論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
問人於他邦再拜而送之
校訂
東洋文庫蔵清家本
問人扵他邦再拜送之
慶大蔵論語疏
問人扵1他邽2再〔一丂王十〕3而送之
- 「於」の異体字。「唐王段墓誌銘」刻。
- 「邦」の異体字。「隋宮人司飭丁氏墓誌」刻。
- 「拜」の異体字。『碑別字新編』所収「仏説天公経」写字近似。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……它國a,再拜而254……
- 它國、今本作”他邦”。
標点文
問人於它國、再拜而送之。
復元白文(論語時代での表記)
送
※論語の本章は「送」が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
人を它國於問はば、再たび拜みて之を送る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
手土産を持たせて使者を送り出す際、二度拝んで見送った。
意訳
同上
従来訳
他邦におる知人に使者をやって訪問させる時には、再拝してその使者をおくられる。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
托人給外國的朋友送禮時,一定拜兩次送行。
人に託して外国の友人の元へ贈り物を送る際、必ず二度拝んで送り出した。
論語:語釈
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。「唐王段墓誌銘」刻、『新加九経字様』(唐)所収。
他(タ)→它(タ)
(前漢隷書)/「它」(金文)
論語の本章では”ほかの”。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。同音の「它」に”ほか”の意があり、甲骨文から存在する。「它」は「他」の原字と見なしてよく、甲骨文では”へび”のほか、地名・人名に用いられ、金文では”あの”・”ほか”を意味した。また「也」とともに「匜」”水差し”を意味した。隷書よりのち、”かれ”の意を独立させてにんべんをつけたと思われる。詳細は論語語釈「他」を参照。
定州竹簡論語は同音の「它」と記す。「他」の異体字。
邦(ホウ)→國(コク)
(甲骨文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「邽」と記す。「隋宮人司飭丁氏墓誌」刻。
「國」(金文)
定州竹簡論語は「國」と記す。同じ「くに」でも、「國」(国)は武装した都市国家を言う。初出は一説に甲骨文、確実な初出は西周早期の金文。ただし「或」と未分化。金文以降の字形は”城郭”+「戈」”カマ状のほこ”。武装した都市国家のさま。春秋末期までに、”くに”・”地域”の意に用いた。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
再(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”二度”。初出は甲骨文。字形は「二」+「介」”甲骨板”+「人」”裂け目”で、二度甲骨を焼いて占うさま。原義は”再度”。戦国の金文では数字の”に”と原義に用いた。戦国の竹簡では加えて、「在」”存在する”または”察する”の意に用いた。
甲骨文の出土例では、都合のよい裂け目が出来るようあらかじめ細工したもの、都合のよい結果が出るまで何度も占いを繰り返したものがあることが知られている。詳細は論語語釈「再」を参照。
拜(ハイ)
(金文)
論語の本章では”おがむ”。初出は西周早期の金文。字形は「木」+「手」。手を合わせて神木に祈るさま。西周中期の字形に、「木」+”かぶり物をかぶり目を見開いた人”があり、神官が神木に祈る様を示す。新字体は「拝」。春秋末期までに、”おがむ”・”うけたまわる”の意に用いた。”任じる”の用例は戦国時代から。詳細は論語語釈「拝」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔一丂王十〕」と記す。上掲『碑別字新編』所収「仏説天公経」写字近似。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
送*(ソウ)
(戦国金文)
論語の本章では”見送る”。論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は「彳」”道”+「貴」の古体+「廾」”両手”+「二」+「止」”足”。貴重品を遠路送り届けるさまだが、「朕」”我が”と釈文されている。同音は存在しない。戦国最末期の竹簡では、”送り届ける”・”行かせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「送」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれるが、先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。文字史からも、春秋時代には遡れない。本章は前章に続けて、前漢儒による創作と判断できる。
解説
論語の本章は、新注と現代中国では次回の「康子薬を」と一つの章にまとめるが、別の話に思えるので分割した。古注では独立した一章として解している。新注より一つ先行する北宋の『論語注疏』でも、独立して扱っている。
古注『論語集解義疏』
問人於他邦再拜而送之註孔安國曰拜送使者敬之也疏問人至送之 問者謂更相聘問也他邦謂鄰國之君也謂孔子與鄰國交遊而遣使徃彼聘問時也既敬彼君故遣使使者去則再拜送之也為人臣禮乃無外交而孔子聖人應聘東西無疑也
本文「問人於他邦再拜而送之」。
注釈。孔安国「拝んで使者を送り出したのは、使者を敬ったからである。」
付け足し。人との挨拶で相手に送ることの極みである。「問」というのは、他国の宰相が交代したときの挨拶のことである。「他邦」とは隣国の君主である。孔子が隣国の外交を担って、隣国の挨拶回りに使いを送ったときのことを言っている。隣国の君主を敬ったから、使いを送ったのである。使いが去ったら必ず拝んだのは、使いを送り出す作法である。人の臣下としての礼法は行われていたが、それなのに外交には作法が無かった。しかし孔子は聖人であり、必ずや東西の諸国に贈り物をしたことは疑いが無い。
邢昺『論語注疏』
問人於他邦,再拜而送之。孔曰:「拜送使者,敬也。」【疏】「問人於他邦,再拜而送之」。○正義曰:此記孔子遺人之禮也。問猶遺也,謂因問有物遺之也。問者,或自有事問人,或聞彼有事而問之,悉有物表其意,故《曲禮》云:「凡以弓劍苞苴簞笥問人者,操以受命,如使之容。」此孔子凡以物問遺人於他邦者,必再拜而送其使者,所以示敬也。
本文「問人於他邦,再拜而送之。」
孔安国「拝んで使者を送り出すのは、使者を敬ったからである。」
付け足し。「人を他国へ使いに送ったら、二度拝んで使者を見送った。」
正しい解釈は次の通り。本章は孔子が使者を送り出す時の作法を記している。問とは使わす、のような意味である。つまり挨拶のついでに、手土産を渡すのである。問とは、あるいは用事があって人と交信し、あるいは相手が用事があって交信してくることをいう。ただし必ず手土産を付けて伝えたい意志を示す。だから『礼記』の曲禮篇にいう。「弓やつるぎ、あるいはこもで包んだ手土産や、箱入りの手土産を持たせて人を訪れさせる。手土産を持たせて要件を使者に言い付ける。それこそ使者にふさわしい。」だから孔子は常に手土産を持たせて他国に使者を送った。それで相手への敬意を表したのである。
新注は「拜送使者,如親見之,敬也。」”使者を任命して送り出す際には、親しみのある視線で見やった。使者とその使命を敬ったからである”でおしまい。
孔子が子貢を使者に出して、東へ南へ北へかけずり回った子貢が、当時の国際関係をひっくり返す大活躍をした話が『史記』にある。その話はたまたま『史記』に焼き付けられたから残ったまでで、孔子一門が盛んに諸国へ工作者を放っていたことは、煙のように史料から消されている。しかしそれが訳者の妄想でないことは、孔子とすれ違うように生きた墨子が語っている(論語顔淵篇3「司馬牛仁を問う」解説)。
余話
必ず負ける元帥
論語の本章の偽作は疑いようがないが、それでも古代人の心象風景としてまことにあり得る。春秋時代、中原の都市を一歩外に出ればだだっ広い荒野で、言葉も通じない異族がうろついており、トラやオオカミもいればヒョウもいて、もっと危険なサイやゾウさえ闊歩していた。
春秋諸侯国は領域国家でなく、荒野に点在する都市の連合体にほかならない。詳細は論語郷党篇16余話「ネバーエンディング荒野」を参照。
ペニシリンも無いから、ささいな負傷がすぐ死につながった。平時の使者と言っても、送り出したら二度と帰って来ないおそれが十分あった。使者も心細かっただろう。そんな人間を元気づけ進ませるのは、自分より大いなるものに見守られている、という信念しか無かった。
神の存在を否定した孔子が、自分にそう言い聞かせたとは思えない(孔子はなぜ偉大なのか)。だが身長2mを超え武術の達人で、当時の誰より賢明だった孔子個人は、その大いなる者でありえた。そうでなければ、生死の危険を伴う放浪に、数多くの弟子が従った理由がない。
さらに孔子は現実政治家として、送り出す者に信念を与える必要は認めただろう。孔子は絵空事を語らなかった。その教説はほぼ、全てが現世利益のためである(論語における「礼」)。その孔子は自分を強者だと知っていた。ゆえに自分が見守る効果を知っていたはずである。
野を行く心細さは古代中国に限らない。ロシア革命後の内戦では、500万~900万と言われる死者が出た。アメリカ人にとって痛恨の南北戦争では多くて100万もの死者が出たが、それをはるかに上回る。赤白どちらで戦うにせよ、末端の兵士はまことに心細かったに違いない。
そうした赤軍騎兵と銃後の娘を歌う歌として、「ポーリュシュカ・ポーレ」は作られた。歌詞にはいくつかのバージョンがあるが、当初歌われた歌詞に、「Эх, да зорко смотрит Ворошилов」”ああ、まことによく見守っているウォロシーロフ”という一節がある*。
この歌詞はスターリン時代を反映して、集団農場なども歌い込まれている。戦後redばやりだった日本でも歌われたが、原詩とは全く関係の無い、消費者を愚弄した歌詞を付けたバージョンはぜんぜん流行らず、おおむね直訳に近い歌詞のものはそれなりに流行ったらしい。
ウォロシーロフとは当時の国防相でソ連邦元帥でもあったが、見守られて頼もしい人物かと言えばそうでもない。革命当初の赤軍総司令官だったトロツキーからは「マンガみたいな奴」と言われ、実際に党幹部ブハーリンの手でマンガに描かれてしまった。
フルシチョフは、「赤軍の肥溜め」とこき下ろしている。ウォロシーロフは軍人の教育を受けたわけでなく、トロツキーのような天賦の将才も無かった。拳銃一丁で敵陣に突撃する個人的勇気はあったが、およそ司令官としては最低で、戦えば必ず負ける元帥だった。
…Нужно сказать, что Ворошилов, тогдашний нарком, в этой роли был человеком малокомпетентным. Он так до конца и остался дилетантом в военных вопросах и никогда не знал их глубоко и серьёзно…
ジューコフ元帥「これはそう言うほかに無いのだが、何ともウォロシーロフは、国防相としては、その責務を果たすには無能だった。彼は最後まで軍事の素人のままであり、自分でその無知を悟ることもなかった。」(S.K.ミハイロビッチ『同時代の男たちの証言』”Глазами человека моего поколения”)wikipediaウォロシ-ロフ条露版より引用
ウォロシーロフがスターリンの粛清を免れたのは、その腰巾着だったからと言われる。元帥に昇ったのもそれゆえで、粛清が激しくなると海外に逃れていた旧知をおびき出し、のちのKGBとなる組織に売り渡すようなこともしたらしい。では忌むべき卑劣漢なのだろうか。
そうでもない。1939年、100万のソ連軍が、総兵力25万のフィンランドに攻め込んだ。名将マンネルヘイム元帥の指揮のもと、フィンランド国民はすさまじく抗戦した。その結果ソ連軍は大敗し、スターリンは激怒して、総司令官だったウォロシーロフを罵倒した。
だがウォロシーロフは言い返した。
「こんなことになったのもすべてあなたの責任ですぞ。あなたが赤軍の親衛隊**を絶滅してしまった。わが軍の最も優秀な将軍たちを殺してしまったからだ」と言うなり、スターリンの面前で、豚肉の乗った皿をテーブルに投げつけたという。(学研『ソヴィエト赤軍攻防史Ⅱ』)
この話の元データを訳者は知らない。だが事実とするなら、恐怖の独裁者スターリンに、ここまで直言した人物を他に知らない。のちに救国の英雄と讃えられたジューコフ元帥ですら、独ソ戦の緒戦で大敗してスターリンに罵倒された時、泣きながら退席したという。
レーニン未亡人のクルプスカヤが、粛清を始めたスターンに苦情を言った。
スターリン「お黙りなさい、コンスタンチノウナ(クルプスカヤの敬称)。でないと他の誰かを、レーニン夫人にしてしまいますぞ。」(ソ連小話より)
実際、スターリンによるクルプスカヤ毒殺説は根強い。
粛清などと言うおぞましい時代を生き延びるには、人は善良を保ってはいられない。『夜と霧』が記すように、善い人間から死なざるを得ない。ウォロシーロフはその意味で悪党に違いないが、それを言いだしたらソ連人民全てが悪党だったことになる。
フルシチョフが党大会でスターリン批判を始めた。議席から「じゃその時あんたは、どこで何をしていたんだ?」と声がした。
フルシチョフ「今発言した同志、立ち給え!」
議場はしんと静まりかえった。
フルシチョフ「つまり、当時の私も今の君と同じだ。」(ソ連小話より)
なおウォロシーロフ夫妻は子をもうけず、粛清の孤児を引き取って育てたという。
*смотрит:いわゆる原形смотреть。派生語にсмотрがあり、”閲兵式”の意。相撲取る?
**親衛隊:おそらく原語гвардия。英語のguardiansに当たる。帝政期までは皇帝の近衛隊を指したが、革命当時赤軍は赤衛軍Красная гвардияを名乗り、いわゆる白軍は白衛軍Белая гвардияと呼ばれた。ソ連邦成立以降は精鋭部隊の称号になった。1941年創設と言うから、引用部分がもし事実なら、そして訳者のバクチが当たりなら、創設はソ=フィン戦争よりあとだから、集合名詞として”ふるつわもの”と訳すのが正しい(『研究社露和辞典』による)。
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