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論語詳解193泰伯篇第八(9)民はこれよらしむ’

論語泰伯篇(9)要約:民は従わせる事は出来ても、政策の意図を分からせる事は出来ない。公教育皆無の春秋時代とあっては、致し方のない現実でした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰民可使由之不可使知之

  • 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰民可使由之不可使知之

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[可使由之,不可使𣉻之]。」200

標点文

子曰、「民可使由之、不可使𣉻之。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 民 金文可 金文使 金文由 金文之 金文 不 金文可 金文使 金文智 金文之 金文

※論語の本章は、「使」「之」の用法に疑問がある。ただし「之」は省いても文意が変わらない。

書き下し

いはく、たみこれ使きも、これ𣉻使から

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「まことに民を従わせることは出来ても、まことに理解させることは出来ない。」

意訳

孔子 へつらい
統治のコツでござるか? 民というものは無学なもので、闇夜で灯火についてこさせるように、せいぜい政令に従わせることは出来ても、政令の理由まで分からせようとしても、どうやっても無理でござるな。腹を立ててはいけませぬぞ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「民衆というものは、範を示してそれに由らせることは出来るが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「群衆贊同的,就要執行;群衆不理解的,就要向群衆解釋清楚。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「群衆が賛同するなら、すぐさま実行しなさい。群衆が理解できないなら、すぐさま群衆にはっきりと分かるよう説明しなさい。」

論語:語釈

、「 使 使 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
「可」(甲骨文)

論語の本章では”…できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

「民可使由之」は”民まことに従わせることができる”ではなく、”民まことに従わせることができる”。つまり「民」は主語ではなく目的語なのだが、中国語学の世界では、主語が述語の動作主体となる施事主語に対し、受事主語という。

ただそういった専門用語を出せばあとは知らん、と言えるのはお金は好きだが仕事が嫌いな教授先生だけで、訳者としては理屈を付けずばなるまい。つまり中国語の主語は日本語「この道は通れます」の主語と同様に、主題を示すのであり、ヨーロッパ諸語の主語とは違う。

「民可使由之」の「民」は、”民については”という意味。それをはっきりさせるのが、春秋時代の「也」の用法で、仮に「民也可使由之」とすれば、”民という者は、これに従わせることができる”と解釈出来る。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では”従う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「油」と同音であり、ともし火そのものの象形。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。

平芯の石油ランプができるまで、人類にとって日没後は闇夜だったから、たしかに灯火を灯せば従うしかなかっただろう。
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之(シ)

之 甲骨文 之 解字
(甲骨文)

論語の本章では「これ」と読んで”まさに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

論語の本章では、「之」の意味内容を示す先行する言葉が無いことから、直前が動詞であることを示し、あるいは強調する記号。つまり動詞の目的語にならない。従って「これ」の訓読は誤り。

また原文が「使由之」「使知之」であることから、「これによらしむ」「これにしらしむ」の読みは成り立ちうるが、意味が分からない。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

知(チ)→𣉻(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」「𣉻」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

民可使由之

論語の本章では、”民はまことに従わせることが出来る”。

読み下しに「べし」とあるから日本語で勘違いして、”従わせるのが当然の生き物”と理解し、孔子がとんでもない差別主義者だと言い張るむきがある。

しかしそれは漢文を知らないからで、「可」は出来る・出来ないの話であって、”従わせることは出来る”と理解すべき、と、何人もの漢文先生が力説しているのはその通り。ただし漢文の「可」にも、日本古語と同じ、適当や勧誘の意味はちゃんとある。

(2)「~するのがよい」「~すべきだ」と訳す。当然・勧誘の意を示す。「皆曰、紂可伐矣=皆曰く、紂伐つ可しと」〈皆、紂は討つべきであると言った〉〔十八史略・周〕(『学研漢和大字典』)

不可使知之

論語の本章では、”まことに知らせることは出来ない”。

同様に「知らせるべきではない」と解釈するのは間違いだ、と先生方が言うのもその通り。しかし上記のように、”知らせるのが当然ではない・知らせた方がいいとは言えない”と解釈しても、文法・語法的に間違いとは言えない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にはあるが、前半の「民可使由之」、後半の「不可使𣉻(知)之」ともに、春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、再出は定州竹簡論語を除けば、後漢末期の徐幹『中論』からになる。

後漢年表

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従って史実の孔子の発言かどうかは怪しいのだが、内容的に史実の孔子の教説や、春秋時代の世情と矛盾がないので、とりあえず史実として扱ってよい。

解説

論語の本章は、人に指図する立場の者にとって永遠の課題を示したもの。

由らしむべし
戦地の隊長のように、自分でも確信の無いことを、他人にもっともらしく言わねばならない。役人や雇われ人なら失敗しても大した事にはならないが、前線の軍人や孔子のように殺し合いの政界に生きた政治家や、自分の身上でバクチを張らねばならない経営者はそうもいかない。

民に理解する能が無いのは当然かつ正当で、決定権は他人事だから、理解する動機が無い。動機があっても理解させられない。何せ指揮官当人が正解を知らないからだ。知っているつもりで思い上がっていると、自分も部下も死ぬことになる。

さて読み下しを通じて漢文を理解するなら、まずは高校程度の日本古文の教養は必要。それがないから上記のような「べし」の誤解が起こるのはもっとも。しかし高校で教えることを全員が全部理解しろと言うのは無茶であり、それが出来ていたら誰もがT大に入れることになる。

ひらめきを求めるKY大と異なり、T大の入試問題はそのように作られているからだ(ちなみにK大はT大型の説文が多く、W大はKY大に近い)。こういう古典日本語に漢文を直したことで起こる誤解を、「和臭」と言うらしい。訳者もうっかりするとたまにやらかす。

だから漢文先生方の悲憤慷慨はもっともとして、孔子は差別主義者と言えなくはない。本章を「どうせ民は分からないのだから、従わせるしかない」と読んでも全く差し支えない。それを示すのが論語顔淵篇7で、政治に必要なのは食糧・国防と治安維持・信頼だと孔子は言う。

そして子貢に一番優先なのは何かと問われて、信頼だと言っている。「昔から餓死はあったから、いざとなれば民も覚悟するが、その信用を失ったら、政治どころじゃないぞ」と。一見いい事を言っているようでありながら、「だましてもかまわないから従わせろ」と言っている。

民から見れば迷惑な話で、信頼など要らん、統治者はあんたでなくていいから、メシと安全をよこせ、と言うだろう。孔子の民衆観は徹底的に統治者目線で、それは現代の政治家や官僚と変わらない。論語は時としてこのような、孔子の冷徹な政治思想を垣間見せる本でもある。

孔子 革命家
孔子の本質は革命家であって、政権を取り、維持することが何より優先された。孔子は身分秩序を言い立てたとされるが、それは自分が政権側にいるという事実と確信があったからだ。一門にとって民は、徹頭徹尾いじくる対象で、「民のために」というのは副次的である。

なお現代中国のような解釈は、新注から出てきたらしい。

古注『論語義疏集解』
註由用也可使用而不可使知者百姓能日用而不能知也

論語 古注 何晏
注釈。由は用である。何かを用いさせることは出来ても、何かの本質を理解させることが出来ないのは、人民は日々ものを使うが、その本質をつかむ能は無いからだ。

新注『論語集注』
民可使之由於是理之當然,而不能使之知其所以然也。程子曰:「聖人設教,非不欲人家喻而戶曉也,然不能使之知,但能使之由之爾。若曰聖人不使民知,則是後世朝四暮三之術也,豈聖人之心乎?」

程伊川
民を従わせることが出来るのは理の当然だが、知らせることが出来ないのはそれもまたもっともである。

程伊川「聖人が教えを開いたのは、人々誰にもモノのことわりを分からせるために他ならない。それでも知らしめることが出来ないなら、従わせるほかに無いではないか。もし聖人が民をアホウのまま放置したいと思ったなら、これぞすなわち、後世にサルをだました朝三暮四(→論語顔淵篇2付記に現代語訳掲載)というやつで、どうして聖人の願う所と言えようか。」

新注の言う通りかもしれないが、現代中国解釈の「分かるまで教えてやれ」とまで言うのは無茶だろう。共産中国らしい人民主義なのだろうか。台湾でどのような解釈がされているか、興味のある所ではあるが、台湾は大陸よりもっと人民主義かも知れない。

それを探る補助線は、とあるロシア語の歌で引けるかも知れない。現在のロシア連邦国歌は、元のソ連国歌の歌詞を一部変えたもので、そのソ連国歌も、ボルシェビキ党党歌の歌詞を一部変えたものだった。その党歌は最後を、こう締めくくっている。

Мудраяムードラヤ партияパールティア большевиковバルシェウィコフ.
(英知ある党、ボルシェビキ。)

かように、ボルシェビキ→ソ連共産党は本質が都市のインテリ政党で、だから『静かなドン』に描かれたような、農村での略奪と虐殺を平気でやった。一方中国共産党は、インテリ政党はおろか都市政党としても山賊としても失敗して逃げ出し小作農の暴カ組織に変身してやっと成功を掴んだ。民というものをどう捉えるか、ソ連共産党と違いがあってしかるべきだろう。

そしてかなりの間台湾を統治した国民党は、ボルシェビキの強い影響を受けている。

余話

民は知らしむべし

ヘーゲルが言う通り中国史は王朝交替というサイクルを繰り返すが、不可逆的変化もある。

麦と兵隊

麦と兵隊

マルクスは資本主義が行き詰まると社会主義革命が起きると言った。従って当時最先端資本主義国だった、英独仏などで革命が始まるはずだった。フランスの革命はマルクスの存命中にも起きたが、社会主義革命ではなかった。イギリスでは革命そのものが起きなかった。

この論理破綻をどう説明するかというのが、マルクスとその一党の仕事になった。そのうち普仏戦争でフランスが負け、パリを包囲されていわゆるパリ・コミューンが市政を握った。たった二ヶ月で鎮圧されたが、これぞ理論通りの革命政権だったと一党は言い張った。

だが鎮圧後フランスはブルジョア政権が続き、二度と赤い革命は起こらなかった。そこで一党は野狐禅な進化論を持ち出して、英仏は奇形的変化をしており、まっとうな社会の進化をしていないと言いだした。ドイツも一次大戦の敗戦後にredが蜂起したがあっさり鎮圧された。

これも正常な進化をしていないと言い張った。英仏独が例外となる先進資本主義のどんづまり理論など、もはや笑い話にすらならない。結局長続きした赤色革命政権が現れたのは、redから見れば遅れているはずのロシアだけだった。それゆえ露のredも言い訳に迫られた。

赤い理論から言えば、あり得べからざる政権だったからだ。そこで露のredは無茶を始めた。𠂊亻𠂇で農民をブルジョア呼ばわりして略奪し、飢餓輸出で元手を作り、「先進的な」重化学工業に国家投資した。工業化にはある程度成功したが、農民や市民に膨大な犠牲者が出た。

これをホロドモールという。フルシチョフ以降の宣伝により、やったのは悪玉スターリンだと世界中が信じ込まされてきたが、ソ連崩壊後の情報公開で、革命の当初から親玉のレーニンが始めたと判明した。だから日本の帝国海軍善玉説程度には、レーニン善玉説はいかがわしい。

ちょうどその頃、中国にもredが世にはばかるようになった。歴史上中国は、世界の最先端資本主義国だった時代が長いが、redのいうブルジョア革命が起きたことがなかった。要するに、共和国にならなかったという事だが、都合の良いことに清朝が倒れて共和国になった。

これがブルジョア革命だとredは言い張ったが、中国史的常識から観ればただの群雄割拠で、次なる帝政の準備期間に過ぎなかった。だが実情をひた隠しにしたソ連があまりに成功をおさめたように見えたので、群雄も天下を取ったのち帝政に移行するかの判断をためらった。

これが中国史のサイクルを、今までに無いものへと変えた。金属器を知らなかったサン・サルバドルの原住民は、コロンブスが突き出した剣を素手で握って怪我をしたという。知っている・いないのon/offは、後世の人間が想像する以上に当時の人間にとって重大となる。

つまり、帝政を廃止した共和政体が歴代帝国同様に安定した全国政権になりうる、と中国人が初めて知ったのはソ連によってである。それゆえ中国でのredが勢いづいたわけだが、外から見えるソ連の真似をしようとしたのは当然だ。つまり都市から始まる赤色革命である。

ロシア帝国は帝都ペトログラードで軍隊と市民が蜂起して潰れた。続く共和政府も同様だったが、政権奪取後の露redにとって旧共和政府はありがたい存在で、一応ブルジョア革命を経たという言い訳の材料になった。中華民国を倒そうとする中華redも同じ図式だった。

今こそ都市で赤色革命を起こそう。そう考えた中華redは、上海などで大暴れしたが、すぐさま軍閥に潰された。そのredの頭目の一人に周恩来がいた。一方当時の毛沢東は都市を嫌い、山奥で山賊をして暮らしていた。もちろん党の序列は、周恩来よりはるかに低かった。

訳者がいわゆる中国専門の「識者」が「党の序列が何番」とか嬉しそうに要人を言うのを、痛々しく眺めるのはこれが発端になっている。序列など常に変動する相場で、昨日の上司は今日の部下、は中国史の常識でもある。毛沢東は中国的教養があり、これをよく知っていた。

だから中国史で群雄割拠の時代に有利だった独立山賊を続けたのだが、党中央は失敗を繰り返しても事実を悟らず、官僚的に都市革命を起こせとグズグズ言い続けた。それが積み重なって、毛沢東や朱徳がそれぞれ開いた山賊稼業が疲弊し、とうとう西へ逃げ出すはめになった。

いわゆる長征だが、この逃亡のさなかに開かれた党幹部会議で、役人きどりの頭目連はクビになり、毛沢東が党を掌握した。毛沢東が死ぬまで「党八股」=役人気取りの党幹部を激しく非難し殺して回ったのは、この期間に党中央から舐めさせられた苦痛が怨念と化したからだ。

こうして中国共産党は延安の山奥で安定した山賊稼業を始め、蒋介石が転がり込んだ戦勝を手にしたあと、無能と強欲、加えて軍閥連合体の弱みが祟って世論の反発を買うと、するすると政権の座に就いた。山賊がよく教育されており、中国史上まれな逃げない兵隊だったからだ。

あるいは、逃げても戻ってくるように躾けられていたからだ。共産軍の強さについては、いくつもの引き揚げ日本人による証言がある。その全ては真に受けられないが、末端の兵卒だった訳者の祖父は、「国府はすぐ逃げたが、パーロー(八路軍)はとにかく強かった」と語った。

政権奪取後、毛沢東は名誉会長的地位に下がり、それが頭にきて文革を始めたのはよく知られている。その地獄のさなか、周恩来は娘を毛沢東に殺されているが、これもまた党序列の無常と毛沢東の怨念を証している。だが毛沢東は皇帝然とはしても、決して皇帝にならなかった。

なぜか。スイッチがすでにonであり、共和政体を「民に知らしめた」からである。「共和」の語源は周代にあるが、それが共和政体を意味するとは中共と御用漢学教授の出任せで、それが共和政体と言えるなら、あまたの摂政政治や権臣の専横も共和政体と言わねばならない。

召公、周公二相行政,號曰「共和」。共和十四年,厲王死于彘。太子靜長於召公家,二相乃共立之為王,是為宣王。宣王即位,二相輔之,修政,法文、武、成、康之遺風,諸侯復宗周。


召公と周公二人で、摂政政治を行った。これを「共和」と大声で呼んだ。共和を始めてから十四年後、厲王が彘で死んだ。その時太子は召公の家で大人しく躾けられて成長しており、召公と周公は相談の上太子を即位させた。これが宣王である。宣王が即位すると、召公と周公は相変わらず摂政政治を続けた。政治のゆがみを正し、国法に従って統治し、先君武王、成王、康王の残した権威がまた高まったので、諸侯はふたたび周を主君と仰ぎ始めた。(『史記』周本紀33)

やはり歴史のスイッチは、20世紀にならないとonにはならなかったのだ。

参考記事

『論語』泰伯篇:現代語訳・書き下し・原文
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