(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子貢方*人。子曰、「賜也、賢乎哉*。夫我則不暇。」
校訂
武内本
哉の字を我に作る。釋文云、鄭本方を謗に作る。我、唐石経哉に作る。此本(=清家本)恐らくは誤。
定州竹簡論語
……哉?夫我則不396……
→子貢方人。子曰、「賜也、賢乎哉。夫我則不暇。」
復元白文(論語時代での表記)
暇
※貢→江。論語の本章は「我」を主格で用いている。「乎」「方」「則」の用法に疑問がある。「暇」の字が論語の時代に存在しない。初出は後漢の説文解字だが、定州竹簡論語にあるので、本章は前漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子貢人を方ぶ。子曰く、賜也賢なる乎哉。夫れ我は則ち暇あらず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が人を並べて比較した。先生が言った。「実に賢いなあ、賜は。それについて私には全く時間が無い。」
意訳
子貢が人物批評をしている。
孔子「あ~あ。子貢よ、お前は偉いんだな。私にはそんな余裕は無いぞ。」
従来訳
子貢がある時、しきりに人物の品定めをやっていた。すると先師はいわれた。――
「賜はもうすいぶん賢い男になったらしい。私にはまだ他人の批評などやっているひまはないのだが。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢誹謗別人,孔子說:「子貢啊,你就那麽好嗎?我可沒這個閒工夫。」
子貢が他人の悪口を言った。孔子が言った。「子貢よ、お前は一体何さまだ? 私にはそんな下らないことをしている余裕は無いね。」
論語:語釈
方
(甲骨文)
論語の本章では、”比べる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は諸説あって明らかにしがたい。ただし甲骨文の時代から、”方角(の国)”・”四角”・”面積”の意がある。詳細は論語語釈「方」を参照。
一方で古注『論語集解義疏』では「人を比べ方ぶる」と言い、新注『論語集注』では「方は比ぶる也」と言う(→論語憲問篇31注釈)。
賜(シ)
(金文)
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きに用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
賢
論語の本章では”えらい”。単に”頭がいい”のではなく、人格的迫力や技能を含めて”偉い・すごい”を意味する。詳細は論語語釈「賢」を参照。
乎哉(コサイ)
「乎」(甲骨文)
「乎」と「哉」、どちらも詠嘆のことばだが、二文字合わせて強い詠嘆を表す。「乎」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」・論語語釈「哉」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
暇(カ)
(篆書)
論語の本章では”ひま・余裕”。論語では本章のみに登場。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「日」+「叚」(仮の古字)で、”一時的な時間”、つまり”ひま”。同音に夏・蝦・霞・下など多数。「清華大学蔵戦国竹簡」に「茲(使)民砓(暇)自相」とあり、「砓」(『大漢和辞典』”石山のさま”)が「暇」と釈文されている。「たみをしていとまもてみづからたすけしむ」と読むのだろう。これが戦国時代のどの時期の文書かは明らかでない。
「砓」甲骨文
「砓」の初出は甲骨文と「漢語多功能字庫」はいうが、字形は「乍」”死神が持っているような大ガマ”+”太鼓のバチのような道具”+「又」”手”で、どう考えても”ひま”の意ではない。
いずれの辞書も、形容詞・名詞として扱っているが、本章のように「暇」の否定辞には「不」が使われて「いとまあらず」と動詞を足して読まれ、漢文での品詞の分類は、欧米語と同様に考えてはならない一例。詳細は論語語釈「暇」を参照。
論語:付記
論語に記された子貢の叱られ話、おとしめ話は、大概が後世の贋作だが、本章もその一つ。論語では、「方」=人を比較して評論する、は子貢をタネに孔子もやっているが、その公冶長篇の章も、文法的に論語の時代にあり得ない書き方をしており、贋作とわかる。


孔子「子貢や。お前と顔回はどっちが出来るかね?」
子貢「そりゃ顔回ですよ。彼は話のタネを一つ聞けば十を想像できます。私は二がせいぜいです。」
孔子「そうそうその通り。私もお前も、顔回の仁には及ばんなあ。」(論語航也著編8)
こちらは子貢おとしめキャンペーンと言うより、顔淵神格化キャンペーンの一環で、やらかしたのはほぼ確実に前漢武帝期の董仲舒である。対して本章は誰の手に依るとも言いがたいが、上記のように「暇」の字と定州竹簡論語から、前漢時代の儒者の誰かによる。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
なお「暇」の字は、論語では本章のみに見られるが、孔子より一世紀後の『孟子』には数カ所に見られ、『孟子』もまた漢儒の魔の手からは逃れられていない。
梁惠王曰:「晉國,天下莫強焉,叟之所知也。及寡人之身,東敗於齊,長子死焉;西喪地於秦七百里;南辱於楚。寡人恥之,願比死者一洒之,如之何則可?」
孟子對曰:「地方百里而可以王。王如施仁政於民,省刑罰,薄稅斂,深耕易耨。壯者以暇日修其孝悌忠信,入以事其父兄,出以事其長上,可使制梃以撻秦楚之堅甲利兵矣。彼奪其民時,使不得耕耨以養其父母,父母凍餓,兄弟妻子離散。彼陷溺其民,王往而征之,夫誰與王敵?故曰:『仁者無敵。』王請勿疑!」
梁恵王「先生もご存じの通り、我が魏を含む晋国は天下の最強国でした。所が余の時代になって、東では斉と戦って敗れ、長男を失いました。西では秦と戦って敗れ、七百里の土地を取られました。南でも楚にバカにされています。とても頭に来ておりますし、死者の恨みも晴らしたい。どうすればいいですか。」
孟子「百里四方の領地があれば王を名乗れます。王殿下がもし領民をいたわり、刑罰と税を緩めたら、みんな一生懸命農作に励みます。成人男性が暇を見つけては儒教のお説教を勉強し、家では年長者によく奉仕し、外では目上によく従うようになれば、棍棒を持たせただけで秦や楚の強兵を打ち任せられましょう。
秦や楚のような野蛮人は、民をいじめますから、民は父母を養えず、父母は飢える兄弟妻子は離散する、目も当てられない暴政です。そうやってひどいことになっている国に、王殿下が進撃すれば、誰が殿下を迎え撃ちましょう。だから”仁者は無敵だ”と申すのです。ウソではありませんぞ。」(『孟子』梁恵王上5)
もちろんこれは孟子、いや後世の儒者のウソッパチで、『孟子』の冒頭である梁恵王篇は、梁の国王ともあろう者が、放浪の素浪人である孟子から、這いつくばうように教えを受けている、というお芝居だ。まるで孟子は、巨神兵でも手下に従える超絶人物であるかのようだ。
論語だけで手一杯の訳者には、今は孟子まで面倒見切れないが、「論語や孟子にこう書いてあった」というのを元に人様に説教するのが、いかにバカバカしいかおわかり頂けると存ずる。屋上屋を架けて、カネ払ってそういうのを聞きに行くのはかぶき踊りの類だということ。
♪論語孟子を 読んではみたが(ヨイヨイ)
酒を飲むなと 書いてない
ヨ~イヨ~イ デッカンショ!(旧制高校で流行った「デカンショ節」)
なぜかぶき踊りか? そもそも孟子が始めた儒教とは、人を洗脳して権力者の思い通りに操る道具だからだ。だから「儒教のお説教を学ぶ」→狂信者になる→「たかが棍棒で楚・秦の強兵と戦う」という、自殺的特攻隊が出来ると漢儒も『孟子』に書いたわけ。
対して孔子の説いたのは儒教でも儒術でもなく儒学で、庶民でも読み書き算盤や武術を習得すれば、貴族になれるよ、と勧めたに過ぎない。従って未検証ではあるが、論語の中にある一般的社会教育を孔子が語った節は、ナニガシか後世の作為があるような気がしてならない。
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