論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
曽子曰可以託六尺之孤可以寄百里之命臨大節而不可奪也君子人與君子人也
- 「曽」字:〔八田日〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
曽子曰可以託六尺之孤/可以寄百里之命/臨大節而不可奪也/君子人與君子人也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
曾子曰:「可以托a六尺之□,□以寄百里之命,臨大195……而不可□□196
- 托、今本作「託」、『玉篇』引『論語』作「侘」、『説文』段注云、「侘与託音義皆同、俗作托非也」。
標点文
曾子曰、「可以托六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與。君子人也。」
復元白文(論語時代での表記)
托尺 寄 節
※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「託」「托」「孤」「命」「臨」「也」「與」の用法に疑問がある。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。曽子は孔子の弟子ではない。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
曾子曰く、六つ尺之孤を托くるを以ゐる可き、百里之命を寄するを以ゐる可き、大ひなる節に臨ん而奪ふ可からざる也、君子たる人與、君子たる人也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
曽子が言った。「身長六尺ほどの孤児を託せる人物、百の村の人命を守れる人物、大きな政治変動に行き当たって職務を奪えない人物。こういう人はまことの君子か。まことの君子である。」
意訳
曽子「幼い孤児を育て、広範囲の人々の暮らしを守り、政治の激変にも行政を担い続けられる人物は、身分ある立派な教養人で人格者だ。」
従来訳
曾先生がいわれた。――
「安んじて幼君の補佐を頼み、国政を任せることが出来、重大事に臨んで断じて節操を曲げない人、かような人を君子人というのであろうか。正にかような人をこそ君子人というべきであろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
曾子說:「可以托付孤兒,可以托付江山,生死關頭,臨危不懼的人。是君子嗎?當然是君子。」
曽子が言った。「故事を預ける事が出来、天下を預けることが出来、生死の瀬戸際や、危険に及んでも恐れない人。これは君子か?当然君子だ。」
論語:語釈
曾子(ソウシ)
新字体は「曽子」。後世、孔子晩年の高弟とされた人物。その実は孔子家の家事使用人。「○子」との呼び名は、孔子のような学派の開祖や、大貴族に用いる。孔子は論語先進篇17で、曽子を”ウスノロ”と評している。詳細は前々章の語釈、また論語の人物・曽参子輿を参照。
(甲骨文)
「曾」(曽)の初出は甲骨文。旧字体が「曾」だが、唐石経・清家本ともに「曽」またはそれに近い字体で記している。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「甑」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”…できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
託*(タク)→托*(タク)
(金文)
論語の本章では”ゆだねる”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の金文。字形は「言」+「乇」”寄せ木にぶら下げる”。ことばで言いがかりを付けること。春秋末期までの用例は二例のみで、共に「霝頌託商」とあり、”言葉で責める”と解せる。詳細は論語語釈「託」を参照。
定州竹簡論語は「托」と記す。初出は不明。古文字も知られていない。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国の竹簡に「托」と釈文されるものがあり、字形は〔忄厂乇〕。字形は「扌」+「乇」”寄せ木にぶら下げる”。ものを寄せ木に掛けること。戦国時代に〔忄厂乇〕の字形で”担当する”の意に用いた。『孟子』梁恵王下13に「王之臣有託其妻子於其友」とあり、”あづける”と解せる。詳細は論語語釈「托」を参照。
六尺*之孤(りくせきのこ)
日本の漢文業界では「りくせきのこ」と読む座敷わらしになっている。だいたい120cmぐらいの背丈の孤児を意味する。文献上の初出は前漢後期の『列女伝』で、春秋時代の言葉ではない。
(甲骨文)
「六」の初出は甲骨文。「ロク」は呉音。字形は「入」と同じと言うが一部の例でしかないし、例によって郭沫若の言った根拠無き出任せ。字形の由来と原義は不明。屋根の形に見える、程度のことしか分からない。甲骨文ですでに数字の”6”に用いられた。詳細は論語語釈「六」を参照。
(秦系戦国文字)
「尺」は論語では本章のみに登場。初出は戦国最末期の秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形はおそらく手を広げた形。「シャク」は呉音。戦国最末期の竹簡では、長さの単位に用いた。周代の一尺には大尺と小尺があり、おおむね20cm。詳細は論語語釈「尺」を参照。
(甲骨文)
「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
(金文)
「孤」は論語の本章では”みなしご”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷末期の金文。ただし現行の書体と共通するのは「子」ぐらいで、「瓜」は含まれず、全く字形が違う。同音に瓜を部品とした漢字群。字形は「扌」+「子」”王族”+「曰」で、王族手ずからものを言うさま。おそらく原義は殷代王族の一人称。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「孤」を参照。
寄*(キ)
(秦系戦国文字)
論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「宀」”屋根”+「奇」”かたよる”。戦国最末期の竹簡では、”与える”・たよる”の意に用いた。詳細は論語語釈「寄」を参照。
百里之命(はくりのめい)
論語の本章では”百ヶ所の村落の人命”。文献上の初出は後漢初期の『白虎通義』で、また南北朝時代に成立した『後漢書』に、後漢の開祖光武帝が、家臣をたたえた言葉として見える。
龐萌,山陽人。初亡在下江兵中。更始立,以為冀州牧,將兵屬尚書令謝躬,共破王郎。及躬敗,萌乃歸降。光武即位,以為侍中。萌為人遜順,甚見信愛。帝常稱曰:「可以託六尺之孤,寄百里之命者,龐萌是也。」拜為平狄將軍,與蓋延共擊董憲。
龐萌は、山陽郡の出身である。若い頃は長江の船曳きをして身を隠していた。新が滅びかかって更始帝が帝位に就くと、冀州の知事になった。州内の兵を率いて新の官房長官だった謝躬と同盟し、新の軍閥だった王郎を破った。謝躬が負けると光武帝の軍に身を寄せた。光武帝が即位すると、顧問官になった。腰の低い性格だったので、光武帝に大いに気に入られた。帝は常々こう言った。「孤児を預け、百の村の人命を委ねることが出来るのは、まさに龐萌だ」と。北伐軍の将軍に任じられ、蓋延と共に独立勢力の董憲を攻めた。(『後漢書』龐萌伝)
「命」を”いのち”と解するか”命令”と解するかには決定打がない。ただし論語の時代では、”いのち”の語義が確認できない。ゆえにそう解さないと読めない論語雍也篇3はニセモノだと言えるのだが、本章はもとよりニセモノであり、語義を”命令”にこだわる理由がない。
少なくとも戦国時代の儒者である孟子と荀子は、”命令”の意でしか使っていない。だが本章は定州竹簡論語より遡れない事から、前漢末期の中国語で解釈しなくてはならない。『史記』秦始皇本紀に「既元元之民冀得安其性命」とあり、”いのち”の語義が前漢代にあったと分かる。
ならば「百里之命」とは”百ヶ所の村の命”であり、かつ「百里」が「命」を保有している、「命」は「百里」に所属していると考える方が単純で、「オッカムのカミソリ」に合う。よって「命」は”いのち”と解する方に理がある。
「百里之命」を”主君の命令を実行する”の意だと言い出したのは、実在も怪しい前漢の孔安国で、この言葉の初出から見て古注のこの部分は後漢以降の偽作が明らか。その解釈を信じるべき理由は何一つない。そこへさらにウンチクを重ねた「疏」は次の通り。
云可以寄百里之命者百里謂國也言百里舉全數也命者謂國之教令也幼君既未能行政故寄冢宰攝之也如周公攝政也
「百里の命を寄せる」とあり、百里とは国家の意味である。百という数で”全て”を意味し、全ての地方、すなわち国家となる。命とは国家の命令である。幼い君主が年齢故に政治を摂れない場合、大臣に政務を代行させる。周公が摂政を務めたのはその例である。
(甲骨文)
「百」の初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は蚕の繭を描いた象形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。「爪である」という郭沫若(中国漢学界のボスで、中国共産党の御用学者)の説は、でたらめばかり言う男なので信用できない。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。
(金文)
「里」の初出は西周早期の金文。上古音は「鯉」と同じ。「鯉」の初出は春秋末期の秦の石鼓文で、秦は西の辺境であり、魯のある中原諸国とは字が違っていた可能性がある。詳細は論語語釈「鯉」を参照。
「令」(甲骨文)
論語の時代、「命」は「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。春秋末期、BC518ごろの「蔡侯尊」には、「蔡𥎦虔共大命」とあり、「虔んで大命を共にす」と訓める。これを”天命”と解せなくもない。詳細は論語語釈「命」を参照。
臨(リン)
(甲骨文)
論語の本章では”大いなるものに直面する”。この語義は春秋時代では確認できない。字形は大きな人間が目を見開いて、三人の小人を見下ろしているさま。原義は”下目に見る”・”見守る”。金文では原義に用いられ、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「臨」を参照。
大節(タイセツ)
論語の本章では”(政治の)大きな節目”→”政変期”。
(甲骨文)
「大」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。
「節」(金文)
「節」の初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音も存在しない。原義は”竹の節”。詳細は論語語釈「節」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であるときに…”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
奪*(タツ)
(金文)
初出は西周早期の金文。字形は「衣」+「爪」”手”+「鳥」+「又」”手」で、ふところに包んだ鳥を奪い取るさま。「ダツ」は呉音。春秋末期までに、人名や”捕虜にする”の意に用いた。戦国時代からは、”奪う”の意が見られる。詳細は論語語釈「奪」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「不可奪也」では「や」と読んで主格の強調。”…こそはまさに…”の意。「君子人也」では「なり」と読んで断定の意。後者の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
戦前の馬鹿者漢学教授で帝大総長だった服部卯之吉は、「臨大節而不可奪也」を「大節に臨んで奪ふ可からざるなり。」と読んで済ませているが、全くの誤読というより、まともに漢文法を知らないでデタラメを書いている。
君子人(クンシジン)
論語の本章では、”地位身分と教養があり、情け深い人”。単に「君子」と言えば済むものを、もったいをつけた言い方。つまり「君子」とは大したものではないことを誤魔化している。
孔子の生前、「君子」とは単に読み書き算盤の出来る戦士を意味した。従って上は周王から下は都市の商工民まで、戦時に従軍する技能の有る者は全て「君子」=貴族だったが、孔子晩年に弩(クロスボウ)の実用化によって、戦闘に長期の訓練が要らなくなると、君子の価値は暴落して語義まで忘れられた。本章のように偽善的な意味をなすりつけたのは、孔子没後一世紀に現れた孟子。詳細は論語における「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
(甲骨文)
「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では「か」と読んで”…か”。疑問を意味する言葉。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に存在し、「可以托(託)六尺之孤」は前漢後期の『列女伝』に論語の一章と断って引用している。「寄百里之命」は後漢末期の『風俗通義』にあるほか、南北朝時代に成立の『後漢書』に光武帝の台詞として出てくる。「臨大節而不可奪」も『風俗通義』に引用がある。
ただし、春秋戦国の誰一人引用も再録もしていない。そもそも曽子が孔子の弟子ではないので、漢代になって儒者がこしらえた偽作と断定できる。おそらくは当時の権力者にゴマをするために作ったのだろうが、誰に献じたのかは明らかでない。
解説
他人の夢の話を得々と語られても困るしかないように、本章は曽子の独り言であり、しかも後世の創作で、彼個人の人物評価なので、別に現代の論語読者をうならせるような教訓は何一つ含まれていない。
また論語の中でニセモノの一つの傾向として、他の章で用いられていない漢字が多いことも指摘できる。
論語の本章によってたたえられた人物として真っ先に候補に挙がるのは、前漢宣帝期の宰相・丙吉になる。宣帝は武帝の曽孫だが、おそらくもともと常人未満の知能しか持たなかった武帝は、晩年になっていよいよ頭がおかしくなり、皇后と皇太子を殺した。
そのとばっちりで後の宣帝も収監されたが、ゴマすり男が武帝におもねり、「牢屋から次の皇帝が出る風味がします」と言ったため、反射的に武帝は収監中の者を皆殺しにするよう命じた。その勅使が牢にやって来ると、当時看守だった丙吉が断固拒否、こうして将来の宣帝は命が助かった。詳細は論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照。
丙吉はこの功績で宣帝の宰相になるのだが、現存最古の論語のテキストである定州竹簡論語は、丁度この頃に埋蔵された。つまり論語の本章は、ものすごく新しい可能性があるのだが、権力の都合次第でカラスも真っ白になる中国では、この程度の異常を気にしていたら中国も中国人も分からない。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
曾子曰可以託六尺之孤註孔安國曰六尺之孤謂幼少之君也可以寄百里之命註孔安國曰攝君之政令也臨大節而不可奪也註大節者安國家定社稷也奪者不可傾奪之也君子人與君子人也
本文。「曾子曰可以託六尺之孤。」
注釈。孔安国「六尺の孤とは幼い君主を言う。」
本文。「可以寄百里之命。」
注釈。孔安国「主君の政令を代行することである。」
本文。「臨大節而不可奪也。」
注釈。大節とは国家を安定させ王朝を安定させることである。奪うとは、取り上げることが出来ないことを指す。
本文。「君子人與君子人也。」
新注『論語集注』
曾子曰:「可以託六尺之孤,可以寄百里之命,臨大節而不可奪也。君子人與?君子人也。」與,平聲。其才可以輔幼君、攝國政,其節至於死生之際而不可奪,可謂君子矣。與,疑辭。也,決辭。設為問答,所以深著其必然也。程子曰:「節操如是,可謂君子矣。」
本文。「曾子曰:可以託六尺之孤,可以寄百里之命,臨大節而不可奪也。君子人與?君子人也。」
與は平らな調子で読む。幼い主君を補佐する能があり、国政を代行し、命を脅かされても忠義が揺るがない者は、君子と言える、と言っている。與は疑問辞である。也は断定の言葉である。敢えて自問自答しているのは、それが間違いのない事実だと示すためである。
程頤「節操がこの通りなら、君子であると断定してよい。」
余話
漢文を真に受けない
儒家は孔子を開祖と仰ぎ、孔子は論語八佾篇14で周の政道を褒めちぎったことから、儒家は周初を理想の国家像に据えた。その周初に、殷を滅ぼして取って代わった武王が若くして死に、あとを継いだ成王が幼かったので叔父の周公旦が摂政を務めたとされる。
当時殷の残党はなお勢力を保っており、周公旦はその鎮圧に3年以上を要した(三監の乱)。この反乱?には周王室の一員だった大貴族も加わっており、「忠義」が必ずしも絶対の道徳でなかったことを物語っている。一説には、周公旦の独裁があまりにひどかったからとも言われる。
そしてそう考えないと、天下を取ったばかりの周王室が分裂した説明が付かない。だが儒者にとっては周公旦は理想の人物だった。孔子も「周公を夢に見なくなった」と歎いたとされる(論語述而篇5)。だから儒者はパブロフ犬のように、論語の本章を周公ばなしと言い張った。
それは上で検討した通り、前漢儒が本章を偽作したあと、その動機が分からなくなっていたからで、何一つ根拠のある解釈ではない。だが儒者の度が過ぎた偽善と、とうに滅びた周を理想国家と言い立てることで、現在の自分の政治的不満を述べ立てるタネにしたのは分かる。
だが漢字「忠」が戦国後半にならないと現れないように(語釈)、中国人にはもともと忠義の概念が無かった。周公旦は後世から見て忠義に見えるだけで、当人は自分のしたいようにしたまでである。また中華文明の常識として、道徳はやらせるもので自分がすべきでは決してない。
忠義もそうであるのは言うまでもない。
則天武后が唐の皇子を殺して皇帝然としてふるまっているのを、批判した身元不明の詩人の作だが、このくだりを聞いて武后は顔色を変えたというのが伝説になっている。だがおそらくそれはおとぎ話だ。武后も唐の帝室も、自分等が中国人だとは思っていなかったからだ。
中華王朝史の半分は、征服王朝の時代である。周王朝の祖先は羊飼いをして暮らしていた羌族で、秦帝国の祖先は明らかに騎馬遊牧民、漢帝国と抗争した匈奴はあぶみを発明して鮮卑と呼ばれたころ、漢土の北半を征服して北朝を建てた。隋唐帝室は鮮卑人の末裔である。
鮮卑は、周と儒家がでっち上げた道徳に頭がやられたら、その晩の寒さに凍え死ぬような生活を、当たり前に受け入れていた騎馬民族だった。漢文の本質的な虚偽(論語雍也篇9余話)を真に受けるようでは、「六尺の孤」のうちにもう死に絶えてしまったのは明らかだ。
他人事ではない。漢文を真に受けないのは現代日本人にとっても、必須の常識に違いない。一度でも、雨に打たれ風にさらされて旅すれば分かる。この世界は道徳では回っていない。道徳は都合の良い者だけが言い立てるもので、せいぜい他者の攻撃を抑止できるに過ぎない。
「情けは人の為ならず」という言葉は確かにある。そういう場面も人生にはあるだろう。だが九分九厘の瞬間は、そうでないことばかりがこの身を襲う。だから道徳を説く者をよく見てみるといい。擦り込まれた言葉をしゃべっているか、こちらを喰おうとする目をしている。
それは親兄弟でも違いがない。頼れるのは自分しか居ない。だから人間は自由なのだ。
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