論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
顔淵死顔路請子之車以爲之椁子曰才不才亦各言其子也鯉也死有棺而無椁吾不徒行以爲之椁以吾從大夫之後不可徒行也
- 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱。
校訂
武内本
清家本により、不の下可の字を補う。後の下吾以の字を補う。唐石経車下、以爲之椁の句あり。鯉下也の字あり。槨、椁に作る。吾不の下可の字なく、後の下吾以二字なし。
東洋文庫蔵清家本
顔淵死顔路請子之車/子曰才不才亦各言其子也鯉也死有棺而無槨吾不可徒行以爲之槨以吾從大夫之後吾以不可徒行也
- 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。
- 「鯉也」:「也」字傍記。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
顏淵死,顏路請子之[車]□□□□孔a子曰:「材b不材,266……言其子也。鯉也c死,有棺d無郭e。吾不f徒行以為之郭。267……從大夫之後也g,吾h不可268……
- 孔、今本無。
- 材、今本作”才”。可通。
- 也、高麗本無。
- 今本”棺”下有”而”字。
- 郭、阮本作”椁”、皇本作”槨”。郭、椁通槨。
- 皇本、高麗本”不”下有”可”字。
- 也、今本無。
- 吾、阮本無”吾”字、皇本、高麗本”吾”下有”以”字。
標点文
顏淵死、顏路請子之車以爲之椁。孔子曰、「材不材、亦各言其子也。鯉也死、有棺無郭。吾不徒行以爲之郭、以吾從大夫之後也、吾不可徒行也。」
復元白文(論語時代での表記)
棺
※請→青・槨→郭・材→才・鯉→里。論語の本章は「棺」の字が論語の時代に存在しない。「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
顏淵死ぬ。顏路、子之車を請ひて以て之が椁を爲らむとす。孔子曰く、材あるも材あら不るも、亦た各其の子を言ふ也。鯉也死に、棺有りて郭無かりき。吾徒行きして以て之が郭を爲ら不りしは、吾大夫之後に從ふを以て也。徒行きす可から不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
顔淵が死んだ。父親の顔路が、先生の車を貰い、その部材で外棺を作りたいと願った。先生が言った。「才能がある無いと言うのも、それぞれ自分の子について言うなあ。息子の鯉が死んだ時、内棺は作れたが外棺は無かった。私が歩いて出かけることで息子の外棺を作らなかったのは、私が家老の末席に加わっていたから、歩いて出かける訳にはいかなかったからなあ。」
意訳
顔淵(顔回)が死んだ。
父親の顔路「先生、車を頂戴できませぬか。」
孔子「車をどうする?」
顔路「部材で外棺を作りたいと存じます。貧しくて作れぬのです。」
孔子「ああ、気持ちはよく分かる。顔回のように出来のいいのも、愚息のように出来の悪いのも、共に父親にとっては息子には違いないのだよ。愚息の時も外棺が作れなかった。だが私は家老の末席にいるから、車なしで歩いて出歩くわけにはいかない。こたびも申し訳ないが…。」
従来訳
顔渕が死んだ。父の顔路は彼のために外棺を造ってやりたいと思ったが、貧しくて意に任せなかった。そこで先師に願った。――
「先生のお車をいただけますれば、それを金にかえて、外棺を作ってやりたいと存じますが……」
すると先師はいわれた。――
「才能があろうとなかろうと、子の可愛ゆさは同じだ。私も子供の鯉りが死んだ時には、せめて外棺ぐらい作ってやりたい気がしないでもなかった。しかしついに内棺だけですますことにしたのだ。私がその時、徒歩する覚悟にさえなれば、車を売って外棺を作ってやることも出来ただろう。しかし、私が敢てそれをしなかったのは、私も大夫の末席につらなっているので、職掌から、徒歩するわけに行かなかったからなのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
顏淵死,顏淵的父親顏路請孔子賣車給顏淵做槪,孔子說:「有才無才,都是兒子。我的兒子孔鯉死時,有棺而無槪我不賣車步行為他做槨,因為我做過大夫,不可以步行。」
顔淵が死んで、顔淵の父である顔路が孔子に、車を売って顔淵の体裁を整える費用を下さいと願った。孔子が言った。「才の有るも無いも、どちらも子供だ。我が子孔鯉が死んだとき、ひつぎは用意できたが体裁は整えられなかった。私も車を売って歩くことにはせず、あれの棺覆いを作らなかった。なぜなら私は家老になっていたから、歩いて出かけるわけにいかなかったからだ。」
論語:語釈
顏 淵 死、顏 路 請 子 之 車 以 爲 之 椁 。孔 子 曰、「材(才) 不 材(才)、亦 各 言 其 子 也。鯉 也 死、有 棺 (而) 無 郭(椁)。吾 不 徒 行 以 爲 之 郭(椁)、以 吾 從 大 夫 之 後 也、吾 不 可 徒 行 也。」
顏淵(ガンエン)
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。
『孔子家語』などでも顔回を、わざわざ「顔氏の子」と呼ぶことがある。後世の儒者から評判がよく、孔子に次ぐ尊敬を向けられているが、何をしたのか記録がはっきりしない。おそらく記録に出来ない、孔子一門の政治的謀略を担ったと思われる。孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。詳細は孔子の生涯(1)を参照。
「顏」(金文)
「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。
「淵」(甲骨文)
「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。
「上海博物館蔵戦国楚竹簡」では「淵」を「囦」と記す。上掲「淵」の甲骨文が原字とされる。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死去した”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
顏路(ガンロ)
論語の本章では、顔回子淵の父親の名。『史記』弟子伝ではいみ名(本名)は「顏無繇」、あざ名は「路」とあるが、いみ名が二文字なのは春秋時代な漢語としては異例。『史記』よりやや時代が下り、論語と同様定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』では、いみ名は「顏由」、あざ名は「季路」。漢字1字で1意を示す春秋時代の名乗りとしては、むしろこちらの方が通例。
「季路」とは”末っ子の路さん”を意味する敬称で、通説では孔子の最も早くからの弟子とされる仲由子路の別名だが、「仲由」”次男坊の由さん”と理屈が合わない。「季路」を「子路」だと言い出したのは、孔子没後967年後に生まれた、古注『論語集解義疏』に「疏」”付け足し”を書き付けた南朝梁の皇侃であり、とうてい信用するに値しない(論語公冶長篇25)。
班田収受で日本史にも出る「繇」の字は「䌛」の字形で西周中期の金文から見えるが、地名とみられ語義が不明。1件のみ「𧲩」”むじな”と釈文されている。『大漢和辞典』に”みち”の語釈があり、あざ名「路」と対応する。カールグレン上古音はdi̯oɡ(平)で「遥」と同音同調。
息子の「顏淵」は「上海博物館蔵戦国楚竹簡」から見えるが、「顏路」の名は甲金文・戦国竹簡に見えない。文献上の初出は定州竹簡論語の論語の本章で、やや先行する『史記』弟子伝にも名が見える。つまり漢代にならないと名が現れない人物で、実在はしないと顔淵が世に居なくなるが、あざ名が「路」であったとするのは疑わしい。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した詳細は論語語釈「路」を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章、「子之車」「子曰」では”(孔子)先生。「言其子」では”子息”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章、「子之車」「大夫之後」では”…の”。「之槨」では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
車(シャ/キョ)
(甲骨文)
論語の本章では”くるま”。初出は甲骨文。甲骨文・金文の字形は多様で、両輪と車軸だけのもの、かさの付いたもの、引き馬が付いたものなどがある。字形はくるまの象形。原義は”くるま”。甲骨文では原義で、金文では加えて”戦車”に用いる。また氏族名・人名に用いる。「キョ」の音は将棋の「香車」を意味する。詳細は論語語釈「車」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では「以爲」では”用いて”。「以吾」では”…だから”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”作る”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
椁(カク)→槨(カク)・郭(カク)
論語の本章では”棺を覆う木箱”。
唐石経は「椁」と記し、清家本は「椁」の異体字「槨」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「郭」と記す。清家本の年代は唐石経よりも新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。よって定州本、次いで清家本に従い校訂した。一章の中に「椁」「郭」が混在することになるが、このような例は定州本の他章に見えるし、新たな物証が発掘されるまでは混在にとどめるのに理があると判断した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(戦国金文)
「椁」「椁」は論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。字形は「享」+「木」。「享」は盛り土の上に建てたかどので、集落を囲む城壁のやぐら。「槨」は木で造った城壁。転じて、棺を多う木箱の意に用いた。唐石経が記す「椁」の初出は戦国時代の金文。同音は「郭」のみ。戦国末期では城壁を司るのを家職とする人名か。戦国最末期「睡虎地秦簡」から、棺を多う木箱の意に用いた。論語時代の置換候補は同音の「郭」。詳細は論語語釈「槨」を参照。
(甲骨文)
「郭」の初出は甲骨文。ただし字形は「享」。字形はたかどのの象形。甲骨文では、地名・人名と思われる例が見られる。春秋中期にも人名と思われる例がある。戦国の竹簡では、”城郭”の意に用いた。詳細は論語語釈「郭」を参照。
中国貴族の棺桶は二重で、外棺を槨という。槨そのものは陝西省宝鶏市の秦公一号大墓など、春秋時代にも存在が確認されており、また百度百科によると、次のような「椁」の甲骨文・金文・篆書を載せている。ただしご覧の通り見るからに三文字コピーでいい加減であり、信用できるとは言いかねる。
以爲之椁(もってこれがうはひつぎをつくる)
唐石経:以爲之椁
清家本:(なし)
定州本:
定州本の判別不能四文字を唐石経の文字列だったと判断した。
子(シ)→孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子先生”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
現伝論語では「子」と記し、前漢中期の定州竹簡論語では「孔子」と記す。論語で「孔子」と記される場合、対話者が同格の大夫階級や、目上の国公や家老である場合が多い。本章の顔淵の父・顔路は、前漢中期では孔子より同格以上の人物と見なされていたことを物語る。
現代日本的感覚でも、塾教師にとって生徒の両親は「親御さん」であり、自分と同格以上の存在と見なすのは肯定できる。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
才(サイ)→材(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”才能”。初出は甲骨文。字形は地面に打ち付けた棒杭による標識の象形。原義は”存在(する)”。金文では「在」”存在”の意に用いる例が多い。春秋末期までの金文で、”才能”・”財産”・”価値”・”年”、また「哉」と釈文され詠嘆の意に用いた。戦国の金文では加えて”~で”の意に用いた。詳細は論語語釈「才」を参照。
(楚系戦国文字)
定州竹簡論語では「材」と記す。現伝論語では論語公冶長篇6のみに登場。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「才」。「ザイ」は呉音。同音に才とそれを部品とする漢字群。うち「才」につき『大漢和辞典』は『集韻』を引いて、「通じて材に作る」という。ただし春秋時代以前の「才」にその語義は確認できないが、原義は”棒杭”。詳細は論語語釈「材」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
亦(エキ)
(金文)
論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。字形は人間の両脇で、派生して”…もまた”の意に用いた。”おおいに”の意は甲骨文・春秋時代までの金文では確認できず、初出は戦国早期の金文。のちその意専用に「奕」の字が派生した。詳細は論語語釈「亦」を参照。
各(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”それぞれ”。初出は甲骨文。初出は甲骨文。字形は「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、人がやってくるさま。原義は”来る”。甲骨文・金文では原義に用いた。”~に行く”・”おのおの”の意も西周の金文で確認できる。詳細は論語語釈「各」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その者の”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「其子也」「徒行也」では「なり」と読んで断定”~である”の意。「鯉也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
鯉(リ)
(石鼓文)
論語の本章では、孔子の一人息子・孔鯉。初出は春秋末期の石鼓文。字形は「魚」+「里」で、「里」は音符。原義は”コイ”。上古音は「里」と同じ。論語里仁篇1では「里」と書かれて、やはり孔子の一人息子・孔鯉を意味する。詳細は論語語釈「鯉」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”ある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
棺*(カン)
(戦国金文)
論語の本章では”ひつぎ”。論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は「㭒」の配置が左右で転じたもの。「㠯」はここでは農具のスキではなく、箱の象形。戦国最末期の秦系戦国文字から「宀」が付き現行字形となる。同音は官とそれを部品とする漢字群など多数。『大漢和辞典』で「ひつぎ」の訓があり、かつ春秋時代以前に用例があるのは「喪」と「木」だけで、甲金文で前者の用例は”失う”・”葬儀”のみ、後者は”ひつぎ”と解せる用例が無い。従って論語の時代、”ひつぎ”を何と呼んだか分からない。詳細は論語語釈「棺」を参照。
而(ジ)→×
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
定州竹簡論語では欠く。無くても文意は変わらない。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
徒*(ト)
(甲骨文)
論語の本章では”徒歩で出掛ける”。初出は甲骨文。字形は「土」+「水」+「夂」”足”。原義は不明。甲骨文の用例は多くが破損がひどく語義が分からない。春秋末期までに、”家来”・”駆け回る”・”歩兵”・”無駄に”の意に用い、その他西周の金文では、「司土」と記して「司徒」”役人の頭→宰相”と釈文する例が多い。詳細は論語語釈「徒」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
吾不徒行(われかちゆきせざるは)
唐石経:吾不徒行
清家本:吾不可徒行
定州本:吾不徒行
定州本に従い、「可」字がないものと解釈した。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”→”一員に列なる”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
大夫(タイフ)
(甲骨文)
春秋時代の領主貴族のこと。諸侯国の閣僚級の仕事に就いた。邑(都市国家)の領主である「卿」(郷)の下位で、領地を持たない貴族である「士」の上位。詳細は春秋時代の身分秩序を参照。辞書的には論語語釈「大」・論語語釈「夫」を参照。
一例として崔杼は斉の大夫であり、実権を握っていたがあくまでその地位は大夫に過ぎず、江戸期の日本で言うなら老中筆頭であり、大老ではなかった。楚の令尹が、明確に楚王の代理人で宰相だったのとは事情が異なる。従って本サイトでは、「令尹」は「おほおみ」と訓読したが、「大夫」は「おとど」と訓読して解釈を分けた。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”末端”。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。可能の意を示す。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
吾不可徒行也(われかちゆきすべからざるなり)
唐石経、清家本では句末に「也」が付く。現存最古の定州竹簡論語では「吾不可」以降の部分が欠損している。日本伝承本では正平本以降に「以」字が加わり、本願寺坊主の手になる文明本以降は句末の「也」字を欠く。両者とも同時代の中国伝承本を参照した結果とは言えず、独自の改変ということになる。中国伝承本では、宋代の『論語注疏』は唐石経の文字列を踏襲し、清代に日本から逆輸入した『論語集解義疏』では日本天保年間の根元本と同様「吾以不可徒行」と記す。
以上から定州本と清家本を合成し、最も古い形と思われる「吾不可徒行也」へと校訂した。
中国 | 定州竹簡論語 | 吾不可… |
国会図書館蔵唐石経拓本 | 不可徒行也 | |
宮内庁蔵南宋本『論語注疏』 | ||
四庫全書・知不足齋本『論語集解義疏』 | 吾以不可徒行 | |
日本 | 東洋文庫蔵清家本 | 吾不可徒行也 |
国会図書館蔵正平本 | 吾以不可徒行也 | |
龍谷大学蔵文明本 | 吾以不可徒行 | |
鵜飼文庫根本本 | ||
懐徳堂本 | 不可徒行 |
日本大正年間の懐徳堂本の校勘記には「不可歩行故也」と題し「桃華齋本也上無故字、諸本竝有」とあるが、「也」の抜けた理由は記していないし、「故」のある「諸本」を訳者は見ていない。懐徳堂本巻六本文は「不可徒行」と記す。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、それよりやや先行する『史記』弟子伝にほぼ同文が載る。「棺」は存在しなかったはずがないが、当時の漢語で何と呼んだか分からない。内容的には孔子の教説と矛盾が無く、史実の孔子の言葉と思いたいが、論語の時代における「棺」字の不在はどうにもならず、戦国時代の偽作と判断するしかない。
ただし本章で引っかかるのは「棺」の字だけで、それ以外は論語の時代に遡りうるから、一部は史実と伝えている可能性がある。
解説
なお結局は車を提供したらしいことが、論語衛霊公篇26に見えるが、後世の偽作が確定している。新古の注を付けた儒者は、共に「孔子の車を売って金を作り、それで外棺を買う」と解している。本章を創作した漢代ではそのような調達は可能だっただろう。
ただ孔子生前の春秋時代後半、貨幣が存在した記録は極めてか細い。南方の楚国に品位を保証する極印のある金塊があったが、いわゆる秤量貨幣で物々交換に近い。タカラガイが貨幣の代わりをしたのは漢字のへんが示し、それで青銅を買ったと鋳込んだ金文があるが、葬儀の急に間に合うよう、車を外棺に化けさせられるほど、商工業が発達していたかどうか。
それより手っ取り早く、車を解体して部材で外棺を作ると考えた方が、論語の時代の社会には似合うのだが、本章で「棺」の論語時代における不在がどうにもならない以上、偽作した漢儒の心象風景に従って解釈するのが妥当だろう。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
顔淵死顔路請子之車以為之槨註孔安國曰顔路顔淵之父也家貧故欲請孔子之車賣以作槨子曰才不才亦各言其子也鯉也死有棺而無槨吾不可徒行以為之槨以吾從大夫之後吾以不可徒行註孔安國曰鯉孔子之子伯魚也孔子時為大夫故言吾從大夫之後不可以徒行是謙之辭也
本文「顔淵死顔路請子之車以為之槨」。
注釈。孔安国「顔路は顔淵の父である。その家計は貧しくだから孔子の車を売って外棺を買う費用にして下さいと頼んだ。」
本文「子曰才不才亦各言其子也鯉也死有棺而無槨吾不可徒行以為之槨以吾從大夫之後吾以不可徒行」。
注釈。孔安国「鯉は孔子の子で伯魚のことである。孔子はこの時大夫だったから、”私は大夫の末席に列なるので徒歩で出掛けるわけにいかない”と答えた。これは謙遜して言ったのである。”
愛弟子の父親が「車を売って葬儀の費用を融通して下さい」と頼んだ答えに、「ワシは大夫じゃから徒歩で出掛けるわけにいかぬ」と言ったのがどうして「謙遜の辞」になるか誰にも分からない。だがそもそも孔安国は高祖劉邦の名をはばからないから架空の人物であり(論語郷党篇17語釈)、でっち上げた後漢儒はデタラメの常習犯だったから(後漢というふざけた帝国)、何でそうなるか考えるだけ無駄。新注を参照して”大夫の末端”と言ったのが謙遜と解するのが適当なのだろうが、原文にはそのように書いていない。
そもそも孔子は出自も分からない社会の底辺の出身で(孔子の生涯1)、その能力を門閥家老に買われて、法相を経て宰相格となった。あくまで「格」であり正式な宰相でない事情は、『史記』孔子世家も「孔子攝相事」”孔子は宰相の仕事を代理で務めた”と記している。
従って”大夫の末端”であるのは謙遜ではなく事実で、「謙遜だ謙遜だ」と言い回るのは後世の儒者のゴマスリに過ぎない。
新注『論語集注』
顏淵死,顏路請子之車以為之槨。顏路,淵之父,名無繇。少孔子六歲,孔子始教而受學焉。槨,外棺也。請為槨,欲賣車以買槨也。子曰:「才不才,亦各言其子也。鯉也死,有棺而無槨。吾不徒行以為之槨。以吾從大夫之後,不可徒行也。」鯉,孔子之子伯魚也,先孔子卒。言鯉之才雖不及顏淵,然己與顏路以父視之,則皆子也。孔子時已致仕,尚從大夫之列,言後,謙辭。胡氏曰:「孔子遇舊館人之喪,嘗脫驂以賻之矣。今乃不許顏路之請,何邪?葬可以無槨,驂可以脫而復求,大夫不可以徒行,命車不可以與人而鬻諸市也。且為所識窮乏者得我,而勉強以副其意,豈誠心與直道哉?或者以為君子行禮,視吾之有無而已。夫君子之用財,視義之可否豈獨視有無而已哉?
本文「顏淵死,顏路請子之車以為之槨。」
顔路は顔淵の父であり、いみ名は無繇。孔子より六歲若く、孔子が塾を開いたときから学問を教わった。槨は外棺である。請為槨というのは、車を売って槨を買って下さいと言ったのである。
本文「子曰:才不才,亦各言其子也。鯉也死,有棺而無槨。吾不徒行以為之槨。以吾從大夫之後,不可徒行也。」
鯉は、孔子の子の伯魚である。孔子に先立って世を去った。ここで孔子が言った意味は次の通り。孔鯉の才能は顔淵に及ばなかったが、(顔淵は)わたし孔子と顔路をともに父親と見なしていた。だからどちらも自分の子に違いない。孔子はこの時宮仕えを辞めていたが、身分は大夫の一員のままだった。”一員の末端に列なる”と言ったのは、謙遜の言葉である。
胡寅「孔子は、なじみの者の屋敷で葬儀があったのにたまたま出くわしたとき、車の引き馬の一頭を外して贈ったことがある(『孔子家語』子貢問13)。だがここでは顔路の願いを退けた。なぜか? 外棺なしでも葬儀はできる。馬を一頭外してもまた買えばいい。だが大夫が徒歩で出歩くわけにはいかない。車を市場で売りに出すわけにはいかない。それに知人が貧乏して頼み事をしたら、できるだけ応えてやるのが当然で、それがまじめで真っ直ぐというものではないか? あるいは君子の作法として、自分をどう評価したかで相手との付き合いを変えるものだ。君子が自分の財産を使うのは、そういう義理に叶っているかどうかを考えるもので、財産のあるなしだけで判断するだろうか?」
胡寅はろくでなしが多い宋儒の中でも極めつけの悪党で、他人の悪口を言っては官職をあさり、国の危機にはさっさと逃げた。だが言っていることのわけのわからなさは宋儒の通例から外れていない。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
蕎麦食いいねえ
後世の儒者は孔子に関わる誰彼も一緒くたに弟子にしてしまい、史実では孔子の先達で、通説では孔子のライバルだった陽虎まで弟子にしてしまっている(論語陽貨篇1)。こういう馬鹿馬鹿しいゴマスリを取り除かないと万年たっても論語を正しく読めない。
- 論語雍也篇9余話「漢文の本質的虚偽」
少なくともここ二千年間は、儒者や漢学教授は論語に書き付けられたデタラメを奉じて疑わなかった。その結果本章でわざわざ漢儒が「孔子曰」と記し、対話の相手が孔子より格上であるのを示したのを無視している。教師が弟子の「親御さん」を尊称するのは当たり前なのに。
顔淵の父顔路は「親御さん」である以上に、孔子の母親・顔徴在の同族で、孔子を貴族へと押し上げた力の一端を担っていた(孔門十哲の謎)。「孔子より六歲若く」と新注が言う元ネタは定州竹簡論語と同時期の『孔子家語』に「少孔子六歲」とあることによる。
だが孔子没後五百年の記録では年齢の高低は分からないと言うべきで、上記語釈の通り「顏無繇字路」と『史記』が言うあざ名はともかく、二文字のいみ名「無繇」は春秋時代の漢語ではない。結局顔淵の父親がどのような人物だったかは全く記録が無いと断じるべきだろう。
ただ孔子と並んで息子に先立たれたというのは、史実を疑うべき根拠が無い。現代では想像も付かないが、ほんの半世紀ほど前まで、人類にとってささいな怪我が命を落とす原因となり、飢餓はむしろ常態だったから、年齢順に世を去るのを当たり前と見なすことが出来なかった。
顔淵が「簞食瓢飮、陋巷に在り」と論語雍也篇11で貧乏人扱いされているのは後世の偽作だが、中流以上の生活でも当たり前に飢餓が襲った。古代から近代にかけての飢餓とはその地域からまるごと食料が消えて無くなる。鉄道が出来るまで、事実上食料の配給は出来なかった。
中華帝国は隋代に大運河を開通させて華北と華南の流通を可能にしたが、運河沿いに食料を運ぶことは可能でも、そこから離れた地域には手当は不能だったと見るべきだ。また運河も船曳き人足が必要で、その食料に当てていたらみるみるうちに積み荷の穀物が減っていく。
その上官有物資の横領は各級役人の当然の「権利」と見なされていたから、上は担当大臣から下は現場監督まで、大っぴらにかっぱらう。そのかっぱらいの輸送にもコストが掛かったから、結局現地に居る誰それに売り払われ、元は山のような食糧も半分ほどがワイロに化ける。
家畜に駄積しても車を牽かせても、「牛飲馬食」で人間以上には食料が目減りする。「草を食わせればいいではないか」とも思うが、牛馬も草にはえり好みがあり、種によっては草を食べない。ナポレオンの騎兵がロシア騎兵に負けたのは、草を食わない馬種だったからとも言う。
食いつけないものを喰うのを嫌がって飢え死にするのは、牛馬ばかりでなく人間も同じ。
白パン食いのフランス人に勝ったロシア人は、古来黒パンよりむしろソバをкаша「カーシャ」”粥”に煮て主食にしてきた。豆を除く穀物で唯一イネ科でなくタデ科のソバは、中国南部が原産とされるが、むしろ乾燥した亜寒帯を好む。ロシア人の常食になったのは理の当然。
ところが「蕎」の字が原産地・中国の先秦時代にに見えない。『大漢和辞典』で「そば」の訓がある漢字は「蕎」だけで、先史から秦代までの中国人が、ソバをどう呼んだかわからない。しかも初出で前漢ごろの『爾雅』は「蕎は邛鉅なり」というだけ。
つまりそれまで「蕎」が何を指したかも分からない。「薬草だ」と言い出したのは、注を付けた北宋の邢昺で、宋儒の出任せのひどさは、これまでたびたび記したとおり。だがwiki中国語版によると、中国でのソバの栽培は紀元前5,000年より前に始まっているという。
ゆえに殷周春秋戦国人が食べなかったとは思えない。漢籍で主要穀物とされる「五穀」は、儒者がそれぞれ勝手なことを言っているため対象が分からないが、いずれもソバは入っていない。対して日本では、9,000年前の高知県の遺蹟から、ソバの花粉が見つかっているという。
日本人はソバをいわゆる麺のソバ切りにして食べるが、古くはそばがきと言ってすいとんにして食べた。wiki日本語版によると、ソバ切りが確認できる最古の文献は天正年間で、織田信長の最盛期に当たる。場所は信州木曽郡と言うから、信州そばが発祥ということになる。
対して中国人は長い間、ソバを粥にして食べてきた。今では朝鮮冷麺と同じく、トコロテン式に麺として食べるのもあるようだが、余り好まれていないらしい。中国では前世紀末まで食糧が配給制だったが、その区分でソバは「粗糧」とされ、精白米や小麦粉より下等とされた。
その記憶から嫌がるらしい。中国人は燕の巣やフカヒレのコリコリを好むように、噛んで反応があるのを好むのだが、たしかにソバは単に煮ただけでは、大麦と同様にパサパサとあっさりして味気ない。モチモチしたそばが食べたければ、石臼で挽いて粉にする手間が要る。
それに沿いネットのそばがきのレシピは、つなぎ無しで作るとするし、チベットのツァンパ*同様、椀にソバ粉と熱湯を注いで練るだけと言う。ただ陋宅では品種が違うのか製粉が粗いのか、ただ粉にしただけの粥は、湯の下に沈んだ砂を食べているよう**で食味が悪い。
中国人同様に関西人がうどんを好みソバを敬遠するのは、同様の理由なのだろうか。訳者若年時に大阪を訪ねた際、現地の友人に連れられたうどん屋で反射的にソバを注文して、「アカンやろ」と叱られた。店のおばちゃんは誇り高く「ソバ、ええよ」と言って出してくれたが。
江戸学の祖である三田村鳶魚『江戸っ子』によると、江戸っ子がソバを好むようになった背景は、彼らが肉体労働するからで、太っていては仕事が出来ないから、食う量は少なくし、そのかわり食うものを選んだからだと言う。そしてソバは「畢竟は安いからです」とある。
加えて江戸も宝暦年間(1751-1764。将軍は吉宗の子の家重、家治)までは「蕎麦屋」と言わず、「饂飩屋」が品書きとしてソバを出していたと言う。上方の都会人もおおかたは肉体労働していたのだから、それを理由に江戸でソバが流行る道理は怪しいと言うしかない。
つまり中国の流通と同じく、江戸近辺は京大坂近辺より寒くて乾燥していたからとみるべきで、運ぶのに距離が近くて容易にソバが手に入ったからだろう。ソバで通がる東京人は江戸の昔から出ていたと鳶魚先生は言うが、「長屋の花見」と同列の突っ張りとも言える。
ただ、「長屋の花見」も元は上方落語だったという。もはや何が何だか分からない。
*ツァンパ:大麦を炒った粉。大唐帝国を脅かしたチベット騎兵の携行食で、いまでもチベット人の主食と聞く。本朝では「はったい粉」として手に入る。日本への亡命僧のレシピで作ってみたことがあるが、なるほど主食に十分なる。製粉機を手に入れてからははったい粉は買わないし、レシピも連食に耐えるよう変えたが、大麦を製粉して毎日のお粥に頂いているし、騎行には必ず持っていく。
**砂を食べているよう:
もっともこれは本場の作法である、煎ってポップコーン状にする手間を抜いた訳者の責任でもある。ロシア人もいわゆる自己責任を、「自分で煮たカーシャは自分で食え」という。品種によってはそれでもやっぱりとろみは付かないが、炒ったソバの香ばしさでたいへん美味しい。詳細は訳者ブログを参照。
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