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論語詳解403衛霊公篇第十五(25)吾の人に*

論語衛霊公篇(25)要約:孔子先生がウンチクを垂れます。でも発言の前半と後半で話がちぐはぐで、何を言っているのかと一生懸命、歴代の儒者が考察しましたが、分からないのが当たり前、論語を水増しするためのニセモノでした。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

子曰、「吾之於人也、誰毀誰譽。如有所*譽者、其有所試矣。斯*民也、三代之所以直道而行也。」

校訂

武内本

唐石経可を所に作る、可所通用。後漢書韋彪伝注此章を引く、斯下民也の二字なしこの下馬融注によるに融見る所亦この二字なきに似たり。

定州竹簡論語

曰:「於人a,誰毀誰譽?若b]有何c譽者,其有所試矣。斯438……也,三代之所以直道而行[也]。」439

  1. 於人、阮本作”吾之於人也”、皇本作”吾之於人”。
  2. 若、今本作”如”。
  3. 何、阮本作”所”、皇本作”可”。

→子曰、「於人、誰毀誰譽。若有何譽者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 吾 金文之 金文於 金文人 金文也 金文 誰 金文誰 金文与 金文 如 金文有 金文所 金文与 金文者 金文 其 金文有 金文所 金文矣 金文 斯 金文民 金文也 金文 三 金文之 金文所 金文㠯 以 金文直 金文道 金文而 金文行 金文也 金文

※譽→與。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「行」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、ひとけるたれをかそしたれをかむ。なんむるものは、こころみるところなりたみ、三だいみちなほきをもつおこなところなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「私は人に対しては、誰をけなし誰を褒めるか。もし褒める点があるなら、試す所があったからだ。この民というものは、三代が真っ直ぐな道で治めてきた対象だ。」

意訳

孔子 人形
印象で人を評価してはならない。人を褒めたりけなす前に、まず仕事を与えて試すことだ。中国人というものは、夏・殷・周王朝がウソのない政治で治めてきた人々なのだから、根は素直で仕事をごまかしはしないから。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「私は、成心をもって人に対しない。だから誰をほめ、誰をそしるということはない。もし私が人をほめることがあつたら、それは、その人の実際を見た上でのことだ。現代の民衆にしても、過去三代の純良な民衆と同じく、その本性においては、まっすぐな道を歩むものなのだから、ほめるにしても、そしるにしても、実際を見ないでめったなことがいえるものではない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「我對人,詆毀過誰?稱贊過誰?我稱贊過的人,一定先經過了考驗。夏、商、周三代的人都是這樣做的,所以三代都能走在正道上。」

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孔子が言った。「私は人に対して、誰を非難しただろうか?誰を誉めただろうか?私が誉めた人は、必ずその前に試験を済ませている。夏、殷、周三代の人は皆このようにした。だから三代の王朝は同じく真っ直ぐな道を歩けたのだ。」

論語:語釈

誰(スイ)

誰 金文
(金文)

論語の本章では”誰”。上掲の金文は、論語時代より数百年後の、戦国末期の中山王の鼎に彫り込まれていたもの。ごんべんが無く、ふるとりだけで”誰”を表している。詳細は論語語釈「誰」を参照。

毀(キ)

毀 金文
(金文)

論語の本章では”そしる”。初出は戦国中期の金文。論語の時代に存在しない。同音や部品に語義を共有する漢字は無い。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「土+(音符)毇(キ)(米をつぶす)の略体」で、たたきつぶす、また、穴をあけて、こわす動作を示す、という。詳細は論語語釈「毀」を参照。

譽(誉)(ヨ)

誉 睡虎地秦墓竹簡
(秦系戦国文字)

論語の本章では、”ほめる”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音の與(与)zi̯o(去)を「譽に通ず」と『大漢和辞典』が言う。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、与(ヨ)は、牙(ガ)の原字と同形で、かみあった姿。與(ヨ)は「四本の手+(音符)与」からなり、みんなの手をかみあわせてもちあげること。譽は「言+(音符)與」で、みんなでことばをあわせてもちあげて、ほめそやすこと、という。詳細は論語語釈「誉」を参照。

如(ジョ)→若

如 睡虎地秦墓竹簡
(秦系戦国文字)

論語の本章では”もし”。定州竹簡論語では「若」を用いているが、意味は同じ。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。論語語釈「若」も参照。

試 睡虎地秦墓竹簡
(秦系戦国文字)

論語の本章では”ためす”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する字は無い。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声。式は「工(仕事)+(音符)弋(ヨク)(棒)」から成り、棒をもちいて工作すること。試は「言+(音符)式」で、その人や物を使って仕事をやらせてみること、という。詳細は論語語釈「試」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

斯(シ)

斯 金文
(金文)

論語の本章では、”この”。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると会意。「其(=箕。穀物のごみなどをよりわける四角いあみかご)+斤(おの)」で、刃物で箕(ミ)をばらばらにさくことを示す、とあるが、論語の本章のように指示詞に転用された理由は明瞭でない。詳細は論語語釈「斯」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”中国人一般”。君子に対する民ではなく、夏・殷・周の三王朝を経て中華文明を受け入れて生活している人。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

三代

三 金文 代 睡虎地秦墓竹簡
「三」(金文)「代」(秦系戦国文字)

論語の本章では、夏・殷・周の三代の王朝。このような言い方そのものが、論語の本章が周滅亡後の戦国末、あるいは漢初の作文であることを示している。

「代」の初出は戦国文字、同音に語義を共有する文字は無い。詳細は論語語釈「代」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

所以(ショイ・ゆえん)

伝統的な論語の解釈では、「ゆえん」と読んで理由のこと、とする。しかしその読みをすると、「三代之所以直道而行也」のうち、「直」を動詞に読まねばならなくなり、意味は”三代が道を真っすぐにして行った理由である”となるが、何を言っているのか分からない。

三代之所以道而行也。三代の道をなおくし行う所以ゆえん也。

従って「以」を動詞”用いる”として扱い、”三代が真っ直ぐな道を用いて行った所である”と読む方が文意が明瞭になる。

三代之所直道而行也。三代のなおき道を行うところ也。
(夏・殷・周王朝がウソのない政治で治めてきた人々なのだ。)
またここでの「所」は「者」と同様に、「以直道而行」を名詞化する働きをしており、「所」は、行為の対象を示し、「者」は、行為の主体を示す違いがある、と『学研漢和大字典』にある。

「所」について詳細は論語語釈「所」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は、孔子の発言の前半と後半のつながりがよく分からないというので、『論語集釋』にうんざりするほどの長文で儒者が書き付けたあれこれを記している。だが本章が偽作であることは明らかで、史実の孔子の発言としたそれらの考察は全て価値が無い。

本章は、定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期までに成立していたと分かるが、誰の作文かとなると手がかりが無い。文意が分かりにくいことから、あるいは『漢書』芸文志が記す、孔子にまつわる「伝」から適当に切り出して、董仲舒あたりが論語にねじ込んだと思われる。

董仲舒 前漢武帝
董仲舒の行ったことと言えば、親政を始めた希代の暴君・武帝の、幼少期のトラウマに付け込んで儒者の権益拡大を図ったことであり、顔淵神格化など数多くのでっち上げを行った。ろくでもない治世の大型詐欺師と言うべきで、論語の水増しのためには、少々の文意不通など気に掛けなかった。分からない方が、儒者に解釈権が独占されて都合がいいからである。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

もっとも論語は、時代が下った明帝国になるまでは、儒教の副読本の地位だった。だからこそ論語を水増しすると同時に、公認テキストである『礼記』をさかんに捏造した。こうした事情をわきまえずに論語や儒教経典を読む限り、何が書いてあるかは金輪際分からない。
論語 歴代王朝と孔子

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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