論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰三軍可奪帥也匹夫不可奪志也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰三軍可奪帥也匹夫不可奪志也
慶大蔵論語疏
子曰三軍可〔亠丶隹朩〕1〔㠯帀〕2(〔㠯巾〕)3也〔辶兀〕4夫不可〔亠丶隹朩〕1志也
- 「奪」の異体字。「北魏元纂墓誌銘」刻字近似。
- 「師」の異体字。「孔彪碑」(後漢)刻。
- 「帥」の異体字。傍記。「劉熊碑」(後漢)刻。
- 「匹」の異体字。「唐隋東宮左親侍盧萬春墓誌銘」刻。『干禄字書』(唐)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「三軍可奪師也、匹夫不可奪志也。」
復元白文(論語時代での表記)
志
※論語の本章は「志」の字が論語の時代に存在しない。「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、三つなす軍も師を奪ふ可き也。匹夫も志を奪ふ可から不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「国の全軍だろうと、将兵を捕らえることは出来るのだ。しかしつまらない男も、その志は奪えないのだ。」
意訳
全軍こぞった男たちでも丸ごと捕虜に出来るが、いかに下らないおやじ一人でも、志を取り上げることは出来ない。
従来訳
先師がいわれた。――
「大軍の主将でも、それを捕虜に出来ないことはない。しかし、一個の平凡人でも、その人の自由な意志を奪うことは出来ない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「三軍可以剝奪主帥,匹夫不可剝奪志向。」
孔子が言った。「国の全軍から総大将の指揮権を奪うことは出来る。オッサンの片割れも決意を奪うことは出来ない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
三軍(サンクン)
論語の本章では、”全国軍”。
漢儒がでっち上げた周代の礼法の規定では、天子は六個軍、大諸侯は三個軍、中諸侯は二個軍、小諸侯は一個軍を持つ。一軍は兵力一万で五旅からなり、一旅は十卒、一卒は四小戎、一小戎は十伍、一伍は五人から成る。
そもそも「天子」という言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
孔子の母国である魯は、論語当時では中程度の国だったが、立国当初は君主に周王の弟で摂政を務めた周公旦を据えた大国だったので、三軍を持った。一方当時の大国である晋は六軍を持っていた。
魯国軍は論語の時代、すでに三軍の半分を家老家筆頭の季氏が持ち、残りを叔孫氏と孟孫氏が半分ずつ分け合った。
「三」(甲骨文)
「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照
(金文)
「軍」の初出は春秋末期の金文だが、一説に部品として西周の金文にも見える。「グン」は慣用音で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)でも呉音(それ以前に日本に伝わった音)でも読みは「クン」。初出の字形は「勹」”包む”の中に「車」であり、戦車に天蓋ととばりを付けた指揮車を示すか。詳細は論語語釈「軍」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”…できる”。可能の意を示す。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
奪(タツ)
(金文)
論語の本章では”捕らえる”・”奪う”。初出は西周早期の金文。字形は「衣」+「爪」”手”+「鳥」+「又」”手」で、ふところに包んだ鳥を奪い取るさま。「ダツ」は呉音。春秋末期までに、人名や”捕虜にする”の意に用いた。戦国時代からは、”奪う”の意が見られる。詳細は論語語釈「奪」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔亠丶隹朩」と記す。上掲「北魏元纂墓誌銘」刻字近似。
帥*(スイ)→師(シ)
論語の本章では”軍隊”。軍に属する兵力一人一人の集合を指す。「奪師」とはそうした集団としての軍隊を破り、捕虜にして捕らえること。
唐石経を祖本とする現伝論語は「帥」”司令官”と記す。
対して慶大蔵論語疏は格内に「師」の異体字「〔㠯帀〕」と記し、「孔彪碑」(後漢)刻。さらに「帥」の異体字「〔㠯巾〕」と傍記し、「劉熊碑」(後漢)刻。
つまり、隋唐時代の中国で筆写された「師」”軍隊”の字を、読者であるおそらく日本人が「帥」”司令官”に書き換えたことになる。論語の本章、この部分は定州竹簡論語に欠き、漢石経にも残っておらず、現存最古の文字列を伝えるのは慶大本になる。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
江戸時代の末まで、日本にとって先進国とはつまり中国だったから、その分中国崇拝もあり、日本人が勝手に「帥」と改めるとは考えがたい。京大蔵唐石経は「三軍可奪帥也」と記す。ゆえにおそらく晩唐の唐石経によって中国伝承の論語の経(本文)の文字列が国策的に確定したあと、それを見て帰って来たか、伝え聞いた日本人が慶大本に「帥」と傍記したのだろう。とすると、論語の本章「帥」字はもと「師」字だったことになる。
「師」”軍隊”説の弱点は、経ではなく、根本本以降の現伝の注に孔安国が記した事だ。孔安国は高祖劉邦の名を避諱しないなど実在が疑わしい人物で、おそらく前漢儒の意見を集約するために、古注を編んだ三国魏の何晏が作った架空の人物だが、論語の本章の注に「帥」”司令官”でないとそぐわないようなことを記している。従って少なくとも三国時代初頭では、「帥」”司令官”と解されていた可能性がある。
註孔安國曰三軍雖衆人心非一則其將帥可奪之而取匹夫雖微苟守其志不可得而奪也
注釈。孔安国「国軍の全三個軍は属する将兵が多いが、それでも人々が心を一つにしていなければ、その総大将でも首に出来る。しかしそのあたりのオッサンで何の力も無くても、意志が堅ければ止めることが出来ない。」
ただし、「其將帥」を「そのいくさのきみ」と読んで”三軍の総大将”と解する事が出来るのとは同程度に、「それいくさのきみ」と読んで、”そもそも将軍は”と解することも出来る。さらに上掲語釈の通り、「奪」は動詞としては、春秋時代までは”捕らえる”の意であり、”奪う”の用例が見られるのは戦国時代からになる。
また注の文字列も、慶大本ではやや異なる。(三)と括弧書きしたのは傍記、もとは無かったことを示す。
注孔安国曰(三)軍雖衆人心不一則其將帥可奪而取匹夫雖微苟守其志不可得而奪也
注釈。孔安国「軍隊は兵が大勢集まっていても、人々の心が一つになっていなければ、将軍はそれをまるごと捕虜にすることができる。しかしそのあたりのオッサン(以下同)…。」
従って対称表現として、孔安国の注は次の様に理解するのが妥当と思う。
全軍 | 大勢 | てんでばらばら | 負ける |
おっさん | 一人 | 意志堅固 | 負けない |
兵卒の心理がてんでばらばらだと、どうして将軍を首に出来るか、理屈も立たない。裏の論理で、末端の兵卒が集まり泣いて”辞めないで下さい将軍閣下”と頼むとでも? そういう懿しいモノガタリは韓信にも乃木希典にも無い。宰相の蕭何や明治帝が引き止めただけである。
逆と同様、裏もまた真ならずで、元命題を証明できるのは対偶だけだ(この場合、”将軍を首に出来ないなら、兵の士気は統一されている”)。将軍を首に出来なくとも、兵がてんでばらばらなのはありうることだ。
将軍が軍閥や外戚の出身で、たとえ無能や臆病だろうと、皇帝以下文武百官の誰も首に出来ず、その指揮下にある兵卒は、すっかりやる気を失って隙あらば逃げ散ったり、略奪ばかりに精を出すのは、中国の軍隊ではむしろ通例と言ってよい。
さらに文字史として、「帥」”司令官”字は西周の金文の時点ですでに”軍隊”の意があった。仮に論語の本章が史実の孔子の発言としても、春秋の当時は「帥」「師」はともに”軍隊”の意では区別が無かったことになる。
(甲骨文)
「帥」の訓読は「いくさのきみ」。初出は甲骨文。字形は軍旗の象形。「ソツ」は”率いる”または日本の官職名の場合の漢音。春秋末期までに人名のほか、”軍隊”・”司令官”・”従う”・”倣う”の意に用いた。”率いる”の用例は戦国時代以降に見られる。詳細は論語語釈「帥」を参照。
「𠂤」(甲骨文)
「師」の初出は甲骨文。部品の「𠂤」の字形と、すでに「帀」をともなったものとがある。「𠂤」は兵糧を縄で結わえた、あるいは長い袋に兵糧を入れて一食分だけ縛ったさま。原義は”出征軍”。「帀」の字形の由来と原義は不明だが、おそらく刀剣を意味すると思われる。全体で兵糧を担いだ兵と、指揮刀を持った将校で、原義は”軍隊”。
金文では原義の他、教育関係の官職名に、また人名に用いられた。さらに甲骨文・金文では、”軍隊”の意ではおもに「𠂤」が用いられ、金文でははじめ「師」をおもに”教師”の意に用いたが、東周になると「帀」を”技能者”の意に用いた。詳細は論語語釈「師」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
匹*夫(ヒップ)
論語の本章では”ただのおっさん”。動物を一匹二匹と数えるように、漢文では人間を見下す時は動物にたとえる。これは南方の異民族を「蛮」と呼んで「虫」が入り、北方の異民族を「狄」と呼んでけものへん「犭」(=犬)が入っている例と同じ。
われわれ日本人は中華思想の分類では東夷に入り、「人」が入っているだけまだましだが、海と親しんで生活するのを「魚鼈にまみれる」と言い、魚やスッポンの仲間と見なされた。中華思想の夢想性の高さがおわかり頂けるだろうか。事実はどうでもいいのである。
(金文)
「匹」の初出は西周早期の金文。字形は大鎌+虫で、大鎌で斬られてしまうような小さな虫の意。春秋末期までに、家畜の単位のほか、”補佐する”の意に用いた。詳細は論語語釈「匹」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶兀〕」と記す。「唐隋東宮左親侍盧萬春墓誌銘」刻。『干禄字書』(唐)所収。
(甲骨文)
「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
志(シ)
(金文)
論語の本章では”こころざし”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
「志」が戦国時代になって漢語に現れたのは、諸侯国の戦争が激烈化し、敗戦すると占領され併合さえ、国の滅亡を意味するようになってからで、領民に「忠君愛国」をすり込まないと生き残れなくなったため。つまり軍国美談や戦時スローガンのたぐいと言ってよい。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無く、春秋戦国の誰一人引用していない。事実上の初出は前漢末期から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』と、同時期に編まれた『後漢書』の論賛に記されたのみ。「匹夫」の語は孟子が盛んに使ったが、「志」字の論語時代に於ける不在と合わせ考え、後漢儒による創作と考えるのが筋が通る。
解説
論語の本章は、上掲の検証にかかわらず、史実である可能性がある。儒者がこのような創作をしても利益が無いこと、「也」の用法を除けば史実を疑えないこと、そして「也」以外にも断定の助辞は論語の時代からいくらでもあることが理由。
だが裏腹に、史実でない論拠もある。何と言っても、定州竹簡論語に無いことがそれで、とすると本章の成立はおそらく後漢まで下り、後漢特有の偽善を伴った大言壮語とも解せる。だがその真偽は、研究所に暴れ込んで定州竹簡を破壊した無知無教養の紅衛兵しか見ていない。
つまり誰にも分からない。だがもし史実だったら、として考えてみよう。
論語の本章は、人間の行動や言動など、表に現れる行為は規制できても、心の中は自由である、という道理。ここで偽善まみれの後漢儒者の受け売りをして、「志とはッ!」とかいう、性欲を持て余した幕末の志士や、体育会的お説教と解釈すると論語を読み誤る。
孔子もまた中華思想の結晶の一人であるからには、高度の夢想性を持ったが、同時に怜悧な政治的人間であり、事実をありのままに見つめることを弟子に教えた。「動機や目的を見れば人は丸わかりだ」(論語為政篇10)と教えたのがその例。本章も同様である。
中国人の夢想性が後進性をもたらしたとして、毛沢東は「実事求是」=事実に基づいて正しい方法を知ることを求めた。政権を取るまでの中国共産党が、極めて合理的な集団であり得たのはそのおかげ。人を力で従わせることは出来るが、心まで支配する事は出来ないのも事実。
孔子はその事実を本章で指摘したのであり、志を高く持てと言ったのではない。もちろん孔子は志を持つことを弟子に求めはしたが、本章はそれとは違う話なのだ。政治家や官僚として世に出て行く弟子に、実事求是の教えを諭したものと理解すべき。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰三軍可奪帥也匹夫不可奪志也註孔安國曰三軍雖衆人心非一則其將帥可奪之而取匹夫雖微苟守其志不可得而奪也疏子曰至志也 此明人能守志雖獨夫亦不可奪若其心不堅雖衆必傾故三軍可奪匹夫無回也謂為匹夫者言其賤但夫婦相配匹而已也又云古人質衣服短狹二人衣裳唯其用一匹故曰匹夫匹婦也
本文「子曰三軍可奪帥也匹夫不可奪志也」。
注釈。孔安国「全国軍だろうと、あまたの将兵が心を一つにしていなければ、その総大将でも首に出来る。しかしそのあたりのオッサンで何の力も無くても、意志が堅ければ止めることが出来ない。」
付け足し。先生は意志の窮極を言った。この章は、人が意志を堅固に出来れば、オッサンの片割れでも止めることが出来ず、もし意志が薄弱なら、大勢集まっても必ず負けることを明らかにしている。だから全国軍でも負かすことが出来るし、オッサンの片割れも引き返さないことがある。いわゆる匹夫とは、身分が卑しく、所帯も持てない片割れを言う。一説によると、昔の人は幅の狭い衣類しか持たなかったので、二人で一着のゆったりした服を共有したので、夫婦で共有するその片割れの男を匹夫と呼んだという。だから匹夫のほかに、匹婦という言葉もあるのである。
新注『論語集注』
侯氏曰:「三軍之勇在人,匹夫之志在己。故帥可奪而志不可奪,如可奪,則亦不足謂之志矣。」
侯仲良「全国軍の戦闘力は人に掛かっている。オッサンの片割れの志はオッサン自身に掛かっている。だから総大将を首には出来るが志を奪うことは出来ない。もし奪えるなら、間違いなくその決意が足りなかったと評価してしまってよい。」
余話
お前ら要らん
この稿は2022/7/26に書いている。世間を震撼させた秋葉原通り魔事件の犯人の、刑が執行されたと報道された。安倍元首相の暗殺事件があったのはつい先日のことで、秋葉原事件あたりからこの社会では、「匹夫」による際限の無い凶行が繰り返されている。
訳者もまた匹夫に過ぎないが、凶行に至らないのは偶然に環境がよかっただけとも言え、つまり誰にとっても凶行は、自分が当事者になり得るわけで、他人事では済まされない。また何が凶行と評されるのかは、その社会特有の極めて身勝手な理屈で左右されもする。
その例を論語子罕篇24余話「全員押し込み強盗」ですでに記した。概要を繰り返せば、モンゴル高原の騎馬遊牧民にとって、中国の農耕社会を襲撃し略奪するのは生存に不可欠な経済活動であるのに対し、襲われる中国人にとっては、この上ない凶行にほかならない。
だからと言って、凶行をこうした相対主義の枠に閉じこめて、分かった振りして済ます人間を、訳者は信用しない。我欲を「天誅」と言い換えて人を斬って回った幕末の狂人の系譜は、「昭和維新」「共産革命」「誰でもよかった」と言葉は変わっても現在まで続いている。
これは頭の悪さからくる思考停止と、人を人とも思わない残忍な性格によるもので、かかる人でなしの一種である真っ赤なDKに、訳者は死ぬ目に遭わされた。確かに緊急避難で他人をあやめるのを法は許すが、なお最後の最後まで踏みとどまれるのが人間だと訳者は固く信じる。
信仰だからお他人様に強要はしないが、異教徒の凶行をだまって甘受するつもりもない。害して来るとあれば致し方ない。長年武道を稽古した動機は、ひとえに自己の防衛だった。だがそれをなお超えるべきで、凶行はしょせん厭うべき蛮行に過ぎないと強く思わねばならない。
訳者は居合をたしなむが、居合の大会でもないのに人前で、本身であれ模擬刀であれ振り回す者を、実はずいぶん嫌っている。抜刀納刀のたびに血刀を思うべきで、思わない者が剣を持てば蛮族に成り下がる。そういう幼稚は凶行の始まりと思わない者と、口を利きたくない。
そもそも居合の大会のたび思うのは、間違いなく凶器を準備して集合しているのに、凶器準備集合罪に問われない不思議だ。しかも集合者には少なからず、現役の警察官や法務省職員である刑務官が含まれる。武器を持つからには高い倫理を持たないと、世間様が許さない。
ロシアの蛮行が報じられる今日この頃だが、名作『静かなドン』を映像化した時、1957年の映画では、主人公のグリゴリーは遠慮無くオーストリア兵を騎馬で追い散らし斬り付けたのに、2015年のドラマでは、斬り伏せた事に後悔する演出があった。誰でも蛮行は嫌いなのだ。
渡辺昇一『ドイツ参謀本部』によると、シャルンホルストが士官学校の課程で一般教養を重んじたのは、教養の無い武装集団が蛮族化するのを恐れたからだという。だがドイツ軍部は結局蛮行を重ねた。かかる幼稚が作る世の悲惨は、いったいどこから出てくるのだろう。
原因は実に下らない。男の性欲に他ならない。これが満たされないから暴れる。彼女とラブラブのうちに凶行に走った例は池田小学校事件がそうかと思われる程度で、しかも犯行時に犯人と異性との関係がどうだったかも分からない。存外別れ話でやけになったかも知れないのだ。
この事情は社会単位でもそうで、外に対して凶行に走る社会は、例外なく人口構成が若年層に片寄っている。血の気の多い匹夫が大勢いるからこそ、戦争やテロに簡単に走る。そして内に対する凶行は、外に向く以前から目も当てられない惨状になっているのが通例だった。
世の男性諸氏は、自らの本質的凶暴性を意識するやいなや? 暴力は、いかんよ。
生物のメスが自己複製を目的とするのに対し、オスは遺伝的多様性を生むために作られた。もとは単性生殖だったのが、進化の結果でオスがあとから出来た。ハチなどのように、必要に応じて単性・異性生殖を使い分けられる生物も居る。オスは居なくてもなんとかなるのだ。
従ってオスは本質的にバクチ打ちで、ケンカほどのバクチもほかに無い。負けるに決まっている戦いはあり得るが、負ける可能性の無い戦いなどありはしないからだ。敵の眉間に拳銃を押し付けている者が、心臓発作で倒れた拍子に、手元が狂って自分を撃つ可能性はある。
ゆえに女性から見た男性原理は馬鹿馬鹿しいと言うべきで、だからといって女性が高潔とは言えないものの、男性はもとより兇暴に出来ている。女性がオトコを従えたがるのは、生殖以外には暴力装置としてだった。つまり世のオトコは、ケンカが出来てなんぼなのだ。
それでも暴力は、いかんよ。
そして時代が現代に近づくにつれ、オトコは金稼ぎまで担わされた。オトコが外で稼ぎ、女性が家を守るというのは、実は産業革命以降に出来た人類史では新しい生活様式で、それも資本家の都合によって作り出された「常識」でもある。そうでない社会を見てみるといい。
経済的に貧しい社会では、働いているのはほとんど女性ばかりで、オトコは酒を呑んだくれたりケンカをしたり、狩りに出掛けては手ぶらで帰ってきたり、ダラダラとみっともなく(?)生きている。日本社会も例外ではない。近代産業的生活習慣が、いつまで続くものやら。
本質的に女性が闘争を嫌い、その代わり社会を固定化させたがるから、女性に決定権のある社会では、いじめやカースト差別がものすごいことになる。それがいいとは言わないが、なくて済ませられる凶行を繰り返すオトコは、つまり破落戸で、社会の迷惑でしかない。
破落戸になりたくないと常に願い続ける自己救済以外に、オトコの救済は無いように思う。
コメント