論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰篤信好學守死善道危邦不入亂邦不居天下有道則見無道則隱邦有道貧且賤焉恥也邦無道富且貴焉恥也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰篤信好學守死善道危邦不入亂邦不居天下有道則見無道則隱/邦有道貧且賤焉耻也邦無道冨且貴焉恥也
- 「耻」「恥」字:ママ。京大本「耻」「耻」、宮内庁本「恥」「恥」。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「孰a信好學,守死善203……危國弗b入,亂國弗c居。天□□□□□□□□□□204……
- 孰、今本作「篤」。
- c.弗、今本作「不」。
※邦→國は漢高祖劉邦の避諱。
標点文
子曰、「孰信好學、守死善道。危國弗入、亂國弗居。天下有道則見、無道則隱。邦有道、貧且賤焉恥也。邦無道、富且貴焉恥也。」
復元白文(論語時代での表記)
貧賤焉恥 焉恥
※隱→陰。論語の本章は、後半「邦有道」以降の赤字が論語の時代に存在しない。「篤」「孰」「信」「守」「危」「也」「貴」の用法に疑問がある。なお後半「邦有道」以降は、論語憲問篇1の焼き直しか原形。本章は、少なくとも後半が後漢儒による創作である。
書き下し
子曰く、孰く信じて學を好み、死を守ぎて道を善くす。危き國には入ら弗、亂る國には居ら弗。天下道有らば則ち見へ、道無からば則ち隱る。邦に道有らば、貧しく且つ賎しかり焉は恥也。邦道無からば、富み且つ貴かり焉は恥也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「ためになると深く信じて学問を好み、死なないよう気を付けて自分の生き方を有能化する。危ない国には入らず、戦乱中の国からは出て行く。天下に原則があれば目立ち、原則がなければ隠居する。自国に政治の原則がある時に、貧しく身分が低いのは恥だが、無い時に、富んで身分が高いのも恥だ。」
意訳
同上
従来訳
先師がいわれた。――
「篤く信じて学問を愛せよ。生死をかけて道を育てよ。乱れるきざしのある国には入らぬがよい。すでに乱れた国には止まらぬがよい。天下に道が行われている時には、出でて働け。道がすたれている時には、退いて身を守れ。国に道が行われていて、貧賎であるのは恥だ。国に道が行われないで、富貴であるのも恥だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「堅守信譽,努力學習,誓死主持正義;不入險地,不住亂世;國家太平則一展才華,社會黑暗則隱姓埋名。治世中,貧賤就是恥辱;亂世中,富貴也是恥辱。」
孔子が言った。「信用と名誉を堅く守り、勉学に励み、死を賭して正義を維持せよ。危険な土地には行かず、乱世には住むな。国家が平和なら才能を発揮し、社会が混乱したら隠れ住め。平和な世で貧しく卑しいのは恥だ。乱世で富んで出世するのも恥だ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
篤(トク)→孰(シュク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”ねんごろに”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「竹」+「馬」だが、由来は明瞭でない。戦国最末期「睡虎地秦簡」秦律雜鈔29に「膚吏乘馬篤、𦍧(胔),及不會膚期,貲各一盾。」とあり、よく分からない文だが、”馬の世話役が、馬を過度に乗り回して、痩せさせてしまい、二度と肥え太ることが無かったら、盾一枚に乗る穀物を罰として取り立てる”の意だろうか。”過度に…する”と解せる。異体字の「竺」は、いわゆる「天竺」の「ジク」だが、春秋末期とも推定される晋系戦国文字から見られ、論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「篤」を参照。
(金文)
定州竹簡論語では「孰」と記す。”ねんごろに”の語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。
”ねんごろに”の語義は前漢儒による偽作である『小載礼記』内則篇が初出と思われる。少なくとも論語の時代の語義ではない。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”信じる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
孰信好學(あつくしんじてまなびをこのみ)
論語の本章では”学問の効果を信じて好む”。何を信じるかは古注・新注で議論があるが、「好学」とあるからには学を信じる、つまりその効果を信じること。
論語雍也篇3に「弟子孰爲好學」(ていしいずれがまなびをこのむとなす)の句があり、どうもここをいじくって本章を作ったように思う。上記の通り、論語の時代に「孰」に”ねんごろ”の意は無く、疑問辞の意も戦国時代以降だが、前漢期に偽作された『小載礼記』にはその用例があるから、前漢儒は”ねんごろに”と解したはず。
守*(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では「ふせぐ」と読んで”防ぐ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「又」”手”+一画。原義は不明。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文は一例のみ知られるが、甲骨が欠けているため、語義は分からない。殷代の金文では族徽(家紋)に用いた。西周早期の例では人名のみが知られる。西周中期に”つかさどる”の用例がある。”まもる”の語義が見られるのは、戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「守」を参照。
戦前の馬鹿者漢学教授で帝大総長だった服部卯之吉以下、漢学教授はこぞって「まもる」と訓読しているが、死を守ってどうするというのだろう。仕事をしたふりだけでもしたらどうなんだ、と言いたくなる。論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」を参照。
- 死を守りて道を善くす。(宇野哲人『論語新釈』)
- 死を守りて道を善くし、(加地伸行『論語』)
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では”よくする”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では、「善道」では”(自分の)生き方”。「有道」「無道」では”(政道の)秩序や原則”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
守死善道
論語の本章では、”自分の命を大切にして生き方をよくする”。
これも新古の注に議論があるが、例によって儒者のホラなので読むに値しない。「守死」とは文字通り自分を死から守ること。「善道」とは論語の本章が史実なら、世間や他人をどうこうすることではなく、道=自分の生き方に、善=有能性を加えること。詳細は論語における美と善を参照。
現代中国に於ける解釈は、「守死」を「死守」と同じに解釈している。儒者のデタラメにだまされていると言うべき。格変化も活用も助詞も無い中国語で、語順を勝手に入れ替えたが最後、絶対に正しい解釈は出来ない。
危*(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”あやうい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「厃」。「㔾」が加わるのは戦国文字から。字形は諸説あるが由来不明。ただし、甲骨文として比定されている字形は曲がった下向きの矢印であることでは一致しており、”高いところから落っこちる”ことではなかろうか。「キ」は慣用音。甲骨文で”落ちる”の意に用いた。金文の出土例は殷代末期のみで、短文に過ぎて語義を判読しがたい。詳細は論語語釈「危」を参照。
邦(ホウ)→國(コク)
(甲骨文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では避諱して「國」と記す。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
論語の本章で「邦」が使われているのは、本章が後漢滅亡後に「國」→「邦」へと改められたことを意味する。下掲の通り古注のうち前漢滅亡後に活動した包咸は避諱しておらず、東西いずれかは明らかでないが晋代の人物とされる江熙(あざ名は大和)は当然ながら避諱していない。
弗(フツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
亂(ラン)
(金文)
論語の本章では、”乱れた”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「乚」を欠く「𤔔」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。
居(キョ)
(金文)
論語の本章では”滞在する”。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。
天下(テンカ)
(甲骨文)
論語の本章では”天下”。天の下にある領域全て。
「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見せる”→”出仕する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
隱(イン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”かくれる”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「阝」”階段”+「爪」”手”+「工」「尹」”筆を持った手”+「心」。高殿でこそこそと分からないように思うところを記す様。同音に殷”さかん”・慇”ねんごろ”と、隱を部品とした漢字群。戦国最末期の竹簡に「隱官」とあり、判決を受けた犯罪者がまだ捕まっていない累犯者を自分で捕まえるよう命じられることであるらしい。論語時代の置換候補は近音の「陰」。詳細は論語語釈「隠」を参照。
貧(ヒン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”貧しい”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「分」+「貝」で、初出での原義は確認しがたい。「ビン」は呉音。詳細は論語語釈「貧」を参照。
且(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。
賤(セン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”低い身分”。この文字の初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に戔を部品とする漢字群。字形は「貝」”貨幣”+「戔」で、原義は”価格が安い”。詳細は論語語釈「賤」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”し終えた”を意味する断定のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
恥(チ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”はじる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。
”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。『定州竹簡論語』はこの部分を欠いているが、論語公冶長篇25など他章では「佴」と記す。「恥」とは音も語義も違うが、初出は戦国文字で、こちらも論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「佴」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では”である”。この語義は春秋時代では確認できない。仮に本章が史実なら、「かな」と読んで詠嘆の意と解するべきだが、本章の史実性は極めて怪しい。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
富(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”財産”。「フ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
貴(キ)
(金文)/(晋系戦国文字)
論語の本章では”高い地位”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周の金文。現行字体の初出は晋系戦国文字。金文の字形は「貝」を欠いた「𠀐」で、「𦥑」”両手”+中央に●のある縦線。両手で貴重品を扱う様。おそらくひもに通した青銅か、タカラガイのたぐいだろう。”とうとい”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「貴」を参照。
焉恥也
論語の本章では、「いずくんぞ恥ならんや」と読み、”どうして恥だろうか”と解釈出来なくもない。
しかし論語憲問篇1「国にまともな政道が行われていれば仕える。国にまともな政道がないのに仕えるのが恥だ」と矛盾してしまうので、「焉」を前句の末尾に付けて、断定の意味に取るしかない。
論語:付記
検証
論語の本章は、読むそばからニコイチ・サンコイチのでっち上げ臭がする。
- 孰(篤)信好學。(本章)
孰爲好學。(論語雍也篇3・偽作) - 天下有道則見、無道則隱。…邦有道…邦無道…。(本章)
邦有道、不廢。邦無道、免於刑戮。(論語公冶長篇1・偽作)
邦有道則知。邦無道則愚。(論語公冶長篇20)
邦有道穀。邦無道穀恥也。(論語憲問篇1・偽作)
「篤信好學、守死善道」は後漢の『東漢観記』が再出、「危邦不入,亂邦不居」は先秦両漢の再出が無い。「天下有道則見、無道則隱」は「邦」を「國」と避諱した上で『史記』蔡沢伝に見える。「邦有道,貧且賤焉,恥也。邦無道、富且貴焉恥也。」は後漢の『中論』爵禄1に見える。いずれにせよ、本章が史実に孔子の言葉であることを証す材料ではない。
なお定州竹簡論語では、論語の本章の前後は横書きにすれば次のようになっていた。
子曰三年學不至於谷不易得已簡202号
子曰孰信好學守死善…簡203号
危國弗入亂國弗居天□□□□□□□□□□…簡204号
…在其位不謀其正簡205号
「•」は簡の頭や尾に欠損がないことを、「…」は簡の欠損を、「□」は判読不能文字を示す。「一枚に記された文字は19-21字」というから、現伝の文字列「天」以降は全27字あるので、とうてい簡204号には収まらない。
「天下有道則見、無道則隱。」だけなら9字のスペースで済むから、「□」10文字分の中に収まることになる。1字余裕があるのは、「也」や「焉」などの文字が加わっていたのだろう。いずれにせよ「邦有道…邦無道…。」という、論語には何度も出てきて読者をうんざりさせる部分は、後漢儒が勝手に書き加えたことになる。
実際古注の中で、前漢から新にかけて生きた包咸は、「…無道則隱」までにしか注釈を記していない。つまりこの後半部分は論語憲問篇1の焼き直しか原形だが、定州竹簡論語の本章の簡から、憲問篇が元ネタと言いたくなる。ただし憲問篇1もまるまる定州竹簡論語に欠いているので、どちらも後漢儒によるでっち上げの可能性がある。
後漢儒のとんでもなさについては、論語解説・後漢というふざけた帝国を参照。
となると、論語の本章は「…無道則隱」までで終わっていたとするなら、文字史的には論語の時代に遡れるから、史実の孔子の発言である可能性がある。しかし漢字の用法にこうも怪しい箇所があると、この前半部分も史実性は怪しいと言わなければならない。
論語八佾篇24に、関守が孔子の弟子たちに語った言葉として、「天下の道無きこと久し」という。「國」(邦)の「有道・無道」を孔子が語った言葉は論語にいくつかあるが、「無道なら隠居しろ」と説くのはいずれも似ており、そうなると史実の孔子塾の実態に合わなくなる。
孔子塾とは、小麦栽培や鉄器の実用化によって変動が激しくなった春秋後半の世を好機とみて、孔子もそうだった社会の底辺出身者が、貴族に相応しい技能教養を身につけて成り上がるための場だった。仮に孔子が世を無道と見ていたなら、弟子を成り上がらせる事が出来ない。
要するに世の無道を歎くのは後世の儒者の偽作で、儒者個人の境遇に対する不満を孔子にかこつけてぶちまけているだけであり、論語読者のためになる話ではない。本章前半が文字史上からは史実の可能性があるのに、このような内容的不整合がある以上、史実と判断できない。
解説
もし論語の本章が全部本物なら、こう訳したいところ。
子供に学問を勧める時のお説教でござるか? これは難しいことをおたずねになる。
左様ですな、人は学ぶことでしか自分を高められませぬ。だから学ぶとよろしい。死んでしまっては何にもなりませぬ。だから体に気を付けて、自分の能力を高めなされ。世情が荒れている国には行かず、戦乱の国からは出て行くとよろしい。まともな世の中なら、能力を発揮して出世なされ。まともでないなら、隠居なされ。自国がまともなのに、出世も出来ず貧しいというなら恥でござるが、ろくでもないのに出世して富んでいる者はろくでなしでござる。
まあこういった言い方ですかな。
なお新旧の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰篤信好學守死善道危邦不入亂邦不居天下有道則見無道則隠註苞氏曰言行當常然也危邦不入謂始欲往也亂邦不居今欲去也臣弒君子弑父亂也危者將亂之兆也邦有道貧且賤焉恥也邦無道富且貴焉恥也疏子曰至恥也 此章教人立身法也云篤倍好學者令篤厚於誠信而好學先王之道也云守死善道者寜為善而死不為惡而生故云守死善道也云危邦不入者謂初仕時也見彼國將危則不須入仕也云亂邦不居者謂我國已亂則宜避之不居住也然亂時不居則始危時猶居也危者不入則亂故宜不入也云天下有道則見者天下謂天子也見謂出仕也若世王有道則宜出仕也云無道則隠者若時王無道則隠枕石嗽流也陳文子棄馬十乗而去是亂邦不居也云邦有道貧且賤焉恥也者國君有道則宜運我才智佐時出仕宜始得富貴而已獨貧賤則是才徳淺薄不㑹明時故為可恥也云邦無道富且貴焉恥也者國君無道而已出仕招致富貴則是已亦無道得㑹惡逆之君故亦為可恥也江熙曰不枉道而事人何以致無道寵寵所以恥也夫山林之士笑朝廷之人束帶立朝不獲逍遙也在朝者亦謗山林之士褊厄也各是其所是而非其所非是以夫子兼𢎞出處之義明屈申貴於當時也
本文「子曰篤信好學守死善道危邦不入亂邦不居天下有道則見無道則隠」。
注釈。苞氏「常に行うべき当然を言ったのだ。危ない国には入らないとは、行くつもりだったと言っている。乱れた国に居ないとは、今は去ると言うのである。しんがが君主を殺し、子が父を殺すのを、乱れた、と言うのである。危ないとは、今にも乱れる兆しがあることである。」
本文「邦有道貧且賤焉恥也邦無道富且貴焉恥也」。
付け足し。先生は恥の極致を言った。この章は人に立身出世の道を教えた。まごころと信頼に心を尽くさせ、学問を好ませるのが、先王の道だった。
「守死善道」というのは、善をするよりむしろ死んじまえということで、そうすれば悪をする事が無くなる。だから「守死善道」と言ったのだ。
「危邦不入」とは、初めて仕官したときの心得である。その国が危ないと見たら、行くのをやめるのである。
「亂邦不居」とは、自国が乱れたら、すぐさま逃げ出して住まうのを止めるとよい、ということである。ということは、乱れたときに住んでいないにせよ、乱れ始めたときにはまだ住んでいる。だが危なければ入らない。つまり乱れたら、もう入らないのがよいのである。
「天下有道則見」とは、天下とは天子である。見とは出仕することである。もし時の王が道の有るものなら、必ず出仕するのがよいのである。
「無道則隠」とは、もし時の王が無道なら必ず隠れて、山奥で隠居するのがよいのである。陳文子は馬と車十乗分の財産をも捨てて逃げた(→論語公冶長篇18)。これが「亂邦不居」である。
「邦有道貧且賤焉恥也」とは、国君が道のある人なら必ず自分の才能を働かせるがよいということだ。時運に手を貸して出仕すれば、富貴を掴む糸口になる。それなのに孤独に貧乏しているのは、つまりは無能で時を知らないということで、だから恥ずべきなのだ。
「邦無道富且貴焉恥也」とは、国君が無道なのに仕え、富貴を得るのなら、その者も無道であり、君主を暴君に仕立て上げかねない。だからこれも恥ずべきなのである。
江熙「道を曲げないで主君に仕えればいい。どうして無道な君主に好かれる必要がある。そんなのに好かれることが恥だ。山林の隠者が、朝廷で礼服を着てときめく人を笑えば、まだ道にたゆたう道理を心得ていない証拠だ。朝廷の者が隠者をこき下ろせば、それは妬んでいるのだ。それぞれに短所も長所もある事から、先生は出処進退の機微を知り、当時の時代に即して、不遇を明らかにし富貴を得る法を述べた。」
新注『論語集注』
子曰:「篤信好學,守死善道。好,去聲。篤,厚而力也。不篤信,則不能好學;然篤信而不好學,則所信或非其正。不守死,則不能以善其道;然守死而不足以善其道,則亦徒死而已。蓋守死者篤信之效,善道者好學之功。危邦不入,亂邦不居。天下有道則見,無道則隱。見,賢遍反。君子見危授命,則仕危邦者無可去之義,在外則不入可也。亂邦未危,而刑政紀綱紊矣,故潔其身而去之。天下,舉一世而言。無道,則隱其身而不見也。此惟篤信好學、守死善道者能之。邦有道,貧且賤焉,恥也;邦無道,富且貴焉,恥也。」世治而無可行之道,世亂而無能守之節,碌碌庸人,不足以為士矣,可恥之甚也。晁氏曰:「有學有守,而去就之義潔,出處之分明,然後為君子之全德也。」
本文「子曰、篤信好學、守死善道」。
好の字は尻下がりに読む。篤とは厚くて力のあることである。篤く信じないと、必ず学を好むことが出来なくなる。ところが篤く信じているのに学を好まないなら、かならず信じる所が間違っており、正さねばならない。死から身を守らなければ、自他の道をよくできない。ところが死から身を守っているのに道をよくできないなら、結局は無駄死にするはめになる。多分死から実を守り篤く信じる効果は、道をよくして学を好む効果なのだろう。
本文「危邦不入,亂邦不居。天下有道則見,無道則隱」。
見の字は、賢-遍の字の組み合わせに読む。君子は人の危難を命がけで救うのだから(→論語憲問篇13)、危ない国に仕えて去るのは正義が無いが、外に居て入らないのはよい。危ない国が荒れる前には、刑罰や行政がいい加減になるから、それを見て手を貸さないために去るのである。天下とは、世の中全体を言う。無道なら、必ず隠居して身をくらます。これは篤く信じて学を好むだけではなく、死から身を守って道をよくすることにもなる。
本文「邦有道,貧且賤焉,恥也;邦無道,富且貴焉,恥也」。
世の中が治まっているのに進むべき道が無いか、世の中が乱れて節操を守れないと、そのあたりの凡人では、下級貴族も務まらない。恥の至りである。
晁氏「学問もあり身も守り、出処進退もいさぎよくあきらかで、やっと君子の徳がまっとうできる。」
余話
亢龍悔い有り
論語の本章の前半、
子曰、「孰信好學、守死善道。危國弗入、亂國弗居。天下有道則見、無道則隱。」
は前漢中期の定州竹簡論語にあることから、ここだけはそれ以前に論語の一章として成立していたが、句点で区切られた三つは、それぞれ出自を異にしていると思われる。同時代に同じ表現が見られるのは、第三句だけだからだ。その出典は上記の通り『史記』蔡沢伝。
蔡沢はその先駆者だった范雎とともに、高校世界史教科書に出てくる人物ではないが、中華文明三千年史を語るのに不可欠の人物で、共に外国の出身ながら、戦国時代の秦国に仕えて宰相格となった。
范雎は魏の出身、学問を修めたが仕官先が無く、やむなく外交官の須賈の従者になった。須賈が斉国に使いしたとき供をして、斉王に仕官を勧められ、引き出物まで貰った。だがこの時の范雎は中華文明人としてウブ過ぎた。祖国と主人を「篤く信じ」て断ってしまった。
- 論語学而篇4余話「中華文明とは何か」
そこまではよかった。帰国後范雎は事を須賈に告げた。自分を忠義者と売り出そうというのである。だが徹底的に中国人だった須賈は真に受けなかったばかりか、機密を斉に売ったと濡れ衣を着せ、宰相の魏斉と共に殴る蹴るの暴行を加え、便所の溜めに放り込んで死ぬに任せた。
范雎はからくも逃げ延びて秦国に向かい、当時母后と宰相に実権を奪われていた昭襄王を時間を掛けて説き伏せ、宰相格となって遠交近攻策を授けた。将軍白起の活躍もあり、この策で秦は天下統一への道を歩み始める。様子を窺いにかつての主人だった須賈が秦に来た。
范雎は貧しい庶民に身をやつして須賈に会いに行った。須賈は哀れな姿の范雎に同情し、弁当を食わせ、綿入れを着せた。その後で宰相として須賈を引見した范雎は、屋内でなく庭に筵を敷いて須賈を座らせたが、もちろん上座の范雎を見て須賈は肝を潰した。范雎は口を開いた。
バッタのように這いつくばった須賈はすっ飛んで魏国に帰り、事の次第を魏斉に告げたが、魏斉はすぐさま逃げ出した。やがて魏斉は追い詰められて自刃するのだが、范雎のような、わずかの恨みにも恩にも報いる生き方を、故事成句として「睚眦(一にらみ)の恨み」という。
だが范雎はこうして偉くなりすぎた。中国政界で偉くなりすぎるという事は、全ての他人が敵に回るということで、些細なきっかけから失職どころか一族皆殺しになることが多い。知恵が回る范雎もさすがにどうすればよいか悶々と悩む日が続いた。そこへ蔡沢がやってきた。
蔡澤曰:「今主之親忠臣不忘舊故不若孝公、悼王、句踐,而君之功績愛信親幸又不若商君、吳起、大夫種,然而君之祿位貴盛,私家之富過於三子,而身不退者,恐患之甚於三子,竊為君危之。語曰『日中則移,月滿則虧』。物盛則衰,天地之常數也。進退盈縮,與時變化,聖人之常道也。故『國有道則仕,國無道則隱』。聖人曰『飛龍在天,利見大人』。『不義而富且貴,於我如浮雲』。今君之怨已讎而德已報,意欲至矣,而無變計,竊為君不取也。
蔡沢「いま秦王殿下が忠臣や長年の家臣を大事にすると言っても、いにしえに商鞅を用いた秦の孝公、呉起を用いた楚の悼王、大夫種を用いた越王勾践ほどではありません。その上あなたの功績は大きすぎて、王殿下に愛されていると言っても、商鞅や呉起や大夫種ほど愛されてはいません。
それなのに贅沢三昧にふけり、貯め込んだ財産は今挙げた三人の謀臣より上です。この三人はいずれも悲惨な死に方をしましたが、あなたも引退せずにグズグズしていると、同じ目に遭いますぞ。
ことわざに言います、”太陽は南中したらすぐに下がり、月は満ちるとすぐに欠ける”と。物事には勢いがあり、衰えるのはこの世の道理です。変転止まぬとこの世を見るのが、賢者のすべき事ではありませんか。
だから”国の政道がまともなら仕え、まともでないなら隠居する”と言いますし、聖人も”龍は空を飛んで下りられない、賢者は目敏くそれを見て取る”とも言います。”後ろぐらいやり方で得た地位や財産は、私にとっては浮雲に過ぎない”とも言います。あなたはもう、うらみは全部晴らし、願った富は得たではありませんか。
もう満足すべきなのに、グズグズと生き方を変えないでいる。まずいと思いますよ。」(『史記』蔡沢伝)
この蔡沢も面白い男だが、いずれ本サイトで語るかも知れない。ともあれ引用文中の「飛龍在天,利見大人」はちょっと分かりづらい漢文だが、「飛ぶ龍天に在るを、利く見るは大るる人」と訓読し、上掲のような意味。ただし同意の易経の言葉の方がよく広まっている。
それが「亢龍悔い有り」。
亢龍有悔,盈不可久也。上九曰:「亢龍有悔」,何謂也?子曰:「貴而无位,高而无民,賢人在下位而无輔,是以動而有悔也。」
亢龍悔い有り(一度天に上がってしまった龍には、もはや落ちやしないかという後悔しか無い)。上り詰めたら、もう先は長くない。
上九の卦にいわく、「亢龍有悔」とはどういうことか? 先生が言った。「高貴なのにそれにふさわしい地位を持たない。高潔なのに支配する民を持たない。賢者はこのように目立たぬように生きながら、自分の身を誰かに支えて貰おうとはしない。なぜか? 富貴を上り詰めた者には、どうかすると後悔してびくびく怯えなければいけないのを知っているからだ。」(『易経』䷀乾篇)
竹林院入道左大臣殿太政大臣にあがり給はんに何の滞かおはせんなれども珍しげなし一の上にてやみなん とて出家し給ひにけり洞院左大臣殿この事を甘心し給ひて相国の望おはせざりけり亢龍の悔ありとかやいふ事侍るなり月満ちては欠け物盛りにしては衰ふよろづの事さきの詰りたるは破に近き道なり
竹林院入道左大臣殿(西園寺公衡)が太政大臣に昇進なさるのに、何の不都合があるだろうか。だが「別に興味ない。左大臣で十分だ」と仰って、出家してしまわれた。洞院左大臣殿(洞院実泰)がこの一件を立派だとお思いになって、太政大臣になろうとはなさらなかった。上り詰めた龍には悔いしか無いということばがございますから。月が満ちれば欠け、勢いが盛んになれば衰える。万事これ以上先が無い事態とは、破滅が近い道である。(『徒然草』第八十二段)
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