論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
顏淵死、門人欲厚葬之。子曰、「不可。」門人厚葬之。子曰、「回也視予猶父也、予不得視猶子也、非我也、夫二三子也。」
校訂
定州竹簡論語
[顏淵死,門]人欲厚葬之。子曰:「不可。」270……[回]也視予猶父也,予不[得視□子也。非我也,夫二三]271……
復元白文
※欲→谷・葬→甲骨文・予→余。※論語の本章は、最終節の孔子の発言では也の字を断定で用いていると解せる。本章は戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
顏淵死し、門人厚く之を葬らむと欲す。子曰く、不可なり。門人厚く之を葬る。子曰く、回也予を視るに父の猶くせり、予子のごとく視るを得ざる也。我にあらざる也、夫の二三子也。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
顔淵が死んだ。門人はこれを手厚く葬ろうとした。先生が言った。「いけない。」しかし門人は手厚く葬った。先生が言った。「顔回は私を父親のように見た。私は子のように見ることが出来なかった。私がしたのではない。あの門人達だ。」
意訳
顔回が死んだ。
弟子「立派なお葬式を出しましょう」
孔子「いかん。礼法にそむく。」
しかし弟子は盛大な葬儀を挙げた。
孔子「顔回は私を父親のように慕ってくれた。しかし私は実の子のように扱ってやれなかった。礼法破りをさせてしまったのだからな。だが私のせいではない、弟子たちが勝手にやったことだ。」
従来訳
顔渕が死んだ。門人たちが彼のために葬儀を盛大にしようともくろんだ。先師はそれを「いけない」といって、とめられたが、門人たちはかまわず盛大な葬儀をやってしまった。すると先師はいわれた。――
「囘は私を父のように思っていてくれた。私も彼を自分の子供同様に葬ってやりたかったが、それが出来なかった。それは私のせいではない。みんなおまえたちのせいなのだ。」
現代中国での解釈例
顏淵死,學生們要厚葬他。孔子說:「不可。」學生們還是厚葬了他。孔子說:「顏回把我當作父親,我卻沒把他當作兒子。不是我要這樣,是學生們背著我乾的。」
顔淵が死んで弟子たちが厚く弔おうとした。孔子が言った。「いかん。」弟子たちはやはり厚く弔った。孔子が言った。「顔回は私を父のように見てくれた。しかし私は顔回を子のように見てやれなかった。私がそのようにせよと望んだのではない。弟子たちが私にそむいて勝手にやったのだ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
門人
(金文)
論語の本章では”孔子の弟子たち”。
”顔回の門人”と解することもできるが、顔回は孔子一門の誰からも好かれたようだから、限定しないで解した。
『学研漢和大字典』によると「門」は象形文字で、左右二まいのとびらを設けたもんの姿を描いたもの。やっと出入りできる程度に、狭くとじているの意を含む。悶(モン)(心が中にふさぎこむ)・問(モン)(とじてわからないことをむりにきき出す)・聞(モン)(とじてわからないことがやっときこえる)などと同系のことば。
「門人」の語義は、以下を挙げている。
- ある先生についてその教えを受ける人。でし。「門人惑=門人惑へり」〔論語・述而〕門下生(モンカセイ)・門生(モンセイ)・門弟(モンテイ)・門弟子(モンテイシ)・門徒(モント)・門子(モンシ)。
- 門の番人。「門人射呉子=門人は呉子を射る」〔春秋穀梁伝・襄二五〕門徒(モント)・門子(モンシ)。
- いそうろう。《類義語》食客。〔戦国策・斉〕門客(モンカク)。
厚葬
「葬」(甲骨文・篆書)
論語の本章では”厚く弔う”。
『学研漢和大字典』によると「葬」は会意文字で、「艸二つ+死」。なきがらを草むす土の中に隠し去ることをあらわす。「礼記」檀弓上篇に「葬とは蔵なり」とある。蔵(ゾウ)(しまいこむ)・倉(しまう)と同系のことば。類義語の喪(ソウ)は、相(ソウ)(二つに離れる)と同系で、離れ去ること、という。詳細は論語語釈「厚」・論語語釈「葬」を参照。
論語を初めとする経典によると、死者を手厚く弔うのは儒教の特色であり、外部から批判される原因でもあった。論語の時代では、斉国の宰相・晏嬰が批判している。
論語の時代よりあとでも、墨家を中心に批判され続け、漢代になって儒教の権威が確立されると、やっと批判はなくなった。
しかし本章に見られるように、論語時代の孔子一門の中でも、葬儀をどの程度の盛大さで行うかについては、確立した規定がなかった。従来訳のように、顔回が質素な葬儀を望み、孔子がその遺志に添えなかったことを悔いる場面は大いにあり得た。
ただし確立されてはいなかたっとしても、孔子は日常のあれこれについて身分ごとに分を定め、秩序の回復を願ったのは確かだから、無位無冠の顔回にふさわしくない葬儀が執り行われたのだろう。
予
初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に余、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。
視
(金文)
論語の本章では”あたかも~であるように取り扱うこと”。
『学研漢和大字典』によると形声文字で、「見+(音符)示(シ)」。まっすぐみること。示の原義(祭りの机)には直接の関係はない。指(まっすぐゆびさす)・示(まっすぐさししめす)と同系のことば。詳細は論語語釈「視」を参照。
猶(ユウ)
論語の本章では、”~のように”。「なお~のごとし」と読む再読文字の一つ。詳細は論語語釈「猶」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、顔回の葬儀の模様と師弟の問答を記した前半と、孔子の泣き言を記した後半とに分割して解すべき章で、後半は明らかに後世の竄入である。「也」を断定で用いているし、「われ」の格変化に従った「我」と「吾」の使い分けが適切で無い、ようにも見える。
太古の中国語には格変化が有り、論語の時代まではそれが残っていたと言われ、ゆえに「我」は主に目的格に、「吾」は主に主格と所有格に用いられた。ただしそれは平叙文の話で、本章のように「非」のつく否定文でも同じとは言い切れない。論語語釈「われ」を参照。
先秦の文章では、「非我」は本章同様、下に目的語などを持たない場合に用いられる。「非吾」は下に目的語を伴っている。ただし漢代に入るとこの原則は崩れる。
論語の本章に話を戻すと、門人が「厚葬」を望み孔子がそれを否定したのは、顔回が無位無冠であり、礼法の規定に背くから、または貧しかったからだとの解釈がなされてきた。
古注『論語集解義疏』
註禮貧富各有宜顔淵家貧而門人欲厚葬之故不聽
注釈。礼法の運用は、貧富によって適切に扱う。顔淵は貧しかったのに、門人が厚葬しようとした。だから許さなかった。
新注『論語集注』
喪具稱家之有無,貧而厚葬,不循理也。故夫子止之。
葬儀というものは、家格に応じるものだ。貧しいのに厚葬するのは、ことわりに従わないものだ。だから先生はとめた。
貧しいから質素に弔うのは話が分かるし、後世の儒者が面倒くさい礼法の規定を作る以前に、古代の身分制社会では、身分によって自ずから葬儀の格式も決まっていたと想像できる。だが顔回が無位無冠で世を去ったのはその通りだろうが、葬儀の費用に事欠いただろうか?
孔子が息子の葬儀にも事欠いたのが、実は捏造と判明したように(論語先進篇7)、配下にアキンド子貢という金づるを持つ孔子が、一番期待した弟子の顔回の葬儀を、派手に出してやる財産も無かったとは考えがたい。厚葬を主張した「門人」に、子貢がいたかも知れないのである。
すると派手な葬儀を出せなかったのではなく、出したくなかったと見るべきだろう。ゆえに顔回の、孔門情報部総領を想像し、暗殺を想像するわけだ。顔回の死によって情報部は大打撃を受けたに違いなく、かといって情報部は、表の部門ではない。
派手に葬儀を出して「あだ討ちだー!」と気勢を上げるわけにもいかない。「ウチは弱りました」と宣伝するようなことにもなりかねない。政治の世界は舐められたらおしまいである。ゆえに孔子はしめやかに密やかに弔いたがったのだが、事情を知らない弟子に無視された。
孔子帰国後の身の回りにいる弟子は、顔回を除けば若年の学徒ばかりで、危ない政治工作とは何の関係も無い、ただの役人志望者である。顔回の人柄が善かったことは『史記』にもあるから、若い学徒に好かれたに違いない。だから弟子たちには、派手に弔う動機が十分あった。
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