論語:原文・書き下し
原文
子曰、「直哉史魚。邦有道如矢、邦無道如矢。君子哉蘧伯玉。邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之。」
校訂
定州竹簡論語
……[伯玉!國有道,則士a。國無]道,則可[卷而懷之]。」420
- 士、今本作”仕”。士借為仕。
※士dʐʰi̯əɡ(上):仕dʐʰi̯əɡ(上)、同音。邦→國は高祖劉邦の避諱。
→子曰、「直哉史魚。邦有道如矢、邦無道如矢。君子哉蘧伯玉。邦有道則士、邦無道則可卷而懷之。」
復元白文(論語時代での表記)
蘧
※論語の本章は蘧の字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため多数の漢字が論語時代の置換候補になり得る。ゆえに後世の創作と断じることは出来ない。「有」「則」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、直なる哉史魚、邦道有るも矢の如く、邦道無くも矢の如くなりき。君子なる哉蘧伯玉。邦道有らば則ち士へ、邦道無くば則ち卷き而之を懷にす可かりき。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「真っ直ぐだなあ、史魚は。国政に原則があっても矢のようで、国政に原則が無くても矢のようだった。君子だなあ、蘧伯玉は。国政に原則があれば仕え、国政に原則が無ければ自分の才能を巻き隠して、それを懐に仕舞うことが出来た。」
意訳
史魚どのはあっぱれな剛直者だ。国政がまともであろうとなかろうと、矢のように自分の意志を貫いた。蘧伯玉どのはあっぱれな貴族だ。国政がまともなら仕えて能力を付くし、まともでなくなったら、未練無く引退できた。
従来訳
先師がいわれた。――
「史魚は何という真直な人だろう。国に道があっても矢のように真直であり、国に道がなくても矢のように真直だ。」
またいわれた。――
「蘧伯玉は何という見事な君子だろう。国に道があれば出でて仕え、国に道がなければただちに才能を巻いて懐におさめる。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「史魚真正直啊!國家政治清明時,他象箭一樣直,國家政治黑暗時,他也象箭一樣直。蘧伯玉真是個君子!國家政治清明時,他就出來做官,國家政治黑暗時,他就藏而不露地隱居起來。」
孔子が言った。「史魚はまことに率直だ!国家の政治が明るいとき、彼は矢のように真っ直ぐだった。国家の政治が暗いとき、彼はやはり真っ直ぐだった。蘧伯玉はまことに立派な君子だ!国家の政治が明るいとき、彼はすぐさま役人として仕えた。国家の政治が暗いとき、彼はすぐさま隠れて目立たず隠居し通した。」
論語:語釈
直
(金文)
論語の本章では、”剛直”。ひたすらまじめで言動を曲げないこと。『学研漢和大字典』によると「|(まっすぐ)+目」の会意文字で、まっすぐ目を向けることを示す、という。詳細は論語語釈「直」を参照。
史魚
(金文)
論語時代の衛国の家老。孔子より一世代上と思われる。いみ名は鮀、あざ名は子魚、史鰌・史鰍とも言う。衛の霊公が下記蘧伯玉を重用しなかったことに抗議して、たびたび諌めたが聞き入れられず、死に臨んで遺言し、「霊公が言うことを聞くまで死体を窓際に放置しろ」と言った。さすがに怯えた霊公は、蘧伯玉を大祝(祭祀を司る官)として重用したという。
孔子は史魚を口がうまいと評し(論語雍也篇16)、衛国が滅亡しなかった理由の一つに、史魚の存在を挙げている(論語憲問篇20)。
邦
論語の本章では”国”。上記の通り定州竹簡論語では「國」と記すが、これは高祖劉邦の名をはばかって書き換えたもの。詳細は論語語釈「邦」を参照。
君子哉
(金文)
既存の論語本の中で藤堂本によると、「直」より「君子」の方が評価が高いという。論語における「君子」も参照。「哉」は詠歎の語。詳細は論語語釈「哉」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
有道
論語の本章では”原則がある”。無原則・無軌道の反対で、論語の中でも史実の章では、後世の儒者がなすりつけたような”道徳のある”という意味ではない。詳細は論語語釈「道」を参照。
蘧伯玉(キョハクギョク)
論語時代の衛国の家老。BC585ごろ-BC484以降。姓は姬、氏は蘧、名は瑗、字は伯玉。孔子より34歳年長になる。孔子は二度目以降の衛国滞在中、蘧伯玉の屋敷に逗留した。
呉国の使節から賢者として讃えられ(『史記』衛世家)、外出の歳主君の霊公の車に行き会うと、一旦下車して礼を示したという(『列女伝』仁智・衛霊夫人)。魯から臧武仲が出奔した際には(論語憲問篇15)、「原則のないままに主君に仕えると、こう言う目に遭う」と評した(『春秋穀梁伝』襄公二十三年)。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
可
(金文)
漢字の原義は”やっとの思いで言い出すこと”だが、武内本によると「俗語の好と同じ、手際よくとの意」という。だが可能の「可」と解して無理がないので、採用しなかった。論語語釈「可」も参照。
懷(懐)
論語の本章では”願う”。この文字の初出は戦国文字。カールグレン上古音はɡʰwærで、同音は存在しない。詳細は論語語釈「懐」を参照。
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
卷(巻)而懷(懐)之
「巻」「懐」(金文)
”巻いて懐に仕舞う”。古来、”自分の才能を隠して引退する”と解する。論語語釈「巻」も参照。
論語:付記
論語を通読する限り、孔子は自分が個人的に世話になった人物は、君主を除いて褒めちぎる癖があり、蘧伯玉はその一例。加えて蘧伯玉は、政治家でありながら具体的に何をしたのかさっぱり分からない人物で、孔子は弟子の子賤とともに、そうした人物を畏敬する傾向にある。
論語の本章については以上だが、本章の考証に関して清末民初の儒者・崔適の『論語足徴記』に、珍妙な記事がある。原文に当たれなかったゆえ、『論語集釋』に引用された部分から一部の訳文を示す。
『列女伝』によると、蘧伯玉が霊公に仕えた記事がある。ところが『左伝』は、献公から仕えたと書いている。
…献公は魯の襄公十四年(BC559)に国を追われている。つまり国政が荒れたわけだから、蘧伯玉は当然引退したのだろう。そして『礼記』には、”四十過ぎてから仕えるものだ”と書いてある。それから七年過ぎて孔子が生まれた。つまり蘧伯玉は孔子より五十ほど年長という事になる。
そして孔子は五十九歳のとき、蘧伯玉の屋敷に逗留したと『史記』が言う。蘧伯玉は百二十歳を過ぎていなくては計算が合わない。いくら古代に長寿の人が多いからと言って、蘧伯玉は仙人のたぐいなのだろうか?
儒者の弱点は数理的論理力の弱さとたびたび指摘したが、上掲の例もその一つで、論の原点は「四十過ぎてから仕えるものだ」という『礼記』にある。大小の礼記は漢儒のでっち上げだが、それを知らないとしても、「『礼記』にあるからには一般的事実」と言い張った。
また50+59は109なのだが、いつの間にか「蘧伯玉は百二十歳を過ぎ」たことになっている。読むそばからデタラメが分かるようなことを、平気で書いているが気は確かなのだろうか。訳者にとってはこういうトンチキをからかうのが面白いのだが、まじめに読んだ人は気の毒だ。
だがそれゆえか、論語関連の書籍が次々と電子化され公開されているというのに、『論語足徴記』にはその気配が無い。全文読んだわけではもちろんないが、この部分だけからも、筆者の不真面目がわかる。あまりに役に立たぬゆえ、誰も電子化の労を取ろうとしないのだろう。
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