論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
季氏富於周公、而求也爲之聚斂而附益之。子曰、「非吾徒也。小子鳴鼓而攻之可也。」
書き下し
季氏周公於り富めり、而して求也之が爲に聚め斂め而之を附益す。子曰く、吾が徒に非ざる也。小子鼓を鳴し而之を攻めて可き也。
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逐語訳
季氏は周公より富んでいた。それなのに冉求は季氏のために税を集めて季氏の利益を増した。先生が言った。「私の弟子ではない。お前達、太鼓を鳴らして冉求を攻めてよい。」
意訳
魯国門閥家老筆頭の季氏は、周公の末裔である魯の殿様より富んでいた。ところが季氏の執事・冉求は、せっせと税を取り立てて、益々季氏を太らせた。
孔子「あんなのもう弟子じゃない! …コリャお前達、太鼓をドンドン叩いて、冉求をこらしめてやりなさい!」
従来訳
先師はいわれた。――
「季氏は周公以上に富んでいる。然るに、季氏の執事となった求は、主人の意を迎え、租税を苛酷に取り立てて、その富をふやしてやっている。彼はわれわれの仲間ではない。諸君は鼓を鳴らして彼を責めてもいいのだ。」下村湖人『現代訳論語』
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
季氏
(金文)
論語の本章では、魯国門閥家老家筆頭・季氏の若当主、季康子のこと。季氏は数代にわたって魯国の宰相格を事実上独占したほか、魯国軍の半分を自家の私兵と化していた。ただしその代わり、国公に代わって政治を取っただけでなく、困窮した民の救済にも当たっていた。
周公
論語時代よりはるか昔の人物で、周王朝の功臣であり、魯国の開祖でもある。論語の本章ではその末裔の、魯国公・哀公のこと。
聚斂(シュウレン)
(金文)
論語の本章では、”税を取り立てること”。「聚」は“集める”。「斂」は”おさめる”。
『学研漢和大字典』によると「聚」は会意兼形声文字で、は、敵の耳をとってあつめ持つさま。聚は「三人の人+(音符)取」で、多くの人がひと所にあつまることを示す。湊(ソウ)(あつまる)・芻(スウ)(束ねあつめた草)などと縁が近い、という。
「斂」は会意兼形声文字で、僉(セン)・(ケン)は、多くの物をつぼに寄せあつめたさまを描いた象形文字。のち「集めるしるし+二つの口+二人の人」の会意文字で示し、寄せあつめることを示す。のち、「みな」の意の副詞に転用された。斂は「攴(動詞の記号)+(音符)僉」で、引き絞ってあつめること。
簾(レン)(引き寄せて片方にあつめるすだれ)・檢(=検。あつめて調べる)などと同系のことば。類義語の収は、一か所にまとめること。聚は、引き縮めてあつめること。集は、多くの物を寄せあつめること、という。
また武内義雄『論語之研究』によると、「聚斂」は斉の方言だという(p.103)。
附益
(金文)
論語の本章では、”一層増やす”。金文から分かるように、論語の時代では「付」と「附」は書き分けられていない。
『学研漢和大字典』によると「附」は会意兼形声文字で、付は「人+寸(手)」の会意文字で、手をぴたりと他人のからだにくっつけることを示す。附は「阜(土もり)+(音符)付」で、もと、土をくっつけた土盛りのこと。のち付と通用する。
▽付は、つけるの意に、附は、つくの意に用いるのが例であったが、混用される、という。
小子鳴鼓而攻之可也
「鼓」「攻」(金文)
論語の本章では、”小子=お前たち、太鼓を鳴らして攻めてよろしい”。「可」は”してもよい”。
『攻殻機動隊』でバトーが、「理非なき時は鼓を鳴らし攻めて可なり」と言ったセリフの出典。ただし「理非なき時は」の出典は訳者には分からない。
論語の本章では、孔子は”攻めてもよい”と煽っているだけで、”攻めねばならない”という命令まではしていない。冉有を気にくわない理由は税を取り立てたことよりも、自分の仁フィギュア趣味を否定されたことにあるから、命令できるほど心が澄み切っているわけではないわけ。
ただ漢文の語法として留意すべきは、「可」は日本語の「べし」と同じく、可能(~できる)・許容(してもよい)・当然(~すべきだ)・推定(~だろう)の意味も持つこと。ただし「べし」が持つ、命令(~せよ)の意味は、辞書的には持たない。
論語時代の軍隊は、太鼓を叩いて進軍し、金鼓=青銅製のかねを叩いて退却した。「鳴鼓」とは、言わば突撃ラッパを意味する。孔子のこの発言の雰囲気をよく伝えようとすれば、下の動画になるだろうか。ただし弟子たちが冉求の執務室に、暴れ込んだかどうかは分からない。
論語:解説・付記
論語を読む限り、孔子の社会経済論は、「足らざるを憂えず、等しからざるを憂う」というもので、格差が激しくなることに反対した。この意味では現在的意義があるが、実践論としては極めて乏しく、その持論を実現できなかったのは歴史が示す通り。
また冉求としても過酷な税を取り立てた憶えはないだろうし、季氏が過酷な政治を行っていたという記録もない。むしろ飢饉の時に倉を開いて、救済事業を担っていたと『左伝』にある。当主・季康子が贅沢にふけっていたという記録もないし、いたってまともな為政者に思える。
ただ論語当時の魯国では盗賊が横行し、執政の季康子も孔子にぼやいており(論語顔淵篇)、そんな中で季氏の課税や収税が、適正だったかどうかはわからない。一方殿様の哀公は、当時の通例である1/10税では足りないと孔子の弟子・有若に嘆いている(論語顔淵篇)。
もし殿様と家老家との二重課税が課されていたなら、これはもう重税と言っていいだろう。しかしそうだったかどうかも分からない。いくらメモ魔の中国人とは言え、古代とあっては、かほどにか細い記録しかない。
しかし論語を読む限り、孔子が破門したのは冉有ただ一人。その理由は同じく論語にある。
実務家の冉有は、孔子のフィギュア趣味について行けなかったのだ。管仲に対する批評同様、孔子は自分の理想像を穢されるとムキになって怒る。仁ならなおさら。これはハニートラップにかかっていたと知ったときの怒りにも似て、孔子は冉有を決して許さなかったのである。
なお「可」には辞書的には命令の意味はないと上記したが、現実的には命令を意味する場合がある。中国の君主は命令する際、臣下の進言に対して「可」または「善」と返答した。これはともに「よし」と読み、裁可を与えたタテマエだが、実際には”やれ”と命令したのだ。
そのために君主の意向を読み取り、その通りの上奏を行うそば付きの臣下が必要という、まことにややこしい社会が論語の昔からあった。つまり君主は”許可しただけ”という言い逃れが出来、臣下は”提案しただけ”という言い逃れが出来る。誰一人、責任を取ろうとしない。
まれには秦の始皇帝や明の洪武帝、清の雍正帝のように、自らの責任において政務を摂った君主もいたが、それは例外中の例外。帝政時代が終わっても、君主や役人とはそういう生き物だったことを、安能努は『八股と馬虎』の中で、中華民国時代の話として描いている。
上海で、住民が暴動を起こした。警備兵の隊長が、上官に指示を求めると、上官は「槍在你的掌上!」(槍=銃はお前の手の中にある)と言っただけ。撃てとも撃つなとも言わない。上官としては、事の結果次第で「撃つなと言いました」「撃てと言いました」と言い逃れるわけ。
安能努は中華文明の神髄が、ここに現れていると言うが卓見だろう。論語の本章に話を戻せば、孔子の言葉を日本語に訳せば「こらしめてやれ」としか訳しようがないが、中国語だと「攻めていい」でしかない。中華文明の何たるかを知らないと、論語もまた読めないのだ。