(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「巧言亂德、小不忍、則亂大謀。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「巧言亂德。小不忍,亂a大謀。」441
- 近本”亂”字前有”則”字。
→子曰、「巧言亂德、小不忍、亂大謀。」
復元白文(論語時代での表記)
巧 忍
※論語の本章は「巧」「忍」の字が論語の時代に存在しない。「亂」「則」の用法に疑問がある。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、巧き言は德を亂す。小しくも忍ばざらば、大いなる謀を亂す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「耳障りのよい言葉は、個人の能力を低下させる。僅かな忍耐もしなければ、大きな計画を破綻させる。」
意訳
調子のいいことを言ったり聞いたりしていると、人間が役立たずになる。わずかな辛抱も嫌がるようでは、大きな仕事など達成できない。
従来訳
先師がいわれた。――
「口上手は道義をやぶり、小事に対する忍耐心の欠乏は大計画をやぶるものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「聽從花言巧語就會喪失自己的美德,小事不忍耐就會攪亂大事情。」
孔子が言った。「耳障りのいい言葉を聞いて従うと即座に自分の美徳がダメになり、小さな事も耐えられないと即座に大仕事をダメにする。」
論語:語釈
巧(コウ)
「巧」(楚系戦国文字)
論語の本章では”よく作られた”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。原義は”細かい細工”。現行字体の偏は工作を意味し、つくりは小刀の象形。中国の字書に収められた古い文字(古文)では、へんがてへんになっているものがある。上掲楚系戦国文字は、「〒」も「T]もおそらく工具で、それを用いて「又」=手で巧みに細工することだろう。詳細は論語語釈「巧」を参照。
巧言
(金文)
論語の本章では、”耳障りのいい言葉”。詳細は論語語釈「巧」・論語語釈「言」を参照。
亂(ラン)
(金文)
論語の本章では、”乱す”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「乚」を欠く「𤔔」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。
德
(甲骨文・金文)
論語の本章では、”人間が持つ機能”。初出は甲骨文。新字体は「徳」。『学研漢和大字典』によると、原字は悳(トク)と書き「心+(音符)直」の会意兼形声文字で、もと、本性のままのすなおな心の意。徳はのち、それに彳印を加えて、すなおな本性(良心)に基づく行いを示したもの、という。しかし『字通』によれば目に濃い化粧をして見る者を怖がらせ、各地を威圧しつつ巡回すること。ここから日本語で「威に打たれる」と言うように、「徳」とは人格的迫力のことだ。詳細は論語における「徳」を参照。
忍
(金文)
論語の本章では、”堪え忍ぶ”。初出は戦国末期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、刃(ニン)・(ジン)は、刀のはのあるほうをヽ印で示した指事文字で、ねばり強くきたえた刀のは。忍は「心+(音符)刃」で、ねばり強くこらえる心、という。詳細は論語語釈「忍」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
謀(ボウ)
(金文)
論語の本章では、”たくらみ”。初出は西周早期の金文で、ごんべんが付いていない。「謀反」の「ム」の読みは呉音。原義は諸説あってはっきりしないが、初出の金文は”たくらむ”と解釈されており、論語の時代までには否定辞の語義が加わった。だが”ウメ”・”なにがし”の語義は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「謀」を参照。
論語:付記
論語の本章も、おそらくは董仲舒による創作。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。後世の儒者は論語の本章に関して、次のような解説を加えている。
曰然則婦人之仁匹夫之勇强弱不同而皆為不忍何也曰忍之為義有所禁而不發焉爾婦人之仁不能忍其愛也匹夫之勇不能忍其暴也
ある人「女の仁義とバカの武勇は見た目の強弱は違っても、辛抱が足りない点では同じだと朱子先生は仰いますが、いったどのような辛抱足らずなのでしょう。」
朱子「辛抱すること自体を”義”という。これはやらないぞ、という固い決意があって、そのことについてブツブツ文句を言わない。女はすき好みに引き回されて、そういう辛抱が出来ない。バカは暴れたい欲求に引き回されて、そういう辛抱が出来ない。」(『四書或問』巻二十27)
沛公因項羽王之於漢中而欲攻項羽向非蕭何之諫則亂大謀矣是匹夫之勇也如趙王太后愛其少子長安君不肯使質於齊向非左師觸龍之言則亂大謀矣是婦人之仁也
沛公時代の漢の高祖劉邦は、項羽の指図で関中(=もとの秦の領域)で王になった。ところが欲を起こして項羽を攻めようとしたところ、蕭何に”金がありません。今はダメです”とたしなめられた。これが”大謀を乱す”であり、”バカの武勇”である。
趙王の太后は、末の方の息子である長安君を、強国の斉が”援助してやる代わりに人質によこせ”と言ってきたとき、イヤじゃダメじゃと泣きわめいた。そこへ老元帥の触竜(觸龍)がやってきて言いくるめられた。これもまた”大謀を乱す”であり、女の仁義というものだ。(『四書蒙引』巻八)
訳者は歴史者として、余計な事を書かずばなるまい。劉邦が一時関中で王になったのは確かだが、項羽から与えられたのは関中の西の果ての漢中で、関中の大部分は項羽に下った旧秦の将軍等が受け取った。頭にきた劉邦は項羽に反抗を企てたが、一党の財布を預かる蕭何と将軍の韓信に、「項羽はバカだ。どうせあちこちで反乱が起きる。そのどさくさに紛れて取ってしまえるまで待った方がいい」と言われて、とりあえずは項羽に従う振りをした。
長安君は、孝成王(位BC265-BC245)の弟で、当時の趙は強大化した秦軍にガリガリと西の領土を削り取られて耐えきれなくなり、即位したばかりの王は東方の大国である斉に救援を求めた。だが趙の足下を見た斉は、出来ないのを承知で長安君を人質に寄こせと言ってきた。要するに対岸の火事で、秦と事を構えたくなかったのである。
斉の要求を聞いた母親の太后は、「復言長安君為質者,老婦必唾其面」=”長安君を人質に出すと言いだした奴には、わらわがツバを吐きかけてやるぞえ”と言って抵抗した(『史記』趙世家95)。そこへババアにはジジイだと気付いた朝臣が、老元帥の触竜に説得方を依頼した。
自謝曰:「老臣病足,曾不能疾走,不得見久矣。竊自恕,而恐太后體之有所苦也,故願望見太后。」太后曰:「老婦恃輦而行耳。」曰:「食得毋衰乎?」曰:「恃粥耳。」曰:「老臣閒者殊不欲食,乃彊步,日三四里,少益嗜食,和於身也。」太后曰:「老婦不能。」太后不和之色少解。
(太后は自分を説得に来たと知って、身構えて老元帥を迎えた。)
触竜「私めも老いぼれまして、よろぼうて歩くのが精一杯になりました。無沙汰を致しましたのもそれゆえですが、太后さまもそれがし同様、歳のせいであちこち痛いの苦しいのとお悩みかと存じます。ですがこの世の名残に、と見舞いに上がりました。」
太后「わらわは篭を担がせて出歩いておるから、そのような懸念は無用じゃ。」
触竜「お食事はいかがでございますか?」
太后「粥を煮させて食っておる。」
触竜「それはいけませんなあ。それがしもこの頃食欲はございませんが、無理にでも普通に粒メシを食い、無理でも散歩するように励んでおります。歩けば少しは食いたくなるもの、体にはその方がよいようで。」
太后「わらわには無理じゃ。」(そう言って太后はやや表情を和ませた。)
左師公曰:「老臣賤息舒祺最少,不肖,而臣衰,竊憐愛之,願得補黑衣之缺以衛王宮,昧死以聞。」太后曰:「敬諾。年幾何矣?」對曰:「十五歲矣。雖少,願及未填溝壑而託之。」太后曰:「丈夫亦愛憐少子乎?」對曰:「甚於婦人。」太后笑曰:「婦人異甚。」對曰:「老臣竊以為媼之愛燕后賢於長安君。」太后曰:「君過矣,不若長安君之甚。」左師公曰:「父母愛子則為之計深遠。媼之送燕后也,持其踵,為之泣,念其遠也,亦哀之矣。已行,非不思也,祭祀則祝之曰『必勿使反』,豈非計長久,為子孫相繼為王也哉?」太后曰:「然。」
触竜「ところで太后さま、一つお願いがございます。それがしの末の息子でございますが、出来損ないでして、このままでは仕官もおぼつきませぬ。ですがこれがそれがしには、可愛ゆてなりませぬ。どうか王宮警備隊の端くれにでもお採り下されば、安心してあの世へ行けるのでござりまする。」
太后「よかろう。歳はいくつになる?」
触竜「十五になりまする。まだひよっこでございますが、使い走りにでもお使い下されば。」
太后「うむ、引き受けた。ところで元帥どの、男でもそんなに息子が可愛ゆいかえ?」
触竜「それはもう、ご婦人方以上でござりまする。」
太后「ホホホ。息子を愛する母の愛情には勝てまい。」
触竜「そうでございましょうか。太后さまは男の子の長安君さまより、女の子の燕姫さまの方を可愛がっておられたかと思っておりました。」
太后「それは間違いじゃ元帥どの、長安君の方が可愛い。」
触竜「左様でございますか。それがしも太后さまも人の親、子への思いはよくよく考えてのことでございますなあ。太后さまは、燕姫さまの嫁がれるのをお送りになったとき、何度も泣いて見送られました。ところが今は、”決して出戻ってくるのではないぞ”と神棚に祈っておられます。可愛ゆがるばかりが親の愛でなし、太后さまの燕姫さまの行く先を思われる、その表れかと存じまする。」
太后「その通りじゃ。」
左師公曰:「今三世以前,至於趙主之子孫為侯者,其繼有在者乎?」曰:「無有。」曰:「微獨趙,諸侯有在者乎?」曰:「老婦不聞也。」曰:「此其近者禍及其身,遠者及其子孫。豈人主之子侯則不善哉?位尊而無功,奉厚而無勞,而挾重器多也。今媼尊長安君之位,而封之以膏腴之地,多與之重器,而不及今令有功於國,一旦山陵崩,長安君何以自託於趙?老臣以媼為長安君之計短也,故以為愛之不若燕后。」太后曰:「諾,恣君之所使之。」於是為長安君約車百乘,質於齊,齊兵乃出。
触竜「ところで我が王殿下のご先祖様、その三代前の子孫で、家系が絶えていない貴族はありませんね?」
太后「そう言われるとそうじゃな。」
触竜「王殿下のお家を除けば、今の貴族諸公、いずれも三代続いている家は聞いたことがございません。」
太后「わらわも聞かぬ。」
触竜「自分で身を滅ぼした者もおれば、子孫に因果を巡らせた者もおりましょうが、誰も彼もがバカではなかったはず。それなのに家を滅ぼしたのは、身分が高いのに仕事をせず、実入りがいいのに働かず、財産ばかり蓄えていたからでございましょう。
太后さまは長安君さまを可愛がり、実入りのいい領地を与え、国宝をどっさりお下げ渡しになりましたが、さっぱりお仕事をなさったという話を聞きません。もしこの国が滅びるようなことでもあれば、長安君さまはどうやって、生き残る事が出来ましょうか。
太后さまの可愛がりようは、それがしには却ってあだになるのではと心配でございます。どうして燕姫さまと同じように、行く先々をお考えになりませぬのか?」
太后「元帥どの、そなたの言う通りじゃ。長安君を、好きなようにするがよい。」
こうして長安君は車百両と共に斉へ人質に出向き、斉軍は趙の救援に出陣した。(『史記』趙世家)
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