論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰恭而無禮則勞愼而無禮則葸勇而無禮則亂直而無禮則絞君子篤於親則民興於仁故舊不遺則民不偷
- 「葸」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「直」字:〔十𠀃三〕。
- 「民」字:この部分摩滅。おそらく「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
東洋文庫蔵清家本
子曰㳟而無禮則勞愼而無禮則葸/勇而無禮則亂直而無禮則絞/君子篤於親則民興於仁故舊不遺則民不偷
- 「葸」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「直」字:〔十𠀃三〕。
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「恭而無禮則勞、愼而無禮則葸、勇而無禮則亂、直而無禮則絞。君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偷。」
復元白文(論語時代での表記)
葸 絞 偷
※恭→兢・篤→竺・仁→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「則」「亂」「親」の用法に疑問がある。本章は漢帝国以降、おそらく後漢の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、恭にし而禮無くんば則ち勞れる。愼み而禮無くんば則ち葸む。勇にし而禮無くんば則ち亂る。直きにし而禮無くんば則ち絞る。君子親於篤からば、則ち民仁於與る。故舊の遺れ不らば、則ち民偷から不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「へりくだっても礼法から外れると疲れる。慎んでも礼法から外れるとふさぎ込む。勇気があっても礼法から外れると乱れる。率直でも礼法から外れると行き詰まる。君子が身内を大事にすると、常時無差別の愛を基礎にして民が繁栄する。古くからの付き合いを大事にすれば、民は情け深くなる。」
意訳
同上
従来訳
先師がいわれた。――
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる。」
またいわれた。――
「上に立つ者が親族に懇篤であれば、人民はおのずから仁心を刺戟される。上に立つ者が故旧を忘れなければ、人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「恭敬而無禮則徒勞,謹慎而無禮則膽怯,勇猛而無禮則闖禍,直率而無禮則尖刻。如果領導能真心愛護親屬,則百姓就會崇尚仁愛;如果領導能真心愛護故舊,則百姓就不會冷漠無情。」
孔子が言った。「へり下っても礼法に従わなければ徒労に終わる。慎み深くても礼法に従わなければ臆病に終わる。勇猛でも礼法に従わなければ乱暴に終わる。率直でも礼法に従わなければイヤミに終わる。もし権力者が心を込めて親族を愛護するなら、人民はすぐさま仁愛を尊ぶ。もし権力者が心を込めて知人を愛護するなら、人民はすぐさま冷酷無情ではなくなる。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
恭(キョウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”つつしみ深い”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。原字は「龏」とされ、甲骨文より存在する。字形は「䇂」”刃物”+「虫」”へび”+「廾」”両手”で、毒蛇の頭を突いて捌くこと。原義は不明。甲骨文では地名・人名・祖先の名に用い、金文では人名の他は「恭」と同じく”恐れ慎む”を意味した。詳細は論語語釈「恭」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であって同時に…”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”貴族の常識”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。
なお本章では「礼なければ」と確定条件に読み下したが、仮定条件「礼なからば」でもかまわない。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”とりもなおさず”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
勞(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”疲れる”。新字体は「労」。初出は甲骨文。ただし字形は「褮」-「冖」。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文の字形は「火」二つ+「衣」+汗が流れるさまで、かがり火を焚いて昼夜突貫工事に従うさま。原義は”疲れる”。甲骨文では地名、”洪水”の意に用い、金文では”苦労”・”功績”・”つとめる”の用例がある。また戦国時代までの文献に、”ねぎらう”・”いたわる”・”はげます”の用例がある。詳細は論語語釈「労」を参照。
愼(シン)
(金文)
論語の本章では”つつしむ”。新字体は「慎」。中国、台湾、香港では新字体の「慎」がコード上の正字として扱われている。初出は西周中期の金文。論語の時代に通用した字体では、「真」と書き分けられていないものがある。字形は「阝」”はしご”+「斤」”近い”+「心」。はしごを伝って降りてきた神が近づいたときのような心、を言うのだろう。詳細は論語語釈「慎」を参照。
葸(シ)
(前漢隷書)
論語の本章では”恐れて塞ぎ込む”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「思」だが由来はよく分からない。上古音は再建されているが、上古=秦以前に存在が確認できない言葉の上古音というのも不思議な気がする。同音に思とそれを部品とする漢字群など。文献時代に”おそれる”として用いた。詳細は論語語釈「葸」を参照。
勇(ヨウ)
(金文)
論語の本章では、”勇気”。現伝字形の初出は春秋末期あるいは戦国早期の金文。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。「ユウ・ユ」は呉音。字形は「甬」”鐘”+「力」で、チンカンと鐘を鳴るのを聞いて勇み立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。
亂(ラン)
(金文)
論語の本章では、”乱れる”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「乚」を欠く「𤔔」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。
直(チョク)
(甲骨文)
論語の本章では”(バカ)正直”。初出は甲骨文。「𥄂」は異体字。「ジキ」は呉音。甲骨文の字形は「丨」+「目」で、真っ直ぐものを見るさま。原義は”真っ直ぐ見る”。甲骨文では祭礼の名に、金文では地名に、戦国の竹簡では「犆」”去勢した牡牛”の意に、「得」”…できる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「直」を参照。
絞(コウ)
(前漢隷書)
論語の本章では”追い詰められる”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「交」”交叉させる”で、糸や縄で縛ること。同音に「交」とそれを部品とする漢字群。戦国の竹簡で”しぼりとる”の意に用いた。部品の交に”はさむ”語釈はあるが”しめる・くびる”は無い(論語語釈「交」)。結論として、論語時代の置換候補は無い。詳細は論語語釈「絞」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では、”地位教養身分人情のある立派な人”。
「君子」は孔子の生前は単に”貴族”を意味するか、孔子が弟子に呼びかけるときの”諸君”の意でしかない。それが後世、”情け深い教養人”などと偽善的意味に変化したのは、儒家を乗っ取って世間から金をせびり取る商材にした、孔子没後一世紀の孟子から。詳細は論語における「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
篤(トク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”手厚い”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「竹」+「馬」だが、由来は明瞭でない。戦国最末期「睡虎地秦簡」秦律雜鈔29に「膚吏乘馬篤、𦍧(胔),及不會膚期,貲各一盾。」とあり、よく分からない文だが、”馬の世話役が、馬を過度に乗り回して、痩せさせてしまい、二度と肥え太ることが無かったら、盾一枚に乗る穀物を罰として取り立てる”の意だろうか。”過度に…する”と解せる。異体字の「竺」は、いわゆる「天竺」の「ジク」だが、春秋末期とも推定される晋系戦国文字から見られ、論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「篤」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…に・で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
親(シン)
(金文)
論語の本章では、”親族”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。権力者でない全ての人々。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
興(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”勢いが盛んになる”。「コウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)の方が拗音な珍例。初出は甲骨文。字形は「同」”乗り物のこし”+「又」”手”四つ。四人でこしを担ぎ挙げるさま。甲骨文から”勢いが盛んになる”の意があり、このほか地名氏族名人名に用いた。詳細は論語語釈「興」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、文字史的に後世の偽作が確定することから、”なさけ・あわれみ”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
故(コ)
(金文)
論語の本章では、”古くからの”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「攴」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。
舊(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”なじみの者”。新字体は「旧」。初出は甲骨文。字形は鳥が古い巣から飛び立つ姿で、原義は”ふるい”。甲骨文では原義、地名に用い、金文では原義、”昔の人”、”長久”の意に用いた。詳細は論語語釈「旧」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
遺(イ)
(金文)
論語の本章では、”見落とす”。初出は西周早期の金文。字形は「行」”道筋”+「貴」で、貴重なものを後世に伝え残すさま。「貴」は「𦥑」”両手”+「𠀐」”宝物”。春秋末期までに、”残す”・”送り届ける”・”加える”・”見逃す”の意に用いた。詳細は論語語釈「遺」を参照。
故舊不遺
「遺れられない」対象が「故舊」なので、ここはO-V順になっていて文法上変則。あるいは主語の「君子」が省略された形か。中国語学の世界では、主語が述語の動作主体となる施事主語に対し、受事主語と呼ばれる。
だが専門用語を知っていれば漢文が読めるわけではない。漢文とは「言いたいことから言う」原語で、訓読=解読には、固有名詞以外は一字たりとも音読しない厳密さと、脳の柔軟性が求められる。詳細は漢文が読めるようになる方法2022を参照。
偸(トウ)
(前漢隷書)
論語の本章では”薄情な”。初出は戦国中末期の「郭店楚簡」。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「人」+「兪」”くりぬいてうつろ”。行き当たりばったりの人のさま。異体字に「偷」。中国台湾では、こちらがコード上の正字として扱われており、唐石経・清家本も「偷」と記す。「チュウ」は芥川かおじゃる公家のうっかりによる慣用音。「ツ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。戦国時代に、”一時的な”・”軽薄な”の意に用いた。詳細は論語語釈「偷」を参照。
漢文では「偸安」という言葉が出てくることがあり、意味は”盗み取ったように一時的な平和”をいう。
論語:付記
検証
論語の本章、「恭而無禮則勞」は後漢初期の『白虎通義』に再録がある。「君子篤於親,則民興於仁」は後漢初期『漢書』平帝紀に「伝」として再録があるが、論語の引用と言えるかは五分五分。「則民不偸」は戦国中期の『商君書』や『国語』などに用例があるが、論語の引用とは言えない。
「慎而無禮則葸」「勇而無禮則亂」「直而無禮則絞」「故舊不遺」は春秋戦国時代を含む先秦両漢の引用や再録が無い。本章は文字史的に論語の時代に遡れず、定州竹簡論語にも欠く。事実上の初出は後漢から南北朝にかけて編まれた古注だから、早くとも後漢儒がニコイチ・サンコイチで、でっち上げたと断じてよい。
解説
挿絵の元ネタは、「幻の爆撃」でググって下さい。この絵何度描き直しても納得いかない。
論語の本章の後半部分、「君子篤於親、則民興於仁。故舊不遺、則民不偸」は、”貴族が身内に手厚いと、民は常時無差別の愛に目覚めて元気になり、貴族がなじみの人を忘れないと、民は情け深くなる”と解するしかないが、中国にそういうバカバカしいメルヘンがあるわけがない。
そんな中国人はとうに滅んだ。論語学而篇4余話「中華文明とは何か」を参照。
過去、論語をまじめに読んだ人を訳者はほとんど知らず、九分九厘の者はメシの種か他人への説教のために読んでいたが、まじめに読んだ数少ない人でも、「孔子は論語の本章のようなことを言ったから、世間に受け入れられなかった」と泣き濡れたことを書く。全く見当違いだ。
孔子は確かに春秋諸国を放浪したが、故国の魯からあからさまに追い出されたわけではなく、権力の座でやりたい放題やって貴族からも庶民からも嫌われたから、空気を読んで自分から出て行ったのであり、諸国でも宰相並みの捨て扶持を貰い、さらには国際的陰謀を逞しくした。
孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子が、そう証言している。
『墨子』非儒下9を参照。それは孔子がなぜ偉大なのかとはぜんぜん関係が無い。春秋の君子に出陣の義務があり、後世の儒者とは全然違う筋肉質だったことは明らかだが(論語における「君子」)、孔子の思考も筋肉質で本章のような浮ついたことは言えなかった。
論語では随所に、為政者が善行を行うと民が見習って善人になる、という話が出て来る。現代中国人なら、共産党幹部が善行を行おうと「どうぞご勝手に」だろうが、古代の中国人は、まだそこまで人が悪くなっていないのだろうか。史書を読むと、とてもそうとは思えない。
論語の本章は、漢帝国の儒者らしい偽善と、「礼法を知りたければ我ら儒者を優遇しろ」という図々しさが、渾然一体となっている。恐らく論語の本章の偽作の動機は、後漢になって論語微子篇13が書き換えられたのと同じ。
その微子篇では、周公が息子に「身内びいきするな。そうすれば家臣も納得する」と諭していたのに、後漢になって「身内びいきしろ。そうすれば家臣も納得する」に書き換えられた。そんなワケあるか、と晩唐になって再び「ひいきするな」に戻されたが、書き換えをやった後漢儒の不真面目については、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
さらに本章の成立は、全文の初出が古注であることから南北朝にまで下りうる。
古注『論語集解義疏』
子曰恭而無禮則勞慎而無禮則葸註葸畏懼之貎也言慎而不以禮節之則常畏懼也勇而無禮則亂直而無禮則絞註馬融曰絞絞刺也君子篤於親則民興於仁故舊不遺則民不偷註苞氏曰興起也君能厚於親屬不遺忘其故舊行之美者也則民皆化之起為仁厚之行不偷薄也
本文「子曰恭而無禮則勞慎而無禮則葸。」
注釈。葸はおそれ敬う表情である。発言に気を付けても、気の付け方が礼法に従っていないと、いつもびくびくと恐れることになる、の意である。
本文。「勇而無禮則亂直而無禮則絞。」
注釈。馬融「絞とは、きつく行き詰まるということである。
本文。「君子篤於親則民興於仁故舊不遺則民不偷。」
注釈。包咸「興とは起きあがることである。君主が身内をよくひいきし、古いなじみの者の恩を忘れないと、民がそろっておりこうさんになって、情け深くなって行き当たりばったりの薄情をしなくなるのである。」
南北朝まで論語の本章全体に解釈を付けた者はおらず、付けた儒者で最も早期の者は前後の漢交代期を生きた包咸だが、一部しか注を付けていない。本章のニコイチ・サンコイチの下手人は、あるいは南北朝のふざけた儒者かもしれない。南北朝もきわめてふざけた時代だった。
詳細は論語為政篇16余話「魏晋南朝の不真面目」を参照。ついでに新注も記しておく。
新注『論語集注』
子曰:「恭而無禮則勞,慎而無禮則葸,勇而無禮則亂,直而無禮則絞。」葸,絲里反。絞,古卯反。葸,畏懼貌。絞,急切也。無禮則無節文,故有四者之弊。「君子篤於親,則民興於仁;故舊不遺,則民不偷。」君子,謂在上之人也。興,起也。偷,薄也。張子曰「人道知所先後,則恭不勞、慎不葸、勇不亂、直不絞,民化而德厚矣。」吳氏曰:「君子以下,當自為一章,乃曾子之言也。」愚按:此一節與上文不相蒙,而與首篇慎終追遠之意相類,吳說近是。
本文「子曰:恭而無禮則勞,慎而無禮則葸,勇而無禮則亂,直而無禮則絞。」
葸の字は、絲里の反切で読む。絞の字も、古卯の反切で読む。葸とは、恐れかしこむ表情である。絞とは、差し迫っていることである。礼法に従わないとものごとの判断基準が無いから、本章に言う四つの弊害が起きるのである。
本文「君子篤於親,則民興於仁;故舊不遺,則民不偷。」
君子とは、地位身分が高い者を言う。興とは元気よく立ち上がることである。偷とは、薄いことである。
張載(?)「人が優先順位をわきまえると、腰を低くしてもくたびれない。慎み深くしても臆病にならない。勇気を出しても乱れない。正直を貫いても行き詰まらない。こうして民がおりこうさんになり、その道徳が深まるのである。」
呉棫「本章で君子とあるより後は、これだけで一章にすべきであり、つまり曽子の発言である。」
愚か者の私(朱子)が思うには、確かにこの一節は上の句とのつながりが悪く、論語学而篇9の「終わりを慎み…」とよく文意が合うから、呉氏の説はたぶん正しい。」
呉棫がこういう根拠の無い思い付きを思いついたのは、次章が曽子の言葉だからで、論語について何か言わないと儒者として格好が付かないからでもある。予算が余っても国民に返さず、ろくでもないことに使ってしまう役人根性と一脈通じるものを感じる。
はぁ。サ卜゛へサ卜゛へと草木もなびいたら世の中大変じゃあ。金比羅ときんぴらとチンピラを一緒にしたら、香川県民や給食のおばさんに叱られるだろうが。似ているからといって同じと言い張ってはいかんだろう。
「愚か者」宋儒の考証などこの程度で、手ぬぐいも貰えぬ下手くそな空耳アワーを読者に押し付けているに過ぎない。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。また、そもそも曽子は孔子の弟子ではない。論語の人物・曽参子輿を参照。
参考動画
余話
バカ息子でよかった
親子兄弟をも叩き売るのが、中華文明の教える生存の法だとたびたび例を挙げて説明してきた。そして九分九厘の中国人は剥き身の個人ではなく、血統による宗族、非血統による秘密結社に属して身を守ってきたことも同様。そうでない中国人は「呆子」”バカ”と呼ばれる。
有呆子者。父出門。令其守店。忽有買貨者至。問尊翁有麼。曰。無。尊堂有麼。亦曰。無。父歸知之。謂子曰。尊翁。我也。尊堂。汝母也。何得言無。子懊怒曰。誰知你夫婦兩人都是要賣的。幸是呆子。不然連爺娘也賣了。
あるバカ息子が親父の留守中、店番をすることになった。そこへすぐに客がやってきた。
客「ご尊父はあるか。」
息子「無いよ。」
客「ご母堂はあるか。」
息子「無いよ。」
父が帰ってきて話を聞き、真っ赤になって怒った。
父「ご尊父とはワシのことだ。ご母堂とはお前のおっかさんだ。それを無いよ、とは何事だ。」
息子「何だってあたいをそんなに怒るんだい。おとっつあんとおっかさんが、売り物だなんて知ってるわけないでしょ。」
バカ息子でよかった。そうでなければ、両親ともに売り飛ばしていた所だ。(『笑府』巻六・呆子守店)
儒者のように、本ばかり読んで頭がおかしくなった人間もまた、「书(書)呆子」と呼ぶ。「呆子」はバカ呼ばわりはされてもそれでも人間である。ゆえにこの罵倒を下品だと日本人は言えない。「本の虫」と言うからには、人間ではなく虫だとこき下ろしているからだ。
中華文明的親孝行も、片や喧伝されて世の子供をクルクルパーに仕立て、親への奴隷的奉仕を強制し、片や宗族の最も小さな単位である家族として、互いに助け合う相互依存関係を構築する。論語で孔子が説いたとされる「恕」も、もとは後者の意味だった(論語における「恕」)。
そもそも孝行という概念が、殷を攻め滅ぼした周の偽善による創作である。だがこれまた、日本人が中国人の親不孝に文句をつけることは出来ない。江戸学の祖である三田村鳶魚は、文化十二年刊という『世事見聞録』を引用し抄訳して、次のように書いている。
今日の若い者は、よくよく愚鈍律儀で、一人前に足らぬ者でなければ、親のそばなどにはいない。人並の息子であれば、まだ若いうちから放蕩を始めて、勘当されるか、自分の方から家出するかして、無宿となり、居候となる。そうして、方々から江戸に集まるあぶれ者と一緒になって、立派な悪党になって悪いことばかりしている。強請に行くとか、喧嘩に行くとか、人の妻や娘を騙し賺して物を取ったり、引張り出して女房にしたり、それからまた手切金を取る。そうでなければ、売り飛ばしてしまう。悪所・盛り場のようなところへ行って、いろいろ邪魔をして、銭を出さずに済む酒や肴を飲み食いし、その上に売女を慰みものにして、まだ足らないで、難題を吹っかけて金を取る、というような悪いふうにいまはなっている…。(三田村鳶魚『江戸ッ子』人並な息子は悪少)
前世紀末当たりから、江戸時代は素晴らしい論者が流行った。近年でも中野と高田馬場のあいだ氏がそう言いふらして現在に至る。のあいだ氏が世に出てきた当初は、「ご尊父」の令名もあり前途有望な若者が出てきたと感心していたのだが、岡潔同様、知りもしないことを知っていると嘘をついて説教を始めたので見限った。
詳細は論語為政篇4余話「天狗の作り方」を参照。恭も無ければ礼も無い。高田馬場と中野の間には上下がある。江戸時代日常の裃は武士の特権だった。のあいだ氏が江戸時代を持ち上げるのはそれゆえだろうか。のあいだ氏は上級国民のつもりで説教を垂れていると見える。
のあいだ氏の専門はよく分からないのだが、史学はそうでないようで、つまり知ったかぶりを言いふらして「騙し賺して物を取ったり」している。元名大教授のT先生も、知らない歴史や中国について得々と語る。儒者も油断ならないが、今の世間師にも油断は出来ない。
そうやって見直せば氏の顔が、太古に上陸したご先祖さまの末裔のように思えてきた。
参考記事
- 論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」
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