論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
曽子有疾召門弟子曰啓予足啓予手詩云戰戰兢兢如臨深淵如履薄冰而今而後吾知免夫小子
- 「曽」字:〔八田日〕。
- 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
曽子有疾召門弟子曰啓予足啓予手/詩云戰〻兢〻如臨深淵如履薄氷/而今而後吾知免夫小子
- 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
曽子有疾、召門弟子曰、「啓予足。啓予手。詩云、『戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄氷。』而今而後、吾知免夫。小子。」
復元白文(論語時代での表記)
戰戰
薄冰
※予→余・詩→辭。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。
書き下し
曽子疾有り、門弟子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云く、戰戰兢兢として、深き淵に臨むが如く、薄き冰を履むが如しと。今而り後而り、吾免るるを知る夫。小子。
論語:現代日本語訳
逐語訳
曽子が死病にかかった。弟子を呼んで言った。「私の足を開け。私の手を開け。詩経にある、びくびくと怯えながら、深い淵をのぞき込むように、薄い氷の上を踏み歩くように、と。これからは、私はこの言葉から免れたのを知ったよ。お前。」
意訳
曽子が危篤になった。そこで弟子を呼んで言った。
「私の足裏を見ろ。手の平を見ろ。傷一つ無いだろう。詩経に言う、びくびくと怯えながら、深い淵をのぞき込むように、薄い氷の上を踏み歩くように、親に頂いたこの体を損ねてはならないと。これでやっとそんな義務からもお役ご免だ。分かるかお前。」
従来訳
曾先生が病気の時に、門人たちを枕頭に呼んでいわれた。――
「私の足を出して見るがいい。私の手を出して見るがいい。詩経に、深渕(ふかぶち)にのぞむごと、
おののくこころ。
うす氷ふむがごと、
つつしむこころ。とあるが、もう私も安心だ。永い間、おそれつつしんで、この身をけがさないように、どうやら護りおおせて来たが、これで死ねば、もうその心労もなくなるだろう。ありがたいことだ。そうではないかね、みんな。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
曾子得了重病,將學生召集起來,說:「同學們啊,看看我的足!看看我的腳!看看受過傷沒有,我一生謹慎,總是小心翼翼,就象站在深淵之旁,就象踩在薄冰之上。現在,我的身體再也不會受傷了!」
曽子が重病にかかり、弟子を召し集めて、言った。「同学諸君や、私の足をとくと見よ!私の脚をとくと見よ!傷一つ無いのをとくと見よ、私が生涯慎んだことは、全て気を小さくおどおどし、まるで深い淵のほとりに立つようで、薄い氷の上を踏むようだった。今、私の体はもはや傷を受けることが無くなった!」
論語:語釈
曾子(ソウシ)
新字体は「曽子」。孔子の弟子とされてきた曽参子輿の敬称。「子」とは貴族や知識人に対する敬称で、春秋戦国時代、孔子のように学派の開祖や上級貴族は○子と呼び、その弟子や下級貴族は子夏のように子○と呼ばれた。つまり「曽子」とは、孔子と同列に置いた尊称。
その実、曽子は孔子の弟子ではなく、家事使用人に過ぎなかった。それが開祖級の高弟に祭り上げられたのは、孔子没後の儒家の事情による。孔子の一人息子・鯉は先立ったが、孫の子思は生きていた。孔子が世を去ると、有力弟子は自分の稼業に精を出し、子思は放置された。
冷徹な孔子は誰にも自分の後を継げとは言わなかった(孔子はなぜ偉大なのか)。だから孔子没後しばらくは、有力弟子の間で派閥抗争が始まった(儒家の道統と有若の実像#道統の真相)。だがすぐにそれにも飽きて、有力弟子は諸国に散った。誰も子思の面倒を見なかった。
そんな中で子思のおむつを替えていたのが曽子で、放置の子思は食うにも困り、『史記』孔子世家に「嘗困于宋」とある通り、孔子の遠縁を頼り宋国へ流亡した。曽子は子思のためながら、諸国の弟子をゆすって回った。魏国で子を亡くしたばかりの子夏にこう言い放っている。
詳細は論語の人物・曽参子輿を参照。
(甲骨文)
「曾」(曽)の初出は甲骨文。旧字体が「曾」だが、唐石経・清家本ともに「曽」またはそれに近い字体で記している。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「甑」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”(病気に)かかる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
疾(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”急性の病気にかかる”。疫病のたぐい。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。
ペニシリンが無い時代、伝染病は恐ろしいもので、ささいなことから人は死に至った。また薬湯を用いて治療する、いわゆる漢方はまだ成立しておらず、鍼灸が医療の中心だった。
虚実、陰陽、表裏といった概念を用いて病気を系統立って分析し、適切な薬湯を与えられるようになったのは、論語時代より700年も過ぎた、三国時代の『傷寒論』からになる。
論語にも薬を用いる記述はあるが、「のどの痛みには南天の実」といった、まだ粗放な医学に過ぎなかったと思われ、漢方ほど有効に効いたとは思えない。それより鍼灸の方が効いただろう。孔子は季氏から贈られた薬の服用を断っている(論語郷党篇12)。
召(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”(目下の者を)呼びつける”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”容器”+「刀」。甲骨文の字形には、刀が三本、下に受け皿があるものが見える。缶切りのように、刃物で食品や酒などの密閉容器を開けるさま。原義は”開けて口にする”。容器から取り出した食品や飲料を口に”召す”こと。春秋末期までに、地名または氏族名に、”呼ぶ”・”あきらか”・”みことのり”の意に用いた。「召」から周王朝配下の小諸侯の名である「邵」の字が分化したのは、春秋時代末から。詳細は論語語釈「召」を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”学派の”。この語義は春秋時代では確認できない。「モン」は呉音。初出は甲骨文。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
弟子(テイシ)
論語の本章では”(曽子の)弟子”。「デシ」は慣用音。「弟」が”若い”を、「子」が”学ぶ者”を意味する。現代日本での学生生徒児童は敬称ではないが、論語の時代、学問に関わる者は尊敬の対象であり、軽い敬意を世間から受けた。
孔子が弟子に呼びかける「君子」は”諸君”と訳して良いが、もとは「諸君子」の略であり、「君子」とは論語の時代、すなわち貴族を意味する。また孔子やその他の者が孔子の弟子連を「二三子」と呼ぶ場合があるが、これも「二三人の君子」の意で、軽い敬意がこもっている。
また後世の「諸子」は、これも「諸君子」の略であり、目下の若者に使う言葉ではあるが、軽い敬意がこもっている。
「弟」(甲骨文)
「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形はカマ状のほこ=「戈」のかねを木の柄にひもで結びつけるさまで、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になった。甲骨文・金文では兄弟の”おとうと”の意に用いた。詳細は論語語釈「弟」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
啓(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”こわばった脚を大の字型に開く”。新字体は「啓」。初出は甲骨文。中国・台湾・香港では「啟」がコード上の正字として扱われているが、唐石経・清家本ともに「啓」と記す。『学研漢和大字典』は「啟」字を載せず、「啓」の異体字として「諬」を載せ、「小学堂」は「啟」を「啓」の異体字とはしていないが、「諬」は異体字の一つとして所収。字形は「屮」”手”+「戸」”片開きの門”+「𠙵」”くち”で、門を開いておとなうさま。原義は”ひらく”。甲骨文では”報告する”・”天が晴れる”の意に、金文では”気付く”の意に用いた。戦国の金文では”領土を拡大する”、氏族名・地名・人名に用いた。詳細は論語語釈「啓」を参照。
古注新注共に、布団をめくる事という。
古注『論語集解義疏』
孔子昔授孝經於曾子曰身體髪膚受之父母不敢毀傷曾子稟受至死不忘故疾病臨終日召己門徒弟子令開衾視我手足毀傷與不亦示父母全而生己已亦全而歸之也
孔子はかつて『孝経』を曽子に授けて説教した。「体は父母から頂いたものだから、気を付けてケガをしないようにせねばならない。」曽子はこの教えを真に受けて死に至るまで忘れなかった。だから病気になって臨終の日に自分の弟子を呼んで、布団をめくらせて手足の傷を見物させ、父母が五体満足に自分を産んだ事を示すのみならず、自分も五体満足を保って返上することを示した。
新注『論語集注』
曾子平日以為身體受於父母,不敢毀傷,故於此使弟子開其衾而視之。(『論語集注』)
曽子は普段、体は父母に貰ったもので、自分から傷付けてはならないと言っていたから、弟子に布団をめくらせ体を見物させた。
両者とも、別に見てきたわけで無く、勝手な想像を言っているに過ぎない。
予(ヨ)
(金文)
論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。
足(ショク/シュ)
「疋」(甲骨文)
論語の本章では”あし”。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”膝から下のあし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
手(シュウ)
(金文)
論語の本章では”て”。初出は西周中期の金文。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文では一般に「又」と記すが、金文になって「手」の字形が現れた。字形は五本指を持つ手の象形で、原義は”て”。金文では原義に、”くび”の意に用いた。詳細は論語語釈「手」を参照。
詩(シ)
(金文大篆)
論語では、孔子が編纂したとされる歌集『詩経』(『毛詩』)のこと。それまでの歌詞三千から、孔子が三百編を選んで収めたとされるが疑わしい。ただし個々の詩は孔子の手による、加筆・削除・改編があったと思われる。論語八佾篇で子夏が問うた詩がその一例に見えるが、実はこの八佾篇の章は後世の創作。
初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は近音の「辞」。字形は「言」+「寺」”役所”のものや、「之」”ゆく”+「口」などさまざまある。原義が字形によって異なり、明瞭でない。詳細は論語語釈「詩」を参照。
云(ウン)
(甲骨文)
論語の本章では”言う”→”…に次のような話が書いてある”。「云」の初出は甲骨文。字形は「一」+”うずまき”で、かなとこ雲(積乱雲)の象形。甲骨文では原義の”雲”に用いた。金文では語義のない助辞としての用例がある。”いう”の語義はいつ現れたか分からないが、分化した「雲」の字形が現れるのが楚系戦国文字からであることから、戦国時代とみるのが妥当だが、殷末の金文に”言う”と解せなくもない用例がある。詳細は論語語釈「云」を参照。
戰(セン)
「戰」(戦国金文)
論語の本章では”恐れる”。新字体は「戦」。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音も存在しない。”おののく”の意での論語時代の置換候補はない。字形は「單」”さすまた状の武器”+「戈」”カマ状の武器”。原義は”戦争”。部品の單(単)は甲骨文から存在し、同音は丹や旦、亶などのほか、単を部品とする漢字群。いずれも”たたかう”の語義はない。
「嘼」交鼎・殷代末期
また戦国の竹簡では「𡃣」「嘼」を「戰」と釈文する例があり、「嘼」字の初出は殷代末期の金文、春秋末期までに”戦う”と解せなくもない用例があるが、”おののく”の用例は無い。詳細は論語語釈「戦」を参照。
”たたかう”意では、甲骨文から鬥(=闘)が存在し、長柄武器を持った二人の武人が向き合う様。合、格にも”たたかう”意がある。闘トウ→単タン→戦セン、という連想ゲームは出来るが、ゲームに過ぎず、「セン」系統の”たたかう”言葉は、戦国時代の楚の方言といってよい。
兢(キョウ)
(金文)
論語の本章では”恐れ畏まる”。初出は西周末期の金文。字形は「丰」”実った穀物”+「兄」”長老”が二つ。各地の長老が貢ぎ物を頭に捧げて服従の姿勢を示すさま。春秋末期までの例は一例しか知られない。西周末期の金文に「其邑兢」とあり、”恭順である”と解せる。詳細は論語語釈「兢」を参照。
戰戰兢兢
論語の本章では、”恐れおののき、わななくように恐れる”。引用元は『詩経』小雅・小旻より。
不敢暴虎、不敢馮河。 人知其一、莫知其他。 戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。
敢えては虎を暴がず、敢えては河を馮らず。人其の一を知りて、其の他を知る莫し。戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し。
わざわざ虎に殴刂かかったり、大河を歩いて横切る者はいない。だが人は危険の一つを知りながら、その他の危険に気付かない。だからぶるぶると震えおののいて、底なし沼を覗くように、薄い氷を踏むように。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
論語の本章では”~のようだ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
臨(リン)
(甲骨文)
論語の本章では”大いなるものに直面する”。この語義は春秋時代では確認できない。字形は大きな人間が目を見開いて、三人の小人を見下ろしているさま。原義は”下目に見る”・”見守る”。金文では原義に用いられ、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「臨」を参照。
深(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”深い”。初出は甲骨文。字形は「氵」”川”+「罙」”さぐる”。「罙」は「探」の初文とされ、甲骨文の字形は水の入った深い容器に手を突っ込むさま。従って「深」は”川や池が深い”。甲骨文・石鼓文・戦国早期の竹簡での用例は、破損がひどくて文として解読できない。金文の初出は戦国末期で、”心が深い”と解せる。戦国中末期の竹簡では、”深い”と解せる。詳細は論語語釈「深」を参照。
淵(エン)
「淵」(甲骨文)
論語の本章では”大きな水たまり”。池や湖のたぐい。「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。
履(リ)
(甲骨文)
論語の本章では”踏む”。初出は甲骨文。字形は目が大きく、頭に飾りを付けた人が、特定の地面を踏むさま。甲骨文に「我弗令史履」とあり、おそらく”見に行かせる”の意。西周の用例では人名が多い。詳細は論語語釈「履」を参照。
薄(ハク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”薄い”。初出は戦国中末期の楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。西周の金文に部品の「尃」を「薄」と釈文する事例はあるが、いずれも地名人名などで、”うすい”と解し得るものはない。字形は「艹」+「氵」+「尃」”すみずみまで行き渡る”で、水や草が一面に広がるさま。戦国の竹簡では”(人情が)うすい”の意に用いた。詳細は論語語釈「薄」を参照。
冰(ヒョウ)
(戦国金文)
論語の本章では”氷”。初出は戦国早期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「冰」「氷」は異体字。甲骨文と西周の金文では「仌」とされ、おそらく水面に張った氷の模様。だが「仌」を”こおり”と中国の漢文業者が比定した理由はかなり怪しい。日本の漢文業界の怪しさも相当だが、中国人だからといって信じてよい理由は何一つ無い。詳細は漢和辞典ソフトウェア比較#漢語多功能字庫を参照。戦国以降の字形はまるで違い、「川」+「:」。字形の由来は不明。戦国の金文では”氷が張る”の意に用いた。詳細は論語語釈「氷」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…より”・”そして”。前者の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では時間的な”あと”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は秦系戦国文字。孔子在世当時の金文では「知」・「智」は区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は明瞭でない。ただし春秋時代までには、すでに”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語では通常、「智」の異体字「𣉻」と記す。詳細は論語語釈「智」を参照。
免(ベン)
(甲骨文)
論語の本章では”(責任を)解かれる”。この語義は戦国時代以降に音を借りた転用した仮借。「メン」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「免」。大陸と台湾では「免」が正字として扱われている。字形は「卩」”ひざまずいた人”+「ワ」かぶせ物で、中共の御用学者・郭沫若は「冕」=かんむりの原形だと言ったが根拠が無く信用できない。「卩」は隷属する者を表し、かんむりではあり得ない。字形は頭にかせをはめられた奴隷。甲骨文では人名を意味し、金文では姓氏の名を意味した。戦国の竹簡では「勉」”努力する”、”免れる”、”もとどりを垂らして哀悼の意を示す”を意味した。春秋末期までに、明確に”免れる”と解せる出土例はない。詳細は論語語釈「免」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では「かな」と読んで詠歎の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
小子(ショウシ)
論語の本章では”お前(ら)”。呼んだ弟子が一人か複数かは分からない。孔子は弟子複数に呼びかけるとき「君子」”諸君”とか「二三子」”きみたち”とか呼んでおり、「小子」という無礼な言葉遣いをおそらくしていない。
軍人が上官に「小官は…であります」と言うのは謙遜の辞だが、艦長が操舵手に「小官、面舵一杯」と言えば、キレて取り舵一杯を切りかねない。言葉に敏感な孔子が、「小子」の無礼に気付かぬワケがないだろう。
論語の本章で曽子が後世の儒者に”お前ら”と言わされているのは、曽子を神格化したい儒者の都合による。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は全文を定州竹簡論語に欠き、春秋戦国時代の誰一人引用せず、唯一若干違った文字列で、後漢初期の王充が『論衡』に引用しているのみ。
- 論語の本章
曾子有疾、召門弟子曰、「啟予足。啟予手。詩云、『戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。』而今而後、吾知免夫。小子。」 - 『論衡』四諱篇8
故曾子有疾,召門弟子曰:「開予足!開予手!而今而後,吾知免夫。小子!」
また論語の本章では、曽子が『詩経』を引用して説教させられているが、『詩経』は孔子による編纂と伝えられてきたが、文字史を検証するとボコボコとニセモノが出てくること論語と同様であり、本章に引用した「戦戦兢兢」も春秋時代以前の文字列ではありえない。
詳細は論語八佾篇20解説を参照。従って論語の本章は、前漢末期から新にかけて、王莽とその一党によって偽作された可能性が高い。本章では曽子は弟子を”お前”呼ばわりしているが、これは曽子を偉そうに見せるため。
曽子称揚キャンペーンは戦国時代の孟子もやった形跡があるが、司馬遷は『史記』弟子伝に曽子の言葉をぜんぜん引用しておらず、大した弟子ではないと思っていた節がある。つまり一世代年上の儒者で前漢儒を代表する董仲舒も、曽子称揚キャンペーンをしなかったとみてよい。
董仲舒はいわゆる儒教の国教化を推し進めた儒者とされるが、自分の利権のためなら平気で論語に偽作を混ぜ込んだ。顔淵神格化を図ったのはおそらくこの男だが、創作の能が無くただ「偉かった。偉かった」と書くしか無かった。いくら古代とはいえ知能が稚拙に過ぎる。
詳細は論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。
解説
この論語泰伯篇が、もとは孔子と呉の使節との、応接の場面を描いたものであったことは明白で、もとは第1~2、8~17のみで成り立っていただろう。しかもその応接そのものが史実とは言いがたい。そこへ本章からしばらく続く曽子のニセの言葉や、篇末にありもしない上古の帝王伝説が付け加わった。論語全20篇の中でも、きわめていかがわしい篇と言える。
章 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
話 | 呉 | 呉 | 曽 | 曽 | 曽 | 曽 | 曽 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 呉 | 帝 | 帝 | 帝 | 帝 |
儒家の伝説では、曽子は親孝行に優れ、孔子はそれを愛でて、特に『孝経』を伝授した事になっている。あるいは「身体髪膚」(シンタイハップ)で有名な『孝経』は、曽子が書いたともされる。しかしこの伝説は、吉川本でさえ「当時孝経が成立していたか怪しい」とまで言う。
この図は『孔子聖蹟図』の孝経伝曽と題する明代の版画だが、真ん中が孔子、左に立って、他の弟子とは違う偉そうな服を着た人物が曽子。
曽子が持ち上げられたのは、孔子の孫・子思のおむつを替えたからだが、本章の内容から言えばもう一つある。儒者は九分九厘が本の虫の青びょうたんで、箸と筆とワイロより重いものを持とうとせず、肉体労働や手仕事を激しく卑しんだので、同じく手足に傷一つ無い曽子は格好の大義名分になった。
しかし孔子一門は革命政党でもあり、向こう傷の一つや二つ無ければ、一人前とは言えない。さらに六芸のうち射と御を、ケガなしで習得できるはずもない。例えば弓術に小刀はつきものである。つまり曽子は、六芸を体得できなかったし、そもそも孔子の直弟子とは言いかね、家事使用人だった。本章はむしろ、曽子がうすのろ呼ばわりされた証拠になる話と理解してもいい。
ただし、人力と畜力以外の動力皆無の古代にあって、手足に傷一つ無いというのもそれはそれで奇特な事で、今日で言えば化粧品会社のよいお客様になりそうな人物とは言える。おそらく家事もしなかったのではないか。そうでなければ、生涯ケガがなかったとは考えにくい。
それはそうだろう。そもそも本章が、捏造なのだから。
論語ではここからしばらく、曽子のニセモノのお説教が続く。こんにち論語を読もうとする人が、「学びて時に…」を読み終えてすぐ、有若の「その人となりや孝弟にして…」に出くわしてやる気を失うように、論語には読ませまいとする編集の意志が感じられる。
というより、その時代ごとの儒者の都合で、勝手なでっち上げをデタラメに押し込んだから、ワケわかめな本に成り下がった。
渋沢栄一が「論語は決して難しい学理ではなく、学者でなければ判らぬものでない。論語の教えは広く世間に功能があり、元来解り易いものを、学者が難しくしてしまい、農工商などが知るべきでなく、論語を手にすべきでないとしてしまった。これはは大いなる間違いだ」と言ったのもむべなるかなで、面白く読もうとする、あるいは孔子一門の真の姿に迫ろうとするなら、まずはこうしたあまり出来の良くない弟子の章や、ニセモノを省いて読むのがいい。
論語の本章に価値あることは書いていない。春秋の君子は戦士を兼ね、だから社会に自分の特権を主張できた。戦場から逃げ回ったと伝わる曽子は、もとより孔子の弟子ではないし、孔子塾の必須科目である武術を身につけていたわけでもない。傷一つないのは君子でない。
詳細は論語における「君子」を参照。新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
曾子有疾召門弟子曰啓予足啓予手註鄭𤣥曰啓開也曾子以為受身體於父母不敢毀傷之故使弟子開衾而視之也詩云戰戰兢兢如臨深淵如履薄冰註孔安國曰言此詩者喻己常誡慎恐有所毀傷也而今而後吾知免夫小子註周生烈曰乃今日而後我自知免於患難矣小子弟子也呼者欲使聴識其言也
本文「曾子有疾召門弟子曰啓予足啓予手。」
注釈。鄭玄「啓とは開くことである。曽子は、体は父母から頂いたものだから、気を付けて傷一つしないよう気を付けろと言った。だから弟子に布団をめくらせて手足を見させたのである。」
本文「詩云戰戰兢兢如臨深淵如履薄冰。」注釈。
孔安国「この詩を引用したのは、自分で常に気を付けて、怪我をしないように心がけよと言ったからである。」
本文「而今而後吾知免夫小子。」
注釈。周生烈「つまり今日からあとはもう困難に出くわすことはないと言ったのである。小子とは弟子のことである。弟子を呼んで、臨終の言葉を聞いて覚えさせたのである。」
新注『論語集注』
曾子有疾,召門弟子曰:「啟予足!啟予手!詩云『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』而今而後,吾知免夫!小子!」夫,音扶。啟,開也。曾子平日以為身體受於父母,不敢毀傷,故於此使弟子開其衾而視之。詩小旻之篇。戰戰,恐懼。兢兢,戒謹。臨淵,恐墜;履冰,恐陷也。曾子以其所保之全示門人,而言其所以保之之難如此;至於將死,而後知其得免於毀傷也。小子,門人也。語畢而又呼之,以致反復丁寧之意,其警之也深矣。程子曰:「君子曰終,小人曰死。君子保其身以沒,為終其事也,故曾子以全歸為免矣。」尹氏曰:「父母全而生之,子全而歸之。曾子臨終而啟手足,為是故也。非有得於道,能如是乎?」范氏曰:「身體猶不可虧也,況虧其行以辱其親乎?」
本文「曾子有疾,召門弟子曰:啟予足!啟予手!詩云『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』而今而後,吾知免夫!小子!」
夫の音は扶である。啟とは開くことである。曽子は日頃から体を父母に頂いたことを思い、怪我をしないよう気を付けていた。だからこの場に及んで、弟子に布団をめくらせて手足を見させたのである。引用の詩は小旻篇である。戦戦とは、恐れ憂うことである。兢兢とは、戒め慎むことである。深い淵を目の前にして、水に落ちるのを恐れるのである。凍った川や池の上を歩いて、割れて落ちるのを恐れるのである。曽子はそうやって体に気を付け身を守ったのを全て弟子に見せ、ここまで体を護るのが大変であることを説教したのである。臨終に及んで、もう体が傷つくことはないとやっと知ったと言ったのである。小子とは門人である。説教を終えて小子とダメ押ししたのは、よく思い知れと念を押し、深く戒めたのである。
程頤「君子の場合は人生を終えるといい、小人の場合はくたばったという。君子は体を死ぬまで大切にするものである。そうやって人生を終えるのである。だから曽子は、死を家に帰るのと同じとし、体を護る義務から解放されたと言ったのである。」
尹焞「父母が揃って人は生まれ、子が元気で人は虚空に帰る。曽子が臨終に当たって手足を開いたのは、このことわりを示したのである。儒学の道に通じていなければ、どうしてこのように出来ただろうか。」
范祖禹「身体はもとより欠損があってはならない。まして行動に欠損があって親の恥になっていいものだろうか。」
儒者が道徳を装って、平気で人を差別していることにお気づきだろうか。論語で最高の道徳を仁というとされる。それはもとより後世のでっち上げだが(論語における「仁」)、漢文で身体障害を不仁という。五体満足で生まれる人ばかりではない。こういう言い方には腹が立つ。
訳者はこれまでの人生で、信じがたいほどの人間のクズと何度も直面してきたが、そ奴らは揃ってクズの自覚がないばかりか、高級な人間とまで思っていた。そして生涯その愚劣は治らない。日中両国でそんな化け物どもを作りだした装置の一つは、現伝の儒教にほかならない。
訳者が現伝の儒教は孔子と無関係で、人を奴隷化する邪教と言うのをご理解頂けるだろうか。
余話
ヒトと境遇
恵まれた境遇や身体頭脳が、人格の高潔に資することは珍しい。たいていは境遇のままに、高慢ちきな人間に墜ちて終わる。論語為政篇4余話「天狗の作り方」を参照。不遇が人格の高潔に資することも珍しい。たいていは境遇のままDQNとなる。ヒトはそのように出来ている。
そもそも人生の目的が、善き人間になることではなく、良き境遇で酒池肉林にふけることなのだから。それを中華文明的に、福禄寿の奴隷と言う。詳細は論語学而篇4余話「中華文明とは何か」を参照。だが訳者はお他人さまが、福禄寿の追求に走るのをぜんぜん悪いと思わない。
それでも酒池肉林の幸運は希有ゆえに、多くの人は妬みに自分を悩ますのは間違いない。
だから他人は放っておけ、と孔子も同時代の賢者であるブッダも言った。ブッダが極めて抽象的にそこへ至る道を説いたのに対し、孔子は極めて具体的に説いた。ざっと言えば、頭と体を武装すれば、その複合体ゆえに心は必ず武装され、他人を妬むことが一切無くなる、と。
こんにち論語を自己修養の書として読むのなら、後世のニセモノを取り外し、史実の孔子の言葉だけを、漢文業者のデタラメを排除して読むしか方法が無い。メシや他人への説教の種に読む者には、そうした労力は一切無用で、無論どう読むかは読者それぞれにゆだねられている。

「覚悟してね。」
孔子は知性と暴カに自信があった。だから教えたのはこの二つで、「文行忠信」を教えたというのは後世の儒者の捏造だ(論語述而篇24)。弱い犬ほどよく吠える。腕に覚えのある者が温和に努めケンカを売らないのは、自分が暴れたらシャレにならないとよく知っているからだ。
温和は他人を怒らせないためではない。自分を怒らせないためだ。だから英語で怒りをmadと言う。いかなる不愉快不都合も、怒らなければ他人事となる。だがヒトの一生ではそうもいかず、降りかかる火の粉は払わねばならない。怒りは怒るべき時には猛然と怒るべきだ。
そして敢然と戦い、勝って怒り終えねばならない。でないといじけて狂犬に成り下がる。もちろんいつでも勝てるわけではない。勝てるよう日頃から稽古し、戦略戦術を考える。体と頭の日頃の鍛錬が、おのれを強くする。詳細は論語憲問篇36余話「温和と奴隷根性」を参照。
武装も強大化も、他者を虐げるためでは全くない。強者だけが優しくなれるからだ。弱者の優しさは恐怖か、打算の産物でしかない。そんな優しさは自分のであれ他人のであれ、何のあてにもなりはしない。自分で武装し強大化し、他人への期待と下らない関わりを一切断つ。
それが人格の高潔だと、訳者は勝手に思っている。かく言う訳者も穀潰しに過ぎず、別段、高級な人間になりたいなどとは思っていない。ただ下らない死に方をしたくないのと、ああいうのになりたくないモノに、なりたくないだけだ。
論語述而篇21「三人行かば必ず我が師」とは、本来そういう話だったのでもあるから。
参考記事
- 論語学而篇14余話「ニースの巡洋艦」
コメント