論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰論篤是與君子者乎色莊者乎
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰論䔍是與君子者乎色莊者乎
定州竹簡論語
子張問善人之道。子[曰:「不淺跡,亦不入於室。」子]曰:「論284[祝a是]與?君子者乎?狀[者乎b]?」285
- 祝、今本作”篤”。音近、祝借為篤。
- 狀者乎、今本作”色莊者乎”。
標点文
子曰、「論祝是與。君子者乎、狀者乎。」
復元白文(論語時代での表記)
論 亻亡
※狀→象。論語の本章は、「論」「」の字が論語の時代に存在しない。「莊」(狀)の字の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、論の祝するは是れ與するなり。君子なる者乎、狀をす者乎。
論語:現代日本語訳
逐語訳
(前章からの続き)先生が言った。「意見が味方をするのは味方をすることだが、君子である者か、本心を隠す者か。」
意訳
(前章からの続き)
孔子「意見に同調してくれる者は味方ではあるが、君子らしく自分の筋を通した上で味方するのか、それともとりあえず、自分に味方する振りをしているか分からない。振りだけする者は裏切るかもしれないぞ。」
従来訳
先師がいわれた。
「いうことがしっかりしているということだけで判断したのでは、君子であるか、にせ者であるか、わからない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「贊賞忠誠的人,是君子?還是僞裝的?」
孔子が言った。「忠誠を賞賛する人は、君子か?それともその振りだけか?」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
論*(ロン)
(秦系戦国文字)
初出は戦国最末期の竹簡。一説に初出は戦国末期の金文だが字形は部品の「侖」で、「侖」を「論」と釈文する例は戦国中期の竹簡より見られる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」”語りことば”+「侖」”書き言葉”。「侖」は「亼」”あつめる”+「冊」”書き札”で、書かれた巻物を集めたさま。全体で知識を背景に持つ言説の意。詳細は論語語釈「論」を参照。
『論語』の論の字が論語の時代に無いなんて、と驚く諸賢もおられようが、「論語」という語が漢語に現れるのは前漢初期の『韓詩外伝』あたりからで、『礼記』にも見られるがいつ記されたやら分かったものではなく、「論語」という漢語は存外新しい。
篤(トク)→祝(シュク)
論語の本章では”味方をする”。現行の「篤」を論語泰伯編2(漢以降の偽作)で「君子篤於親」として用い、”身内に手厚くする”の意。定州竹簡論語が記す「祝」(祝)には後漢の漢語として「屬」(属)”くみする”の意があり、それ以前の戦国の竹簡から「篤」”親密な関係”を意味した。
(秦系戦国文字)
「篤」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「竹」+「馬」だが、由来は明瞭でない。戦国最末期「睡虎地秦簡」秦律雜鈔29に「膚吏乘馬篤、𦍧(胔),及不會膚期,貲各一盾。」とあり、よく分からない文だが、”馬の世話役が、馬を過度に乗り回して、痩せさせてしまい、二度と肥え太ることが無かったら、盾一枚に乗る穀物を罰として取り立てる”の意だろうか。”過度に…する”と解せる。異体字の「竺」は、いわゆる「天竺」の「ジク」だが、春秋末期とも推定される晋系戦国文字から見られ、論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「篤」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では「祝」と記す。初出は甲骨文。字形にしめすへんを伴うものと欠くものがある。新字体は「祝」。中国と台湾では、こちらがコード上の正字として扱われている。現行字体の字形は「示」”祭壇または位牌”+「𠙵」”くち”+「卩」”ひざまずいた人”で、神に祝詞を上げるさま。原義は”のりと”・”いのる”。”いわう”・”味方をする”の語義での漢音は「シュク」。”のろう”の意では「シュウ」。甲骨文では原義で、また”告げる”の意で用いられた。金文では原義に加えて、”神官”を意味した。戦国の竹簡では、”親密”を意味した。詳細は論語語釈「祝」を参照。
論語泰伯編13で「篤」t(入)を「孰」ȡ(入)と記しており、本章の定州竹簡論語では「祝」ȶ(入)と記す。発声記号「 ̥」は”無声音”を意味し、漢語の場合は無気音、息漏れの無い発音を示す。日本語では書きようが無いのだが、有気音とは、スースーと咽を震わさない息が聞こえる発音。
藤堂明保『漢文概説』によれば、唐代以前の漢語には濁音があったという。対して現代北京語には濁音が無い。日本語の「バビブベボ」を中国人がつい「パピプペポ」と言ってしまうのはこのため。ただし漢代以前の「篤」t(入)は清音だが、有気音/無気音はどちらだったか分からない。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”~は~だ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”ともに”→”味方をする”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では”教養のある地位ある者”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、「か」と読んで疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
色莊(ソクソウ)→*狀(ボウ?ソウ)
論語の本章では”外見を取り繕う”。現伝論語の「色莊」の、「莊」に”うやうやしい”の語釈が戦国最末期の『呂氏春秋』にあり、「色莊」とは”うやうやしさを取り繕う”こと。定州竹簡論語の「」の字は音・語義共に不明だが、「人」+「亡」”隠す”で”人柄を取り繕う”ことと想像できる。「狀」で「狀」(状)”ありさま”・”本心”を”隠して取り繕う”と解せる。
(金文)
「色」の初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。
(金文)
「莊」の初出は春秋時代の金文。新字体は「荘」。初出の字形は「爿」”寝床”+「甾」”容器”+「𠙵」”くち”で、何を意味しているのか分からない。春秋時代までは人名に用いた。文献時代では戦国最末期の『呂氏春秋』孝行篇に「居處不莊,非孝也。」とあり、後漢の高誘が「莊,敬。」と注を付けている。詳細は論語語釈「荘」を参照。
定州竹簡論語では「狀」と記す。「」の初出は定州竹簡論語。字形は「亻」”ひと”+「亡」”見えない”で、人柄を隠すさま。『大漢和辞典』にも2022年現在のunicodeにも無く、論語時代の置換候補は探しようが無い。詳細は論語語釈「」を参照。
(秦系戦国文字)
「狀」の初出は戦国時代の金文。新字体は「状」。字形は「爿」+「犬」。字形の由来は不明。戦国の竹簡では〔爿首〕につくるものがある。同音は「床」のみ。秦代の金文で人名に用いた。論語語釈「状」を参照。
『論語集釋』は「別解」として次の解釈を取りあげている。
論語:付記
検証
論語の本章は、全句について春秋戦国時代を含めた先秦両漢の引用や再録が無い。後半の句は定州竹簡論語との違いから、後漢以降に書き改められたのはほぼ確実で、引用が無いのはむしろ当然と言える。
現伝論語 | 子曰、「論篤是與、君子者乎。色莊者乎。」 |
定州竹簡論語 | 子曰、「論祝是與。君子者乎、狀者乎。」 |
また本章は、春秋時代における「論」「」字の不在から戦国時代以降の創作と断じざるを得ないのだが、定州竹簡論語から現伝論語へと変化する際に、おおむね原義を踏襲した語(漢字)があてがわれている。前後の漢帝国の時代に、論語には複数の版本が有ったという通説の裏付けになるかも知れない。
内容的には孔子の教説や立場と矛盾が無く、史実の孔子の発言と思いたいが、文字の不在からとりあえず、戦国時代以降の創作として扱う。
解説
すでに前章で記した通り、定州竹簡論語では論語の前章と本章は一体化して記述されており、子張の問いに対する孔子の回答・2つめになっている。
子張問 | 子曰 |
善人之道 | 不淺跡、亦不入於室。 ”付き合いを繰り返す。また、居間に入らない。” |
論祝是與。君子者乎、狀者乎。 ”論が味方するのは味方することである。君子である者か、真意を隠す者か。” |
定州竹簡論語の発掘以前から、本章は前章の続きであるとする説があったようで、清末民初の程樹徳は、『論語集釋』で次のように言う。
清儒・梁章鉅の『論語集注旁證』は、『論語注疏』を参照してこの節を前の節と合わせて一章にまとめている。だから與の字を平声に読む(ことで、疑問や反語の意味とする)。それで「者乎」とならぶ例と解した(つまり「論篤是與」を論の篤きは是しき與、と読んで、”重厚な論説だろうと正しいのだろか”と解した)。しかしこの一節は子張が問うた「善人」の例であり、ここだけ切り取って解するべきではない。だから朱子の『論語集注』はそう読まなかったのだ。
思うに、清の『潘維城集箋』ではこう言っている。「古注の『論語集解』では本章と前章を一緒にしている。皇侃の注疏にも”子曰くうんぬんは、これもまた善人の何たるかを答えたものだ。答えは同じだが、質問した時が違うので、だから”子曰く”がさらに付いているのだ。いずれも答えたのは善人の何たるかで、だから一つの章にまとめたのだ”。だがそうだろうか? 子曰く、とあるからには、質問への答えとは思えない。章を分けるべきではないのか?」
私としては、頭に「子曰く」があるのだから、別の章だと思っている。だから今は朱子の新注に従う。
いわゆる清朝考証学とはこういうもので、物証が無い所でああでもないこうでもないと論じる上に、数理という論者共通のOSも無いから、時にたいへんオトツイの方角へ行き「定説」となることがある。ITの出現で価値が暴落した技術同様、今では骨董品と言うべきかも知れない。
だがそのように偉そうな事を訳者が言えるのは、ひとえに定州竹簡論語という物証が出たためで、その発掘保存に何ら寄与していないからには、清儒を小ばかにして笑うのも不謹慎に思える。訳者の「狀者」の考証も、所詮同レベルに過ぎない。
だがとりあえず訳者の「狀者乎」の解がただしいとして、「人付き合いの法」への答えとして、「君子者乎」とはどういうことだろうか。”君子は立派な人だから、その場の出任せで賛成などしない”と通説的に解釈してもいいのだが、史実の孔子はそういうことを言いそうにない。
孔子の生前、「君子」とは戦時に従軍の義務がある貴族のことだった(論語における「君子」)。貴族と言っても、ふだんは商工業に従事し、戦時に参陣し、国公の後継者決定など国政の重要事項だけに発言権がある都市住民=士族もいた。常勤の役人や軍人や政治家ばかりではない。
論語とはもと、そうした士族を目指す主に平民出身の若者に、孔子が垂れたお説教の集成なのだから、「論祝」”自分の意見に賛同してくれる”その意見とは、政論や戦場での軍議だろう。そして賛同してくれる者も君子にほかならないが、君子にだっていろいろな人がいただろう。
君子らしく、自国にとって、我が軍にとってよいから賛同する者もいれば、お調子者や孔子一門にゴマをすると得をすると思っている者もいただろう。むしろ君子らしい筋を通す者が少数である方が、人界の当たり前の姿と言ってもよい。
だから孔子は子張に、「賛同者と言っても、君子らしい筋から賛同する者もいるが、その時の自分の利益しか考えない者もいる。賛同されて気分がいいからと意って、お調子者がいつまでも味方と思ってはいけない」と説教した、と解すると、本章はよく分かる話になってくる。
論語の本章、新古の注は次の通り。『論語集釋』の言う通り、古注は前章と本章を一体化して記述している。ただし、前章で「善人」の語義を取り違えたため、本文を書き改めただけでなく、辻褄を付けるためにオトツイの方角に解釈している。
古注『論語集解義疏』
子曰論篤是與君子者乎色莊者乎註論篤者謂口無擇言君子者謂身無鄙行也色莊者不惡而嚴以逺小人者也言此三者皆可以為善人也
本文「子曰論篤是與君子者乎色莊者乎」。
注釈。論篤者とは、言葉を選ばないでズケズケという者のことだ。君子者とは、いやしい行いをしない者のことだ。色莊者とは、あからさまには嫌わないが、厳しい顔つきで小人を遠ざける者だ。この三者はみな、善人といってよい。
新注『論語集注』
子曰:「論篤是與,君子者乎?色莊者乎?」與,如字。言但以其言論篤實而與之,則未知其為君子者乎?為色莊者乎?言不可以言貌取人也。
本文「子曰:論篤是與,君子者乎?色莊者乎?」
與の字は、通常の発音で読んでよい。ここではこう言っている。丁寧でウソが無く、自分に利益がある意見でも、言った者が君子らしい人か、うわべを装う人か分からない。言葉は言葉だけで善いか悪いか分からない。どういう顔つきで言ったかよく観察してから、聞くかどうかを判断すべきだ。
余話
汚れ仕事
2022年の開戦にあたって、プーチン大統領は事実上の宣戦布告を自国民に対して行った。宣戦布告とは法制上、自国民に対して行う開戦理由の説明で、相手に対する布告なしで開戦しても、国際法には反しないと聞いたことがある。ともあれ演説を聞いて一つの言葉が耳にとまった。
ダー、チャスト モージナ スリーシャチ、シトー パリーチカ、グリャズナエ デェーラ。ワズモージナ。
確かに、しばしばこういう言葉を聞く、政治はおよそ、(しょせんは)汚れ仕事だと。多分その通りだろう。
原文はロシア大統領府のサイトから引いた。同サイトは英文では”Sure, one often hears that politics is a dirty business. It could be.”と訳している。KGB出身の権力者がこう言うからには、言葉にものすごい説得力がある。訳者のような小市民は、政治に関わるべきではない。
だが人は群れて暮らすほか無い以上、人の世に政治は付き物で、政治とはつまり利益分配だと孔子は言う(論語為政篇1)。誰かが分配を差配しないと、万人の万人に対する闘争状態となって、社会に秩序が無くなり、弱い者がいつも虐げられる結果になる。それは望ましくない。
喧嘩沙汰の絶えない横丁というものがある。鳶魚先生の『江戸っ子』によると、江戸時代には本当にあったらしい。だからこそ裁定するご隠居さんや、止め男の町内のカシラに需要がある。現代の国際政治だって、物騒な止め男が何人もいるのに、紛争が止まないではないか。
これはご隠居や止め男が悪いと言うより、人界の変化が早くなりすぎ、科学技術進歩の副産物として、人界の多様性が増したからだ。東西冷戦の時代にはITが無かったことを思えば、今の世の中がどんなに複雑になったか分かるし、ご隠居稼業も難しい。
人間の想像力などたかが知れており、常人は見聞きした範囲内でしか欲望出来ない。つまり知っているものしか欲しがらない。それに以て居る道具の範囲でしか声が大きくならない。ネットは全人類のそうした制限を、かつて想像できなかったほどに大きくしてしまった。
その上ロシアも中国も、あまりに国が大きいため、闘争すべき万人が多すぎて、黙らせるためにどうしても、強権支配にしかなりようがない。無邪気な子供は国の拡大を喜ぶが、アメリカやカナダのように、さんざんすったもんだの上に条件がよくないと、大国は不幸な国になる。
ただでさえはびこりやすい大国の強権支配だが、敗戦や革命などさらに条件が厳しくなると、強権支配は一層兇暴になる。革命直後のレーニンが、脳天気にも自由主義的な施策を行ったが直ちに失敗を悟り、物資の強制徴発や反対派の弾圧に乗り出したのは当然だった。
その一環としてのちにKGBとなる組織が作られて、その長官を務めたのがジェルジンスキーだった。レーニンがそうであるように、ヤクザや革命家には幼少期に悲惨な体験をしている者が多いが、ジェルジンスキーは帝国公認のポーランド貴族の家で、幸福な少年時代を過ごしたらしい。
従って、サディストがサディストになる原因はたいてい過去にサディズムに曝されたことにある、という一般原則から外れるのだが、その残忍無慈悲は彼の後継者と変わりがない。違うのは自分が汚いことをしているという自覚があったことで、だからこそ平気で言ってのけた。
君達を捕らえるのが私達の仕事で、脱獄するのが君達の仕事さ。(wikipediaジェルジンスキー条)
エジョフにせよベリヤにせよ、ジェルジンスキーの後継者は勲章を欲しがるなど、自分を偉人や善人にしたがった。つまり悪党の自信が無かったわけで、そのくせにひどいことばかりしたので人には嫌われ、上に居たスターリンの支持が無くなるとあっという間に処刑された。
スターリンの下で国防相を務めたウォロシーロフは、戦えば必ず負ける元帥で、スターリン時代を生き延びるため、かつての友人を特務に売り渡すようなこともしたが、粛清の孤児を拾って育てるなど人柄が善かったので、スターリンが死んだ後も左遷されただけで命と名誉は保った。
同じくスターリンの下で参謀総長を務めたジューコフは、戦えばたいてい勝つ元帥で、スターリン時代を生き延びるため、前線の兵士に無茶な命令を出すようなこともしたが、宿敵ドイツ軍を打ち破った功績で、スターリン在世中に左遷はされたが命は保ち、ベリヤを失脚させた。
対してジェルジンスキーの死にも不審な点が無いでは無いが、一応自然死とされている。そして死後もそんなに悪く言われなかった。毛沢東をも操った同業の康生が同様に悪く言われていないのは、共産党政権が続いているからと言えるが、ソ連の方はとうに滅んだ。
むろん特務の親玉など、好意的になる理由が何一つないのだが、同国人に悪く言われない特務は不思議ではある。仮説として私腹を肥やさなかったと言えはするが、その前に死んじまったからだとも言え、訳者如きにはわけがわからない。
だからこその小市民で、分からない方がたぶん幸せなのだろう。
なお演説中のгрязное дело”汚れ仕事”のдело(デェーラ)は、ラテン文字に直せばdyeloで、あるいは英語のdeal”商売”に相当するだろう。しかし『研究社露和辞典』では2ページ以上17個も語釈のある語で、軍事上の”任務”など、”誰かがやらねばならない厳しい仕事”の語気がある。
ロシア語は文字さえ覚えてしまえば他の欧米語と比べてそんなにむつかしくない。辞書もこの2冊で十分だ。日本人にとって隣国なのだから勉強する価値は十分ある。論語や漢文なんかが読めるより、よほど実用的だとも言えるだろう。一つやってみようかという諸賢が出ると嬉しいのだが。
参考記事
- 論語郷党篇11「必ず負ける元帥」
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