョウ」という。

漢音は隋唐のみやこ長安付近の音とされ、呉音は通好のあった南朝のみやこ建康(今の南京)付近の音とされる。あるいは慶大本は、華南で筆写されたのかも知れない。なお本サイトでの遊び字とは、ギャル文字のような文字遊びの結果生まれた字体を言う。

入(ジュウ)

入 甲骨文 入 字解
(甲骨文)

論語の本章では”家庭では”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。

父兄(フケイ)

論語の本章では”男性の年長者”。

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

「父」の初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

兄 甲骨文 兄 字解
(甲骨文)

「兄」の初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「𠙵」”くち”+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。

兄 異体字
慶大蔵論語疏では「兄」を異体字「〔口九〕」と記す。「魏武昌王妃吐谷渾氏墓志」(北魏)刻。

喪(ソウ)

喪 甲骨文 喪 字解
(甲骨文)

論語の本章では”葬儀”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

敢(カン)

敢 甲骨文 敢 字解
(甲骨文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて・すすんで”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”…できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。

勉*(ベン)→免(ベン)

勉 睡虎地秦墓竹簡 勉 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”力を尽くす”。論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は音符「免」+「力」で、どうしてこれが”つとめる”の意になったかは分からない。戦国の竹簡で”つとめる”の意に用いた。詳細は論語語釈「勉」を参照。

慶大蔵論語疏では「不勉〻強也」と、経(本文)に引き続く疏(注の付け足し)の冒頭を「〻」で略して書いている。

免 甲骨文 免 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語では「免」と記す。なぜ”つとめる”の意に用いたかは、漢儒の承認欲求を満たすための自己顕示欲としか言いようが無い。

儒者の捏造

「メン」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「免」。大陸と台湾では「免」が正字として扱われている。字形は「卩」”ひざまずいた人”+「ワ」かぶせ物で、中共の御用学者・郭沫若は「冕」=かんむりの原形だと言ったが根拠が無く信用できない。「卩」は隷属する者を表し、かんむりではあり得ない。字形は頭にかせをはめられた奴隷。甲骨文では人名を意味し、金文では姓氏の名を意味した。戦国の竹簡では「勉」”努力する”、”免れる”、”もとどりを垂らして哀悼の意を示す”を意味した。春秋末期までに、明確に”免れる”と解せる出土例はない。詳細は論語語釈「免」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…(の状態に)なる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

為 爲 異体字
慶大蔵論語疏は新字体と同じ「為」と記し、ただし「灬」を「一」と草書書きしている。上掲「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。

酒(シュウ)

酒 甲骨文 酒 字解
(甲骨文)

論語の本章では”酒”。春秋時代では甘くて色の濁った濁り酒「レイ」に対し、それを布袋で”チュウ”と絞り、漉して作った清酒を指す。「シュ」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、現行字体と同じ「水」+「酉」”酒壺”のものと、人が「酉」を間に向かい合っているものがある(上掲)。原義は”さけ”。甲骨文では原義のほか、地名に用いた。金文では原義のほか、十二支の十番目に用いられた。さらに氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「酒」を参照。

酒 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔氵一丷目〕と記す。上掲「唐霍漢墓誌銘」刻。

困*(コン)

困 甲骨文 困 字解
(甲骨文)

論語の本章では”苦しみ”。初出は甲骨文。字形は「囗」”はこ”+「木」。初出の字形で箱の中にあるのは木ではなく人であるらしく、”木箱に人を閉じこめる”が原義であるらしい。甲骨文の用例は”人を箱に閉じこめて水に沈める”と解せる。春秋末期までに人名のほか、”苦しむ”の意に用いた。詳細は論語語釈「困」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”(困難が)存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…にとって”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。『新加九経字様』(唐)所収。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

慶大蔵論語疏では異体字「㦲」と記す。「魏邑子六十人造象」(北魏?)刻。

何有於我哉

「ほかに」を補って解すると従来訳のような卑屈な訳”他に何が出来るだろうか”になるが、元ネタは例の朱子のしわざで、補わなくても逐語訳・意訳のように解せる。

『論語集注』で朱子は本章について、

說は第七篇に見ゆ、然らば此れ則ち、其の事いよいよ卑しくて、意は愈切なり

と言い、論語述而篇2にも「何有於我哉」があるのと重なっていると指摘する。そこで論語述而篇の注を見ると、

我に於いて何ぞ有らん。言うは何者か能く我に於いて有らん也。…聖人之極まる至りに非ず、而て猶お敢えて當たら不るがごとし。則ちへりくだりり而、又た謙之辭也。

”我に於いて何ぞ有らん”というのは、何ものが私にあるだろうか、何でもないと言っている。…聖人の極みでおわす孔子先生らしくない。あえてらしくないことをのたまっているようだ。これは先生がへりくだりたもうたのだ。へりくだりの言葉を仰せになったのだ。

という。世間に孔子を拝ませる霊感商法で食っているからには、朱子とその引き立て役にとって、ご本尊の孔子さまはピカピカしていないといけないのだ。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にはあるが、それ以外は春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録もしていない。事実上の再出は後漢から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』になる。文字史的に「勉」の字が論語の時代に遡れない事をふくめ、戦国時代以降、恐らくは漢儒による偽作と断じてよい。

解説

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰出則事公卿入則事父兄喪事不敢不勉不為酒困何有於我哉註馬融曰困亂也


本文「子曰出則事公卿入則事父兄喪事不敢不勉不為酒困何有於我哉」
注釈。馬融「困とは乱れることである。」

新注『論語集注』

子曰:「出則事公卿,入則事父兄,喪事不敢不勉,不為酒困,何有於我哉?」說見第七篇,然此則其事愈卑而意愈切矣。


本文「子曰:出則事公卿,入則事父兄,喪事不敢不勉,不為酒困,何有於我哉?」

同じ話が論語第七郷党篇にもある。ということは、この情景はものすごくありふれたことでも、ものすごく重大なことだと説いたに違いない。

余話

ナイアシンとペラグラ

論語の本章が偽作であるにもかかわらず、おそらく孔子は酒にもめっぽう強かった。

政治にも利用したに違いない。訳者の経験上、交渉事に酒を持ち込んだ場合、弱い方はまず押しまくられる。それはビジネスの場以外でも同じで、ある時夏のキャンプ場で、夜中の1時になっても騒ぎ止めないQDN家族十数人を、ウォトカで飲み潰して退治したことがある。

もちろんその前に、軽く脅しを呉れて大人しくさせた。論語で孔子が言う「徳」とは、本来このような機能を言う。ろくにケンカのやり方も知らない連中がひしめくから、刃傷沙汰になったりするわけで、論語の時代の徳には、もちろん素手で殴刂殺す技能も含まれている。

孔子 TOP
論語郷党篇8に「酒だけは量を定めないが、乱れるほどは飲まない」とある。章全体は偽作と断じるしかないのだが、身長2mを超す大男だった孔子は、さぞ飲みっぷりがよかったはず。そこはお作法の先生だけあって、飲まれはしなかったらしい。中国史で酒と言えば、次のような記述がある。

夏后氏尚明水,殷尚醴,周尚酒。

位
夏王朝は貧乏くさい真水まみずを尊び、殷王朝は甘ったるい濁り酒を尊んだ。だが周王朝になってやっと、濁り酒を布袋に入れてチュウとし取った、清んだ酒を尊ぶ。(『小載礼記』明堂位)

伝説上の王朝、夏と並び、殷王朝もまた「酒池肉林」で国を滅ぼしたことになっている。もちろん周王朝がでっち上げたフェイクニュースだが、これはひょっとすると、中国古代の主食が米や小麦ではなく、アワやキビだったことが理由かも知れない。栄養価が違うのだ。

過度の飲酒は、ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏症(ペラグラ)の症状の一つだという説がある。個人の感想と断っておくが、若年時より毎晩ウォトカが手放せなかった訳者は、意図的にナイアシンを摂るようになったとたん、飲酒量が激減して休肝日まで設けられるようになった。

以下に100g(おおむね1カップ弱)で、各穀物のナイアシン含有量を示す。一食当たりの摂取目安は3.48mgだという。主食だけで摂取できるのは小麦とコウリャンだけ。しかも人間が三食になったのはほんの数世紀前で、日本人がほぼ毎日食えるようになったのさえ戦後のことだ。

玄米 玄小麦 玄大麦 玄?アワ 玄?キビ トウモロコシ コウリャン
2.9mg 6.3mg 1.6mg 1.7mg 2mg 2mg 6mg

https://calorie.slism.jp/より。

ペラグラは皮膚がただれ、気分を鬱にし、最悪の場合死に至る恐ろしい病。特にアメリカなどトウモロコシを主食とする地域で猛威を振るったと言う。『坂の上の雲』に「インディアンは強い酒を好んだ」とあるが、なるほど米国政府の取り締まりをも恐れず密造に励んだらしい。

アメリカの少年が先住民の祖父母と共に暮らした回想録、『リトル・トリー』にそうある。論語に話を戻せば、当時小麦はやっと普及した頃で、アワ・キビ・大麦の方がはるか以前から一般的だった。そしてキビは最高の穀物とされ、大麦の「大」は”すばらしい”を意味する。

孔子 熱
孔子「キビは五穀のかしらであり、天地や祖先の祭には最高のお供えです。」(『孔子家語』子路初見

”劣った麦”を意味する小麦が主食になる前は、華北の人々が大酒飲みになったとて、無理も無いと思わせる。ナイアシン豊富で、かつマオタイ酒の原料として名高いコウリャン(モロコシ)があるではないかと言われそうだが、中国に入ったのは唐と宋の間、10世紀半ばに下る。

藤堂明保
ただし藤堂明保『漢文概説』によると、既に殷の時代の倉庫から、コウリャンとトウモロコシがが出てきたという。一般にトウモロコシは、コロンブスによって新大陸よりまずヨーロッパにもたらされたと言うから、漢文以外ではあまり藤堂博士を信用しない方がいいようだ。

さて論語を現代人が読むに当たって、儒者の話がほとんど当てにならないことはここまでいくつも書いてきたが、その土台がどこにあるかおわかりだろうか。彼らの前提には、孔子は神の如き万能で無謬の聖なる人、という思い込みがあるわけ。だから客観的に論語を読めない。
孔子

これは近代になりかかった頃のヨーロッパで、「イエスは私生児に過ぎない」と発言しようものなら、たちまちカッパ頭の酷薄そうなローマ坊主がやってきて、火あぶりの刑に処したようなもので、帝政時代の儒者とは則ちカッパ…だから、荒唐無稽なでっち上げを平然と行った。

一般に洋の東西を問わず古典の読解が難しいのは、こうした宗教的禁忌が、正確に書くこと・思うままに書くことを阻んできたから。又聞きだがデカルトの『方法序説』やベーコンの『新機関』はものすごく持って回った言い方をしているそうで、それも火あぶりが怖かったから。

今の欧米にカッパ…を怖がって口を閉ざす人はいまいが、日本の場合は居もしないカッパ…を今だに恐れて、論語にぺったり貼り付いた嘘・でたらめ・でっち上げが取れていない。言い換えるなら現代日本人にとっての論語などその程度の価値しかないわけで、無理もないことだ。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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