論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰如有周公之才之美使驕且吝其餘不足觀也巳
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰如有周公之才之美使驕且吝其餘不足觀也已矣
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……曰:「如a周公之材b之美已c,[使d驕且鄰e,其餘無可f觀g]。201
- 今本「如」下有一「有」字。
- 材、今本作「才」。可通。
- 已、近本無。
- 皇本「使」上有「設」字。
- 鄰、今本作「吝」。古文音近通仮。『釋文』云、「本亦作”恡”、正平本作”悋”、敦煌本作”𠯌”」。
- 無可、近本作「不足」。
- 阮本「觀」下有「也已」二字、皇本・高麗本有「也已矣」三字。
標点文
子曰、「如有周公之材之美已、使驕且鄰、其餘無可觀。」
復元白文(論語時代での表記)
※材→才・驕→喬。論語の本章は、「如」「美」「使」「吝」「鄰」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、如し周公の材之美き有り已とも、使し驕り且つ鄰ならば、其の餘りは觀る可き無し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「もし周公のような才能の美点があっても、おごり高ぶり吝嗇なら、それ以外は見る価値が無い。」
意訳
全く困るなあ。呉王に周公のような才能があっても、威張り散らしてるしケチだからなあ。腕っ節以外は取り柄がない。見込んだはいいが、さてどうするかなあ。
従来訳
先師がいわれた。――
「かりに周公ほどの完璧な才能がそなわっていても、その才能にほこり、他人の長所を認めないような人であるならば、もう見どころのない人物だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「一個人即使有周公一樣的美好的才能,如果驕傲吝嗇,也就不值一提了。」
孔子が言った。「たとえ一個人が周公と同様の素晴らしい才能を持っていても、もしおごり高ぶってケチなら、つまり全く価値が無い。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
論語の本章では逆接の仮定条件を示し、”たとえ…でも”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”保有する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
周公(シュウコウ)
論語の本章では、周公旦。姓は姫、名は旦。周王朝開祖の文王の四男で、事実上の初代武王の弟。魯に封じられ(=領地を与えられ)たが、武王が早くに死んだので、まだ幼かった後継の成王の補佐を、燕に封じられた召公(ショウコウ)と共に行った。副都洛邑を建設し、叛乱を鎮圧し、礼法を定めたとされる(→wikipedia)。
孔子にとっては文武両道の政治家で周の文化の開祖であり、聖人として崇めていた。文字的には論語語釈「周」・論語語釈「公」を参照。
なおここで孔子が周公を取りあげさせられたのは、呉の開祖泰伯を念頭に置いているだろう。周公旦の父親は文王だが、泰伯はその叔父に当たる。どちらも貴種で、高潔な人格者として知られた。つまり、”呉国の開祖太伯様は、我が魯の開祖周公様と並ぶほどのお方だったが、その末裔は…”と当てこすりを言ったように聞こえる。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
才*(サイ)→材(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”才能”。初出は甲骨文。字形は地面に打ち付けた棒杭による標識の象形。原義は”存在(する)”。金文では「在」”存在”の意に用いる例が多い。春秋末期までの金文で、”才能”・”財産”・”価値”・”年”、また「哉」と釈文され詠嘆の意に用いた。戦国の金文では加えて”~で”の意に用いた。詳細は論語語釈「才」を参照。
(楚系戦国文字)
定州竹簡論語では「材」と記す。初出は戦国文字。字形は「木」+「才」で、全体で原義は”木材”。「ザイ」は呉音。戦国の竹簡で”財産”・”材料”の意に用いた。『大漢和辞典』は『集韻』を引いて、「通じて材に作る」という。ただし春秋時代以前の「才」にその用例は確認できないが、「棒杭」の語義はあった。詳細は論語語釈「材」を参照。
美(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”優れている点”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。
已(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…てしまう”。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”もし…なら”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
驕(キョウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”おごり高ぶる”。現行書体の初出は秦系戦国文字で、論語の時代に存在しない。ただし論語の時代には部品で同音の「喬」と書き分けられていなかった。字形は「馬」+「喬」”たかい”。馬が跳ね上がったさま。詳細は論語語釈「驕」を参照。
且(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。
吝*(リン)→鄰(リン)
(甲骨文)
論語の本章では”物惜しみする”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は正面又は真後ろを向いた人の全形+「𠙵」”くち”。原義は未詳。甲骨文ではおそらく地名に用いられた例があるほか、金文では欠損がひどくて語義が分からない。詳細は論語語釈「吝」を参照。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語は鄰と記す。”やぶさか”の語義は春秋時代では確認できない。カールグレン上古音はli̯ĕnで、「吝」のmli̯ənと近音。初出は戦国末期の金文。ただし字形は「𠳵」で、現行字体の初出は秦系戦国文字。字形は「阝」”家の入り口にかけたはしご”+かんじきをはいた「人」+”雨や雪の降るさま”で、雪が降っても出歩くような近い範囲のさま。原義は”となり”。西周中期の字形では、「阝」+「人」+”雨や雪”+「𠙵」になる。「𠙵」はかんじきの省略形とみるか、または天気の悪い日にもお互い声を掛け合う間柄を指すとみる。春秋末期までに、”となり”の意に用いた。詳細は論語語釈「鄰」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
餘(ヨ)
「余」(甲骨文)/「餘」(秦系戦国文字)
論語の本章では、”…以外の事柄”。新字体は「余」だが、本来別系統の字。「餘」の初出は秦系戦国文字。「余」の初出は甲骨文。甲骨文「余」の字形は「亼」”あつめる”+「木」で、薪や建材など木材を集積したさま。おそらく原義は”豊富にある”→”あまる”。甲骨文から”私”との一人称に転用されたのは、音を借りた仮借としか考えようがない。詳細は論語語釈「余」を参照。
不足(フウシュ)→無可(ブカ)
論語の本章では”足りない”。
(甲骨文)
「不」は漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
「疋」(甲骨文)
「足」の初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。”あし”の意では漢音で「ショク」、呉音で「ソク」。”足りる”の意では漢音で「シュ」、呉音で「ス」。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”膝から下のあし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
定州竹簡論語では「無可」と記す。”してよいところがない”の意。
(甲骨文)
「無」の初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
觀(カン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”。初出は甲骨文だが、部品の「雚」の字形。字形はフクロウの象形で、つの形はフクロウの目尻から伸びた羽根、「口」はフクロウの目。原義はフクロウの大きな目のように、”じっと見る”こと。詳細は論語語釈「観」を参照。
也已矣(ヤイイ)→×
唐石経は「也巳」と記し、清家本は「也已矣」と記すが、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「也」以降を欠く。従って時系列により、「也」以降を無いものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「也已矣」を逐語訳すれば「であるに、なりきって、しまった」。アルツハイマーに脳をやられた大隈重信が、演説で「あるんであるんである」と言ったように、もったいの上にもったいを付けたバカバカしい言葉。断定を示したいなら「也」「已」「矣」のどれか一字だけで済む。辞書的には、論語語釈「也」・論語語釈「已」・論語語釈「矣」を参照。
漢文業界では「也已」の二字で「のみ」と訓読する座敷わらしだが、確かに「也已」は”であるになりきった”の意だから「のみ」という限定に読めなくはないが、それは正確な漢文の翻訳ではない。意味の分からない字を「置き字」といって無視するのと同じ、平安朝の漢文を読めないおじゃる公家以降、日本の漢文業者が世間を誤魔化し思考停止し続けた結果で、現代人が真似すべき風習ではない。
曹銀晶「談《論語》中的”也已矣”連用現象」(北京大学)によると、「也已矣」は前漢宣帝期の定州論語では、そもそもそんな表現は無いか、「矣」「也」「也已」と記されたという。要するに、漢帝国から南北朝にかけての儒者が、もったいを付けて余計な言葉をくっつけたのだ。論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
なお唐石経は「巳」と記し、清家本は「已」と記すが、唐代のころ、「巳」「已」「己」は相互に異体字として通用した。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語にあることから、前漢前半までには論語の一章として成立していたと分かるが、春秋戦国の誰一人引用せず、その時代を含めた先秦両漢の誰一人引用していない。つまり事実上の初出は定州竹簡論語で、再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』。本章は文字史的には論語の時代に遡れるし、史実の孔子の教説と矛盾しないが、引用の無さ、漢字の用例の怪しさから、前漢儒による偽作の疑いがある。
解説
論語の本章も、呉の使節を応接して中座した孔子のぼやきとして舞台設定されたとみられる。
日の出の勢いの呉王夫差が傲慢であったことは史料にあるところで、軍事力を持てば傲慢になるのは人の性というもの。ケチについては直接の証拠はないが、子貢が呉の敵国・越へ工作に出かけようとするのに、呉王夫差は手土産一つ持たせなかったという間接証拠がある。
対して子貢が越に向かうと、越王は宝物など手土産をどっさり渡したが、子貢は断った、という。さらに呉王だけでなく、宰相格の伯嚭(ハクヒ)はワイロ大好き人間だったことになっており、呉国としてケチとは言えないまでも欲望の亡者の集まりだったことを連想させる。
しかも呉は魯との交渉で、当時破格のご馳走を並べろと強要したことが『左伝』にある。詳細は前章の余話を参照。牛・豚・羊の焼肉セット百人前を出せと言われて魯は仕方なく出したのだが、魯の子服景伯は「呉の田舎者めが。今に滅びるぞ」と聞こえないようにつぶやき、対して伯嚭は魯の筆頭家老・季康子を呼び出したが、拉致られるかも、と怖がった季康子が子貢を派遣して…というお話の続きはこちら。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰如有周公之才之美設使驕且吝其餘不足觀也已矣註孔安國曰周公者周公旦也疏子曰至已矣其餘謂周公之才伎也言人假令有才能如周公旦之美而用行驕恡則所餘如周公之才伎者亦不足復可觀者以驕沒才也故王弼曰人之才美如周公設使驕恡其餘無可觀者言才美以驕恡棄也況驕恡者必無周公才美乎假無設有以其驕恡之鄙也
本文「子曰如有周公之才之美設使驕且吝其餘不足觀也已矣」。
注釈。孔安国「周公とは周公旦である。」
付け足し。先生は極限を言った。「其餘」とは、周公の才能である。その心は、人にもし周公のような優れた才能があっても、行動がおごり高ぶってケチなら、それ以外の部分で周公の才能があったにせよ、注目するに足りる人物ではないし、驕り高ぶりが才能をダメにしている、ということだ。
だから王弼が言った。「人の才能が周公のようでも、それがその人を驕ってケチにしているなら、才能以外に見るべき点が無いし、才を誉めた所で驕りとケチが才を覆い隠してしまう。周公の才も無い驕ったケチは言うまでもない。周公の才が想像も出来ない者の驕りとケチは、一層人をダメにするというものだ。」
新注『論語集注』
子曰:「如有周公之才之美,使驕且吝,其餘不足觀也已。」才美,謂智能技藝之美。驕,矜夸。吝,鄙嗇也。程子曰:「此甚言驕吝之不可也。蓋有周公之德,則自無驕吝;若但有周公之才而驕吝焉,亦不足觀矣。」又曰:「驕,氣盈。吝,氣歉。」愚謂驕吝雖有盈歉之殊,然其勢常相因。蓋驕者吝之枝葉,吝者驕之本根。故嘗驗之天下之人,未有驕而不吝,吝而不驕者也。
本文。「子曰:如有周公之才之美,使驕且吝,其餘不足觀也已。」
才美とは、知能や技能が優れていることを言う。驕は、おごり高ぶりである。吝は、いやしくケチなことである。
程頤「この教えは、おごり高ぶりとケチがいけないことをきつく戒めたのである。そもそも周公のような人徳があれば、当たり前に高ぶりやケチが無いはずだ。仮に周公の才能だけを備え、おごり高ぶってケチなら、全く見所の無い人物と言える。」「驕とは、気分が充実し過ぎていることである。吝とは、気分が衰えすぎていることである。」
愚か者の私(朱子)が思うに、おごり高ぶりとケチはもちろん気分の上げ下げには違いないが、デタラメに上げ下げするわけではない。つまりおごり高ぶるのはケチの結果で、ケチはおごり高ぶりの原因である。そのつもりで天下の人々を見回すと、おごり高ぶってケチでない人は居ないし、ケチでおごり高ぶっていない人も居ない。
程頤(程伊川)の信じがたい愚劣はこれまで何度も記してきたが、自分の愚行はオン・ザ・シェルフのくせに、人の欠点ばかりあげつらうのは、この男の常態だったらしい。
程頤はまだ科挙(高級官僚採用試験)に受かりもしないのに、勝手に皇帝に説教文を送りつけ、キモい奴だと勅裁で不合格を喰らった。気の毒に思った司馬光(『資治通鑑』の編者で、一時宰相を務めた。科挙主席合格者でもある)の口利きで役人になったが、人をつかまえては悪口ばかり言うので、誰からも嫌われて追い出された。
もちろんこんな極端がまかり通ったのは、当時なりの背景がある。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
シューコーシューコーシュコシュコシューコー
論語述而篇5で、「周公を夢に見なくなった」と歎いた、おそらく歎かされた孔子だが、全500章ほどある論語の中で、孔子が周公旦を讃えた話は述而篇のそれと本章ぐらいしかない。つまり孔子が弟子に普段から、シューコーシューコーと説教していなかったのは明らかだ。
批判しようのない故人を例に出して立場の弱い人に説教するのは、出来の悪い親や教師の常套手段だが、孔子塾は孔子個人の魅力しか背景が無いから、そういう下らない説教をすれば、弟子は直ちに逃げ出したはずだし、まして生死を共にする放浪に付き合うわけが無い。
では孔子生前、周公旦はどのように世に評価されていたのだろうか。金文史料を見よう。
西周早期「方鼎(周公東征鼎)」(集成2739)
隹周公于征伐東夷。豐白。尃古。咸𢦏。
その時周公は東方の蛮族を討伐に出掛け、豊伯や尃古といった部族が全て討伐された。
西周早期「禽𣪕」(集成4041)
王伐蓋𥎦。周公某。禽祝。禽又祝。王易金百寽。禽用乍寶彝。
周の成王が謀反人の蓋侯を討伐した。軍略を周公が練り、神官の禽が神に戦勝を祈った。禽はまた?にも祈った。王が禽に青銅百粒を褒美として与えたので、禽はその青銅で宝物となるべき酒壺を鋳造した。
西周早期「令方尊」(集成6016)
王令周公子明保,尹三事四方,受卿事寮。
成王は周公を摂政に任じ、内政と外交を委ね、領地と部下を与えた。
西周早期「小臣單觶」(集成6512)
王後坂克商。才成師。周公易小臣單貝十朋。用乍寶彝。
武王は再起を図って殷を滅ぼそうとし、常備軍を編成した。その際、周公が私め単にタカラガイ十束を下さったので、それを代金に青銅を買い、宝物となるべき酒壺を作った。
西周中期「𤼈鐘」(集成252)
且來見武王。武王則令周公舍㝢厶五十頌處。
我が祖先が武王にお目見えしたとき、王は周公に命じて迎賓館に宿らせ、五十通りの歓迎の舞を舞わせた。
以上が周公にまつわる西周金文史料の全てではないが、周公の評価を伝える事例はほぼ網羅した。ところが、である。西周中期を仕舞いとして、その後は周公について記した金文が一切発掘されていない。再出するのは戦国時代の竹簡で、つまり孔子の時代、周公がどのように語り伝えられていたかは分からない。
ところが戦国時代になると、周公が何を言ったかの台詞まで書き記されるようになる。もちろんでっち上げと断じるべきで、周公の格が上がったのは、むしろ戦国時代になってからと考えた方が理屈に合う。
それは理の当然で、孔子とすれ違うように生きた墨子と、同時代の楊朱がいずれもさんざん儒家をからかい、対して儒家は衰微して滅亡同然になった。墨子は孔子を否定するため、殷や周よりさらに古い聖王の禹を自派の開祖に据えたが、墨子没後20年後に孟子が生まれた。
孟子は滅亡同然だった儒家を自分の商材に選び、滅亡をいい事に都合のよい話をいくつも論語や儒家の教説にねじ込んだが、その頃になって急に周公ばなしが史料に現れるのは、孟子とその一党が周公を持ち上げるために創作したとみて間違いない。
なお上掲「禽𣪕」の「金百寽」を”青銅百粒”と訳したのは誤訳ではない。殷代の甲骨文から「金」は青銅を意味し、goldを意味する時にはわざわざ「黄金」と断っている。
「金」の字は殷代と周以降でまるで字形が違う一例で、殷代までは「口」を二つ上下に並べた形「吕」、周以降は「冫」”液体”+「全」で、「全」は「𠆢」”屋根”+「王」”まさかり”。溶かして宮殿に備え付けるべきまさかりを作る材料の意。その後「冫」と「全」が合体して現行字体となった。詳細は論語語釈「金」を参照。
まさかりは軍事権と司法権の象徴で、王や貴族(士)が自己救済=権力の象徴として保有した。中国人が初めて手にした刃物になり得る硬度を持った金属は青銅だが、殷代ではすでに隕鉄の利用法が知られ、鉄のやいばを青銅で挟んで叩き上げたまさかりが出土している。
また周代では銅を「赤金」、錫を「白金」と呼び、青銅は両者の合金。また戦国時代には、青銅を「美金」、鉄を「悪金」と呼んだ。孔子の存命中に鉄器は実用化されており、「剛」の字の存在から(論語公冶長篇10)、すでに鋼鉄が存在したと思われる。
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