論語:原文・書き下し
原文
子曰、「君子而不仁者有矣夫。未有小人而仁者也。」
校訂
定州竹簡論語
……小人而仁者366……
復元白文(論語時代での表記)
※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「也」「有」「未」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、君子に而て仁ならざる者有り矣夫。未だ小人に而て仁なる者あらざる也/也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「貴族にも、貴族らしい振る舞いが身に付いていない者はきっといるだろうな。だが平民で貴族らしさを身につけている者は、今までいたことがないねえ。」
意訳
新弟子諸君! 諸君たちが見てきたように、お偉方にも、ちっとも貴族らしくないお人はいる。だがだからこそ、今は庶民の諸君たちも、勉強と稽古次第で貴族らしさを身につけ、私のような本物の貴族になれるのだぞ!
従来訳
先師がいわれた。――
「道に志す君子にも不仁なものがないとはいえない。しかし道を求めない小人はすべて不仁だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子中有不仁慈的人,而小人中卻沒有仁慈的人。」
孔子が言った。「君子の中には憐れみを持たない人がいて、小人の中には憐れみのある人は全くいない。」
論語:語釈
君子・小人
論語で「君子」が単独で使われると、”諸君”という呼びかけに解する場合がある。しかし「小人」とセットになった場合は、以下の対比のいずれか。
- 貴族←→平民
- 教養人←→無教養人
- 高潔な人←→凡人
1.は孔子生前の意味で、論語の本章は史実だから、この意味となる。2.と3.は孔子より一世紀のちの孟子が、自分の商材として儒教を売りに出したときの意味で、論語でも後世の創作の章ならその可能性が高い。詳細は論語における君子を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であり、かつ”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
有矣夫
論語の本章では”存在してしまうなあ”。「有」は「君子而不仁者」を主語とする述語動詞で、”そういう者が自ずから存在する”の意。貴族のくせに貴族らしくない奴がいる、そしてそれは他ならぬ当人のせいだ、という意味合いを含む表現。
「矣」は断定・完了を意味する言葉。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにいない”。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
未有小人而仁者也。
論語の本章では、”庶民に貴族らしい人はまだいないね”。
発言の前半が、”貴族のくせに、らしくない奴がいる”というこれまでの経緯を述べているのに対し、後半のこの部分は、”庶民で貴族らしい人はまだ居ないな”という、今後のありようについて含みを持たせた発言になっている。
孔子塾生は九分九厘が庶民の出で、孔子塾で貴族らしい教養や技能を身につけて、仕官し、貴族になっていった。それを踏まえると、”ちゃんと稽古や勉強しないと貴族になれないぞ”という説諭であり、”稽古と勉強さえすれば、今は小人の君も君子になれるのだぞ、ワシみたいに”という励ましでもある。
論語:付記
論語の「君子・小人」という言葉は「仁」同様、広く誤訳された言葉の一つで、孔子生前ではあくまで、貴族と庶民を意味しているに過ぎない。だから孔子は君子と小人を区別はしても、差別はしなかった。していたら孔子塾に、三千人とも言われる小人が押し寄せるわけがない。
それが変化したのは、孔子の晩年になって戦のありようが変わり、貴族の操る戦車戦から、徴兵された庶民が弩(クロスボウ)を持たされ戦う歩兵戦へと移り変わったからだ。庶民もまた国防を担うとなれば、貴族は特権を社会に説明できなくなり、「君子」の存在意義が疑われた。
そこで孔子から一世紀後の孟子が、”教養ある人格者”という新しい意味を「君子」に与え、その新君子にふさわしいありようとして、孔子の「仁」を作り替えた「仁義」、すなわち情けや憐れみを提唱した。これが君子たちの不安によく答えたので、孟子はそこそこ儲かった。
だから孟子は新「君子」を語るのが精一杯で、「小人」をバカにはしていない。そして孟子が君子と小人を対比させた言葉は、以下のわずか5例に限られる。しかもそのうち2例は引用だ。
滕定公薨。…孟子曰:「…上有好者,下必有甚焉者矣。『君子之德,風也;小人之德,草也。草尚之風必偃。』是在世子。」
滕国の定公が世を去った。…孟子が言った。「…上の者の好みは、下の者が真似をして程度が激しくなる。孔子先生も仰った、”君子の道徳は風で、小人の道徳は草である。風が吹けば草はなびく(論語顔淵篇19)”と。お世継ぎもそう心得られよ。」(『孟子』滕文公上2)
孟子曰:「…其君子實玄黃于匪以迎其君子,其小人簞食壺漿以迎其小人,救民於水火之中,取其殘而已矣。」
孟子が言った。「(周の武王が東征の軍を起こすと)各地の君子は、各種の布を竹かごに入れて、東征軍の君子に差し出し、小人は粗末ながら食事を作って、東征軍の小人に差し出したのは、東征軍が民を水に溺れ火に焼かれるような苦しみから救い、悪の張本人である紂王を討伐しようとしたからだ。」(『孟子』滕文公下10)
「故曰,為高必因丘陵,為下必因川澤。為政不因先王之道,可謂智乎?是以惟仁者宜在高位。不仁而在高位,是播其惡於眾也。上無道揆也。下無法守也,朝不信道,工不信度,君子犯義,小人犯刑,國之所存者幸也。
(孟子)「だから言うのだ。丘は高いに決まっているし、川は低いに決まっている。先王の道に従った政治でないと、智とは言えないのだ。だから仁者だけが高位に上るべきで、不仁者が上ってはならない。上ったらみんなの迷惑だ。上の者は無軌道に暴政をやらかし、下の者は法を守らなくなる。政府は原則を顧みず、職人は物差しを疑い、君子は正義を踏み外し、小人は犯罪をしでかす。これで国が滅びなかったら、奇跡というものだ。」(『孟子』離婁上1)
孟子曰:「君子之澤五世而斬,小人之澤五世而斬。予未得為孔子徒也,予私淑諸人也。」
孟子「君子が後世に残す影響はせいぜい五世代、150年まで、小人も同じ。だから私は、一世紀前にみまかった孔子先生のお弟子とはまだ言いがたいが、孔門の偉い先生方を個人的に尊敬している。」(『孟子』離婁下50)
曰:「以皮冠。庶人以旃,士以旂,大夫以旌。以大夫之招招虞人,虞人死不敢往。以士之招招庶人,庶人豈敢往哉。況乎以不賢人之招招賢人乎?欲見賢人而不以其道,猶欲其入而閉之門也。夫義,路也;禮,門也。惟君子能由是路,出入是門也。《詩》云:『周道如砥,其直如矢;君子所履,小人所視。』」
孟子「(人の招き方には決まりがある。)皮の帽子をかぶって、庶民を招くなら赤旗を振り、士族を招くなら上下の龍を描いた赤旗を振り、家老階級を招くなら羽毛を吊した旗を振る。その規定を破って羽毛を振り回しても、下役人は死んでも来ようとしない。士族を招く旗を振っても、庶民がやって来るわけが無い。だから馬鹿者を招くやり方で、賢者がノコノコ来ると思うか? 賢者にふさわしい招き方をしないのは、閉ざされた門から入ろうとするのと同じだ。そもそも正義とは、原則のあるものだ。礼法とは、通るべき門のことだ。君子だけがその門を通って出入りする。詩に言うだろう、”周の政道は砥石のようだ、その真っ直ぐなさまは矢のようだ、君子が従い、小人は見つめる”と。」(『孟子』万章下16)
いずれも小人蔑視には至っていないことが、おわかり頂けると思う。
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