論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰三年學不至於穀不易得也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰三年學不至於穀不易得也已
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「三年學,不[至於穀,不易得已a]。」202
- 已、何本作「也」、皇本・高麗本「也」下有「已」字。
標点文
子曰、「三年學不至於穀、不易得已。」
復元白文(論語時代での表記)
書き下し
子曰く、三年學びて穀於至ら不るは、得易から不り已。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「三年学んで就職しない者は、めったにいないのである。」
意訳
それがしの塾でござるか? まあ一通り学び終えるまでに十年は掛かりましょう。もっともたいがいの弟子は、三年学ぶとさっさと仕官してしまいますがな。何とかお役目が務まっているようでござる。
従来訳
先師がいわれた。――
「三年も学問をして、俸祿に野心のない人は得がたい人物だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「學了三年,還找不到好工作的人,很少有。」
孔子が言った。「三年間学び終えても、それでもよい職にありつけない者は、非常に少ない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
三年(サンデン)
論語の本章では”三年の間”。「サンネン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。
(甲骨文)
「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。
(甲骨文)
「年」の初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
至(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”至る”→”ありつく”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。
武内本に、「至は志と通ず」とある。すると「不至於穀」は、”仕官を望まない”の意。上古音は「志」ȶi̯əɡと近く、ȶi̯ĕd。 ̆ブリーヴは極短音、əはエに近いアを示す。語末のdとgは、おそらく日本人にははっきり聞き分けられないだろう。『大漢和辞典』は『荀子』を引き、”しるす”の語釈で「志に通ず」という。ただしその『荀子』の出典が分からない。
「志」の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。武内博士の言う通りだとすると、孔子の生きた春秋時代では、「至」が「志」を意味したことになるが、その用例が出土史料にはない。博士は上古音はともかく、甲骨文・金文を参照できる前の時代の人なので、所説に従わなくてよいだろう。詳細は論語語釈「志」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
穀*(コク)
(殷末~西周中期金文)/(楚系戦国文字)
論語の本章では”穀物”→”給料”→”官職”。初出は殷代末期あるいは西周早期の金文。字形は西周中期までは「丰」”穀物の穂”2つ+「𠙵」”くち”。口にすべき穀物を表す。楚系戦国文字は現行字体に「木」を加えたもので、秦系戦国文字から現行字体となる。「禾」”穀物の穂”+「士冖」”殻”+「攵」”叩いて脱穀する”で、実った穀物を脱穀する、あるいは殻剥きまでするさま。春秋末期までに”穀物”の意に用い、戦国の竹簡では加えて”ご飯を食べる”の意に用いた。詳細は論語語釈「穀」を参照。
論語の時代には貨幣が発達しておらず、給料は穀物で支給されるのが普通だった。従って論語の本章では給料のこと。武内本には、「釋文、鄭玄曰く、穀は禄也」とある。
なお孔子より約一世紀前、南方の大国・楚の名宰相として知られた人物に、闘穀於菟(トウ・コクオト)がいる。穀の字を含め、何と読み下していいかわからない名前だが、楚国が周王朝の臣下でありながら、しかも言葉を大きく異にしていたことの、一つの事例として受け取れる。
清廉潔白な政治家で、私財を投げ出してその財政を救ったために貧乏になった。気の毒に思った楚王が俸禄を上げようとすると、どこかに隠れて出てこない。取り消すと出てきたので、俸禄の代わりに、出勤時に朝ご飯を振る舞うことになったという。
易(エキ)
(甲骨文1・2)
論語の本章では、”…しやすい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、「匜」”水差し”に両手を添え、「皿」=別の容器に注ぐ形で、略体は「盤」”皿”を傾けて液体を注ぐ形。「益」と語源を同じくし、原義は”移し替える”・”増やす”。古代中国では「対飲」と言って、臣下に褒美を取らせるときには、酒を注いで飲ませることがあり、「易」は”賜う”の意となった。戦国時代の竹簡以降に字形が乱れ、トカゲの形に描かれるようになり、現在に至っている。論語の時代までに確認できるのは”賜う”の意だけで、”替える”・”…しやすい”の語義は戦国時代から。漢音は”変える”の場合「エキ」、”…しやすい”の場合「イ」。詳細は論語語釈「易」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”手に入れる”→”…出来る”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
也已(ヤイ)→已(イ)
論語の本章では、「なるのみ」と読んで強い断定の意に用いている。
(金文)
「也」の初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
(甲骨文)
「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
定州竹簡論語は「已」とのみ記す。「ぬ」と読み、”すでにそうなっている”の意で、完了・断定の意を表す。「のみ」と訓読してもかまわない。
唐石経は「也」とのみ記す。清家本は「也已」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。ただし本章の場合は現存最古の論語本である定州竹簡論語が残っており、これに従い「已」のみへと校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語にはあるので、前漢前半には論語の一章として成立していたことになるが、春秋戦国時代の誰一人引用も再録もせず、それを含めた先秦両漢の引用や再録も無い。事実上の初出が定州竹簡論語で、再出は後漢から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』になる。
文字史的には全て論語の時代に遡れ、漢字の用法にも疑うべき点を持たず、内容的には史実の孔子の教説と矛盾が無い。孔子の史実の言葉として扱ってよい。
解説
論語の本章も、孔子と呉の使節との対話と解釈した。
中座から戻った孔子に、酒乱から落ち着きを取り戻した呉の使節が、あるいは孔子の機嫌を取るため、塾や弟子について質問したのだろう。もしかすると「ウチの愚息もどうでしょうかな、先生に教えて頂ければ、ひとかどになりますかな」と聞いたと想像すると楽しい。
なお古注は注を付けてますますわけを分からなくし、朱子は仕官を断る高潔な人物は少ない、と本章の意味を取っている。孔子は弟子が就職を断ったと聞いて喜んだ、という話(論語公冶長篇5)があるから、孔子ほど出世出来なかった儒者が、そう取りたがるのは当然ではある。
古注『論語集解義疏』
子曰三年學不至於榖不易得也已註孔安國曰榖善也言人三嵗學不至於善不可得言必無及也所以勸人於學也疏子曰至也已 勸人學也榖善也言學三年者必至於善道也若三年學而不至善道者必無此理也故云不易得也已孫綽曰榖祿也云三年學足以通業可以得祿雖時不祿得祿之道也不易得已者猶云不易已得也教勸中人已下也
本文「子曰三年學不至於榖不易得也已」。
注釈。孔安国「榖とは善いことの意味である。人が三年間勉強しても善人になれないようでは、もう何とも言いようが無いほどのありえない愚物だ。だからそうでない普通の人には、勉強を勧めたのである。」
付け足し。先生は極致を言った。人に学ぶ事を進めたのである。穀とは善である。その心は、三年学んだ者は、必ず善の道に導かれるということである。もし三年学んでも善の道に至れないような者が出たなら、このことわりは破綻する。だから「めったにいない」と言ったのだ。
孫綽「穀とは俸禄のことだ。その心は、三年学べば仕事に精通するから、職にありつくことが出来る。時には出来ない者も出ようが、三年学べば十分だというのが、就職の道理というものだ。それでも”めったにいない”と言ったのは、そう簡単にはありつけないぞ、ということで、これは中人以下(論語雍也篇21)に向けての説教である。」
新注『論語集注』
易,去聲。穀,祿也。至,疑當作志。為學之久,而不求祿,如此之人,不易得也。楊氏曰:「雖子張之賢,猶以干祿為問,況其下者乎?然則三年學而不至於穀,宜不易得也。」(『論語集注』)
易は去声である。穀は俸給である。至るは、志の間違いではないかと思われる。長い間学問をして、俸禄にありつこうと思わない人は、めったにいない。楊氏曰く、「賢い子張でも、やはり俸禄にありつこうとしてせっせとマニュアルを読み、孔子に就職活動を質問した。それ以下の者どもは言うまでもない。だから三年学んで職にありつこうと思わない者が、めったにいないのも当然だ。」
『史記』孔子世家では、孔子の弟子が増えたのは、洛邑留学から帰ってからだ、とする。司馬遷はなんらかの記録か、魯国での古老からの聞き書きでそのように書いたのだろうが、実際に孔子塾が繁盛し始めたのは、孔子が高官になった実績が出来てからだったに違いない。
子路、顔回、子貢、冉有といった古参と、子張、子夏、そして弟子とは言いかねる曽子などの世代がかっきり分かれており、間を埋める有名弟子は子游しかいないのが、それを示している。古参は孔子がまだ無名な頃に入門したからには腹も据わっており、放浪にも同行した。
対して後期の弟子は仕官を求めたのであり、平民宰相だった孔子の実績が、彼らの入塾熱を高めたとしか思えない。言い換えるなら無位無冠時代の孔子の弟子になったのは、地縁血縁があるか、孔子と趣味や感覚が合った者だけだろう。中国人は論語時代もドライである。
それに学問が優れていても、仕官の口利きが出来なければ塾経営は成り立たない。通っても全然大学に受からぬ予備校や、卒業生を企業が有り難がらない大学に、好きこのんで入る人が少ないのと同じ。また有名大学だろうと卒業生の質を保証できないのは、孔子塾も同じだった。
論語の本章は、それを嘆く孔子の言葉かもしれない。
余話
全てが過ぐに過去になる
現代日本の就職難が言われて数十年が過ぎ、もはやそういう議論すらめったに聞かれなくなった。訳者はその切り口を自身の体験としてよく知っており、役立たず文学部でも一部上場企業の方から勝手に内定をよこしたものだが、さらに大学院を出てみると全く職が無かった。
いわゆるバブル崩壊の初期段階で、このあとにいわゆる就職氷河期が来る。この境目の数年間で、日本社会はまるで違うものになった。以前は、今日より明日はきっとよくなると信じて疑わず、W大あたりだと女子学生はお●を半出しにしてお立ち台で羽根扇子振って踊っていた。
訳者はその乱痴気騒ぎにはどうもついていけず、こんな世の中いつまでも続くわけが無いと思っていたが、だからといって今日の事態を予想したわけでも、何か手を打てたわけでも無い。堅実な同期は当時は人気が無くて就職容易だったお堅い職に就いた。
そういう同期の中には、あぶないク●リをやらかすようなトンデモ学生生活を送っていた者も居たが、今思えば彼彼女たちのような選択が、今の時点では人生ゲームの勝者と言える。学生時代と就職後で、極端から極端へと移ったのだが、足して二で割れば平均というわけだ。
論語や儒教では「中庸の徳」を説く。片寄りが無い、ほどほど、の意。だが現伝の経典『中庸』は前漢儒による偽作で、数理的能力皆無の儒者が、中庸の何たるかを知っているわけも無い。言葉をいじくり回して空理空論を説くだけで、読んで中庸を体得できるわけではない。
論語雍也篇29「中庸の徳たるや」も、実は中庸を孔子が説いたかははなはだ怪しい。人間は根源的に、過去の中庸は知ることは出来ても、未来の中庸は知り得ない。今この余話は、2022年半ばに書いている。食糧危機を煽る言説がネット上に出回っているのを例に取ろう。
同量同級の穀物の値を、過去と比べて高い安いと判断することは出来る。だが現在の値は一秒以内の単位で変動している。従って知り得た中庸はすでに、過去の中庸のみとなる。まして今後どのように値が動くかは知る方法が無い。どんなに数学をいじくり回しても不可能だ。
無論大勢の人が「高すぎる」と思えば値崩れするし、「安すぎる」と思えば逆になる。だがどの程度「大勢」であればそうなるのかは分からないし、大勢の人それぞれの気持を聞き回ることは出来ず、聞いた途端に過去の話になり、そして人の気持ちは秒以内の単位で変わる。
いくらビッグデータをいじくれようが原理的に不可能なのだ。そして人がいるから市場が成立する。市場は人の気持ち次第だから、「恐慌」、恐れ慌てふためいた値の暴騰暴落が起こる。だからと言ってred主義に走れば、恐慌以上に人々を不幸のどん底に落とす結果になる。
- 論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」
もし中庸なるものに少しでも近づく法があるなら、それは成功法ではなく失敗を抑止する法であり、自分に出来ない事を諦める法だろう。諦めるとは何たる精神的退嬰か、と偉そうに言う者が出たら、鼻でせせら笑ってやればよろしい。そ奴はただ運がいいだけだからだ。
成功者は成功法を知らない。凡俗に出来るのは身を守る事で、その要諦は危険の回避にあり、その第一歩は危険の早期察知で、根源には自分の無能を知る謙虚にある。巨艦も津波には流される。諦めるとは明らめることで、自分に出来ない事を、明らかに知ることに他ならない。
そして謙虚は見せ物でない。見せているのはニセモノか、我を取って喰おうとする洗脳だ。
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