(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
或問子產、子曰、「惠人也。」問子西。曰、「彼哉彼哉。」問管仲。曰、「○人也、奪伯氏騈邑三百、飯疏*食、沒齒無怨言。」
校訂
武内本
蔬、唐石経疏に作る。
定州竹簡論語
或問子產。子曰:「惠人也。」369……[也,奪伯氏]屏a邑三百,飯疎b食,沒齒無怨言。」370
- 屏、今本作”騈”。
- 疎、阮本作”疏”。皇本、高麗本作”蔬”。
→或問子產、子曰、「惠人也。」問子西。曰、「彼哉彼哉。」問管仲。曰、「○人也、奪伯氏屏邑三百、飯疎食、沒齒無怨言。」
復元白文(論語時代での表記)
屏
※管→官・屏→ㄊ(甲骨文)・沒→勿・怨→夗。論語の本章は屏の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
或ひと子產を問ふ。子曰く、惠みの人也。子西を問ふ。曰く、彼なる哉彼なる哉。管仲を問ふ。曰く、○人也。伯氏の騈邑三百を奪ふ。疎き食を飯ひ、齒を沒するまで怨み言無かりき。
論語:現代日本語訳
逐語訳
ある人が子産を問うた。先生が言った。「恵みの人だ。」子西を問うた。「彼はねえ、彼はねえ。」管仲を問うた。「○な人だ。伯氏の領地、騈邑の三百戸を取り上げ、粗食を食べ、寿命を終えるまで恨み言がなかった。」
意訳
ある人「鄭国の子産どのはどんな方でしたか?」
孔子「恵み深いお人だ。」
ある人「子西どのは?」
孔子「あの男か、あの男は、なあ。」
ある人「管仲どのはどうでしょう?」
孔子「○なお人だ。騈のまちに、伯氏が持っていた三百戸の領地を取り上げたが、その結果貧乏することになった伯氏は、死ぬまで文句を言わなかったと言うからな。」
従来訳
ある人が鄭の大夫子産の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「めぐみ深い人だ。」
楚の大夫子西の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「あの人か、あの人は。」
斉の大夫管仲の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「人物だね。あの人は大夫伯氏の罪をただして、その領地であった駢邑三百里を没収したが、当の伯氏は、その後やっとかゆをすするほどの困りかたであったにもかかわらず、死ぬまであの人に対して怨みごとをいわなかったというのだから、大したものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有人問子產怎樣,孔子說:「慈善的人。」問子西怎樣,說:「他呀!他呀!」問管仲怎樣,說:「是個人才。伯氏被他取消了封地,過了一輩子苦日子,直到老死也無怨言。」
ある人が子産がどうであったか問うた。孔子が言った。「恵み深い人だ。」子西がどうだったか問うた。言った。「彼か!彼か!」管仲がどうだったか問うた。「才能のある人だった。伯氏は彼に領地を取りあげられ、苦しい生活を送ったが、老いて死ぬまでも恨み言が無かった。」
論語:語釈
子產(子産)
(金文)
?-BC522。鄭国の家老で、宰相を務めた。弱体化し、北の晋・南の楚の板挟みとなった鄭国をよく治め、中国史上初の成文法を公開し、才人を集めて内閣を構成し、巧みに内政・外交を行って鄭国を守った。若き日の孔子は洛邑へ留学する途上、子産の知遇を得た。
子西
(金文)
論語時代の人物としては、二人が挙げられる。一人は上記鄭の子産のいとこであり、一時内閣の一員であった人物で、別名公孫夏。しかしこれといった記録が史料にない。
もう一人は南方の大国・楚の昭王の弟で、楚の宰相=令尹を務めた公子申。姓は芈、氏は熊、名は申、あざなは子西。?-BC479。孔子が昭王に招かれ、ほぼ仕官が内定していたのを、子西の反対によって取りやめとなった。訳者としてはこちらを取る。以下『史記』を引用。
楚昭王はすぐさま、書社の地七百里、一万七千五百戸の領民を孔子に与えて召し抱えようとした。そこで楚の宰相、子西が言った。
「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」
子西は言った。「そもそも楚の始まりは、周に諸侯たる認定を受け、爵位はせいぜい下から一、二番目の子爵か男爵、土地は五十里に過ぎませんでした。今孔子は、いにしえの聖王三皇五帝の定めた法を述べ立て、かつての周の名臣・周公旦と召公奭の業績を喧伝しています。
王がもし孔子を用いるなら、きっと昔に戻せと言い出して、楚の歴代堂々たる数千里四方の国土を保つことは出来なくなります。そもそも周の始まりにしても、開祖文王は豊の田舎町にいたに過ぎず、初代武王は鎬の田舎町にいたに過ぎません。たった百里の領主なのに、とうとう天下の王となりました。
今孔子に領地を与え、賢明な弟子たちがそれを助けるとなれば、楚の幸福にはなりません。」
それを聞いて、昭王は孔子の採用をあきらめた。(『史記』孔子世家)
子西に仕官を阻まれて楚を出る孔子。真ん中の笏を持った人物が子西と思われる。
彼哉彼哉(ヒサイヒサイ)
(金文)
”あの男はなあ。あの男はなあ”。孔子はよほど悔しそうに言わされている。武内本に「馬融云、彼哉彼哉とは称するに足るなき也」とある。
管仲
(金文)
?-BC645。孔子の生まれる約一世紀前に死去した斉の名宰相。
○人也
○の部分は古来欠字で、補いようがない。もともと「人也」だったのだとして、儒者がいろいろ苦しい訳をこしらえているが、無理なものは無理。
武内本には「(中井)履軒云、人上一字を脱す、按ずるに説苑善説篇に孔子子路の間に答えて管仲を大人也と評すれば恐らく人上大の字を脱するなるべし」とある。その『説苑』の内容は以下の通り。
子路問於孔子曰:「管仲何如人也?」子曰:「大人也。」子路曰:「昔者管子說襄公,襄公不說,是不辯也;欲立公子糾而不能,是無能也;家殘於齊而無憂色,是不慈也;桎梏而居檻車中無慚色,是無愧也;事所射之君,是不貞也;召忽死之,管仲不死,是無仁也。夫子何以大之?」子曰:「管仲說襄公,襄公不說,管仲非不辯也,襄公不知說也;欲立公子糾而不能,非無能也,不遇時也;家殘於齊而無憂色,非不慈也,知命也;桎梏居檻車而無慚色,非無愧也,自裁也;事所射之君,非不貞也,知權也;召忽死之,管仲不死,非無仁也。召忽者,人臣之材也,不死則三軍之虜也;死之則名聞天下,夫何為不死哉?管仲者,天子之佐,諸侯之相也,死之則不免為溝中之瘠;不死則功復用於天下,夫何為死之哉?由!汝不知也。」(『説苑』善説篇)
子路孔子於問いて曰く、「管仲何如なる人也」と。子曰く、「大人也」と。子路曰く、「昔者管子襄公に說きて、襄公說ば不、是れ辯なら不る也。公子糾を立てんと欲し而能わ不、是れ能無き也。家齊於殘し而憂う色無し、是れ慈しま不る也。桎梏し而檻車の中に居り慚じる色無し、是れ愧無き也。射る所之君に事う、是れ貞しから不る也。召忽之に死して、管仲死せ不、是れ仁無き也。夫子何ぞ以て之を大とすか」と。子曰く、「管仲襄公を說きて襄公說ば不るは、管仲辯なら不るに非る也、襄公の說ぶを知ら不る也。公子糾を立てんと欲し而能わ不るは、能無きに非る也、時に遇わ不る也。家齊於殘し而憂う色無きは、慈しま不るに非る也、命を知れば也。桎梏し而檻車の中に居り慚じる色無きは、愧無きに非る也、自ら裁けば也。射る所之君に事うるは、貞しからるに非る也、權を知れば也。召忽之に死して、管仲死せ不るは、仁無きに非る也。召忽者、人臣之材也、死せ不らば則ち三軍之虜也。之に死さば則り名は天下に聞ゆ、夫れ何ぞ不死を為さん哉。管仲者、天子之佐、諸侯之相也、之に死さば則ち溝中之瘠もの為るを免れ不、死せ不らば則ち功復た天下於用う、夫れ何ぞ之に死し為る哉。由や汝知ら不る也」と。
子路「管仲ってどんな人ですか。」
孔子「大したお方だ。」
子路「でもはじめは襄公に献策したのに、襄公は喜びませんでした。口下手ですよね。公子糾を殿様にしようとして失敗しましたよね、無能ですよね。家族を斉に残したまま逃亡しましたよね、愛が無いですよね。捕まって檻に入れられたのに平気な顔をしてましたよね、恥知らずですよね。自分が射た桓公に仕えましたよね、節操がないですよね。召忽は節を立てて死んだのに死にませんでしたよね、憐れみの心がないですよね。なのになんで大したお方なんですか。」
孔子「あのな、策が喜ばれなかったのは、襄公がバカ殿だったからだ。公子糾の擁立にしくじったのは。時の運がなかったからだ。家族を残して知らん顔でいたのは、天の定めに従ったからだ。捕まって平気な顔でいたのは、自分で裁いたからだ。自分が射た桓公に仕えたのは、権力の大事さを知っていたからだ。節を立てて死ななかったのも、情け知らずだからではないぞ。召忽はどこにでもいる家臣の器量で、死ななければただの捕虜で終わる。しかし死ねば名が天下に轟く。なんで死なずにいられよう。だが管仲は天子の大臣、殿様の宰相が務まる器量。死んでしまえばただの行き倒れに過ぎないが、生きていればこそ天下に功績が立てられる。なんで死ぬものか。子路よ、お前はものを知らないだけだぞ。」
文中「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
伯氏
(金文)
管仲と同時代の斉の家老とされるが、詳しいことは分からない。
騈邑(ベンユウ)三百
「邑」(金文)
騈は斉領内のまち。三百は「三百戸」とする説と、「三百里」とする説がある。まちに附属する耕地三百里でも文意は通るが、まちに何かを私有していたとすると、三百戸分の徴税権とした方がいいように思う。その上このような詮索は意味がない。おおざっぱに「領地」でいい。
「騈」の字は論語では本章のみに登場。初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「騈」を参照。定州竹簡論語の「屏」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「屏」を参照。
疏食(ソショク・ソシ)
(金文)
論語の本章では、”疏(あら)い食(事)”。「蔬菜」というように、肉を食べられなくなったとする説と、粗末な穀物という説があるが、どちらでもいい。ただ定州竹簡論語の校訂によれば、”疎らな食事”→粗食ということになる。
齒(歯)
(金文)
論語の本章では”年齢”。論語では本章のみに登場。原義は”歯”。初出は甲骨文。
古代中国、とりわけ周王朝は遊牧民の風味が強く、家畜の年齢を歯を見て判断することから、歯=年齢・寿命を意味するようになった。詳細は論語語釈「歯」を参照。
怨
論語の本章では”うらみの”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の夗を用いて夗心と二文字で書かれた可能性がある。詳細は論語語釈「怨」を参照。
論語:付記
論語を読む限り、孔子は辛口の人物評論家で、めったに人をべた褒めしないが、本章の子産はその珍しい一例。孔子は子産に「兄弟のように遇された」といわれるが、一世代上の人物であり、名宰相として名高い人に34歳の青年孔子は感動し、生涯の思い出にしたのだろう。
子西については評論すらしていないが、これは下記論語憲問篇36を読んだ上で儒者がこしらえた作文で、「怨みには怨みで報い」させているのは、古代人らしい。
孔子「恵んでやる必要などない。やられたらやり返す。貰ったらお返しすればいい。」
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