論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
柴也愚參也魯師也辟由也喭
校訂
東洋文庫蔵清家本
柴也愚/參也魯/師辟也/由喭也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[a也愚],參也魯,師也辟b,由[也]獻c。孔子[曰:「回也其庶乎],282
- 、今本作”柴”。
- 辟、皇本、高麗本作”僻”。
- 獻、今本作”喭”。音近。
※「獻」カールグレン上古音xi̯ăn(去)、「喭」ŋan(去)。これで「音近」と言っていいのだろうか。
標点文
也愚、參也魯、師也辟、由也獻。
復元白文(論語時代での表記)
愚
※→戦国末期金文「柴」。論語の本章は「愚」の字が論語の時代に存在しない。「喭/獻」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
也愚ず、參也魯し、師也辟ず、由也獻し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
(?)は情緒不安定で、参(曽子)は善良で、師(子張)は依存心が強く、由(子路)は賢い。
意訳
は移り気。曽子は人がいい。子張は幼さが抜けない。子路は賢い。
従来訳
先師がいわれた。――
「柴は愚かで、参はのろい。師はお上手で、由はがさつだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
高柴愚笨,曾參遲鈍,顓孫師偏激,仲由莽撞。
高柴は馬鹿。曽参は愚鈍。顓孫師は過激。仲由は向こう見ず。
論語:語釈
柴*(サイ)→(?)
(戦国金文)
唐石経を祖本とする現伝論語では「柴」と記し、古注系の文字列を伝える清家本も同様に「柴」と記す。孔子の弟子の一人。あざ名は子羔。どうも子路付きの弟弟子だったらしく、子路が推薦して季氏の根拠地・費邑の代官にしてやった話が論語先進篇のこのあとで出て来るし、子路が衛国に仕えた際も伴って、同じく衛国に仕えた記録が『史記』の弟子列伝にある。
衛国の内乱に際し子羔は子路に脱出を勧めたが、子路はそれを聞かず討ち死にしてしまった。
子路が公宮に入ろうとすると、弟弟子の子羔(シコウ)が門から出てきたのに出会った。子羔は「門はすでに閉じています」と言ったが、子路は「まあとにかく行ってみよう」と言った。子羔は「無理です。わざわざ危ない目に遭うことはありません」と言ったが、子羔は引き止められずに公宮から出て、子路は入って門前に立った。
公孫敢が門を閉ざして「入るな」と言うと、子路は「公孫どの、貴殿は利益に目が眩んで逃げたな。拙者はそうではない、俸禄分は主君の危険を救うつもりでござる」と言った。たまたま外に出る使者があったので、入れ替わりに子路は門を入った。そこで大声で叫んだ。
「太子どの、孔悝(コウカイ)どのは役立たずですぞ。殺しても代わりはいくらでもござる。それにしても太子どのは昔から臆病でござった。孔悝どのを放しなされ。さもないと下からこの見晴らし台に火を付けますぞ。」
太子は震え上がって、石乞・孟黶(ウエン)を台から降りさせて子路と戦わせた。戈で子路を撃ったところ、子路の冠の紐が切れた。子路は「君子は死んでも冠を脱がないものでござる」と言って、紐を結び直している内に殺された。(『史記』衛世家)
『孔子家語』では姓は高、いみ名は柴とされる。
高柴,齊人,高氏之別族,字子羔。少孔子四十歲,長不過六尺,狀貌甚惡,為人篤孝而有法正。少居魯,見知名於孔子之門,仕為武城宰。
高柴、斉の出身である。斉で勢力のあった高氏の別族で、あざ名は子羔。孔子より四十歲年少で、身長は六尺(120cm?)足らず、顔の造作が極めて悪かったが、人柄はまじめで孝行者であり、掟通りに従った。若いうちから魯に移住し、孔子の弟子として世間に知られた。仕官して武城の代官になった。(『孔子家語』七十二弟子解)
『史記』弟子伝では次の通り。
高柴字子羔。少孔子三十歲。子羔長不盈五尺,受業孔子,孔子以為愚。
高柴、あざ名は子羔。孔子より三十歲年少。子羔は成人しても身長が五尺(1m?)に満たなかった。孔子の教えを受けたが、孔子は情調不安定と評価した。(『史記』弟子伝)
「柴」は論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。字形は「此」+「木」。「此」は「止」”足”+「匕」”小型の刃物”。足元にある、小型の刃物で採集できる木材の意。同音は「祡」”火祭り”・「㧘」”積み上げる・頬を撫でる・打つ”。戦国末期の用例は1件のみで、しかも語義は分からない。ただし人名として用いられるため、近音同音のいかなる漢字も置換候補になり得る。詳細は論語語釈「柴」を参照。
定州竹簡論語では「」と記す。語義や読みは分からない。『大漢和辞典』にもなく、音訓、初出、上古音ともに不明。上下に〔人+夫〕の旁も見つからない。中国語のサイトでは、「梌」(待)と記している所があるが、文物出版社の冊子版とは違う字で、そのように書き換える根拠も書いていない。上下に〔八+夫〕の旁は「𠔉」として存在し、「巻」の略体。「亻」+〔八+夫〕は存在して「𠈖」。上古音は不明。一説に「倦」”うんざりする・あきる”の異体字とされるので、カールグレン上古音はɡʰi̯wan(去)であることになる。また一説に「媵」”腰元”di̯əŋ(去)の異体字とされるが、論拠はただでさえ信用できない『説文解字』の、それも憶説なので真に受けられない。
結局、「木」+〔八+夫〕は現行の漢字に存在しない。「木」+「巻」も存在しない。
論語の本章で「柴」と書き始めたのは古注『論語集解義疏』で、その現存世界最古の版本である日本の清家本は「柴」と記す。従って前漢中期の定州竹簡論語から後漢の間に、「」から「柴」へと書き換えられたことになるが、「」→「柴」を証す証拠は存在しない。よって「」は音も意味も分からず、「柴」である証拠もない。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。”…はまさに…”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
愚(グ)
「愚」(金文)
論語の本章では、”心に落ち着きが無い”。情緒不安定だ、の意。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「禺」”かりそめの・真ん中でない”とそれを部品に持つ漢字群。字形は「禺」+「心」で、まっとうでない心のさま。原義は”愚か”。詳細は論語語釈「愚」を参照。
「愚」は孔子と同世代の孫子、孔子と入れ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子、孟子と同じ戦国中期を生きた荘子、荀子と、やや遅れる韓非子が用いているが、なぜか孔子没後一世紀に生まれた孟子は言っていない。孟子は「賢・不賢」の対比は言ったが(梁恵王ほか)、「賢愚」は言わなかった。諸本に後世いじくられた可能性が十分あること、出土史料では戦国末期が初出であることから、「愚」は戦国末期になって生まれた概念とみるのに筋が通る。
「愚」の金石文初出である戦国末期「中山王壺」には次の通りある。
寡人之を聞けり、小子に事(つか)えて女(なんじ)長(た)けたり。愚に事えて女智たり。此れ言うは易くし而(て)行うは難き也。
ワシ(中山王)はこう聞いている。幼児に仕えてそなたは大人であった。「愚」な者に仕えてそなたは智者であった。これは口に出すのは優しいが、実行するのは困難であると。
つまり「愚」とは「智」の対義語と推察できる。また『荀子』に次のようにある。
是是非非謂之智,非是是非謂之愚。
正しいことを正しいと判断し、間違いを間違いと判断するのを智という。正しいのを間違いと判断し、間違いを正しいと判断するのを愚という。(『荀子』修身)
また「愚」は「禺」である「心」を意味するが、「禺」を”尾なが猿”と言い出したのは後漢の『説文解字』で、後漢儒の言い分に従いがたいのは後漢というふざけた帝国を参照。「禺」は「鬼」や「畏」の類字で、姿はほのかだが手を差し伸べてくる人型の者をいう。従ってたまたま連れ添う者を「配偶」といい、たまたま出くわすのを「相遇」といい、一時的な仮住まいを「寓居」という。
対する「智」は正は正、非は非とゆるぎなく明らかに判断できる心の状態や能力を言い、対する「愚」は判断や情緒が安定しないことを言う。中山王はかつて幼かったゆえに、心が安定せず揺れ動いたのであり、それを「愚」と表現したのだ。
參(シン)
(金文)
孔子の弟子とされてきた、曽子の名。新字体は「参」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)は通常「サン」だが、曽子の名は「シン」と読むならいになっている。「參」は春秋末期では明確に数字の”3”として用いられており、「曾參」(曽参)とは単に”曽家の三男”を意味するのではないか。詳細は論語語釈「参」を参照。
論語の本章で孔子は名指しで”あのウスノロ”と罵倒したことになるが、そもそも弟子ではないから評論する動機に乏しい。曽子は孔子の直弟子ではなく、仮に実在したとしても、孔子家の家事使用人に過ぎない。詳細は論語の人物:曽参子輿を参照。
また論語の本章を偽作した儒者は、曽子の系統を名乗っていたから、「曽子はウスノロだ」と行しに言わせる動機が無い。下記「魯」語釈参照。
魯(ロ)
(甲骨文)
論語の本章では”善良”。孔子の生国の名でもある。初出は甲骨文。現伝字形によって「魚+日」と解し、バカな魚が陸に飛び上がって日に干される姿と解するのは間違っている。金文の字形を素直に見るなら、「魚」を美味しく「𠙵」”くち”で味わうさま。甲骨文の字形も「魚」+「𠙵」。うまいものの一つで、原義は”美味い”・”よい”。甲骨文では原義で、また地名に用いた。金文でも原義・地名・国名に用いた。詳細は論語語釈「魯」を参照。
”バカ”の意だと言い出したのは後漢中期の『説文解字』で、末期の『釈名』になると魯国を”馬鹿の集まり”とまでこき下ろしている。後漢儒の信用ならなさは後漢というふざけた帝国を参照。
魯:鈍詞也。从白,鮺省聲。《論語》曰:「參也魯。」
魯とは、言葉ににぶいことである。白を部首に持ち、鮺(サ・シャ。魚の漬物)の略体で音を表している。論語に「參也魯」という。(『説文解字』白部)
魯,魯鈍也。國多山水,民性樸魯也。
魯とは、うすのろで鈍いことである。魯国には山や川が多かったから、民の性質は馬鹿正直でウスノロになった。(『釈名』釈州国)
山川が多いと人が馬鹿になるというのはどういう理屈か分からないし、そもそも”バカ”を国名にかぶる国があるわけがない。「田舎だから人間がトロい」ということなのだろうが、どうしてそんな国から、中華文明の宗家である孔子が出てきたというのだろう。しかも魯は開祖が周公旦という、これ以上無いほどの由緒の正しさで、中原文化の中心国でもあった。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰魯鈍也㑹子遲鈍也
注釈。孔安国「頭が悪くて感覚が鈍いのを言う。先生の前に出ても判断が遅れ気味で理解が鈍かったのである。」
古注にこう書き付けた孔安国は実在の人物ではないのだが(論語郷党篇17語釈)、その仮面をかぶって後漢儒がこう書き付けた事情は推察できる。「魯」のカールグレン上古音はlo(上)で、同音に「盧」(平)があり、「馬」を付ければただちに「驢」”ロバ”となる。英語でdonkeyが”間抜け”を意味するように、「ロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、図太い性格と言われる」とwikiにある。
師(シ)
論語の本章では、孔子の弟子で、姓は顓孫、いみ名は師、あざ名は子張。「何事もやりすぎ」と評された。一門の中では年少組で、『史記』弟子伝によれば孔子より48年少。孔子が中堅役人から出世して、地方代官だった頃に生まれたことになる。張の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞なので偽造と断定できない。詳細は論語の人物・子張参照。
論語の本章では、弟子の長老組である子貢の発言だから、目上として「師」といみ名を呼んでいる。
(甲骨文)
「師」の初出は甲骨文。甲骨文は部品の「𠂤」の字形と、すでに「帀」をともなったものとがある。字形の「𠂤」は兵糧を縄で結わえた、あるいは長い袋に兵糧を入れて一食分だけ縛ったさま。原義は”出征軍”。「帀」の字形の由来と原義は不明だが、おそらく刀剣を意味すると思われる。全体で兵糧を担いだ兵と、指揮刀を持った将校で、原義は”軍隊”。用例:もともと”軍隊”を意味する語で、日本語での「師団」とはその用法。甲骨文の段階ではへんの𠂤だけでも”軍隊”を意味した。それが”教師”の意に転じた理由は、『学研漢和大字典』では明確でなく、『字通』では想像が過ぎる。”将校”→”指導者”と考えるのが素直と思う。甲骨文の語義は不明。金文では原義の他、教育関係の官職名に、また人名に用いられたという。さらに甲骨文・金文では、”軍隊”の意ではおもに「𠂤」が用いられ、金文でははじめ「師」をおもに”教師”の意に用いたが、東周になると「帀」を”技能者”の意に用いた。詳細は論語語釈「師」を参照。
辟(ヘキ)
(甲骨文)
論語の本章では”依存心が強すぎる”。孔子の後ろにくっついてばかりで、自分で行動しないさま。初出は甲骨文。字形は「卩」”うずくまった奴隷”+「口」”ことば”+「辛」”針または小刀で入れる入れ墨”で、甲骨文では「口」を欠くものがある。原義は意見や武器で君主に仕える者の意で、王の側仕え。甲骨文では原義のほか人名に用い、金文では”管理”、”君主”、”長官”、”法則”、”君主への奉仕”の意に用いられた。”たとえる”の語義は、「比」と通じ、戦国時代以降に音を借りた仮借。詳細は論語語釈「辟」を参照。
論語の本章の「辟」を「僻」”片寄っている”と言い出したのは後漢の馬融で、もちろん信用するに値しない。後漢というふざけた帝国を参照。
古注『論語集解義疏』
註馬融曰子張才過人失在邪僻文過也
注釈。馬融「子張は才能が人より優れていたが、よこしまなクセがあって言葉を飾りすぎる欠点があった。」
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
喭*(ガン)→獻*(ケン)
「喭」と「獻」が共有する語義として、論語の本章では”かしこい”。この語義は春秋時代では確認できない。
「喭」は漢代の『爾雅』に「美士為彥」とあり、隋代の注釈『経典釈文』に「喭音彥本今作彦」とあるので、「美士」、つまり”才能のある士族”の意。「獻」は『爾雅』に「獻,聖也」とあって、”かしこい”の意。
(古文)
「喭」は論語では本章のみに登場。初出は不明。”あきらかに”・”おごそかに”の意に限り論語時代の置換候補は「嚴」(厳)。字形は「口:+音符「彦」。字形の由来は不明。同音は「顏」(平)、「鴈」”がん・あひる”(去)、「雁」(去)。先秦両漢の文献では、論語の本章とそれを引用した『史記』弟子伝以外では、『後漢書』に「諺」”ことわざ”として用いられたのが1例、あと一例は占い本の「易林」で「坤:喭喭諤諤,虎豹相齚。懼畏悚息,終无難惡。」とあるが、占い本の通例でどうとでも取れるようにしか書いていないから、語義は分からない。トラとヒョウが噛み合うようにわぁわぁ言い合うことだろうか。詳細は論語語釈「喭」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では「獻」(献)と記す。この字も論語では本章のみに登場。『大漢和辞典』に”威厳がある”の語釈を載せる。初出は甲骨文。字形は「鬳」”祭器”と「犬」”犠牲獣”で、祭壇に供え物を並べたさま。原義は”たてまつる”。上古音は「喭」ŋan(去)に対しxi̯ăn(去)。甲骨文で”供える”の意に、また氏族名か人名に用いた。西周の金文では、”飯炊きガマ”・”むかえる”と解しうる用例がある。ただ戦国末期までに「賢」と解せる例は無い。詳細は論語語釈「献」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に載り、それよりやや先行する『史記』弟子伝に全体が載る。ただし「」は「柴」になっている。文字史的には「」と「愚」の論語時代の不在により、本章は戦国時代以降の儒者による偽作と判断するのが筋が通る。
また内容的には、参=曽子は孔子の弟子ではなく家事使用人で(論語の人物:曾参子輿)、しかも没後に孟子によって儒家の宗家の一人に据えられた。論語の本章が孔子の肉声なら曽子について評論する可能性は極めて低く、戦国時代の儒者が「曽子はバカ」と書く可能性は低い。
孟子は曽子を宗家に据えたように立派な人物として記しているし(孟子は曽子をどう見たか)、孟子より60ほど年下で戦国末期を生きた荀子も敬うべき先達の一人として取り扱っている。(荀子は曽子をどう見たか)。
だが漢帝国成立後にいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒は、むしろ顔淵の神格化に忙しく、曽子の株を下げてはいないが、現存唯一の言行録である『春秋繁露』では曽子について2箇所しか言及していない。つまり曽子ウスノロ説が流行っても困らないというわけだ。
だが定州竹簡論語の埋蔵された前漢の時点では、「魯」を”ウスノロ”と解そうものなら、言った者の首が飛んだ。高祖劉邦の娘に魯元公主がおり、他人のあら探しをして首をちょん切ってやろうと目をぎらつかせている連中がうろつく前漢朝廷で、そんなことを言えるわけがない(論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」)。
これは、古注で前漢の司馬遷や董仲舒と同時代の人物とされる孔安国の、実在が疑わしいさらなる理由でもある。「魯とは頭が悪くて感覚が鈍いのを言う」などと書き付けて、命が助かる道理が無い。国の開祖の実の娘が、”ウスノロの総本山”だと、現代の独裁国でも言えば殺されるに決まっている。
しかも「困らない」とは言え、董仲舒を筆頭とする漢儒が、曽子ウスノロ伝説を、わざわざ偽作する動機は無いわけで、代わりに誉めあげ話なら動機はある。子張を「子供っぽい」とバカにしたのも、「こんな奴に仁などあるわけが無い」(論語子張篇15)と曽子が言ったのと歩調を合わせている。ただ、子路を「立派な士族だ」と誉めあげたのは、漢儒には珍しい。
いずれにせよ本章の成立時期は、あるいは戦国に遡り得るのだが、通説の曽子ウスノロ説は前後の漢帝国ではあり得ず、南北朝になってからだと考えるべきだ。
解説
漢代の漢語で論語を解釈すると、通説とはまるで違ってくるのに驚く諸賢もおられるかも知れない。だが論語の本章が文字史的に春秋時代に遡れない以上、現存最古の定州竹簡論語の文字列に従いつつ、かつ、漢代の漢語で解釈しなければいけないことになる。
論語の本章が史実なら、孔子は弟子にも厳しい批評家だった事になるし、子貢が同じように人物評をすると、「お前は偉いんだな」といったイヤな表現でたしなめたとされるが偽作(論語憲問篇31)。また定州竹簡論語から、本章は次章と続きで記されていたと分かる。
論語の本章に登場する、誰だか分からない「」について、「中国哲学書電子化計画」サイトの『定州漢墓竹簡』は「梌」と記し、(待)とかっこ付きでつけ加えているが、「」のフォントが存在しないから、代用で記しただけ。文物出版社が出した紙版の原本にはどこにもそのようなことは書いていない。
「梌」は『大漢和辞典』によると漢音は「ト・タ・ユ」、カールグレン上古音はdʰo(平)。「ト」と読んでヒサギという木の名、あるいはカエデ、あるいはするどい、「タ・ユ」と読んでトゲのある木。「梌」への改変がそもそも無根拠なのだが、どこから来たのかかっこ付きで「待」dʰəg(上)を付加するに至っては、完全にデタラメである。
語釈は国学大師サイトもさして変わらない。過去の中国儒者のデタラメは何度も本サイトで取りあげたが、現在の中国人もいかにデタラメな連中か、よく分かるというものだ。
ただし、なにせ10億人以上もいることから、中にはまじめに・原文に忠実であろうとする人がいるかもしれない。だが例外と心得るべきで、古典を扱うサイトの書き手が、今回のように不真面目なのはむしろ普通と言っていい。日本の「専門家」もどこまで信じていいやら。
その例外である藤堂博士の漢字学では、「単語家族」という概念を用いる。それによると∧型は、”かどだてて区切る・きりたつ”の意があるとされる。通常、全・会などの部首は「人」と解されるが、「」の旁を”ひと”に関わるものだとするなら、「柴」とは全く関係なくなる。
むしろその方が解釈は楽で、「夫」は藤堂説では「父」や「伯」と同じ、年長の男、成人した男を言う。部首との意味上のつながりはありそうも無いから、「夫」と同音や近音の、なにがしかの樹木や木製品という事になるだろう。
だが∧型と考え、「夫」を無視するなら、柴は一定の長さに切りそろえた細枝の束を言うから、「柴」の異体字と強弁できなくはない。だが以上は、やはり趣味の範囲のお遊びと閲覧者諸賢には心得て頂きたい。
論語の本章、新古の注は次の通り。古注は本章部分のみ記す。
古注『論語集解義疏』
柴也愚註弟子高柴也字子羔愚愚直之愚也參也魯註孔安國曰魯鈍也㑹子遲鈍也師也僻註馬融曰子張才過人失在邪僻文過也由也喭註鄭𤣥曰子路之行失於吸喭也
本文「柴也愚」。
注釈。弟子の高柴のことである。あざ名は子羔。愚は愚直(まじめすぎる)の愚である。
本文「參也魯」。
注釈。孔安国「うすのろで鈍いの意である。先生の前に出ても、物わかりが悪くぼんやりしていた。」
本文「師也僻」。
注釈。馬融「子張は人より才能がありすぎて、よこしまなクセがあり、表を飾る欠点があった。」
本文「由也喭」。
注釈。鄭玄「子路の行いには、物言いが大げさである欠点があった。」
新注『論語集注』
柴也愚,柴,孔子弟子,姓高,字子羔。愚者,知不足而厚有餘。家語記其「足不履影,啟蟄不殺,方長不折。執親之喪,泣血三年,未嘗見齒。避難而行,不徑不竇」。可以見其為人矣。參也魯,魯,鈍也。程子曰:「參也竟以魯得之。」又曰:「曾子之學,誠篤而已。聖門學者,聰明才辯,不為不多,而卒傳其道,乃質魯之人爾。故學以誠實為貴也。」尹氏曰:「曾子之才魯,故其學也確,所以能深造乎道也。」師也辟,辟,婢亦反。辟,便辟也。謂習於容止,少誠實也。由也喭。喭,五旦反。喭,粗俗也。傳稱喭者,謂俗論也。楊氏曰:「四者性之偏,語之使知自勵也。」吳氏曰:「此章之首,脫『子曰』二字。」或疑下章子曰,當在此章之首,而通為一章。
本文「柴也愚。」
柴は孔子の弟子で、姓は高、あざ名は子羔。愚とは、頭は悪いが人柄が善すぎるということである。『孔子家語』にその事情を「先生の陰も踏まないほど慎み深く、春になって虫が出てきても殺さず、品行方正で姿勢を崩さなかった。親の喪に三年従う間、血の涙を流し、歯を見せて微笑むことも無かった。危ないことは避けて通り、早道を行こうとせず、山に穴を掘ってさっさと通るようなこともしなかった。」と記す。ここから人柄が分かる。
本文「參也魯」。
魯とは鈍いことである。
程頤「曽子という男は、鈍さを極めて儒学を会得した。」「曽子の学風は、ひたすらまじめだった。孔子先生の聖なる教えを受けようとした者には、頭も口も回る者が多く、出来ない事は多くなかった(何でも出来た)。だが結局教えを伝えることが出来たのは、人柄がボンヤリした曽子だけだった。だから学習には、馬鹿正直が貴ばれるのだ。」
尹焞「曽子の頭はボンヤリしていたが、だからこそその学びは確かだった。そのおかげで儒学の神髄まで学び取れたのだ。」
本文「師也辟」。
辟の字は婢-亦の反切で読む。辟とは、ゴマすりの意である。学びも上っ面だけでやめてしまい、ぜんぜん誠実なところが無い。
本文「由也喭」。
喭の字は、五-旦の反切で読む。喭は、アラっぽくがさつなことである。言い伝えに拠れば、程度の低い話をする者である。
楊時「四人の正確には片寄りが有り、それを指摘して改めるよう孔子は促したのである。」
吳棫「この章の頭には、”子曰”の二字が欠けている。」
あるいは次章の「子曰」は、本章の頭にあるべきで、二章は一章と解釈すべきだろう。
余話
コレジャナイ
論語の伝承は、隋代あたりから日中で分岐して、日本では古注系統の文字列が伝承されたが、中国では唐石経を経て、南宋代に新注が出るに及んで古注は滅び、現伝の論語はおおむね新注の文字列を底本とするものが多い。理由は「本場」中国だからだろうか。
その結果、室町から江戸にかけての日本人は、古注を伝承しておきながら、「本場」の影響で論語を書き換えたりしている。懐徳堂本にはその例が見られる。だが上掲「中国哲学書電子化計画」のようなデタラメは、「本場」であろうとあり得るわけで、信用できるとは限らない。
だが無知ゆえに「コレジャナイ」を取り込んでしまうのは、文化的後進国にはままあることだ。最近の教科書ははっきり書かないらしいが、奈良の大仏を開眼した菩提僊那は、仏教僧ではなくバラモン僧だった。自分は馬鹿馬鹿しいことをさせられていると思ったに違いない。
当時の中国は唐帝国の時代で、帝室が鮮卑人ということもあって、異文化に対する寛容性があった。密教が流行ったのもその一例だが、インドに生まれた菩提僊那は、中国に行けば商売になると考えたらしい。そして中国側では、仏教とバラモン教の違いがよく分からなかった。
従って唐では菩提僊那は仏教僧のふりをして仏寺に住んだ。バラモン僧であるからには、鼻のとんがったインド・アーリアンだったろうし、現在残された画像もそうなっている。だからまわりの顔が平たい連中を、もちろんシュードラかパリアだと見なしていただろう。
だがそれを口に出すような人格では、そもそもヒマラヤ越えまでして中国へ出稼ぎに来ないわけで、いわゆるカーストのカの字も出さないで中国人と付き合っていただろう。そこへもっと文化的に遅れた日本からの遣唐使がやって来た。そして日本へ来いとせがまれた。
当時の日中関係は、唐帝国から見れば日本は属国だが、日本人はそう思っていなかった。少なくとも朝廷の者はそう思わず、中国と対等のつもりでいた。中国式の独立国とは、中国同様に周辺の異族を配下に従え、異族がたびたび訪れて君主のご機嫌伺いをせねばならない。
困った日本の朝廷は、玄蕃寮という役所を作り、東北地方に住む人々を服属する異族と見なしてお茶を濁したが、それでも足りないとみて、遣唐使を遣っては珍しい国の人々を拝み倒して日本に連れてきた。菩提僊那もその一人で、どの程度の文化人だったか知れたものではない。
見た目が珍しければそれでよかったのである。菩提僊那と同じ便で、ペルシア人の李密翳や林邑(ヴェトナム中部)人の仏哲も来日したが、仏哲は音楽を伝えたとされるものの、李密翳は日本で何をしたのだか分からない。珍しい人が「いる」事に価値があったのだから当然だ。
菩提僊那ほかにとっての渡日とは、この世の果てに行かされるようなもので、しかも途上の難破が多いときている。よほどの好条件を示されねば考えられないことで、聖武天皇や光明子の顔が平たいのが気にならないほどの何かが、彼らの手に渡ったと考えるべきだ。
日本の朝廷人も、菩提僊那らが心中どう思っているかは感付いていただろう。だがそうした異人が聖武天皇の言いなりになることで、朝廷という店の格好が付いた。東北の庶民も含めたお芝居なのだが、本場のインド人という触れ込みは、役者としてはうってつけだった。
事情は論語の解釈も同じで、著名な古典を読んだという自己満足を求めるなら、そのあたりに転がっている「コレジャナイ」論語本でもうってつけだろう。上記のように「本場」中国人による「コレジャナイ」論語の解釈は、むしろ通説としての正統性を帯びさえもいるからだ。
だが決して、正当性は帯びていない。それでもごく普通の論語読者にとってはどうでもいいことで、それより気を付けるべきなのは、論語をタネに他人に説教しようとする者どもだ。価値の無いところへもったいを付けているのだから、カルト宗教とやっていることは変わらない。
論語は暇つぶしに止めておき、説教しに来る者をせせら笑う。たぶんみんな、それでいい。
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