論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「民之於仁也、甚於水火。水火、吾見蹈而死者矣、未見蹈仁而死者也。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「民之於仁也,甚於水火矣a。水火,吾見游b而死者[矣],452未見游b於c仁而死者[也]。」453
- 矣、今本無。
- 游、今本作”蹈”。
- 於、今本無。
→子曰、「民之於仁也、甚於水火矣。水火、吾見游而死者矣、未見游於仁而死者也。」
復元白文(論語時代での表記)
※仁→(甲骨文)・火→(甲骨文)。論語の本章は、「仁」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
子曰く、民之仁に於ける也、水火於り甚し。水火は吾蹈み而死する者を見矣るも、未だ仁を蹈み而死する者を見ざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「民は仁については、それこそ水や火よりも激しく求めている。私は水や火にうっかり触れて死んだ者を見たことがあるが、まだ仁にうっかり触れて死んだ者を見たことがないのだ。」
意訳
常時無差別の仁愛を身につけた為政者の出現を、まことに、民は煮炊きの火や飲み水よりも、心から待ち望んでいる。仁愛に不都合などあるものか。なめてかかって、水火に溺れる者や焼け死ぬ者はいくらでもいたが、仁愛をなめてかかって、触れて死んだ者は見たことがない。
従来訳
先師がいわれた。――
「人民にとって、仁は水や火よりも大切なものである。私は水や火にとびこんで死んだものを見たことがあるが、まだ仁にとびこんで死んだものを見たことがない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「人民對仁政的需要,比水火更迫切。水火雖有利於人,人有時卻會蹈之而死,我沒見過蹈仁而死的。」
孔子が言った。「人民が情け深い政治をもとめる様は、水や火よりさらに切実だ。水や火は人にとって有用だが、時に人はそのために死んでしまう。だが情け深さで死んだ者を私は知らない。」
論語:語釈
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
論語で史実と判定される章では、一貫して民は支配したりいじくったりする対象で、民の視点で政治や道徳がどうこう、と言い始めたのは、成功しなかった世間師である、孔子より一世紀後の孟子からになる。
於
(金文)
論語の本章では”~については”と、”~よりも”。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”常に憐れみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きと、「なり」と読んで断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
甚
(金文)
論語の本章では”激しく求める”。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると会意文字で、匹とは、ペアをなしてくっつく意で、男女の性交を示す。甚は「甘(うまい物)+匹(色ごと)」で、食道楽や色ごとに深入りすること、という。詳細は論語語釈「甚」を参照。
水火
(金文)
論語の本章では”水と火”。ともに生活に欠かせないと共に、ケガや死亡の原因となる。中国語では河川も「水」と呼び、その特徴に従って「膠水」(山東省の川。水がにかわのようにねっとりしていたらしい)・「淮水」(淮河。華中を淮=とりまくように流れる川)などと呼ぶ。
「水」は『学研漢和大字典』によると象形文字で、みずの流れの姿を描いたもの、という。詳細は論語語釈「水」を参照。「火」は『学研漢和大字典』によると象形文字で、火が燃えるさまを描いたもの、という。詳細は論語語釈「火」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。論語の本章はその意味では春秋時代の文法に従っているが、これはわざと古さを演出するための悪質な技巧とも言える。
見
(金文)
論語の本章では”見る”。「目だつものを人が目にとめること。また、目だってみえるの意から、あらわれるの意ともなる」と『学研漢和大字典』に言う。詳細は論語語釈「見」を参照。
蹈→游
(金文)
論語の本章では”触れる”。
初出は後漢の説文解字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音は声母のdʰ(去)のみ。dʰを声母に持つ漢字は無数に存在する。藤堂上古音はdog(去)だが、類義語の「踏」はt’əp(入)。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、沓(トウ)は「水+曰(いう)」の会意文字。たて板に水を流すように、ぺらぺらしゃべることをあらわす、という。詳細は論語語釈「蹈」を参照。
定州竹簡論語の「游」は、もと”ぷかぷかと水に浮かぶ”・”ひらひらと風に揺れる”を意味し、そこから”ぶらぶらと歩き回る”の語義があり、”不注意にも手を触れる”と解せる。詳細は論語語釈「游」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
孔子の生前、「仁」とは徹頭徹尾、貴族に成り上がるために備えるべき技能と教養、心のありようのことで、庶民には全く関わりの無い事柄だった。それを何だか有りがたいもののように触れ回って諸侯から官職をせびったのが、上記の孟子である。
これは、「仁」とは何か、社会のありようが変わってゆらぎ、人々に理解されがたくなった事の反映でもある。弩(クロスボウ)の実用化に伴って戦争のやり方が変わり、貴族の操る戦車の一騎打ちから、徴兵された庶民の歩兵隊による集団戦へと変わったことがその根柢にある。
孔子の生前、貴族とはほぼもれなく戦士であり、都市の商工民といえども戦時に出陣の義務がある代わりに、新国公の承認など参政権を持った。古代の貴族とは必ずしも金持ちではなく、古代市民を含めた参政権がある者を言うが、洋の東西を問わず坊主でなければ戦士である。
孔子の晩年まで軍の主力だった戦車だが、気難しい馬を複数頭、揃って走らせるには長年の習練が要り、サスペンションも無い車上で長柄武器を扱うにも、弓を射るにも長年の習練が要った。ただし御者は馬車に慣れた商工民でも務まったが、戦闘員はそれ以上の稽古が要る。
つまり労働の必要が無い、領主貴族の仕事だった。ところが孔子の晩年、戦闘技能の無い庶民を大量に徴兵し、弩を渡して集団で射させるようになった。弓には腕力も技能も要るが、クロスボウなら比較的腕力の無い素人でも当たる。それを一斉に射かけるのだからたまらない。
弩は弓よりバネを強く作れる。それは弦を一度だけ引いて引き金に掛ける構造だからで、一度踏ん張れば発射準備が済んだ。目当ても付いているから、引き絞った腕を震わせることなく、落ち着いて的を狙える。だから速射が利かない代わりに、威力と命中率に優れる(→動画)。
だから機関銃に向かって突撃する騎兵に似て、旧来の玄人軍団が素人集団にタコ殴られるようになった。孔子の晩年、魯を攻めた軍事大国・呉の軍隊は、魯の歩兵隊が本陣に襲来すると聞いて逃げ回っている。貴族の技能=仁が価値を失い、特権を世間に説明する根拠が消えた。
さらに孔子から一世紀後の孟子の時代、仁とは忘れられた言葉になった。それゆえ孟子が拾い上げて「仁義」に書き換え、何だか有り難いような言葉に仕立て上げた。はっきり定義の出来ない言葉だが、それは孟子が買い手の諸侯に合わせて、コロコロと意味を変えたからである。
要するにキャッチコピーで、それでも何とか最大公約数を取ると”情け”や”憐れみ”のような意味となる。政治から収奪される庶民が、お上の情けや憐れみを「水火よりも甚だしく求める」のは当然だろう。だがそれゆえに、論語の本章は孟子以降の、全くの捏造と断じうる。
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