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論語詳解189泰伯篇第八(5)能を以て不能に問い*

論語泰伯篇(5)要約:後世の創作。曽子の神格化のため、同じく神格化された顔淵と友人だったという説教。曽子は孔子の弟子ではなく、二人の年齢は親子ほども違い、あるいは会ったこともない可能性があります。友人のはずがありません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

曾子曰以能問於不能以多問於寡有若無實若虛犯而不校昔者吾友甞從事於斯矣

  • 「曽」字:〔八田日〕。
  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。
  • 「犯」字:〔㔾〕→〔己〕。

校訂

東洋文庫蔵清家本

曽子曰以能問於不能以多問於寡有若無實若虛犯而不校/昔者吾友甞從事於斯矣

  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。
  • 「昔」字:〔十十一日〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[問]乎a寡,有如b無,實而c193……[從]事於斯矣。194

  1. 乎、今本作「於」。
  2. 如、今本作「若」。
  3. 而、今本作「若」。

標点文

曾子曰、「以能問於不能、以多問乎寡、有如無、實而虛、犯而不校。昔者吾友、嘗從事於斯矣。」

復元白文(論語時代での表記)

曽 金文子 金文曰 金文 㠯 以 金文能 金文問 金文於 金文不 金文能 金文 㠯 以 金文多 金文問 金文乎 金文寡 金文 有 金文如 金文無 金文 実 金文而 金文反 金文而 金文不 金文校 金文 昔 金文者 金文吾 金文友 金文 嘗 金文従 金文事 金文於 金文斯 金文矣 金文

※犯→反。論語の本章は「虛」の字が論語の時代に存在しない。「問」「乎」「如」「者」「嘗」の用法に疑問がある。曽子は孔子の弟子ではない。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

曾子そうしいはく、ちからあるをもつちからあひ、おほきをもつすくなひ、りてきがごとく、むなしく、をかませなら昔者むかしともかつことかかしたがへるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

曽子
曽子が言った。「能がありながら無い者に問い、知識が多いのに少ない者に問い、有っても無いように振る舞い、充ちていてもうつろで、侵害しても追い詰めない。昔私の友人が、行動する際にはこのような生き方に従った。」

意訳

曽子
曽子「出来るのに疑問があれば出来ない者にも質問し、知識が多いのに疑問があれば知識が少ない者に問い、能力が有っても無いように振る舞い、隠然たる力に充ちていてもうつろなように行動し、他人に説教しても嫌な気分を起こさせない。昔私の友人には、こういう人がいた。」

従来訳

下村湖人

曾先生がいわれた。――
「有能にして無能な人に教えを乞い、多知にして少知の人にものをたずね、有っても無きが如く内に省み、充実していても空虚なるが如く人にへり下り、無法をいいかけられても相手になって曲直を争わない。そういうことの出来た人がかって私の友人にあったのだが。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

曾子說:「自己才華橫溢卻向俗人請教,自己知識淵博卻向文盲請教;有知識謙虛為沒知識,有才能謙虛為沒才能,從不計較別人的無理冒犯。從前我的一個朋友就是這樣做的。」

中国哲学書電子化計画

曽子が言った。「自分の才能が溢れるほど、かえって俗人に教えを乞い、自分の知識が広がるほど、かえって文字の読めない者に教えを乞う。知識がありながら、謙虚で知識が無いように装い、才能がありながら、謙虚で才能が無いように振る舞う。だから他人と比べたり、無理難題を押し付けたりしない。以前私の友人の一人が、まさにこのようだった。

論語:語釈

曾子(ソウシ)

新字体は「曽子」。後世、孔子晩年の高弟とされた人物。その実は孔子家の家事使用人。「○子」との呼び名は、孔子のような学派の開祖や、大貴族に用いる。孔子は論語先進篇17で、曽子を”ウスノロ”と評している。詳細は前々章の語釈、また論語の人物・曽参子輿を参照。

曽 甲骨文 曽 語釈
(甲骨文)

「曾」(曽)の初出は甲骨文。旧字体が「曾」だが、唐石経・清家本ともに「曽」またはそれに近い字体で記している。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「ショウ」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”~で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”能力がある”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。定州竹簡論語では欠いている。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

多(タ)

多 甲骨文 多 字解
(甲骨文)

論語の本章では”多い”→”余裕がある”。初出は甲骨文。字形は「月」”にく”が二つで、たっぷりと肉があること。原義は”多い”。甲骨文では原義で、金文でも原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「多」を参照。

於(ヨ)→乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語では「乎」と記す。論語の本章では”~に”。対象を指し示すことば。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

寡(カ)

寡 金文 寡 字解
(金文)

論語の本章では”少ない”。初出は西周早期の金文。字形は「宀」”建物”の中に一人だけ大きく目を見開いた人がいて見上げている姿。原義は”孤独”。金文では”未亡人”、”少ない”を意味したが、諸侯が一人称としてもちいたのは戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「寡」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(病気に)かかる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

若(ジャク)→如(ジョ)

論語の本章では”…のふりをする”。

若 甲骨文 若 字解
(甲骨文)

「若」の初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

定州竹簡論語は「如」と記す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

實*(シツ)

実 金文 實 字解
(金文)

論語の本章では”満ちている。新字体は「実」。「ジツ」は慣用音。初出は西周末期の金文。字形は「宀」”屋根”+「貫」”タカラガイのさし”。家に財貨がつまっているさま。原義は”充実”。春秋末期までに、”まことに”・”満たす”の意に用いた。詳細は論語語釈「実」を参照。

若(ジャク)→而(ジ)

現伝の論語では「若」”のようにする”。定州竹簡論語では「而」”それで”。また「犯而不校」での語義も同じ。

而 甲骨文 論語 而 解字
(甲骨文)

「而」の初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

虛(キョ)

虚 楚系戦国文字 不明 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”空っぽ”。新字体は「虚」。初出は楚系戦国文字。字形は「虍」”トラの頭”+「丘」で、原義は未詳。戦国の竹簡では”むなしい”・”空っぽ”の意に用いた。論語時代の置換候補は存在しない。詳細は論語語釈「虚」を参照。

犯(ハン)

犯 秦系戦国文字 犯 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”人を圧倒する”。初出は秦系戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する文字は無い。論語時代の置換候補は、近音の「反」。字形は「犬」+「㔾」”うずくまるひと”で、原義はけものをおかすこと。派生義として、”侵害する”・”法に触れる”など。詳細は論語語釈「犯」を参照。

校*(コウ)

校 甲骨文 校 字解
(甲骨文)

論語の本章では”縛って動けなくする”→”追い詰める”。初出は甲骨文。字形は「交」”足を交叉した人”+「木」。足を縛って動けなくしたさま。春秋末期までに、”捕らえる”・”かせ”の意に用いた。詳細は論語語釈「校」を参照。

昔*者(セキシャ)

論語の本章では”むかしの話だが”。今昔物語の「今は昔」、昔話の「むかしむかし」と同じ。戦国時代になって出来た比較的新しい漢語で、論語の時代に存在しない。

昔 甲骨文 昔 字解
(甲骨文)

「昔」の初出は甲骨文。字形は「𡿧サイ」(災)+「日」。「𡿧」は洪水。洪水のあった過去を意味する。甲骨文の字形には部品配置が上下で入れ替わっているものがある。春秋末期までに、”むかし”の意に用いた。詳細は論語語釈「昔」を参照。

者 諸 金文 者 字解
(金文)

「者」の旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

友(ユウ)

友 甲骨文 友 字解
(甲骨文)

論語の本章では”友人”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。

嘗(ショウ)

嘗 金文 嘗 字解
(金文)

論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”従う”→”その通り行う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”事務”→”仕事”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”こういう行動原則全般”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…だった”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、下掲論語述而篇25と似過ぎており、述而篇では孔子の発言(ただし後世の創作)だが、本章では曽子になっていることから、曽子を持ち上げる意図で述而篇を利用して作られた話だと思われる。

  • 子曰、「善人、吾弗得而見之矣。得見有恆者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣。」(論語述而篇25)
  • 曾子曰、「以能問於不能、以多問乎寡、有如無、實而虛、犯而不校。昔者吾友、嘗從事於斯矣。」(本章)
孔子 人形
先生が言った。「万能の人を私は見たことがない。君子な人を見る可能性はある。」
先生が言った。「有能な人を私は見たことがない。心が不動の人を見る可能性はある。無くてもあると思い、空っぽでも満ちていると思い、追い詰められても安楽だと思う。難しいものだ、不動の心を保ち続けるのは。」

そもそも曽子が孔子の弟子ではないので(論語の人物・曽参子輿)本章は検証の必要もない偽作なのだが、「若有若無,若實若虛」は成立年代不詳の『西京雑記』巻五6のほか、前漢ごろの医書にも用例がある。ただし論語の本章の引用とは言えない。「犯而不校」は南北朝期に成立の『後漢書』卓魯魏劉伝9に用例がある。

論語の本章は定州竹簡論語に存在するから、前漢中期ごろには論語の一章として成立していたのだろうが、ただし定州竹簡論語は破損がひどく、本章全体が当時成立していたかは疑わしい。いずれにせよ文字史からも、本章は前漢儒による偽作と断定できる。

解説

顔回
儒者はここでの「友」を顔淵(顔回)だとしたがるが、元ネタは後漢の馬融が言った出任せに過ぎず、馬融は本章の偽作に手を貸した可能性はないものの、本章が創作された前漢の事情を知っていた可能性はあり、少なくとも曽子の権威付けに躍起になっていたとは言える。

  • 馬融曰友謂顔淵也(『論語集解義疏』)
    馬融
    馬融「友とは、顔淵である。」
  • 友,馬氏以為顏淵是也。顏子之心,惟知義理之無窮,不見物我之有間,故能如此。(『論語集注』)
    朱子
    友は、馬融氏は顔淵のことだろうと言っている。顔淵先生の心は、義理の広大さを知っていたので、自分と対象の間に差別を見出さず、だからこのようなことができた。

顔淵と曽子は年齢が離れ過ぎている上に、顔淵は早死にしたので、在世中に曽子如き小僧が友達づきあいできたとは思えない。顔淵は孔子放浪前から、おそらく子路と共に最初期の弟子で、曽子とは親子か孫ほど年が離れている。しかも後世神格化されたような、完全無欠の道徳君子ではない。董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

加えて曽子は捏造確定の論語里仁篇15を除き、ただの一つも孔子との対話が無い。つまり弟子ではない。この二つの理由だけでも、本章が後世の創作であることが確定するが、本章を含めて論語泰伯篇の成立は、存外早い可能性がある。

それは定州竹簡論語に本章が載っている事実で、ここから少なくとも前漢宣帝期には本章前後の曽子ばなしが出来上がっていた。武内義雄『論語之研究』によると、この論語泰伯篇は最古の魯論語に含まれていると言う。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21
学而 為政 里仁 八佾 公冶長 雍也 述而 泰伯 子罕 郷党 先進 顔淵 子路 憲問 衛霊公 季氏 陽貨 微子 子張 堯曰 子張問
上論 下論

※七:原・魯論語=河間七篇本/斉:原・斉論語七篇/二:斉魯二篇本/後:後世の付加

すると論語泰伯篇は、孔子と呉の使節の応対に曽子ばなしが押し込まれたのではなく、曽子ばなしに応対ばなしが押し込まれて成立したとも考えられる。だが無いデータからは何を言っても妄想に過ぎず、「そうだそうだ」と強弁する儒者のデタラメは真似しないでおく。論語における「束脩」を参照。

余話

トリ頭

論語の本章は、漢文の本質的虚偽(論語雍也篇9余話)をあかすものであると同時に、儒者の精神が幼稚で当たり前だった事実を物語っている。論語に含まれた偽作の多くが、弱者の弱点をいちいちプスプスと突き刺すサド話だが、精神が幼稚な者しかサドにはふけらない。

出来るのに疑問があれば出来ない者にも質問し、知識が多いのに疑問があれば知識が少ない者に問い」とは、謙虚を装っているが、相手が知らないと分かっているのに問うのは、いじめでなくて何だろう。そんな奴が「他人に説教しても嫌な気分を起こさせない」わけがない。

とあるトーダイを出た理系人が、かつて訳者にこう言い放った。

ト理とり「高校出てるんだから当然微積分はできるよね」
訳者「じゃウンキャル・イスケレッシ条約の内容を言ってみろ」
ト理「世界史は必修じゃないもん」
訳者「今は必修だ」
ト理「だってボクのころは…」
ウンキャル・イスケレッシ条約

だっても最上もがみもねえ。ト理あたまとはこのこった。理系に限らない。文系のトーダイ男が、当時訳者に付き合ってくれた女性を、執拗にこのでん﹅﹅でいじめたので、キレた訳者は●●●●に●た。女ぁ泣かされて黙ってなくちゃいかんほど、余計な人間は出来ていないからだ。

アホらしいのでここでやめるが、儒者の精神もこの程度で、ろくでもない連中と断じてよい。論語や漢文についても同様で、誰もが読めるわけがなく、読めるも読めないも、自分だけが知っていればいい。「情弱」とか放言して人を見下し、知れきった問いをする必要は全くない。

人を見下すために論語を読んでいる奴に、まともな人間は一人もいない。あらゆる勉強や稽古や練習は、自分を強くするためにするのであり、いじめに使う奴はわざに自信が無い。自分に都合の良い「正義」を振り回して聞く耳を持たず、サドにふける奴は人間が壊れている。

加虐すまじ。それが分からないなら、論語なんて読んでる場合じゃないと思う。

『論語』泰伯篇:現代語訳・書き下し・原文
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コメント

  1. チャーカ より:

    「多きを以て寡き有若に(於)問い、實ちて無く虚しいが若く」と解釈したものは無い様ですが、こんな言葉遊びで「馬鹿な有若を大勢で弄っていた、碌に身に付かず虚しいな」と蛇足な発言を曽子がした、曽子が孔子の教えを忘れて調子に乗っている様子を気付かれない様に他の誰かが入れ込んだと解釈できる気がします。「どんな友達だよ」と。

  2. チャーカ より:

    朝起きて、見直すと「以能問於不能、以多問於寡有若、無實若虛犯而不校」で、曽子を嫌いな人が作文したのかなと思い付きました。文章としては自然です。ネット上に指摘が無さそうでした。騙し絵の様で面白いですね。

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