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論語詳解214子罕篇第九(10)子斎衰の者と*

論語子罕篇(10)要約:後世の創作。孔子先生は喪服を着た人や目の見えない人に対しては、身分にかかわらず丁重に扱いました、と。当時盲人は音楽を専業にしており、音楽の得意な先生は、彼らと深い付き合いがあったことだけは、史実として想像できます。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子見齊衰者冕衣裳者與瞽者見之雖少必作過之必趨

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子見齊衰者冕衣裳者與瞽者/見之雖少者必作過之必趨

  • 「冕」字:〔日免〕。

慶大蔵論語疏

子見〔丿齋〕1(𪗋)234〔山乚〕5〔田日儿〕6(𥦙)7衣裳者4/〔壹皮目〕894/見之〔口衣隹〕10少者4必〔亻𠂉卜一〕11/過之必趨1213

  1. 「𪗋」の異体字。「隋張通妻陶貴墓誌」刻。
  2. 正字。傍記。「唐孔子家廟(陜西本)」刻。
  3. 正字。
  4. 新字体と同じ。正字。
  5. 「此」の異体字。初出は前漢の隷書。
  6. 「冕」の異体字。「隋宮人徐氏墓誌」刻字に近似。
  7. 「冕」の異体字。「隋尉氏女富娘墓志銘」刻。傍記。
  8. 「瞽」の異体字。『敦煌俗字譜』所収字近似。
  9. 「與」の異体字。新字体と同じ。『敦煌俗字譜』所収。
  10. 「雖」の異体字。「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。
  11. 「作」の異体字。「議郎元賓碑」(後漢)刻。
  12. 崩し字で字様の判別困難。注では異体字「趍」と記す。「李翕西狹頌」(後漢)刻。
  13. 重文記号、小さい「二」。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子見𪗋褰者此、冕衣裳者、瞽与者、見之雖少者必作、過之必趨〻。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文見 金文𪗋褰者 金文此 金文 免 金文衣 金文裳 金文者 金文 瞽 甲骨文与 金文者 金文 見 金文之 金文 雖 金文少 金文者 金文必 金文作 金文 過 金文之 金文必 金文趨 金文論語 二 金文

※瞽→(甲骨文)。ただし現行字形とまるで違い、論語の時代には存在しなかった可能性が高い。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「必」「過」の用法に疑問がある。

書き下し

ここ𪗋もすそはかまものば、かぶり衣裳くじぎぬものめしひくみたるものは、これるにわかものいへどかならつくる。これぐるにかなら趨〻はしりはしる。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生はもすそや袴をはいた者に出会うと、それが礼服を着た者、目の見えない連れだったに者たちだと、相手が若かろうが姿勢を正した。その横を通り過ぎる時には、必ずひたすら小走りした。

意訳

同上

従来訳

下村湖人

先師は、喪服を着た人や、衣冠束帯をした人や、盲人に出会われると、相手がご自分より年少者のものであっても、必ず起って道をゆずられ、ご自分がその人たちの前を通られる時には、必ず足を早められた。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子見戴孝的人、穿官服的人、以及盲人,即使是年輕人,也必定站起來;從他們身邊過,必定快走。

中国哲学書電子化計画

孔子は喪服の人、官服を着た人、それと盲人を見ると、たとえ若者でも、必ず立ち止まり、彼らが通り過ぎると、必ず走った。

論語:語釈

子(シ)

子 甲骨文 論語 孔子
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”→”出会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

齊衰(シサイ)→𪗋褰(シケン)

論語の本章では喪服の一種。後世作られた儒教の規定では、喪服にも五等の階級があり、最上級の斬衰の次に重い喪服。麻で作り、裳(もすそ、スカート)を縫い合わせたもの。

斉衰 大漢和辞典

論語の本章は定州竹簡論語に全文を欠いている。まったく同じ語を使った論語郷党篇17には、一部定州竹簡論語が残っているので、本章が焼き直し、郷党篇が元ネタと考えられる。ただし元ネタは注と疏(注の付け足し)が簡素で、本章ほど小バエのように後世の儒者がたかって書き付けてはいない。

次いで古い慶大蔵論語疏は「𪗋褰」と記す。”もすそとはかま”の意。唐石経・清家本では「齊衰」となっており、唐石経を祖本とする現伝論語とは文意が異なることになる。

ただし南朝梁の皇侃(488-545)によって記された疏(注の付け足し)には「齊衰五服之第二者也言齊則斬從可知而大功不預也」とあり、”斉衰は五種類の服の二番目である。斉と読んだのは(裾を)切りそろえてあるからで、それによって(着用者が)喪服を着て悲しんでいることを知る事が出来た”と言う。

慶大蔵論語疏は隋代以前に中国で書写されたとされる。字体を見ると北魏時代(386-534)のものがずいぶんあり、あるいは梁より遡るかも知れない。ただし包咸の注では明らかに「𪗋褰」を”喪服”と解しており、慶大本の文字列は誤っているかも知れない。

しかし物的証拠としては慶大本が古く、また「此」の字が慶大本では加わっているので、動詞「見」の管到(どこまで被修飾語または目的語として持つか)により、漢文の構造的には「𪗋褰」を”喪服”と解するのは難しくなる。

𪗋褰者此
  1. 冕衣裳者
  2. 瞽与者
之雖少者必作、過之必趨〻。
先生は裳や袴をはいた人に此=”目の前で”出会うと
  1. 礼服の者(と)
  2. 連れだっためしいの者
(ならば、)之=”このような人”に出会うと、若くても姿勢を正し、通り過ぎるときにはひたすら小走りした(。それで敬意を示した)。

ゆえに今は慶大本に従って校訂した。めしいの人が袴をはく習慣でもあったのだろうか。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

斉 金文 斉 字解
(甲骨文)

「齊」の初出は甲骨文。新字体は「斉」。「シ」は”ころものすそ”の意での漢音・呉音。それ以外の意味での漢音は「セイ」、呉音は「ザイ」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。

𪗋 篆書 𪗋 字解
(篆書)

齊 斉 異体字 齊 斉 異体字
慶大蔵論語疏は上掲「〔丿齋〕」と記し、「𪗋」と傍記する。前者は「隋張通妻陶貴墓誌」刻。後者は「唐孔子家廟(陜西本)」刻。

物的初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「齊」”縫う”+「衣」。『漢書』で”もすそ”の意に用い、『説文解字』は”縫う”と語釈する。詳細は論語語釈「𪗋」を参照。

衰 金文 衰 字解
(金文)

「衰」の初出は西周中期の金文。字形は藁蓑の象形で、原義は”蓑”。”おとろえる”の意での漢音・呉音は「スイ」。”そぎおとす”の意ではともに「シ」。”もふく”の意では漢音が「サイ」、呉音が「セ」。春秋末期まででは、人名の用例のみが知られる。論語語釈「衰」を参照。

褰 篆書
(後漢隷書)

慶大蔵論語疏は「褰」と記す。「魏邑子二十七人造象」(北魏?)刻。

物的初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「齊」”縫う”+「衣」。『詩経』『楚辞』に”からげる”・”かかげる”の意で用いるが、いつ記されたか分からない。『史記』では”たたむ”の意、『説文解字』は”はかま”の意に用いる。詳細は論語語釈「褰」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~である者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。

此*(シ)

此 甲骨文 此 隷書
(甲骨文)/(前漢隷書)

慶大蔵論語疏は「者」のあとに、上掲「此」の異体字「〔山乚〕」と記す。この字体の初出は前漢の隷書。「此」は現伝の論語では一字たりとも用いていない。初出は甲骨文。字形は「止」”あし”+「人」で、人が足を止めたところ。原義は”これ”。春秋末期までに、人名のほか”それ(をもちいて)”の意に用いた。詳細は論語語釈「此」を参照。

冕(ベン)

免 甲骨文 論語 冕冠
(甲骨文)

初出は甲骨文とされる。ただし字形は「免」と未分化。現行字体の初出は楚系戦国文字。甲骨文の字形は跪いた人=隷属民が頭に袋のようなものをかぶせられた姿で、「冕」”かんむり”と解するのは賛成できない。殷代末期の金文には、甲骨文と同様人の正面形「大」を描いた字形があり、高貴な人物が冠をかぶった姿と解せる。現行字形は「ボウ」”かぶりもの”+「免」”かぶった人”。殷代末期の金文は、何を意味しているのか分からない。春秋末期までに、人名・官職名に用い、また”冠”の意に用いた。詳細は論語語釈「冕」を参照。

冕 異体字
慶大蔵論語疏では「〔田日儿〕」と記し、「𥦙」を傍記している。前者は上掲「隋宮人徐氏墓誌」刻字に近似。後者は「唐張懿墓誌」刻。

本章は含まれていないが、定州竹簡論語では通常「絻」と記す。詳細は論語語釈「絻」を参照。

衣(イ)

衣 甲骨文 衣 字解
(甲骨文)

論語の本章では”上着”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。

裳*(ショウ)

裳 常 金文 裳 字解
(金文)

論語の本章では”もすそ”。下半身を覆うスカートのたぐい。中国では清末まで身分ある者は男女にかかわらずスカートを履いた。初出は春秋中期の金文。ただし春秋末期まで「常」と未分離で、現行字体の初出は楚系戦国文字。「ジョウ」は呉音。春秋中期の金文に「衣常」とあり、「常」は「裳」と釈文されている。詳細は論語語釈「裳」を参照。

瞽*(コ)

瞽 甲骨文 瞽 古文
(甲骨文・古文)

論語の本章では、ひとまず”目が見えない”。

初出は甲骨文。甲骨文の字形は「目」+「針」+「人」。視力の無い人のさま。現行字形は音符「鼓」+「目」でまるで違い、別の字だと考えた方が理屈に合う。甲骨文の後は戦国中末期の「郭店楚簡」まで用例が無い。つまり論語の時代には存在しなかった可能性が高い。

上掲甲骨文はむしろ「叟」”おきな”の字と解した方が理に合い、「瞽」だと言い出したのは10世紀末から11世紀の前半を生きた北宋の夏竦で、孔子から1500年も後の人物であり、その断定が間違いなら、ざっと千年の間、日中の漢文業界人はデタラメを担ぎ続けていることになる。詳細は論語語釈「瞽」を参照。

仮に「叟」だとする訳者のバクチが当たるなら、「瞽者」→「叟者」で老人の意であり、孔子は老人には敬意を示した、と論語の本章は解しうる。

瞽 異体字
慶大蔵論語疏では「〔壹皮目〕」と記し、上掲『敦煌俗字譜』に所収の「瞽」に近似。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”…の集団”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

慶大蔵論語疏では新字体と同じく「与」と記す。『敦煌俗字譜』所収。

三つ以上の物事を列挙する際には、英語同様、「A、B、與(and)C」の語法で用いられている。

與瞽者(とめしいのもの)→瞽與者(めしいのくみたるもの)

現存最古の論語版本である前漢宣帝期の定州竹簡論語は本章を欠き、次いで最古の慶大蔵論語疏は、現伝「與瞽者」を「瞽與者」と記している。前者は”それとめしいの者”の意だが、後者は「與」を”くみ”と解するのが妥当で、”めしいの連れだった者たち”の意。

第一次大戦で、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けて視力を失った英兵が、前人の肩につかまりつつ列になって歩く気の毒な写真が残るが、春秋の昔も視覚障害者は同様に通りを歩いたのだろうか。

©Thomas Keith Aitken,via Wikipedia

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

雖 異体字
慶大蔵論語疏は上掲異体字「〔口衣隹〕」と記し、「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。

少(ショウ)

少 甲骨文 少 字解
(甲骨文)

論語の本章では”若い”。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɕi̯oɡ(上/去)。字形は「∴」で”小さい”を表す「小」に一点足したもので、細かく小さいさま。原義は”小さい”。金文になってから、”少ない”、”若い”の意を獲得した。詳細は論語語釈「少」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

作(サク)

作 甲骨文 作 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(姿勢を)作る”→”敬意を示す”。”立ち上がって敬意を示す”と言い出したのは前漢末~新の包咸で、根拠を書いていないから賛成できない。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「作」を参照。

作 異体字
慶大蔵論語疏は上掲異体字「〔亻𠂉卜一〕」と記す。「議郎元賓碑」(後漢)刻。

過(カ)

過 金文 過 字解
(金文)

論語の本章では”通り過ぎる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。

趨*(シュ)

趨 金文 趨 字解
(金文)

論語の本章では、”小走りする”。初出は西周早期の金文。字形の左と上は「大」+「止」=「走」だが、右を「芻」”草引きをするさま”とするのは儒者のデタラメで受け入れがたい。「十」二つの意味するところは不明だが、おそらく右端の傾いた「𠙵」”くち”から出た”命令”を示し、全体で命じられて使いに走るさま。「スウ」は慣用音。呉音はス(平)、ソク(入)。春秋末期までの用例は人名のみが確認出来、明確に”はしる”と解せる用例は戦国時代まで時代が下る上に、字形が「趣」で全く異なる。詳細は論語語釈「趨」を参照。

慶大蔵論語疏は崩し字で記し字様の判別困難。注では異体字「趍」と記す。「李翕西狹頌」(後漢)刻。

〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期

慶大蔵論語疏は「趨」字の後ろに重文号(繰り返し記号)として小さく「二」を記し、現行では「〻」と記す。よって「趨〻」で”走りに走る”の意。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、現存最古の論語の版本である、前漢中期の定州竹簡論語に無く、春秋戦国時代を含めた先秦両漢の文献に全く引用が見られない。論語の時代に「瞽」の字が存在した可能性は極めて低く、「齊衰」なる喪服が論語の時代にあった物証が無い。

また現存最古の版本である慶大蔵論語疏に従えば、「齊衰」はもと「𪗋褰」とあって全く意味が異なり、二字とも論語の時代には遡れない。

従って論語の本章は、事実上の初出が後漢末~南北朝の古注『論語集解義疏』で、そこに前漢末~新の包咸が注を付けているから、前漢末までには論語の一章として存在したのだろうが、史実とは断じがたい。

漢代の礼儀作法では、貴人の前では小走りするのが礼だったが、戦国時代までの物証では、「趨」の字をもって”小走りする”を表したものがない。

おそらく本章は、前漢になっていわゆる儒教の国教化が進められる中で、儒教に煩瑣な礼儀作法を偽作して押し込んだ董仲舒一派による偽作と考えるのが理に叶う。

董仲舒
董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

解説

論語・郷党篇から抜け落ちたような記述で、サク簡(文字を記した札が抜け落ちて別の箇所に挿入されること)かも知れない。

竹簡

論語の本章は、孔子が貴人に加え、親族の喪に悲しむ人や目の見えない人を、丁重に扱ったことを示しているが、史実なら理由の一つが孔子の人道主義にあることは疑いない。しかし盲人以外の障がい者についての言及がないから、その人道の範囲にも限りがあったことになる。

「そんなこといちいち書いていられないよ」というのが偽作者の本音だったろう。

盲人を特別丁重に扱った理由は、孔子が音楽好きであり、当時盲人が務めた楽師との交流が深かったことに関わるだろう。しかしもう一つ、孔子の出自を考えると、孔子の母は巫女であり、所属の呪術集団には当然盲人の楽師がいただろうことだ。楽師に限らないかも知れない。

現代日本のイタコも、盲人が務める。孔子が出るまでの儒者は、イタコを兼ねていたから、楽師ではない盲人も少年孔子の身近にいただろう。また東北アジアでは盲人はまた語り部でもあり、孔子の古典学の基礎は、そうした語り部たちの話から養成されていったと想像できる。

仕官後の孔子はれっきとした上級貴族だったが、出身は社会の底辺と言って良く、弟子たちの多くもまた庶民の出だった。山賊を数多く弟子にしたとも『史記』孔子世家は書いている。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子見齊衰者冕衣裳者與瞽者註苞氏曰冕者冕冠也大夫之服也瞽者盲者也見之雖少者必作過之必趨註苞氏曰作起也趨疾行也此夫子哀有喪尊在位恤不成人也


本文。「子見齊衰者冕衣裳者與瞽者。」
注釈。包咸「冕とは天辺が平らな冠である。家老階級以上がかぶる。瞽者とは目の見えない人のことである。」

本文。「見之雖少者必作過之必趨。」
注釈。包咸「作とは起立することである。趨とは走って進むことである。本章は、孔子先生が喪中の者を憐れみ、身分ある者を貴び、若者を可愛がった話である。」

上掲は「中国哲学書電子化計画」から引用したが、慶大蔵論語疏によて「齊衰」→「𪗋褰」へと改めるべきなのは上記の通り。

新注『論語集注』

子見齊衰者、冕衣裳者與瞽者,見之,雖少必作;過之,必趨。齊,音咨。衰,七雷反。少,去聲。齊衰,喪服。冕,冠也。衣,上服。裳,下服。冕而衣裳,貴者之盛服也。瞽,無目者。作,起也。趨,疾行也。或曰:「少,當作坐。」范氏曰:「聖人之心,哀有喪,尊有爵,矜不成人。其作與趨,蓋有不期然而然者。」尹氏曰「此聖人之誠心,內外一者也。」


本文。「子見齊衰者、冕衣裳者與瞽者,見之,雖少必作;過之,必趨。」
齊は咨の音で読む。衰の字は、七-雷の反切である。少は、尻下がりに読む。齊衰とは、喪服のことである。冕とは冠である。衣は上着である。裳はスカートである。冕と衣裳を身につけるのは、貴人の盛装である。瞽とは、目の見えない人である。作とは起立することである。趨は、走って行くことである。

ある人「少の字は、坐の字の間違いである。」

范祖禹「聖人の心は、喪中を憐れみ、貴人を貴び、若者を可愛がった。立ち上がったり走ったりしたのは、たぶん思わず出会った人に対してだろう。」

尹焞「この話は聖人のまごころが、態度と一致していたことを示す。」

余話

マウンテンホワイト

うちに帰るまでが遠足だからね

漢字には、論語の本章「瞽」字のように、甲骨文があるものの、その後は戦国文字からみられるなど、間が空いた字が少なからずある。ざっと500年は穴が開いていることになり、漢字は文字であると同時に単語の記号でもあるから、その間その言葉を使っていた証拠が消える。

つまり言葉そのものが無かったことになるのだが、なぜこのようなことが起きるのか。一つには殷周革命が、言語が変わるほどの大きな革命だったことによる。殷までの漢語は、「帝辛」など被修飾語→修飾語の順だが、周以降は「文王」のように、語順が逆になった。

原則として格変化が無く、助詞や前置詞も無い漢語では、語順は語の役割を示す決定的な要素で、どちらもある英語でさえ、ブルーマウンテンとマウンテンブルーでは意味するところが全然違う。漢語でこれが滅茶苦茶になった理由は、儒者や漢学教授の出鱈目だった。

フランス語で白い山をモン”山”・ブラン”白い”といい、英語だとホワイト・マウンテンになるのだろうが、同じ印欧語族でも、英語とフランス語程度の違いが殷周の漢語にはあったことになる。つまり革命によって一旦忘れられた言葉が、間を置いて再発明されたということだ。

この場合、発音や字形が違っても不思議は無い。似た概念を表しても、別の言葉と断じた方がいいかも知れない。となると論語の本章「瞽」字の初出は、甲骨文とするよりも、戦国文字とする方が正しいことになる。英語でクリムゾンとレッドを同語とするようなものだからだ。

つまり、ある甲骨文の字形に「これは現在の○字の甲骨文だ」と比定した中国の文字学者を、鵜呑みにしてはいけないということだ。日本の漢学業界の出鱈目も相当だが、中国の同業は独裁政権下というゆがみの発生源があるのに相まって、全き信用を置くわけにいかない。

一例を論語解説・漢和辞典ソフトレビュー#漢語多功能字庫に記した。権威が言ったらその通り猿真似するので終わるのなら、サルに生まれればよかったので、人間に生まれたかいがない。自分の足で歩いたから、歩いたと確信が持てるのだから。

うちに帰るまでが遠足だ、と言う。自分で元データに当たらないと、科学的な研究とは言えない。ルイセンコ論争のような愚劣から解放されない限り、登頂はしたが下山で遭難しました、のと同じだし、見ていないものを「見た見た」と世間にウソをつかねばならない。

手間暇掛けてそんな気持ち悪いこと、訳者はしたいと思わない。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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