論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
厩焚子退朝曰傷人乎不問馬
- 「厩」字:〔广⺊日匚殳〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
厩焚子退朝曰傷人乎不問馬
- 「厩」字:〔广白匕旡〕。
慶大蔵論語疏
廐1焚/子退朝/曰傷人〔爫丁〕2不問馬
- 「厩」の異体字。「大唐左監門衛副率哥舒季通葬馬銘」刻。
- 「乎」の異体字。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
厩焚。子退朝曰、「傷人乎。」不問馬。
復元白文(論語時代での表記)
傷
※論語の本章は、「傷」の字が論語の時代に存在しない。「乎」「問」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
厩焚けたり。子朝より退きて曰く、人を傷へる乎と。馬を問はず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が出勤中、うまやが火事になった。先生が朝廷から戻ってきて言った。「けが人はなかったか。」馬については問わなかった。
意訳
同上
従来訳
先生の馬屋が焼けた。朝廷からお帰りになった先生は人にけがはなかったか、と問われたきり、馬のことは問われなかった。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
馬廄燒了。孔子退朝回來,問:「傷人了嗎?」不問馬的情況。
馬小屋が焼けた。孔子は朝廷を下がって戻り、問うた。「人に怪我をさせたか?」馬の様子は問わなかった。
論語:語釈
厩*(キュウ)
(金文)
論語の本章では”うまや”。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。初出の字形は「厂」”屋根”+「食」+「犬」。粗末な小屋に犬を入れてエサを与えて飼うさま。のち「广」”棟のある屋根”+「食」+「攴」”打つ”。耐久性のある建物に家畜を入れて調教するさま。現行字形「厩」の異体字。中国や台湾では「廄」が正字として取り扱われている。春秋末期までの用例では、”めし茶碗”の意に用いたが、字形から論語の時代に”家畜小屋”の意はあったと判断できる。詳細は論語語釈「厩」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「廐」と記す。上掲「大唐左監門衛副率哥舒季通葬馬銘」刻。
論語の時代、大夫”家老格”以上の貴族階級の屋敷には、馬小屋があった。出かける時には車に乗るから、必需の設備だった。
焚*(フン)
(甲骨文)
論語の本章では”燃える”。火事になった、ということ。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「林」+「火」。複数の木材が燃えるさま。甲骨文から”焼く・焼ける”と解せるが、それ以外の可能性もある。春秋末期までの用例も同様で、明確に”焼く・焼ける”と解せるのは戦国文字から。詳細は論語語釈「焚」を参照。
論語関係で火事と言えば、哀公三年(BC492)に公宮で火事があり、かつて孔子と共に周の都・洛邑に留学した孟孫氏当主の弟・南宮敬叔が、火消しとして奮戦した記録が『春秋左氏伝』にある。この時孔子は60歳で国外に放浪中だったが、「きっと焼けたのは桓公・僖公の廟だろう」と言って千里眼を発揮したと記されている。
なお同年、かつて洛邑で孔子に音楽を教えたという周の大夫・萇弘が、政変に遭って殺されている。事実とすればものすごい長命である。
子(シ)
「子」
論語の本章では”孔子先生。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
退(タイ)
(甲骨文)
論語の本章は”…から帰る”。場の主が目上の場合に用いる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「夊」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”朝廷”。魯国の政庁を指す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
傷(ショウ)
(燕系戦国文字)
論語の本章では”きずつく”。身体的な傷害を被ることを言う。初出は燕系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は「商」「賞」「湯」「傷」とつくりを同じくする漢字群、「殤」”若死に・そこなう”、「觴」「禓」”道の祭・追儺”。字形は「昜」”木漏れ日”+「人」。字形の由来や原義は明瞭でない。戦国文字では、〔昜刂〕〔昜戈〕の字形も「傷」字に比定されている。部品「昜」の初出は甲骨文。詳細は論語語釈「傷」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、「か」と読んで疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔爫丁〕」と記す。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
なお論語の本章に限ると、「問」を「とひたまふ」と敬語に訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、元の漢語に敬語の要素は一切なく、おじゃる公家に始まる日本の漢文業界人の好き勝手が今なお続いているだけだから、従いたくなければ従わなくてよい。
馬(バ)
(甲骨文)
論語の本章では”うま”。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に欠き、文字史からも春秋時代に遡ることが出来ない。後漢から南北朝にかけて編まれた古注には入っているから、戦国時時代からそれまでの間に創作されたことになる。
論語と並んで定州漢墓竹簡に原形が含まれる『孔子家語』には、次の通りいう。
孔子為大司寇。國廄焚,子退朝,而之火所。鄉人有自為火來者,則拜之,士一,大夫再。子貢曰:「敢問何也?」孔子曰:「其來者,亦相弔之道也。吾為有司,故拜之。」
孔子が魯の司法長官になった。その時国有の馬小屋で火事があって、孔子が急ぎ閣議を退席し、火事場へ現場検証に駆けつけた。近隣住民の一人が正直に、「すみません、我が家の失火が、お上の馬屋に燃え移ってしまいました」と言うと、孔子はその者を、まず士族として一度、次に家老格としてもう一度拝んだ。
子貢「あのー、なんでそんなことを?」
孔子「火の元になってしまった人は、(自分の家も焼けてしまったのだから、)それもまた慰めるに値するからだ。それが人の道というもので、ワシは公職にある以上、道に従うのが当然なのだよ。」(『孔子家語』曲礼子貢問)
これとほぼ同じ話が前後の漢帝国で偽作された『小載礼記』にある。また燃えたのは国有の馬屋と書いてある。対して『孔子家語』とほぼ同時期の『塩鉄論』では、次のように言う。
魯廄焚,孔子罷朝,問人不問馬,賤畜而重人也。
魯で馬屋が焼け、孔子は朝廷をさがって、人を問うたが馬を問わなかった。家畜より人の方を尊いと思ったからである。(『塩鉄論』刑德)
こちらも孔子の屋敷が燃えたとは書いていない。よく考えれば、本章も孔子の屋敷とは書いていない。ともかく馬屋火事事件について、失火した人を慰めたのと、馬を問わなかったのと、前漢中期では二系統の伝承があるわけだ。
ゆえに『塩鉄論』と現伝論語の系統=孔子の馬を気にしない話も、家語の失火人をなぐさめ話も、定州竹簡論語に含まれていないのは、簡が欠損してしまったからだと推測できる。いずれにせよ論語の本章は、漢儒による創作と断じてよい。
解説
明代の笑い話集『笑府』では、論語の本章を遠慮無くからかっている。
一道學先生在官時。馬廄焚。童僕共救滅之。回報。道學問之曰傷人乎。對曰幸不傷。但馬尾燒𨚫了此。道學大怒。責治之。或請其罪。曰豈不聞孔子不問馬。如何輙以馬對。
ある儒者先生が出勤中、うまやが火事になった。屋敷の者が総出で消火し、何とか鎮火した。儒者先生が帰ってきて
先生「けが人はなかったか?」
弟子「幸いにも出ませんでした。でもご覧の通り、馬のしっぽが焼けてしまいました。」
先生「馬鹿者! 孔子先生が馬を問いたまわなかったのを知りながら、なんでしっぽのことまで言うんだ! 仁者になり損なったじゃないか!」(巻二 不問馬)
ここで”仁者”と訳したのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の提唱した「仁義」=”憐れみ深さ”を実践すると称する者のことで、明代の国教的解釈でもある。孔子が説いた「仁」はぜんぜん意味が違い、春秋の貴族常識の体現者を言う。詳細は論語における「仁」を参照。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
廐焚子退朝曰傷人乎不問馬註鄭𤣥曰重人賤畜也云子退朝者自魯之朝來歸也疏廏焚至問馬 云廏焚者廏養馬之處也焚燒也孔子早上朝朝竟而退還家也少儀云朝廷曰退也云曰傷人乎不問馬者從朝還退見廏遭火廐是養馬處而孔子不問傷馬唯問傷人乎是重人賤馬故云不問馬也王弼曰孔子時為魯司冠自公朝退而之火所不問馬者矯時重馬者也
本文「廐焚子退朝曰傷人乎不問馬」。
注釈。鄭玄「人を大切にして、家畜を下に見たのである。”子退朝”とは、魯の朝廷から下がって、という意味である。」
付け足し。馬小屋が焼けて馬を問う窮極である。「廏焚」とあり、廏とは馬を飼う場所である。焚とは焼けることである。孔子は早朝に朝廷へ出仕し、朝廷が引けてから家に帰ったのである。
礼記の少儀篇に言う。「朝廷から下がるのを退と言う。」
「曰傷人乎不問馬」とあり、朝廷から下がってきた所、馬小屋が焼けているのに出くわしたのである。廐とは馬を飼う所である。孔子は馬が傷ついたかは聞かず、ただ人に怪我が無かったかだけを問うた。これは人を尊んで、馬を低く見たのである。だから「不問馬」とあるのである。
王弼「この時孔子は魯の大法官であり、朝廷から下がって火事に赴き、馬を問わなかった。これは当時の者が馬を大事に扱いすぎるのをたしなめたのである。」
新注『論語集注』
非不愛馬,然恐傷人之意多,故未暇問。蓋貴人賤畜,理當如此。
馬を惜しまなかったのではない。しかし人の怪我があまりに心配で、だから馬のことを問う余裕が無かったのだ。人を尊び家畜を尊ばない道理は、まさにこの通りである。
余話
華であるわけがない
人間は火を使えるようになってサルから分化した。現代の都会生活では、火を起こすことの重大さが分からない。それは快適と引き換えにそうなったので、今さら火打ち石に戻るわけにはいかないが、それでも火の恐ろしさを忘れては、いつか命に関わるしっぺ返しを喰らう。
記録を残した春秋人は、邑=城郭都市に住んでいた。理由は蛮族や他族から身を守るためだが、代わりに疫病と火事の恐怖を背負うことになった。原野で出火したら逃げればよく、「燎原の火」(「遼」は誤り)はあり得るが、通常は燃えるに任せればそのうち消える。
星星之火,可以燎原。
星のような小さな火種も、野を焼き尽くすに足る。(『書経』盤庚上「若火之燎于原」→清・厳有禧『漱華随筆』「天下事皆起于微,成于慎。微之不慎,星火燎原。」)
“星火燎原”的话,正是时局发展的适当的描写。
「星火燎原」の例えは、まさに時世が変動するさまを例えるのに適切な描写である。(『毛主席語録』)
だが都市で燃えるのは住宅や倉庫の類で、燃えれば軽くて財産を失う。春秋の君子は自前で武装するだけの財産があるから、商工民も出陣の代わりに参政権があったが(論語における「君子」)、火事はその身分をも失わせる。身分を失って、誰もが開き直り得たとは思えない。
また火事は火災そのものの被害があるだけでなく、犯罪そのものとしての放火、それを手段とする盗みや扇動、野次馬の暴徒化、火災に乗じた火事場泥棒を伴うことが多い。従って行政側は消火と救助活動だけでなく、警備や捕縛・鎮圧といった警察活動も行わねばならない。
人類史上、都市に伴う疫病と火事は、同時に戦争の手段でもあった。西洋史には詳しくないが、東アジアでは遅くともモンゴル帝国の時代から、攻める都市に火炎弾のみならず、疫病の犠牲者のなきがらを回回砲(トレビシェット)で放り込み、籠城側を苦しめた。
同様の理由で春秋の邑の為政者は、疫病と共に火事に油断を許されなかった。
夏,五月,辛卯,司鐸火,火踰公宮,桓僖災,救火者皆曰顧府,南宮敬叔至,命周人出御書,俟於宮曰,庀女而不在死,子服景伯至,命宰人出禮書,以待命,命不共,有常刑,校人乘馬,巾車脂轄,百官官備,府庫慎守,官人肅給,濟濡帷幕,鬱攸從之,蒙茸公屋,自大廟始,外內以悛,助所不給,有不用命,則有常刑,無赦,公父文伯至,命校人駕乘車,季桓子至,御公立于象魏之外,命救火者,傷人則止,財可為也,命藏象魏,曰,舊章不可亡也,富父槐至,曰,無備而官辦者,猶拾瀋也,於是乎去表之稿,道還公宮,孔子在陳,聞火,曰,其桓僖乎。
(孔子亡命中の)哀公三年(BC492)夏五月かのとうの日。広報官の役所から出火して、国公宮殿に飛び火し、桓公と僖公の祭殿が焼けた。消火に当たる者は皆、「国庫を防げ!」と口々に言った。
まず南宮敬叔(孔子と同世代。孟孫家当主の弟)が駆けつけて命じた。「小納戸役集まれ! 宮廷日誌を運び出せ!」敬叔は公宮で消火の指揮に当たったが、日誌が持ち出されると小納戸役一同に、「そなたらに預ける。無くしたら首を刎ねるぞ」と言った。
子服景伯(家老格)も駆けつけた。「台所役集まれ! 礼法書を運び出せ! 出し終えたら待機せよ。従わぬ者は罰するぞ!」
奉行所の者は馬車で駆けつけ、消防車の軸には油を塗って突入に備え、その他の百官も庁舎に待機した。国庫の防備を固め、各棟の管理人は油断なく警戒し、大きな布を濡らし、火にかぶせて鎮め、屋根も濡れた布で覆った。この作業は祭祀区域の本殿から始め、そこから順番に外の棟へと続け、「手空きの者は急場に向かえ! 従わぬ者は一人残らず罰するぞ!」と怒号が聞こえた。
公父文伯(家老格?)も駆けつけた。奉行所の者に命じて馬車に馬を繋がせ(国公の脱出に備え)た。
執権の季桓子(論語の前章で孔子に薬を贈った季康子の父)も駆けつけた。国公を乗せた車を操って公宮前広場からさらに外に脱出し、消火に当たる者に命じた。「命の危険を感じたら逃げよ。宝物などまた作ればよい。ただし広場に掲げた国章は下ろして保管せよ。先祖伝来の国章だけは、焼けては取り返しが付かぬ」。
富父槐(家老格?)も駆けつけた。「それなりの用意もなしに人をやっても、焼け石に水だ」。そこで放り出してある焼けやすいワラの類を仕舞い、公宮の回りに火除地を作った。
孔子は陳で出火の報だけを伝え聞き、「焼けたのは桓公と僖公の祭殿だろうな」と言った。(『春秋左氏伝』哀公三年)
季桓子は孔子を魯国から追い出した張本人として、無慮2,500年も悪党呼ばわりされてきた人物だが、国宝より人命を重んじるなど、まともな人格だったことが分かる。屋根を濡れた布で覆うのは今でも有効だろうが、あるいは屋根が茅葺きだった可能性がある。
中国での瓦は殷やそれより古いものが発掘されている。従って春秋の魯国で宮殿が瓦葺きだったと想像していいのだが、殷滅亡時にいったん技術が失われたらしい。ともあれ古今東西変わりなく、都市住民にとって火事がいかに恐ろしいか、春秋の世も同様だったと分かる。
日本人にとっても同様で、「火事と喧嘩は江戸の華」と脳天気なことを言っていられるのは、所詮他人事だからだ。自分が当事者になってはそうもいかない。明暦の大火(振袖火事)は多くて10万の犠牲者が出たとされ、江戸市民の3人に1人ほどが命を落としたとされる。
従って幕府も防火消火には格段の注意を払ったし、町火消しの創設を命じた際、「これほど素早く町人が従った政令もない」と三田村鳶魚が記している。江戸には他に常備消防隊の定火消があり、さらに放火と凶悪犯罪を取り締まる特別警察として、火付盗賊改があった。
略して火盗改という。通常の警察業務に当たる町奉行の職員が、役方=文官だったのに対し、火盗改は番方=武官で、武威のほどは現在の警察と自衛隊の違いを想像すると分かりやすい。警察も強力だがいくら銃器を放とうと、軽迫撃砲ですら喰らえばまるごと消し飛ぶ。
あるいは憲兵やソ連のKGBと同じと言えば分かりやすいだろうか。戦後の日本で陸軍悪玉説が定着したのは、少なからず憲兵の横暴に原因がある。KGBはFSBと名を変えて現存するが、身分は軍人で憲兵(BK)に重ねて軍を監視した。ソ連人民に向けた蛮行は言うまでもない。
余談ながら訳者は警察・自衛隊双方の徒手格闘術の手合わせをしたことがあるが、警察のそれが制圧と逮捕を目的とし相手を傷付けないように心掛けるのに対して、自衛隊のそれは最も効率的に敵を無力化することにあって生死を問わない。術体系の根本思想がそもそも違う。
これは保安庁と海自のフネにも同じ事が言えて、巡視船は少ない燃料でできるだけ長く止まって救難に当たるのを目的とするから、主機は通常ディーゼル機関だが、護衛艦は加速が早くないとミサイルを喰らって沈んでしまう。ゆえにダッシュの利くジェットエンジンを積む。
ディーゼルは圧縮燃焼で廃油に近い油も燃料に出来るが、繊細なジェットエンジンは高度に精製された灯油の一種しか燃やせない。双方で用意している燃料が違うから、海自の廃艦を巡視船に転用できないのは道理で、批判のやり玉にも挙がったが、それは無理というものだ。
火盗改も町奉行とは違い、番方ゆえの武力は町奉行職員に嫌われるほど猛威を振るったが、裁判権を持たなかった。また上司も違った。幕府の職は将軍家の家政に従う若年寄支配と、公的な行政職である老中支配に分かれるが、火盗改は若年寄支配、町奉行は老中支配だった。
また常置の役職である町奉行と異なり、火盗改は結果として常設のようになったが、立て前は幕府常備軍である先手組の一時的な「任務」であり、空気の乾く冬には増員された。それゆえ奉行所のような専用の建物を持たず、長官である「頭」の屋敷が代わりを担った。
さらに町奉行は、老中・寺社奉行・勘定奉行と共に、控訴審を扱う評定所の一員だったが、火盗改はそうでない。こうしてみると火盗改は、非常事態に備える取り回しの利く機動部隊で、それゆえに出動に多数の役人の書き判(サイン)が要らない若年寄支配だったとわかる。
公務は複数人による評定(合議)が原則だったからだ。万機公論に決すべし。
幕府の官制もよく出来ている。維新の元勲に「バカにするんじゃないよ」と勝海舟は言った。なお明治以降の警察は消防を兼ねたが、GHQの指令で両者は分離され、消防は市町村が保有して消火や人命救助に専念することになった。敗戦の結果ではあるが、よい施策だったと思う。
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