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論語詳解386衛霊公篇第十五(8)ともに言う’

論語衛霊公篇(7)要約:話の通じる人と話さないと、いい人と出会う機会を逃します。通じない人と話すと、言えば言うだけ互いに不愉快です。それを見分ける事が出来て、やっと貴族になれるのじゃよと、孔子先生が一生懸命説明した一節。

論語:原文・書き下し

原文

子曰、「可與言而不與*之言、失人。不可與言而與之言*、失言。知者不失人、亦不失言。」

校訂

武内本

邢本與の下之の字あり。言之、唐石経之言に作る。邢本同じ。徐幹中論此章を引く、皆邢本に同じ。

定州竹簡論語

……[言。知者不失人,不a失言]。」421

  1. 今本不上有”亦”字。

→子曰、「可與言而不與之言、失人。不可與言而與之言、失言。知者不失人、不失言。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 可 金文与 金文言 金文 而 金文不 金文与 金文之 金文言 金文 失 金文人 金文 不 金文可 金文与 金文言 金文 而 金文与 金文之 金文言 金文 失 金文言 金文 智 金文者 金文不 金文失 金文人 金文 不 金文失 金文言 金文

※論語の本章は、「與」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、ともきものにしこれはざらば、ひとうしなふ、ともからざるものにしこれはば、ことうしなふ。知者ちしやひとうしなはず、ことうしなはず。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 キメ
先生が言った。「共に話が出来る人物がいて、その人物と話さなければ、人を失う。共に話が出来ない人物がいて、その人物と話せば、言葉を失う。知者は人を失わないし、言葉を失わない。」

意訳

話が通じる人がいる。口を利かねば、折角の相手が無駄になる。
話が通じない人がいる。口を利けば、折角の言葉が無駄になる。
貴族にふさわしい技能と教養を持つ者は、人も言葉も無駄にしない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「共に語るに足る人に会いながら、その人と語らなければ人を失うことになる。共に語るに足りない人に会って、みだりにその人と語れば言葉を失うことになる。知者は人を失わないし、また言葉を失わない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「遇到可以說的人卻不說,就會失去可與說話的人;遇到不可說的人卻說了,就是說話冒失。聰明的人既不去可交談的人,也不言談冒失。」

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孔子が言った。「たまたま話せる人と出会ったのに話さないと、必ず話せる人を失う。たまたま話せない人と出会ったのに話すと、必ず話を無駄に失う。聡明な人はほぼ話せる人を失わないし、話を無駄に失わない。」

論語:語釈

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”…と(共に)”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

可與言而不與之言

服部宇之吉に代表される、従来の読み下しには誤りがある。少なくともデタラメだ。

服部:ともくしてこれはざれば
訳者:ともきものにしこれはざらば

「而」は、前後が不可分に一体化していることを示す接続辞。その前「可與言」は、”話の出来る人”を意味する。なぜなら後半「而不與之言」に、「與」=”~と”のあとに「之」の字があるからで、「之」は動詞の後に位置する場合を除き、指示詞≒代名詞の役割を持つ。

つまり本章の場合、「之」の字以前にそれが指し示す名詞(句・節)が無くてはならず、それに相当するのが「可與言」。従って上記の通り、従来の読み下しは誤り。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知っている”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

知者

知 金文大篆
「知」(金文大篆)

論語の本章では、”礼を知る者”。一般的なもの知りや知恵者ではなく、孔子の教説である、仁者=”理想の貴族”のスペック=”礼”を知る人。詳細は論語における「知」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章も、孔子が弟子たちに、目指すべき貴族のあるべき姿を説いた話と解してよい。孔子の弟子は九分九厘庶民の出身で、孔子塾で学び稽古することで、貴族にふさわしい教養と技能を身につけ、仕官して最下層の貴族である士に成り上がることを目標にしていた。

つまり小人=庶民に無い教養や技能を身につけることが貴族の条件であり、それらを”知る”ことが弟子に求められた。本章に言う知者はその意味での知者であり、とりわけ知識や教養が高い知恵者を意味しない。人付き合いにも相手を見抜く技能がある、政治に向いた人材である。

ただしここで中国独特の注意が要る。中国では政治家と官僚の区別が無い。政治家は社会の利益配分を調整する者で、官僚は政治家の指示に従ってその実行に当たる。中国の理念上は政治は君主が行い、官僚はそれを助ける者に過ぎないが、現実はほとんどそうでなかった。

世襲君主に生まれた者に、必ずしも政治の才があるわけではないからだ。利益配分とはある者が見込んだ利益を取りあげ、見込まない者に配ることだから、つまり常に社会の半分近くは敵に回す。そんな恐ろしいことを平然とやってのけるには、それ相応の体質が要る。

だから出世した官僚が君主に代わって政治家になる、はずだったのだが、中国人の特質として、公共という概念が無い。つまり地位は常に、自分の腹を肥やすための元手であり、失脚したり処刑されたりしない程度に最大限、権力や権限を使って自腹を肥やした。

孔子の生きた春秋時代はまだ、なんぼか人間が素朴だが、やはり皆が欲タカリに目が眩んでいる政界官界で、人を見抜くことは下っ端役人=士と言えども必要だった。それゆえ孔子がこのように説教したのであり、現実に居そうもないご立派な知恵者の話をしたわけではなかった。

対してこの点儒者の解釈は、あまりに脳天気でむしろ微笑ましい。

古注『論語集解義疏』

註所言皆是故無所失者也疏子曰至失言 云子曰云云者謂此人可與共言而己不可與之言則此人不復見顧故是失於可言之人也云不可云云者言與不可言之人共言是失我之言者也云智者云云者唯有智之士則備照二途則人及言竝無所失也

古注 何晏
注。この話は全て正しい。だから間違ったところがどこにもない。

付け足し。孔子様は言葉が無駄になることの極致を仰った。子曰くうんぬんとは、話が通じる人と話すことが出来なければ、その人とは二度とつながりが無くなるということである。だから、話の通じる人を失うというのである。

不可うんぬんは、話の通じない人と話すのは、自分の言葉を失うということである。智者うんぬんとは、智者だけがその能力で二つの道を照らし、話の通じる人を得、自分の言葉を保てるということである。

要するに、一般的な知恵者なら、人も言葉も失わない、と解している。版本が違うらしく、「知者」ではなく「智者」になっている。そして改めて注を付けずとも分かるようなことばかり、ベラベラと書いている。古注の儒者の頭の悪さは、とうに指摘したとおり。
(論語解説「後漢というふざけた帝国」)

一方新注はたったこれだけ。

新注『論語集注』

知、去聲。

朱子
知は尻下がりに読む。

あっさりしたものだ。だが孔子の話の真意に気付いた様子は無い。この点は明末清初の儒者、顧夢麟も同様だったようだ。

明儒
才能のある人というのはめったにいないものだ。だから会えたのに付き合えないとなったら、それはただ事で済むだろうか。だから人を失う怖さに、ついつい余計な者にまでしゃべってしまうのは、どうにもならない勢いというものだ。

人を失うも言葉を失うも、根は同じであり、それは人を見抜けないことにある。だから知恵者だけが、人付き合いをうまくやってのけるのだ。(『四書説約』)

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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