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論語詳解411衛霊公篇第十五(33)知これ及ぶ’

論語衛霊公篇(33)要約:孔子塾は貴族に成り上がるための塾で、ただのお勉強塾ではありません。教わることは全て、貴族としての実用に役立つことでした。受験勉強が結局は身に付かないように、身に付く知識とは実践を離れてはあり得ないのです。

論語:原文・白文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰知及之仁不能守之雖得之必失之知及之仁能守之不莊以涖之則民不敬知及之仁能守之莊以涖之動之不以禮未善也

武内本に「莅、唐石経蒞に作る」とあるのは誤り

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰知及之仁不能守之雖得之必失之/知及之仁能守之不莊以莅之則民不敬/知及之仁能守之莊以莅之動之不以禮未善也

定州竹簡論語

曰:「知及之,仁弗能守a;雖得之,必失]之。知及之,仁[能]447之。不壯b以位c之,民d不敬。知及之,仁耐e守之,壯b以c448,動之不以禮,[未善也]。」449

  1. 仁弗能守、今本作”仁不能守之”。
  2. 壯、今本作”莊”。
  3. 位、阮本作”涖”、皇本作”莅”。
  4. 今本”民”前有”則”字。
  5. 耐、今本作”能”。

※b:文物出版社・第一版本文は「狀」、注釈は「壯」。注釈に従って本文を改めた。

標点文

子曰、「知及之、仁弗能守、雖得之、必失之。知及之、仁能守之、不壯以位之、民不敬。知及之、仁耐守之、壯以位之、動之不以禮、未善也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 智 金文及 金文之 金文 仁 甲骨文弗 金文能 金文守 金文 雖 金文得 金文之 金文 必 金文失 金文之 金文 智 金文及 金文之 金文 仁 甲骨文能 金文守 金文之 金文 不 金文荘 金文㠯 以 金文位 金文之 金文 民 金文不 金文敬 金文 智 金文及 金文之 金文 仁 甲骨文能 金文守 金文之 金文 荘 金文㠯 以 金文位 金文之 金文 動 金文之 金文不 金文㠯 以 金文礼 金文 未 金文善 金文也 金文

※仁→(甲骨文)・壯→莊・耐→能。論語の本章は「守」「必」「失」「莊」「動」「未」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、さとりこれおよべども、よきひとたるまもることあたらば、これるといへども、かならこれうしなはん。さとりこれおよび、よきひとたるこれまもることあたふも、さかんこれのぞらば、たみゐやまらん。さとりこれおよび、よきひとたるこれまもることあたひ、さかんこれのぞめども、これうごかすによきつねもちらば、いまからざらんかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像

先生が言った。「知識がまことに十分になっても、貴族らしい振る舞いにかなうことが出来なければ、知識があっても、必ず知識を失う。知識がまことに十分になり、貴族らしい振る舞いにかなうことが出来ても、力強さで知識と向き合わなければ、民は敬わない。知識がまことに十分になり、貴族らしい振る舞いにかなうことが出来、力強さで知識と向き合う事が出来ても、知識を発揮させるのに貴族の常識にかなっていなければ、まだ良いとは言えないだろうなあ。」

意訳

論語 孔子 水面キラキラ
先生が言った。

  • 知識は貴族にふさわしい行動を取るために学ぶ。そうでないなら無駄。
  • 知識で貴族らしく行動できても、突発事態にうろたえる程度の勉強と稽古なら、民から馬鹿にされる。
  • 知識で貴族らしく行動でき、突発事態に対処出来る技能教養を持っても、貴族らしくない無茶を仕出かすようでは、まだ十分とは言えないだろうね。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「知見においては為政者としての地位を得るに十分でも、仁徳を以てそれを守ることが出来なければ、得た地位は必ず失われる。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守り得ても、荘重な態度で人民に臨まなければ、人民は敬服しない。知見において十分であり、仁徳をもって地位を守ることが出来、荘重な態度で民に臨んでも、人民を動かすのに礼をもってしなければ、まだ真に善政であるとはいえない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「憑智慧得到權力,但缺少人品,即使得到了,也必然會失去;憑智慧得到權力,人品也好,但不嚴肅認真地管理,則不受群衆尊敬;憑智慧得到權利,人品好,工作態度也好,但所作所為不符合道德規範,那也是不完善的。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「智慧によって権力を得ても、ただし人品に欠陥があれば、たとえ得ても、それでも必ず失うことになる。智慧によって権力を得、人品も良くても、厳かにまじめに管理しなければ、必ず群衆の尊敬は得られない。智慧によって権力を得、人品も良く、仕事の態度もまた良くても、立ち居振る舞いが道徳規範に合致していなければ、それもまた完全に良いとは言えない。

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知っていること”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は、通例として「𣉻」(智)と記すが、本章では「知」となっている。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”足りている”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章、

  • 「知及之」では以前に指すべき意味内容が無いため、直前が動詞であることを示す記号。あえて訳せば強意で、”まさに”。

    『学研漢和大字典』「之」条②-(2)

    直前の語が動詞であることを示す。▽何をさすかは明示されない。

    文法的には「之」=「知」と言えなくはないが、「知が知に及ぶ」では何を言っているか分からない。

  • それ以外の「之」では以前に指すべき「知」があるため、指示詞”これ”。「此」が直近の事物を指し、「其」がやや離れた事物を指すのに対し、「之」は足元のように”まさにこれ”と取り分けて指す事物に用いる。

ここで通説が「不壯以位之、民不敬」で「之」=「民」としているのは全くの誤りで、以後の内容を指す機能を漢語の「之」は持っていない。このデタラメは古注では包咸がこの「之」を訳さないでごまかし、新注で朱子が「之」=「民」と間違いを言いふらして自分の漢文読解能力の低さを露呈している。

日本で論語の現代語訳を標榜する本のほぼ全てが朱子にだまされてと言うより、怠惰なものまね猿に成り下がってまじめに漢語を研究しないものだから、このデタラメは定説として定着してしまっている。例えば武内本に「此章之の字十一、皆民を指す」というのがそれで、間抜けだから真似しない方がいい。

訳者が宋儒を信用しない理由は、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。包咸を例外として漢儒を信用しない理由は、後漢というふざけた帝国を参照。

「之」を英語の関係代名詞のように解するのは賛成しない。漢語で関係代名詞を明記する辞書を一つしか知らないし、そのただ一つである『字通』は、「所を関係代名詞や受身に用いるのは後起の用義法で、音の仮借によるものである」といい、「之」ではなく「所」、それも「後起の用義法」というから(論語語釈「所」)、春秋時代の論語に当てはめるべくもない。

もっとも『大漢和辞典』には、「上を承け、下を導く辞」という語釈がちらほらあるが、「之」の語釈にはそのようなことを書いていない。

「之」字の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族らしい立ち居振る舞い”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に後世の捏造の場合、その意味は孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱した「仁義」の意味で、通説通り”常にあわれみの気持を持ち続けること”。詳細は論語における「仁」を参照。

不(フウ)→弗(フツ)

唐石経、清家本は「仁不能守」と記すが、定州竹簡論語は「仁弗能守」と記し「弗」を用いる。論語の本章、他の箇所では定州本も「不」を用いる。「仁不能守」については時系列から定州本に従い「弗」に校訂した。語義は変わらず”~でない”。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

弗 甲骨文 弗 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語の「弗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。

能(ドウ)→耐(ドウ)

唐石経、清家本は「仁能守之」と記し、定州竹簡論語は「仁耐守之」と記す。論語の本章、他の部分では定州本も「能」を用いる。時系列により定州本に従い「仁能守之」のみ「仁耐守之」に校訂した。語義は変わらす”~できる”。

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

「能」の初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

耐 秦系戦国文字 耐 字解
(秦系戦国文字)

定州本は「耐」と記す。初出は秦系戦国文字。論語時代の置換候補は”~できる”の意では「能」。字形は「大」”人の正面形”+「戈」”カマ状のほこ”。刃物で刑罰を加えるさま。上古音で「能」と近音。同音は「乃」「迺」”驚いたときの声”、「鼐」”大鼎”。呉音は「ナイ/ノウ」、「タイ」は慣用音。漢音「ダイ」で”耐える”、”髭を剃る刑罰”、「ドウ」で”~できる”、「能」と音訓同じ。戦国時代以前の出土例は、全て秦簡、「睡虎地秦簡」または「雲夢龍崗秦簡」。詳細は論語語釈「耐」を参照。

守(シュウ)

守 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では「まもる」と読んで”守る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「又」”手”+一画。原義は不明。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文は一例のみ知られるが、甲骨が欠けているため、語義は分からない。殷代の金文では族徽(家紋)に用いた。西周早期の例では人名のみが知られる。西周中期に”つかさどる”の用例がある。”まもる”の語義が見られるのは、戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「守」を参照。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

なお上掲現代中国語訳で、「即使」とあるのは”たとえ…でも”の意。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に入れる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

失(シツ)

失 金文 失 字解
(金文)

論語の本章では”うしなう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。同音は「室」のみ。字形は頭にかぶり物をかぶり、腰掛けた人の横姿。それがなぜ”うしなう”の意になったかは明らかでないが、「キョウ」など頭に角型のかぶり物をかぶった人の横姿は、隷属民を意味するらしく(→論語語釈「羌」)、おそらく所属する氏族を失った奴隷が原義だろう。西周早期の金文に、”失敗する”と読めなくもない例があるが、確定しない。”うしなう”の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「失」を参照。

莊(ソウ)→壯(ソウ)

唐石経・清家本は「莊」と記し、定州竹簡論語は「壯」と記す。定州本に従い校訂した。語義は変わらず”勢いが盛んなさま”。

「壯以位之」とは”力強さがそれで之=知識と向き合う”の意で、自信の無い者が少々の知識誇りをしても、実用に役立たずなら民に馬鹿にされるから、自信が持てるまで深く学んでから知識と向き合う、ということ。英国の名門パブリックスクールで優等生の条件に「悪たれを一発でぶちのめせること」とあるのと同様、学歴自慢がまちのチンピラから逃げ隠れするようでは、春秋の君子は務まらないのである。

子路治蒲,見於孔子曰:「由願受教於夫子。」子曰:「蒲其何如?」對曰:「邑多士,又難治也。」

論語 子路 あきれ 論語 孔子 せせら笑い
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。

子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)

荘 金文 荘 字解
(金文)

「莊」の”勢いが盛んなさま”の語義は、春秋時代では確認出来ない。字の初出は春秋時代の金文。新字体は「荘」。初出の字形は「ショウ」”寝床”+「」”容器”+「𠙵」”くち”で、何を意味しているのか分からない。春秋時代までは人名に用いた。文献時代では戦国最末期の『呂氏春秋』孝行篇に「居處不莊,非孝也。」とあり、後漢の高誘が「莊,敬。」と注を付けている。詳細は論語語釈「荘」を参照。

壯 壮 金文 壯 壮 字解
(金文)

定州竹簡論語の「壯」の初出は西周末期の金文。初出の字形は〔爿〕”寝台”+〔軍〕。軍隊が野営する様。現行字形の初出は戦国早期の金文。同音に「莊」、「妝」”装う”、「裝」”つつむ”。初出から”さかんにする”の意に用いた。詳細は論語語釈「壮」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いて”→”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

論語の本章では、「不壯以位之」とあって「壯不以位之」ではなく、「不」の管到(語を支配する範囲)は「壯以位之」全体に及ぶ。従って「不壯以位之」の解釈は”力強さが知識に向き合う方法を取らない”ではないし、「壯」は主語ではなく「以」は述語動詞でもない。つまり「以」は動詞”用いる”ではなく接続詞。

涖(リ)/莅→位

論語の本章では”地位に立つ”。唐石経は「涖」と記し、清家本は「莅」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「位」と記す。定州本に従い校訂した。

涖 楷書 涖 字解
(楷書)

唐石経は「涖」と記す。初出は不明。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔氵〕+〔位〕。原義不明。漢音「リ」で”のぞむ”・”見る”の意に、「レイ」の音で水の擬声音となる。先秦両漢では”のぞむ”として用いる。詳細は論語語釈「涖」を参照。

莅 楷書 莅 字解
(楷書)

清家本は「莅」と記す。初出は後漢の隷書。ただし前漢ごろの『爾雅』の現伝本に見える。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔艹〕+〔位〕。原義不明。異体字に「蒞」(初出不明)、ただし『老子道徳経』『荀子』『小載礼記』などの現伝本に見える。同音に「利」(去)。先秦両漢では異体字の「蒞」の方が用例が多い。『爾雅』に「監,瞻,臨,蒞,頫,相,視也。」とあり、”みる”と訓読すべきとされる。詳細は論語語釈「莅」を参照。

位 甲骨文 位 字解
(甲骨文)

「位」の初出は甲骨文。字形は楚系戦国文字になるまで「立」と同じで、「大」”人の正面形”+「一」大地。原義は”立場”。春秋までの金文で”地位”の意に用いた。詳細は論語語釈「位」を参照。

則(ソク)→×

唐石経と清家本は記すが、定州竹簡論語は記さない。これに従い無いものとして校訂した。

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…すれば必ず…”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

敬(ケイ)

敬 甲骨文 敬 字解
(甲骨文)

論語の本章では”敬う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。

動(トウ)

動 金文 動 字解
毛公鼎・西周末期

論語の本章では”動かす”→”機能を発揮させる。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「童」。その後は楚系戦国文字まで見られず、現行字体の初出は秦の嶧山碑。その字は「うごかす」とも「どよもす」とも訓める。初出の字形は〔䇂〕(漢音ケン)”刃物”+「目」+「東」”ふくろ”+「土」で、「童」と釈文されている。それが”動く”の語義を獲得したいきさつは不明。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。西周末期の金文に、「動」”おののかせる”と解釈する例がある。春秋末期までの用例はこの一件のみ。原義はおそらく”力尽くでおののかせる”。詳細は論語語釈「動」を参照。

なお漢文で頻出の語法として、「ややもすれば」と読むことがある。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”貴族の常識”。孔子生前の語義は徹頭徹尾この意味で、”礼儀作法”に限らない。ただ二度目の「禮」は”礼儀作法”の意でありうる。詳細は論語における「礼」を参照。

字の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”よい”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

「也」は論語の本章では、「かな」と読んで詠歎の意に用いている。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、疑問あるいは反語の語義も確認できる。また春秋末期の金文で「也」が句末で疑問や反語に用いられ、詠嘆の意も獲得されたと見てよい。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は春秋戦国の出土物はもちろん、先秦両漢の文献にも引用や再録が無い。前漢中期の定州竹簡論語には含まれているので、その頃までには論語の一章として成立していたと分かる。語の用法に疑問点が無いわけではないが、文字史上は全て論語の時代に遡れるので、史実の孔子の言葉として扱う。

解説

論語の本章は、言わば孔子塾卒業検定試験の項目で、項目を積み木を重ねるように述べ、塾生のあり得べき学びの態度を記している。その条件とは、

  1. 知:知識教養があること(→論語における「知」)
  2. 仁:貴族に相応しい行動が取れること(→論語における「仁」)
  3. 壮:未知の事態にも対処できる応用力があること
  4. 礼:結果として行動が貴族の常識にかなっていること(→論語における「礼」)

だった。3.以外について詳細はリンク先をご覧頂きたいが、ざっと言えば春秋時代の「君子」とは、通説や帝政期のそれとは異なり、従軍義務を持つ代わりに参政権のある人々だった。従って領主貴族だけでなく都市の商工民もいた(論語における「君子」)。

つまり基本は戦士であり、戦場は道場と異なりどこからどのような武器が襲いかかってくるか分からない。不意打ちされても切り返すことが出来る、そういうのを論語の本章では「知にのぞむ壮」と表現した。戦場のみならず内政外交の際にも、とっさに言い返すことが出来なければ春秋時代の君子は務まらない。

「壮」(荘)とは地位にふんぞり返ることではまるでない。常人には不思議な力で緊急事態を解決できるさまだった。これらは従軍など思いも寄らなかった帝政期の儒者や漢学教授には、それこそ思いも出来ないことで、論語の本章は無慮二千年間誤読されてきたと言って良い。

「壮」を”ふんぞり返れ”と解釈したがるのは、言う者が権力側の既得権益者だからで、濡れ手に粟の生活が染みついているからだ。だが春秋の君子が濡れ手に粟を決め込めば、孔子の仕えた昭公や哀公のように地位は失うし、多くは天寿も全うできない((論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。斉の景公が次のように孔子に言われて大喜びしたのも、地位にふんぞり返ることの出来ない春秋の貴族のありようを示している。

景公「政治とは何じゃな。」
若き日の孔子「君臣父子、各自が自分の身分からはみ出なさないよう、ギリギリ法律で縛り上げることです。」
景公「ほほほ、その通りじゃのう。それが出来ねばわしは、国君の身にありながら、飯もおちおち食えぬわいのう。」(論語顔淵篇11)

なろう系小説が貴族やお姫様にあこがれるように、人は知らない上流階級を美化して考えたがる。若き日の孔子は地位にふんぞり返れば世が治まると思っていた。ところが自分も為政者を経験し、世の中そうでもないことを悟ったから塾を開けたのである。

教わっても貴族に成り上がれないばかりか、成り上がっても亡命や暗殺を余儀なくされるような教えを授ける塾が、繁盛するわけが無い。そもそも塾生のほとんどは庶民の出で、貴族が一線を超えてふんぞり返れば、一揆や逃散で反撃する習性が身に付いていた。そこへ帝政儒者や漢学教授が説くような絵空事を説教する孔子が現れたら、さっさと塾を辞めたに違いない。

その孔子は、「貴族になる気も無いのに、ウチの塾に来るな」とも言った。

仕官するつもりもないのに、貴族の心得や古詩(≒外国語)など学んで何になる。ウチは暇を持て余した連中のカルチャースクールではないぞ。(論語八佾篇3)

それが本章での、「これおよべども、よきひとまもることあたらば、これいへども、かならこれうしなふ。」と言った理由であり、孔子塾はただのお勉強塾で無かったことを、孔子自身が強調している。受験勉強で学んだことを、入学後にはすっかり忘れていることがあるように、学んだことが直接日々の実用に繋がらないなら、人はそうそうものを覚えてなど居られない。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰智及之仁不能守之雖得之必失之註苞氏曰智能及治其官而仁不能守雖得之必失之也智及之仁能守之不莊以莅之則民不敬註苞氏曰不嚴以臨之則民不敬從其上也智及之仁能守之莊以莅之動之不以禮未善也註王肅曰動必以禮然後善也


本文「子曰智及之仁不能守之雖得之必失之」。
注釈。包咸「知識で官職が務まっても仁義を忘れたら知識は必ず失われる。」

本文「智及之仁能守之不莊以莅之則民不敬」。
注釈。包咸「厳めしい姿でその前に出なければ、民は目上に従わない。」

本文「智及之仁能守之莊以莅之動之不以禮未善也」。
注釈。王粛「行動に出るには必ず礼儀作法に従う。それで始めて善と言える。」

包咸は儒者にしてはまじめ人間だが(論語先進篇8余話「花咲かじいさん」)、「不嚴以臨之」と言いいながら「之」が何を指すか明らかにしていない。要するに、読めていないのである。

新注『論語集注』

子曰:「知及之,仁不能守之;雖得之,必失之。知,去聲。知足以知此理,而私欲間之,則無以有之於身矣。知及之,仁能守之。不莊以贋之,則民不敬。贋,臨也。謂臨民也。知此理而無私欲以間之,則所知者在我而不失矣。然猶有不莊者,蓋氣習之偏,或有厚於內而不嚴於外者,是以民不見其可畏而慢易之。下句放此。知及之,仁能守之,莊以贋之。動之不以禮,未善也。」動之,動民也。猶曰鼓舞而作興之云爾。禮,謂義理之節文。愚謂學至於仁,則善有諸己而大本立矣。贋之不莊,動之不以禮,乃其氣稟學問之小疵,然亦非盡善之道也。故夫子歷言之,使知德愈全則責愈備,不可以為小節而忽之也。


本文「子曰:知及之,仁不能守之;雖得之,必失之。」
知の字は尻下がりに読む。事態を理解出来るほど知識を蓄えても、私欲が判断に挟まるなら、知識は身に付かないのである。

本文「知及之,仁能守之。不莊以涖之,則民不敬。」
とは臨むことである。つまり民の前に姿を見せることである。知識で事態を理解出来、判断に私欲が挟まらなくても、まだ力強い様子が無いのは、たぶんお勉強のしすぎだが、それ以外にも人格は充実したが見た目が厳めしくないと、つまりは民がそれを見て恐れずバカにし始める。下の句はこの付け足しである。

本文「知及之,仁能守之,莊以涖之。動之不以禮,未善也。」
動之とは、民を動員することである。毎日ちんちんドンドンを奏でて励まさねばならず、気分を盛り立てねばならない。禮とは、義務と道理をまとめた文章である。愚かなわたし朱子の思うところでは、学問が仁義の境地に至ったら、自分自身のあらゆる要素が良くなり、自分自身を確立できる。民の前に出て弱々しく、動員して礼に外れたら、それはお勉強のしすぎでオタクになったのであり、善の道を修養し終えたとは言えないのである。だから孔子先生はたびたび言った。知識や道徳は完成に近づくほど、欠けたところが無いか点検すべきで、ちまちました義理立てで知識や道徳を損なわないようにしなければならない、と。

「中国哲学書電子化計画」は四庫全書会要本を底本にしているようだが、「」を「ガン」と誤ってタイプしている。「贋作」”ニセモノ”の「贋」で、打ち込み人や校正者に何か悪意でもあるのだろうか。

余話

(思案中)

参考動画

偽善者や捕食者(人界ではたいてい両者を兼ねている)が何と言おうと、間抜けは間抜け。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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