論語:原文・書き下し
原文
子曰、「爲命、裨*諶草創之、世叔討論之、行人子羽修飾之*、東里子產潤色之。」
校訂
武内本
唐石経、卑を裨に作り修飾の下之の字あり。裨諶左伝に見ゆ、風俗通卑諶に作り、漢書卑湛に作る。並同音仮借。
定州竹簡論語
……東里子[產閏a色]之。」368
- 閏、今本作”潤”。
→子曰、「爲命、卑諶草創之、世叔討論之、行人子羽修飾、東里子產閏色之。」
復元白文(論語時代での表記)
討 飾 閏
※論→侖・修→攸。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は前漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、命を爲るに、卑諶之を草創し、世叔之を討論し、行人子羽修飾し、東里の子產之を閏色せり。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「命令を作るに当たって、裨諶が原案を書き、世叔がそれを検討し、外交官の子羽がそれの言葉を飾り、東里の子産がそれに付け足しした。」
意訳
鄭国では外交文書を書くに当たって、裨諶どのが原案を書き、世叔どのが適切かどうか検討し、外交官の子羽どのが外交上聞こえのよいように表現を書き直し、最後に東里にお住まいの子産どのが、文の色つやを補って使者に渡した。衛国がよく保ったのも、こうしたご家老どのの仕事の成果だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「鄭の国では、外交文書を作製するには、裨諶が草稿をつくり、世叔がその内容を検討し、外交官の子羽がその文章に筆を入れ、更に東里の子産がそれに最後の磨きをかけている。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「鄭國的法令,都是由裨諶起草的,世叔審閱的,子羽修飾的,子產潤色的。」
孔子が言った。「鄭国の法令は、全て裨諶が起草し、世叔が検討し、子羽が言葉を修飾し、子産が言葉に含みを持たせた。」
論語:語釈
裨諶(ヒジン)→卑諶
論語時代より少し前の、鄭の家老。史書では『春秋左氏伝』襄公二十九年(BC544)に初めて名が見える。
当時、鄭国と楚国は仲が悪くなっており、代々使者を務めた家柄の家老が、殺されるかも知れないと言って行くのを嫌がった。執政格の家老が行けと強要すると、私兵を引き連れて殺そうとした。慌てた家老たちが総出で押さえ、ひとまず仲直りの誓いを交わさせることになったが、「この誓いは、一体いつまで続くやら」と言ったという。
次いで三十一年(BC542)、後述する子産が鄭の政治を担っていたが、補佐する人材の一人として裨諶を指名した。後述の世叔や子羽もその一人で、世叔は美男な上に故事に詳しく、子羽は諸国の政令をよく知っており、諸国政界の人脈関係にも通じており、文才もあった。
このうち裨諶は計画を立てるのがうまかったが、どういうわけか都城の郊外で立案すると策が当たったが、都城内で立てると失敗した。そこで子産は外交上の政策立案には、裨諶を連れてわざわざ郊外に行き、計画を立てさせたとある。
「裨」は論語では本章のみに登場。”たすける”の意。初出は西周中期の金文。詳細は論語語釈「裨」を参照。定州竹簡論語の「卑」の初出は西周中期の金文。「裨に通ず」と大漢和辞典に言う。詳細は論語語釈「卑」を参照。
「諶」は論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。”まこと”の意。詳細は論語語釈「諶」を参照。
草創
©中津賢也
論語の本章では”原案を作ること”。
「草」に”ざっとした下書き”の語義がある。詳細は論語語釈「草」を参照。
「創」は論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると形声文字。「刀+(音符)倉」で、倉という原義とは関係がない。刃物で切れめをつけること。素材に切れめを入れるのは、工作の最初の段階であることからはじめるの意に転じても使われた、という。詳細は論語語釈「創」を参照。
世叔
(金文)
論語の時代より少し前の、鄭の家老。別名・游吉、子大叔とも言う。鄭の定公八年(BC522)、子産に代わって鄭の宰相格になった。鄭の献公八年(BC506)に世を去った。若い頃から儀礼に優れていると評価され、子産を補助して諸国への使いに出た。
討論
「討論」は現代語と異なり、論語の本章では”一人で検討する”こと。『学研漢和大字典』によると、”政令・記録や昔の書物などを奥深く調べる”こと。
「討」の初出は秦代の篆書。論語の時代に存在しない。同音多数。音トウ訓しらべる、訓もとめるで、別字は『大漢和辞典』に存在しない。音トウ訓たずねるは「温」があるが、カールグレン上古音はʔwən(平)で音通しない。詳細は論語語釈「討」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
行人子羽
「子羽」(金文)
論語時代より少し前の、鄭の家老。別名・公孫揮。子産を補助して外交官として活動した。「行人」とは外交官を意味する。「行」について詳細は論語語釈「行」を参照。『大漢和辞典』は次のように言う。
「子」は貴族に付ける敬称。「子○」であざ名を形成する。
「羽」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると象形文字。二枚のはねを並べたもので、鳥のからだにおおいかぶさるはね、という。詳細は論語語釈「羽」を参照。
修飾
論語の本章では現代語と同じく、”言葉を飾る”こと。
「飾」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「飾」を参照。
東里子產(東里子産)
論語時代より少し前の、鄭国の宰相格で春秋政界の大物。?-BC522。諸国に先駆けて法を公開し、条文を鋳込んだ法鼎を作った。鄭国は春秋時代初期には小覇と呼ばれる安定した時代を経たが、論語時代では北方の晋と南方の楚の板挟みになり、弱体化していた。
子産は魯の襄公三十年(BC543)に鄭の宰相格となり、中国史上初の成文法の公開や巧みな外交政策によって、よく鄭国の独立を守った。BC518、34歳の孔子が洛邑への留学に出た際には子産の知遇を受け、論語憲問篇や公冶長篇には、孔子の子産に対する賛辞が記されている。
潤色→閏色
論語の本章では”言葉に色つやを付ける”こと。現代語では修飾とほぼ同じ意味に使われる。
「潤」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「潤」を参照。
専業外交官の子羽が、外交上言いがかりなど付けられないように検討して言葉を飾った後で、総仕上げとして子産が名文に仕立てた、と言いたいのだろう。
「閏」の原義は”余計な月”・”正当でない位”。”うるおす”の語釈は語釈は『大漢和辞典』にもないから、「潤」の出現後失ったと思われる。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。『大漢和辞典』でほかに”うるう”を意味する漢字は存在しない。呉音は「ニン」。詳細は論語語釈「閏」を参照。
論語:付記
論語の本章は、偽作した漢帝国の儒者官僚にとって無関係に見えてそうでない。行政手続きを煩雑化することが、彼らに職を与えることになったし、細かな権限の分割は、それぞれの役人に収賄の機会を与える。例によって本章も、俺たちにいい思いをさせろ、と言っている。
中国人の信じがたく度しがたい福禄寿第一主義と、その結果世界中にまき散らされた不幸と悲惨を思うと、こうした中国役人の悪辣はどれだけ強調してもし過ぎることは無い。だからと言って中国人を劣等に見ろと訳者は言わない。恐れ、よく知ることが必要であると言いたい。
それは次に記す、子産について孟子が伝えた伝説にも現れている。
むかし鄭の子産に生きた魚を贈った人がいて、子産は池の番人に渡して飼うよう命じた。ところが番人が勝手に煮て食ってしまい、子産にはこう言った。「あの魚、はじめは弱っておりましたが、池に放つと元気になりまして、余裕たっぷりに逃げてしまいました。」
子産「なるほどなあ。居るべき場所に帰ったんだな。」
番人は子産の前を引き下がって言った。「旦那様はタワケじゃな。もう食っちまったのに。”居るべき場所”とか言って感心してなさる。一体どこが賢者なのかね?」
つまりだ、立派な教養人でもこうやって欺されることはある。だがその性根を悪に染めることは出来ない。好意を持って近づいてくる人には、こちらも誠意で向き合うべきだ。どうして疑う必要があろう。(『孟子』万章上2)
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