論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
公伯寮愬子路於季孫子服景伯以吿曰夫子固有惑志於公伯寮吾力猶能肆諸市朝子曰道之將行也與命也道之將廢也與命也公伯寮其如命何
校訂
諸本
武内本:史記弟子伝引両句末ともに也與の二字なし、也與は蓋し助詞なるべし。
東洋文庫蔵清家本
公伯寮愬子路於季孫/子服景伯以吿/曰夫子固有惑志/於公伯寮也吾力猶能肆諸市朝/子曰道之將行也與命也道之將癈也與命也公伯寮其如命何
※「將」字のつくりは〔寽〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……道之將廢也與,命402……
標点文
公伯寮愬子路於季孫、子服景伯以吿曰、「夫子固有惑志於公伯寮、吾力猶能肆諸市朝。」子曰、「道之將行也與、命也。道之將廢也與、命也。公伯寮其如命何。」
復元白文(論語時代での表記)
愬 惑志
※景→競・固→(戦国金文)・將→(甲骨文)・廢→灋。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「固」「猶」「也」「如」「何」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
公伯寮子路を季孫於愬ふ。子服景伯以て吿げて曰く、夫子固より公伯寮於惑ひの志有り、吾が力猶ほ諸を市朝に肆さむこと能ふるがごとしと。子曰く、道之將に行かむとする也與、命也。道之將に廢れむとする也與、命也。公伯寮其れ命に如くは何ぞ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
公伯寮が子路を季孫に告げ口した。子服景伯がそれを知って言った。「あの方は以前から公伯寮を疑うお気持ちです。私の力はこれを処刑して盛り場や政庁にさらし者にすることが出来るようなものです。」先生が言った。「道理が通用てしまうものか。それは天の定めです。道理が捨て去られてしまうものか。それは天の定めです。公伯寮がそもそも、天の定めと肩を並べる方法とは何ですか。」
意訳
一番弟子の子路が、魯国筆頭家老の季孫家に仕えていた頃。公伯寮が季孫家に、子路を告げ口した。それを聞いた子服景伯が、孔子の下へやってきた。
子服景伯「季孫家のご当主は以前から、公伯寮をよく思っていません。何なら私の権限で公伯寮を引っ捕らえ、処刑して目抜き通りや政庁前でさらし者にしてやりましょうか?」
孔子「かたじけないが、およしなされ。子路が悪口を言われる謂われはござらぬが、季孫家に道理が通るも通らぬも、天の定めでござる。公伯寮ごときに、天をくつがえす力はございますまい。」
従来訳
公伯寮が子路のことを季孫にざん言した。子服景伯が先師にその話をして、いった。――
「季孫はむろん公伯寮の言にまどわされていますので、心配でございます。しかし、私の力で、何とかして子路の潔白を証明し、公伯寮の屍をさらしてお目にかけますから、ご安心下さい。」
すると先師はいわれた。――
「道が行われるのも天命です。道がすたれるのも天命です。公伯寮ごときに天命が動かせるものでもありますまいから、あまりご心配なさらない方がよいと思います。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
公伯寮在季孫氏面前誣衊子路。子服景伯將此事告訴了孔子,他說:「季孫氏被公伯寮的諂言所迷惑,我有能力殺了他,將他陳屍街頭。」孔子說:「理想能夠得到推行,是時運決定的;理想得不到推行,也是時運決定的。公伯寮能把時運怎樣?」
公伯寮が季孫氏の目の前で子路を悪く申し立てた。子服景伯がこのことを孔子に告げて、彼は言った。「季孫氏は公伯寮のへつらいの言葉によって惑わされています。私なら彼を殺す権力があります。彼の死体を街角にさらしてやりましょう。」孔子が言った。「理想が実現するかどうかは、時運が決定します。理想が実現しないのも、時運が決定します。公伯寮が時運をどうにかできるでしょうか?」
論語:語釈
公 伯 寮 愬 子 路 於 季 孫、子 服 景 伯 以 吿、曰、「夫 子 固 有 惑 志 於 公 伯 寮、吾 力 猶 能 肆 諸 市 朝。」子 曰、「道 之 將 行 也 與、命 也。道 之 將 廢 也 與、命 也。公 伯 寮 其 如 命 何。」
公伯寮*(コウハクリョウ)
論語の本章では、孔子と同時代人の貴族。『史記』弟子伝では孔子の弟子にしてしまっており、あざ名を「子周」だと言うが、孔子没後300年ほど後に生まれた司馬遷の言うことを、どこまで信用していいか分からない。漢代以降、孔子と同時代の有名人を誰も彼も孔子の弟子に仕立てるキャンペーンがあり、うかつに信用できない事情については、論語雍也篇9余話「漢文の本質的虚偽」を参照。
司馬遷は師匠格の董仲舒の肩を持ち、そのデタラメ言いふらしに加担した形跡が濃厚にある。詳細は論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。
「子周」とのあざ名は、史実のあざ名とすれば王室をも恐れぬ大それた名で、うさんくさいことこの上ない。おそらく「公伯」→「公室の血統」→「周王室の縁戚」という、周が滅んだあとなら子供でも思いつきそうな簡単なニセあざ名で、司馬遷もそのバカバカしさに気付いていたろうから、こんにちの論語や史記読者が、有り難がって真に受ける必要は無い。
「公伯寮」の名は『春秋左氏伝』に見えず、「公伯」も見えず、人名としての「寮」も見えない。現存最古の宋版『史記』・欽定四庫全書『史記』弟子伝では「公伯僚」とうかんむりではなくにんべんを付けて記す。この名でも同一人物と思われる記録は『春秋左氏伝』に無い。人名として「僚柤」の名が昭公の側仕えとして見える(昭公二十五年)が、側仕えは公室の血脈が務める職とも思えず、この人物が「公伯寮」を指すとは断じがたい。
「中国哲学書電子化計画」の『史記』弟子伝はいとへんで「公伯繚」と記すが、底本が不明。そして『春秋左氏伝』に名が見えない。
「公伯」とは「公子」「公孫」と同じく、公室の支流であることを示す氏で、「伯」は”伯父”または”兄”を意味するから、国公の伯父または兄を始祖とする一家の一員であることになる。孔子の弟子の中で、明確に貴族の出と分かるのは、宋の公族出身の司馬牛と、下級士族だった樊遅のみで、ほかの弟子は孔子塾で学んで仕官し、貴族に成り上がるのを目指す庶民だった。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
「白」(甲骨文)
「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。
(甲骨文)
「寮」の初出は甲骨文。字形は〔宀〕”屋根”+〔木〕+”火の粉”+〔火〕。火焚きの出来る家屋。甲骨文には「師寮」として多くの用例が見えるが、語義は明瞭でない。西周の金文から、”役人”の意に用いた。詳細は論語語釈「寮」を参照。
愬(ソ)
(隷書)
論語の本章では”悪口を言って追い落としを図る”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「訴」は同音同調異体字。字形は「朔」+「心」で、原義は不明。呉音は「ス」。熟語「愬愬」”ぎくりと驚く”の漢音は「サク」、呉音は「シャク」で去声となる。その同音同調に「泝」”さかのぼる”。文献上の初出は論語の本章。次いで戦国中期の『孟子』、戦国末期の『荀子』『韓非子』。異体字の「訴」は戦国時代を通じて編まれた『列子』に見えるが、いつ記されたのか分からない。墨家・道家・法家の書に見えないから、前漢になって現れた字と見るのが理にかなう。詳細は論語語釈「愬」を参照。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
季孫(キソン)
魯国門閥家老筆頭の季孫氏の意。孔子が生まれる半世紀ほど前の第5代国公・桓公から分家した門閥三家老家を三桓と言い、季孫家が司徒(宰相)を、叔孫家が司馬(陸相)を、孟孫家が司空(法相兼建設相)を担った。孔子と季孫家・孟孫家の関係は良好で、『史記』孔子世家によると、若年時には季孫家の家臣だったこともある(「季子の史と為り、料量平らかなり」)。
中国人の子の名乗りには、長子から順に伯・仲・叔・季との呼び方がある。三人の場合は孟・仲・季または孟・叔・季と呼ぶ場合もあり、後者が三桓の場合に当たる。
孔子が魯から亡命したときの季孫家当主は季桓子(季孫斯)で、孔子亡命直前に斉国から来た女楽団を見物したと『史記』には書いてあるが、なにか具体的に孔子を追い出すようなことをしたとは書いていない。次代季康子(季孫肥)の代になって孔子は帰国するのだが、これといって孔子と関係が悪かったという記録は無い。
三桓が国政を壟断する悪党で、孔子はそれに対抗した正義の味方という、子供だましのヒーローもののような構図は全て、後世の儒者のでっち上げで、信用するに足りない。
論語の本章について言えば、弟子の子路が仕えていることことから、孔子亡命前の記事と判断すべく、季孫家の当主は季桓子と解するのが妥当。
(甲骨文)
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。同音は存在しない。甲骨文の用例は、地名なのか、人名なのか、末子を意味するのか分からない。金文も同様。詳細は論語語釈「季」を参照。
(甲骨文)
「孫」の初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。
子服景伯(シフクケイハク)
魯国の家老の一人。『春秋左氏伝』哀公三年(BC492)の火事の記事に見え、記録の保護と消火の指揮にあたった(論語郷党篇13余話「華であるわけがない」を参照)。哀公七年(BC488)、呉王夫差が魯に百牢(牛・羊・豚の焼肉セット百人前)を要求した際、前例が無いとして断ったのだが押し切られた。そして”呉はもうすぐ滅びるぞ”とのつぶやきが記されている。また同年季孫家が、隣国の邾(チュ)国を乗っ取ろうとしたとき、正論を言って押しとどめようとした発言が同じく『春秋左氏伝』にある。その後も孔門の子貢と共に魯国の外交に携わった。
「子服氏,景謚,伯字,魯大夫子服何也」と朱子が言うのを信じるに足る証拠は何もない。春秋時代の通例から言えば、「子服」があざ名、「景」がおくり名である可能性はあるが「伯」一字であざ名になることは考えられない。むしろ「景氏の長男=家長」と考えた方が通例から外れない。
將盟,景伯曰,楚人圍宋,易子而食,析骸而爨,猶無城下之盟,我未及虧,而有城下之盟,是棄國也,吳輕而遠,不能久,將歸矣,請少待之,弗從,景伯負載,造於萊門,乃請釋子服何於吳。吳人許之,以王子姑曹當之,而後止,吳人盟而還。
(魯に攻め寄せた呉は攻めあぐねて)和議を結ぼうとした。
子服景伯「むかし楚が宋を包囲したとき、宋では食糧に困って互いの子を取り替えて食い、骨を薪にするほど困りましたが、それでも降伏しませんでした。いま我が魯は都城まで攻め込まれたわけではありませんし、ここで降伏でもしたら、国を捨てるも同然です。呉は軽装の兵だけを連れてはるばる来ました。もう長くは陣を張れませんから、すぐに帰るでしょう。いま和議に応じるのは待って下さい。」
しかし魯の政府では否決となり、子服景伯が全権となって呉が陣を張っている萊門に向かった。会議で子服何を人質として呉に送ることを提案すると、呉は受諾して王子の姑曹を代わりに送ろうと言った。だがこの話はうやむやになり、呉軍は講和だけして帰った。(『春秋左氏伝』哀公八年)
先秦両漢で「子服何」が見えるのはこの記事だけだが、いったいどういう脳みそをしていたら、ここから子服景伯=子服何という理屈が出てくるのか。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
(甲骨文)
「服」の初出は甲骨文。”衣類”の語義は春秋時代では確認できない。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。
(前漢隷書)
「景」の初出は前漢の隷書。ただし春秋末期に「競」を「景」と釈文する例がある。字形は「日」”太陽”+「京」”たかどの”。高々と明るい太陽のさま。同音は「京」のみ。「ひかり」の意では漢音は「ケイ」、呉音は「キョウ」。「かげ」の意では漢音は「エイ」、呉音は「ヨウ」。戦国までは「競」で「景」を表した。春秋末期の金文に人名としての「競」の例があり、戦国の竹簡では「齊競公」と記している。詳細は論語語釈「景」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いて”→”それを”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
吿(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
夫子(フウシ)
論語の本章では”季孫家の当主殿”。季桓子を貴んで呼んだ言い方。論語では多くが、孔子への敬称として用いる。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。
(甲骨文)
「夫」の初出は甲骨文。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
固(コ)
(金文)
論語の本章では”もともと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。字形は「囗」+「十」+「曰」だが、由来と意味するところは不明。部品で同音の「古」が、「固」の原字とされるが、春秋末期までに”かたい”の用例がない。詳細は論語語釈「固」を参照。
有(ユウ)
「有」(甲骨文)
論語の本章では”持つ”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
惑(コク)
(金文)
論語の本章では”まよう”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ワク」は呉音。同音に語義を共有する漢字は無い。字形は「或」+「心」。部品の「或」は西周初期の金文から見られ、『大漢和辞典』には”まよう・うたがう”の語釈があるが、原義は長柄武器の一種の象形で、甲骨文から金文にかけて地名・人名や、”ふたたび”・”あるいは”・”地域”を意味したが、「心」の有無にかかわらず、”まよう・うたがう”の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「惑」を参照。
志(シ)
(金文)
論語の本章では”こころ”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
力(リョク)
(甲骨文)
論語の本文では”権力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。
猶(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”やはり~のような”。「なお~のごとし」と読む再読文字の一つ。この語義は春秋時代には無かった可能性がある。初出は甲骨文。字形は「酉」”酒壺”+「犬」”犠牲獣のいぬ”で、「猷」は異体字。おそらく原義は祭祀の一種だったと思われる。甲骨文では国名・人名に用い、春秋時代の金文では”はかりごとをする”の意に用いた。戦国の金文では、”まるで…のようだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「猶」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
肆*(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”いけにえにする”→”殺してさらし者にする”。字の初出は甲骨文。語義の異なる複数の漢語が、前漢になって「肆」の字にまとめられた漢語であり、それゆえに多語義で字形の祖型も異なる。本章の場合、字形は〔月〕”にく”+〔爿〕”そなえものの台”+〔鼎〕”祭器”。祭壇に供え物を供える様。漢代の『周礼』『礼記』系統ではこのような漢語としての用例があるが、現行の「肆」に繋がる字形では全くない。生け贄を殺すことから祭の名に、そのさまから”殺しさらす”、生け贄を並べることから”並べる”・”つらねる”、並べることから”みせ”の意がある。詳細は論語語釈「肆」を参照。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”これ”。公伯寮を指す。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。
市(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”市場”→”まちの盛り場”。初出は甲骨文だが、語義は現在と異なる。”市場”系統の語義は、「待」(初出西周早期金文)の音を持つゆえの仮借。周になって原義系統の漢語は、「巿」に置き換わった。甲骨文に比定されている字形は、「夂」”あし”+「一」”地面”+「丨」水流+「水」で、足を止めざるを得ないにわか雨を示す。「沛」の原字。現行字形は戦国時代になって現れた略字。同音は「時」「塒」「恃」「侍」。甲骨文では”にわか雨”に、西周の金文では”いちば”または”売る”の意に用いた。詳細は論語語釈「市」を参照。
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”朝廷”→”政庁”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”みち”→”道理”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
將(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”今ここで~しようとする”。近い将来を言明する言葉。新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。春秋末期までに、”率いる”・”今にも~しようとする”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「将」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”通る”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。
字の初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では「か」と訓読して”~か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
也與(ヤヨ)
論語の本章では、断定「也」と疑問「與」がただ順に並んでいるだけで、熟語ではない。そもそも春秋時代の漢語は一語一義が原則で、熟語はほぼ存在しない。「也與」の一般的な説明は次の通り。『大漢和辞典』は「也哉」と同じとし、強い断定と解している。
『学研漢和大字典』「也与」条
- (ナルカナ)感嘆の語気を含んだ断定をあらわす助辞。「無為而治者、其舜也与=無為にして而治まる者は、其れ舜也与」〔論語・衛霊公〕
- (カ)…だろうか。疑問をあらわす助辞。「賜也可使従政也与=賜や政に従はしむべきなり」〔論語・雍也〕
「也與」は考古学上の出土物では、「上海博物館蔵戦国楚竹簡」子羔09にのみ見られ、これも熟語ではなく「なるか」と訓読して、論語の本章と同じく”~であるか”の意。
命(メイ)
「令」(甲骨文)
論語の本章では”天命”。初出は甲骨文。ただし「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。詳細は論語語釈「命」を参照。
論語の本章の場合、他の文字史から後世の偽作が確定するので「命」を”天命”と解してよいが、「命」と聞けば条件反射のように”天命”と解釈するのはどうかと思う。「天命」の書籍上の初出は『孟子』だが、該当箇所は『詩経』の引用であり、漢代に手を加えられ、あるいは偽作・竄入の可能性がある。論語の本章と同じ「億」の字を使うなど、本物と確信しがたい。地の文でも天命らしきものを担ぎ挙げてはいるが、楚系戦国文字が初出である「恥」を使うなど、訳者にはこれが孟子の肉声だと断じる手立てがない。
自分の言葉として「天命」を言い出したのは荀子で、その名もズバリ「天命篇」で取りあげるのだが、荀子の主張は天命をあてにするなと言い、天命を担ぎ回ったのではない。
つまり天命を担ぎ回ったのは前漢の儒者に始まり、具体的には天人感応説(災異説)を提唱した董仲舒による。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。
廢(ハイ)
(隷書)
論語の本章では”すたれる”。使われず、行われなくなること。新字体は「廃」。清家本の「癈」は独自の訓“身体障害”もあるが論語の本章では異体字。呉音は「ホ」。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「灋」(法)。字形は「广」”屋根”+「發」”弓を射る”で、「發」は音符。詳細は論語語釈「廃」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では「それ」と訓読して”なんでまあ”という反語的詠嘆。語そのものは「此」が直近の事物を指すのに対し、やや離れた事物を指す指示詞にもなるが、論語の本章の場合直前に指示すべき「公伯寮」があるので指示詞ではない。
字の初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”同等になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。西周の金文では「女」字で”ゆく”を表した。戦国の竹簡は同じく「女」字で”~のようである”を表した。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
如命何(さだめにしくはなんぞ)
論語の本章では”天命と肩を並べる理由は何か”。公伯寮ごときに、天命をひっくり返すような大きな力はありはしない、の意。
「いかん」と訓読する「如何」”どうしよう”の間に、目的語の「命」がはさまった形ではない。「如何」も「何如」”どうだろう”もともに「いかん」と訓読して区別しないのは、混乱の元だし、読めもしない漢文を読めると世間をたばかった、おじゃる公家の怠惰の猿まねに過ぎず間抜けだから、もうやめよう。
一般的に「いかん」と訓読する一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は春秋戦国の引用や再録が無く、事実上の初出は定州竹簡論語にやや先行する『史記』弟子伝になる。ただし現伝の『史記』も前漢前半にそっくり記されたままだと信用できる証拠は何一つない。結局論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にあることで、当時までには論語に含まれていたとわかるのみ。
また文字史上から春秋時代に遡れない語もあり、語法的にも論語の時代の漢語ではない箇所がある。従って論語の本章は、漢代の創作と見るべきなのだが、何故に創作されたかの理由が明瞭でない。
解説
語学的には後世の作が確定する論語の本章だが、伝記としては史実の可能性がある。身分制社会の春秋時代にあって、どこの馬の骨かもわからぬ子路が、筆頭家老家の執事を務めることに、眉をひそめた血統貴族が出て当然だからだ。
孔子の革命家たるゆえんは、そうした世の中で身分と関係なく技能によって、宰相をも務まることを自ら実践して見せたこと、さらに自分のみならず弟子たちに、貴族の技能教養を教授することで仕官=貴族への道を開いたことにある。刀や爆弾を振り回すだけが革命ではない。
もちろん孔子のそうした行動は、時代的要請でもあった。詳細は論語における「君子」を参照して頂きたいが、孔子の生きた春秋後半の世は、血統貴族だけではもう、政治や軍事を担えなくなっていた。そうでないと孔子存命中の曹国や陳国のように、隣国に攻め滅ぼされてしまう。
子路は筆頭家老・季孫家の執事として、『史記』の言う孔子政権が進めた門閥家老家の根城破壊に携わったのだろうが、城代の反乱に悩んでいた季孫家もこの政策には協力した。反乱した城代の一人が公山弗擾だが、論語陽貨篇5が伝えるように孔子はその反乱に手を貸そうとした形跡もある。
『史記』を信じるなら、この反乱の時孔子はまだ中堅の役人に過ぎないが、それを子路にどやされてやめたというのが陽貨篇の記事になる。片や門閥に手を貸して既得権益の保護に乗り出し、片や特権階級を打ち破る陰謀にも加わろうとする。
こういう矛盾をどう整理して考えれば良いか? 『史記』がうそデタラメを伝えたとすれば情報処理は簡単だが、『春秋左氏伝』によれば公山弗擾は人格高潔な憂国の士でもあり、事がそう簡単ではなかった事を思わせる。
『春秋左氏伝』もまた語学的に、『史記』なみには頼りにならない疑わしい書だが、情報が決定的に失われている中で、つじつまを合わせようとする努力そのものが馬鹿らしいのかも知れない。その状況で古典を読むとは、残された情報を読みに読み尽くすことでしかないと愚考する。
宋儒のように、中途半端に読んでデタラメを言いふらす事ではない。それを今なお有り難そうに疑いもしないのは、古典を読む者としてまじめであるとは訳者は思うことが出来ない。そして不真面目な人間と付き合うには、人生はあまりに短かすぎはしないだろうか。
クズとは付き合うな。それが唯一解であり得るのは、とうに死んだ人間も同じと思う。
余話
力を抜け
宋儒に限らず日中の儒者や漢学教授がデタラメを言いふらしてきた程度はさほど変わりがないし、同程度には論語や古い漢文を読めていない。その理由は簡単で、自分の利権のために古典を利用するからで、「孔子先生はこう言った」をまず決めてから読むのだから読める道理が無い。
古典解読も情報処理には違いないから数理を当てはめ得るのだが、ベクトルに別の力を加えれば合成力は必ず曲がる。同様に決めてかかって読めば解読がゆがむのは当たり前で、古典を読むにも武道と同じく「力を抜く」ことが必要になる。
訳者は居合をたしなむが、決して上手では無いし、抜いて「斬れた」と思えるのはせいぜい百回に一度しかない。それがひとえに余計な力が加わったからであること明白で、だが言葉で脱力の必要が分かっても、実践するのが果てしなく難しいことはあらゆる武道を稽古するたび思う。
ご覧あれ。本当に脱力できる達人は、いつ抜いたかすら見えないのだ。
事は武道に限らない。騎乗も同じだから、脱力の肝要を訳者は硬く信じている。あ、硬い!
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