論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
憲問恥子曰邦有道穀邦無道穀恥也
校訂
武内本
史記此章を引く、憲を子思に作る。蓋し子思は原憲の字。
東洋文庫蔵清家本
憲問恥子曰邦有道穀/邦無道穀恥也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
憲問、恥。子曰、「邦有道、穀。邦無道、穀恥也。」
復元白文(論語時代での表記)
恥
恥
※論語の本章は恥の字が論語の時代に存在しない。「問」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。
書き下し
憲恥を問ふ。子曰く、邦道有らば穀く。邦道無きに穀くるは恥也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
憲が恥を問うた。先生が言った。「国にまともな政道が行われていれば給料を貰う。国にまともな政道がないのに給料を貰うのが恥だ。」
意訳
原憲「恥とは何ですか」
孔子「サムライたるもの、国がまともなら仕えて大いに国を発展させればいいが、まともでないのに仕えるのは恥だ。」
原憲「なぜです?」
孔子「まともでない政府に手を貸して、もっとまともでなくするのかね?」
従来訳
憲が恥についてたずねた。先師がこたえられた。――
「国に道が行われている時、仕えて祿(ろく)を食はむのは恥ずべきことではない。しかし、国に道が行われていないのに、その祿を食むのは恥ずべきである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
憲問恥。孔子說:「國家太平時,可以當官;社會黑暗時,當官就是恥辱。」
原憲が恥を問うた。孔子が言った。「国家太平の時は、仕官してもよい。社会の暗黒期には、官職に就いているのは恥だ。」
論語:語釈
憲(ケン)
(金文)
論語の本章、通説では生没年未詳で孔子の弟子、原憲、あざなは子思とされる。暮らしは貧しかったが、品が良かったという。詳細は論語の人物:原憲子思を参照。
字は論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。字形は「害」”ふた”の省略形+「目」で、覆われたものをも見通す目のさま。原義は”賢明”。詳細は論語語釈「憲」を参照。
『史記』弟子伝、『孔子家語』七十二弟子解ともに、「憲」の名を持つ人物は原憲子思しかいないから、論語の本章で”恥を問う”たのは彼だとされるのだが、不審がないではない。論語では孔子の弟子を、「顔淵」「子路」のようにあざ名で敬称し、いみ名で呼び捨てない。いみ名を呼ぶのは、孔子など目上か同格の人物に限られており、あるいは「憲問恥」は地の文ではなく、孔子など目上の人物の台詞であった可能性がある。
現伝の論語が整備されるのは前後の漢帝国の時代であり、儒者は残された資料からせっせと論語の章を創作していった。その基づいた資料が断片化していた場合、中途半端に復元したこともあり得る。本章にはその疑いがあり、「子曰」はあとから挿入されたのかも知れない。つまり「子曰…憲問恥、邦有道穀、邦無道穀恥也。」だったかもしれない。その場合、そもそも「憲」が人名であるかどうかも怪しく、元の意味はどうだったのか、すでに知る方法がない。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
恥(チ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”はじ”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「耳」+「心」だが、「耳」に”はじる”の語義は無い。詳細は論語語釈「恥」を参照。
”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。『定州竹簡論語』の置換字「佴」は、「恥」とは音も語義も違うが、こちらも論語の時代に存在しない。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
「曰」(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
邦(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では本章を丸ごと欠いているが、通例は避諱して「國」と記す。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”政治の原則”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
穀*(コク)
(殷末~西周中期金文)/(楚系戦国文字)
論語の本章では”穀物”→”給料をもらう”→”官職につく”。初出は殷代末期あるいは西周早期の金文。字形は西周中期までは「丰」”穀物の穂”2つ+「𠙵」”くち”。口にすべき穀物を表す。楚系戦国文字は現行字体に「木」を加えたもので、秦系戦国文字から現行字体となる。「禾」”穀物の穂”+「士冖」”殻”+「攵」”叩いて脱穀する”で、実った穀物を脱穀する、あるいは殻剥きまでするさま。春秋末期までに”穀物”の意に用い、戦国の竹簡では加えて”ご飯を食べる”の意に用いた。詳細は論語語釈「穀」を参照。
論語の時代には貨幣が発達しておらず、給料は穀物で支給されるのが普通だった。従って論語の本章では給料のこと。武内本には、「釋文、鄭玄曰く、穀は禄也」とある。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では”~である”。断定の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、「恥」の字が春秋時代に遡れず、文字史から後世の偽作と判明する。創作された時期は、おそらく後漢末期以降だろう。理由の一つは、定州竹簡論語に無いことであり、もう一つは、漢の高祖劉邦の「邦」の字を避諱せず使っていることから。
内容的には、後漢末から三国に至る社会崩壊の中で、原憲子思のような生き方が評価されたからだろう(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。また「邦有道」「無道」の言い廻しは論語の中で多用されており、本章もその使い回しの一つに過ぎない可能性がある。
章 | 文字列 | 真偽 |
論語公冶長編1 | 邦有道、不廢。邦無道、免於刑戮。 | × |
論語公冶長編20 | 邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也、其愚不可及也。 | × |
論語泰伯篇13 | 邦有道、貧且賤焉恥也。邦無道、富且貴焉恥也。 | × |
本章 | 邦有道、穀。邦無道、穀、恥也。 | × |
論語憲問篇4 | 邦有道、危言危行。邦無道、危行言遜。 | 〇 |
論語衛霊公篇7 | 邦有道如矢、邦無道如矢。…邦有道則士、邦無道則可卷而懷之。 | 〇 |
論語季氏篇5 | 天下有道、則禮樂征伐自天子出。天下無道、則禮樂征伐自諸侯出。 …天下有道、則政不在大夫。天下有道、則庶人不議。 |
× |
また、『史記』蔡沢伝にも同じ言い廻しがあり、戦国時代末期には中華世界に広まっていた言葉だと分かる。
解説
上掲語釈の通り、論語の本章にいう「憲」が原憲子思であるという証拠は無い。
以下、原憲子思を「原憲」と記すのは、孔子の孫・子思と区別するためであり、訳者が何らかの意を含んで原憲と呼び捨てにするわけではない。蛇足ながらいみ名=本名で呼ぶのは呼び捨てにあたり、あざ名で呼ぶのは敬称で呼ぶことになる。
論語の本章の後世成立説に対して、『史記』弟子伝が本章と次章を共に「子思」=原憲の発言としているので、定州竹簡論語の本章部分が失われた可能性もあるが、逆に史記が後世書き換えられた可能性だってある。どちらが正しいとも言いかねるのが、中国の文献というものだ。
孔子はそれまでの血統による為政者層に、自分が教育した人材=士を割り込ませてその政治論を実現しようとした。それら士が、どのような時に仕え、また仕えるべきではないかは、のちに孟子によって細かく議論されるが、論語の時代の孔子一門には、そこまでの議論はない。
孟子去齊,居休。公孫丑問曰:「仕而不受祿,古之道乎?」曰:「非也。於崇,吾得見王。退而有去志,不欲變,故不受也。繼而有師命,不可以請。久於齊,非我志也。」
孟子が斉の宣王の元を去り、国都臨淄から、いなかの休のまちに移住した。弟子の公孫丑が問うた。「仕えたのに給料を貰わないのは、昔からの作法ですか?」
孟子「いいや。崇のまちで初めて宣王に出会ったとき、すでに仕えるのは嫌だと思っていた。それ以来、心にもない事を顔に出したくなかったから、給料を貰わなかった。だがしばらく斉に居る内に、軍隊を任された。だから断り切れなくなったのだ。それでも長く斉に居たのは、私の望みではなかった。(『孟子』公孫丑下23)
陳子曰:「古之君子何如則仕?」
孟子曰:「所就三,所去三。迎之致敬以有禮,言將行其言也,則就之;禮貌未衰,言弗行也,則去之。其次,雖未行其言也,迎之致敬以有禮,則就之;禮貌衰,則去之。其下,朝不食,夕不食,飢餓不能出門戶。君聞之曰:『吾大者不能行其道,又不能從其言也,使飢餓於我土地,吾恥之。』周之,亦可受也,免死而已矣。」
陳子「昔の君子は、どんな時に仕官したのですか?」
孟子「仕官の条件は三つ、辞職の条件も三つだ。礼儀作法にかなったやり方で招かれ、「仰る通りに致します」と言われたら、仕えてよい。だがその約束を反故にされたら、待遇に変わりは無くても辞めるべきだ。
次に、特に約束が無くても、礼儀作法にかなったやり方で招かれたら、仕えてよい。この場合待遇が悪くなったら、辞めるべきだ。
最後に、朝晩の食うものに困り、腹が減って外にも出られない。その噂を君主が聞いて、「政治をそなたの言う通りには出来ぬし、そなたの献策も聞けないかも知れぬが、ワシの領地でそなたのような者が飢え死にしたとあっては、世間体が悪い。」と言って捨て扶持をくれるなら、仕えてもよい。飢え死にしては何にもならんからな。(『孟子』告子下34)
論語を読む限り、孔子はお気に入りの弟子には、仕えないのを喜んだ(論語公冶長篇5など)。かといって弟子の進路を阻むわけにもいかないので、数多くの弟子が魯国や門閥に仕えた。加えて孔子は自分の色に染まった弟子を、手先として各地に送り込みたかっただろう。
子路や冉有がその例だが、子路は後に仕官先を衛国に変え、論語の記述による限り、魯国で仕え続けたのは冉有と子賤だけになる。子賤について孔子はその業績を賞賛したが、冉有には厳しい批判を与えている(論語先進篇16)。
対して原憲が仕えた記述は論語にはなく、貧窮していたと『史記』にある。ただし孔子が自分の執事に雇ったことが論語雍也篇5に記され、十分な給与を与えている。だが論語の記述から原憲子思が一生仕官しなかったなら、それは論語雍也篇5に記された、欲の無さからだろう。
従って本章はそうした節を通す原憲の生き方を孔子が評価したと、後世の儒者が孔子に言わせたわけ。ただし、雍也篇に言う「原思」が、本章の「憲」と同一人物とするのは通説だが、史実である証拠は無い。さらに本章の言う「憲」の姓氏が、「原」であるという証拠も無い。
余話
(思案中)
コメント