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論語詳解362憲問篇第十四(30)君子の道は三*

論語憲問篇(30)要約:後世の創作。情け深い者は心配しない、智恵あるものは迷わない、勇気のある者は恐れない。内容は論語子罕篇と同じですが、同じと知りつつ漢儒が利権を守るために、論語を膨らまそうとした結果です。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰君子道者三我無能焉仁者不憂知者不惑勇者不懼子貢曰夫子自道也

※一部論語子罕篇30に酷似。

校訂

諸本

  • 武内本:孟子趙注此語を引く、君子之道に作る。

東洋文庫蔵清家本

子曰君子道者三我無能焉仁者不憂智者不惑勇者不懼子貢曰夫子自導也

※前後の章と区切り無く筆写。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……子道a三,我無耐b焉:仁者不憂,知者不惑,[勇者]394……曰:「夫子自道。」395

  1. 今本道下有”者”字。
  2. 耐、今本作”能”。『礼記』例運”故聖人耐以天下為一家”、注、耐、古能字。

標点文

子曰、「君子道三、我無耐焉、仁者不憂、知者不惑、勇者不懼。」子貢曰、「夫子自道也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文道 金文三 金文 我 金文無 金文能 金文 仁 甲骨文者 金文不 金文憂 金文 智 金文者 金文不 金文 勇 金文者 金文不 金文 子 金文貢 甲骨文曰 金文 夫 金文子 金文自 金文道 金文也 金文

※耐→能・仁→(甲骨文)・懼→虞・貢→(甲骨文)。論語の本章は「焉」のが論語の時代に存在しないが、無くとも文意がほぼ変わらない。「惑」「懼」字が論語の時代に存在しない。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、君子よきひとみちつあり、われあたふるかりなさけあるものうれさとものまどいさものおそ子貢しこういはく、夫子ふうしみづかみちびくなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 子貢
先生が言った。「君子の道は三。私はどれも全く出来ない。仁者は憂えない。知者は迷わない。勇者は恐れない。」子貢が言った。「先生が自分で導いたのだ。」

意訳

孔子 人形 ニセ子貢
孔子「君子の目指すべきものは三つ。私はどれも出来ていない。一つ、仁者は憂えない。二つ、知者は迷わない。三つ、勇者は恐れない。」
子貢「…というように、先生はご自身を修養したのだ。」

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「君子の道には三つの面があるが、私はまだいずれの面でも、達していない。三つの面というのは、仁者は憂えない、知者は惑わない、勇者はおそれない、ということだ。」
子貢がいった。――
「それは先生がご自分で仰しゃることで、ご謙遜だと思います。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子的三種品德我沒做到:仁者不憂、智者不惑、勇者不懼。子貢說:「老師是在說自己呢。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「君子の三種類の徳目を私は達成していない。仁者は心配しない。智者は迷わない。勇者は恐れない。」子貢が言った。「先生は自分のことを言っているのですね。」

論語:語釈

、「  ( ( 。」 、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

君子(クンシ)

論語 貴族 孟子

論語の本章では”身分ある教養人”。孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれた。”情け深く教養がある身分の高い者”のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

道(トウ)/導(トウ)

論語の本章、「君子道」では”従うべき道”、「夫子自道」では”みちびく”。「夫子自道」は清家本が「導」と伝えるように、”言う”ではなく”導く”。「道」に”言う”の語義が現れるのは、『大学』『荀子』などの注釈からで、『大学』に注を付けた鄭玄は極めていい加減な男で信用するに値しないし(後漢というふざけた帝国#ふらちな後漢儒を参照)、『荀子』に注をつけた楊倞は唐代の人物で、当時なお「道」→”いう”は、俗語だったと『学研漢和大字典』は言う。

『学研漢和大字典』「道」条

  1. {動詞}《俗語》いう(いふ)。のべる。▽唐代以後の俗語では、「謂曰…(いひていはく)」を「説道…」という。去声に読む。

そもそも『荀子』は戦国最末期、『大学』は漢代の編集で、そこでの語義が論語の時代に当てはめられるわけもない。

道 甲骨文 道 字解
(甲骨文)

「道」は、動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。この語義は春秋時代では確認できない。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。動詞としての用例は戦国時代の竹簡から。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。詳細は論語語釈「道」を参照。

導 金文 導 字解
(金文)

清家本では定州本・唐石経の「夫子自道也」を「夫子自導也」と記す。「導」の初出は春秋早期の金文。「ドウ」は呉音。原義は「道」+「寸」”手”で、「道」の動詞形、”みちびく”。詳細は論語語釈「導」を参照。

唐石経は以降の論語の定本となった文字列だが、唐朝廷の都合により相当に書き換えた箇所がある。日本伝承の清家本は唐石経より新しいが、唐石経以前に日本に伝来した古注系の文字列を残しており、唐石経より論語の古い姿を伝えていると言える。

しかし論語の本章に関しては、両者より遥に古い定州竹簡論語が一部現存しており、これに従い二箇所の「道」は「道」のままとした。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

者(シャ)

唐石経、清家本は「君子道者三」と「者」を記すが、定州竹簡論語は「君子道三」とあり記さない。これに従いないものとして校訂した。

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章、「君子道者三」では”~は”。「仁者」「知者」「勇者」では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

三(サン)

三 甲骨文 三 字解
(甲骨文)

論語の本章では”三つ存在する”。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…が無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

能(ドウ)→耐*(ドウ)

唐石経、清家本は「能」と記し、定州竹簡論語は「耐」と記す。定州本に従った。語義は変わらす”~できる”。

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

「能」の初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

耐 秦系戦国文字 耐 字解
(秦系戦国文字)

「耐」の初出は秦系戦国文字。字形は「大」”人の正面形”+「戈」”カマ状のほこ”。刃物でひげ剃りの刑罰を加えるさま。同音は「乃」「迺」”驚いたときの声”、「鼐」”大鼎”。呉音は「ナイ/ノウ」、「タイ」は慣用音。漢音「ダイ」で”耐える”、”髭を剃る刑罰”、「ドウ」で”~できる」、「能」と音訓同じ。

定州竹簡論語が引いた注、「耐、古能字」”耐は、むかしは能と書いた”とあるのは、直には『康煕字典』に見られるが、そこに「《註》耐」とあるのは、デタラメばかり書いていた後漢の鄭玄による注釈ではなく感想で、全く信用できない(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「ぬ」と読んで、”~ているまま”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

「焉」の訓読には工夫が要る。助動詞「つ」「ぬ」「たり」「り」のいずれにも訓みうるからで、本章の場合は自分が望まぬのにそうなってしまった、という語気を含ませるため「ぬ」と訓読した。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。常時無差別の愛。仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

字の初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

憂(ユウ)

憂 金文 憂 字解
(金文)

論語の本章では”うれう”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。

知(チ)/智(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知るということ”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記すが、本章については「知」と記す。清家本は「智」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。

惑(コク)

惑 金文 惑 字解
(金文)

論語の本章では”まよう”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ワク」は呉音。同音に語義を共有する漢字は無い。字形は「或」+「心」。部品の「或」は西周初期の金文から見られ、『大漢和辞典』には”まよう・うたがう”の語釈があるが、原義は長柄武器の一種の象形で、甲骨文から金文にかけて地名・人名や、”ふたたび”・”あるいは”・”地域”を意味したが、「心」の有無にかかわらず、”まよう・うたがう”の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「惑」を参照。

勇(ヨウ)

勇 金文 勇 字解
(金文)

論語の本章では、”勇気がある”。現伝字形の初出は春秋末期あるいは戦国早期の金文。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。「ユウ・ユ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「甬」”鐘”+「力」で、チンカンと鐘を鳴るのを聞いて勇み立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。

懼(ク)

懼 金文 懼 字解
「懼」(金文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”おそれる”。「グ」は呉音。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「忄」+「瞿」で、「瞿」は「目」二つ+「隹」。鳥が大きく目を見開くさま。「懼」全体でおそれおののくさま。原義は”恐れる”。戦国の金文でも竹簡でも原義に用いた。詳細は論語語釈「懼」を参照。

子貢(シコウ)

論語 子貢 自慢

BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章はその部分が欠損しているが、おそらくその一例。

夫子(フウシ)

論語の本章では”孔子先生”。”父の如き人”の意味での敬称。

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

自(シ)

自 甲骨文 吾
(甲骨文)

論語の本章では”みずから”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで”である”の意。「なり」と読む断定の語義は春秋時代では確認できない。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、論語子罕篇30を事実上同じだが、前に孔子の愚痴、うしろに子貢の取って付けたような台詞がある。また孔子の台詞の順序が違う。

論語子罕篇
智者不惑、仁者不憂、勇者不懼。
智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。
論語憲問篇(本章)
仁者不憂、知者不惑、勇者不懼。
仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。

「惑」「懼」の字の春秋時代ににおける不在から、本章もまた戦国時代以降の儒者による偽作と判断して良い。春秋戦国の引用は存在せず、定州竹簡論語とほぼ同時期の、前漢中期の『淮南子』から引用が始まるのは論語子罕篇30と同じ。

前漢年表

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解説

論語からの引用には、「孔子曰~」「論語曰~」となっているもののほか、「伝曰~」となっているものがある。『漢書』芸文志にも、儒教にまつわる各種の「伝」があった事を伝えている。それらの中には内容は同じで、伝承された経路が異なっていたものもあっただろう。

東京から横浜まで、JRでも京急でも行けるようなもので、内容が同じと知りつつ伝承した者は、内容より自分らの正当性の証しとして伝えただろう。古記録の伝承はそう易しいことではなく、時に命がけになることもあった。子貢派も論語の本章を伝えたんだと、体を張る価値があったはず。

現伝の論語の骨格は、いわゆる前漢武帝期に儒教の国教化を進めた董仲舒が作ったと見てよいが、現伝の章全てが揃うには、後漢が滅亡し古注が編まれるまで時間がかかった。その期間、伝の類を論語に取り込んでいったことは容易に想像できる。

ではなぜ論語を膨らまさねばならなかったか。前後の漢帝国には、儒学を講じる博士官の地位があって、言い換えると利権化していた。それと並行して漢の帝室は武帝の祖母など道家好みが多く、また行政の実務のためには法家の技能者を多数雇い入れる必要があった。

景帝の母であるトウ太后は、老子の書を好んで読んでいた。あるとき儒教を奉じるセイ=学者のエン固を呼んで老子の書について意見を聞いた。轅固「これは奴隷根性のたわごとです。」

太后は真っ赤になって怒った。「お前を牢に放り込んで、毎朝城壁造りにコキ使ってやろうか!」というわけで固は牢に放り込まれ、それもイノシシの檻に入れられて戦うよう命じられた。(『史記』儒林伝)

元帝は宣帝の太子である。…成長すると性根がだらしなくなり、儒家を好んだ。父の宣帝が法家の官吏を用い、罪を断罪するあまり、無実の大臣らが処罰された。それを見て後の元帝は、宣帝に上申した。「陛下の処罰はむごすぎです。儒家を採用されるべきです。」

宣帝は真っ赤になって怒った。「我が漢帝室には先祖代々の掟があって、覇道も王道も共に使って天下を治めるのだ。儒家ばかりに頼って、どうやって政治を行えるというのか。しかも儒家どもは今という時を知らず、昔話ばかり語り、それで人の判断を迷わせ、政治の守るべき本質を知らない。あんな役立たずどもに何を任せられると言うのか!」(『漢書』元帝紀)

その法家の『韓非子』、道家の『荘子』は実に豊富な内容を含んでいる。対して儒家の伝承は『孟子』がそれなりの分量があったが、肝心の孔子の言行録である『論語』はほとんど形を成していなかった。戦国の竹簡からは、『老子』は明瞭に見つかるが、『論語』は断片ではないかな? といえる程度のものがちらほら見られるに止まっている。

すると儒家は利権を守るために、儒学を壮大に増築する必要に迫れらた。論語の本章と子罕篇のような重複をもとより承知で、あるものから手当たり次第に取り込んだと見てよい。なにせ論語郷党篇のように、本物は一章だけ、さらに一章が重複、残り九割以上が偽作という篇が、論語には平気で存在している(論語郷党篇は「愚かしい」のか)。

仏教がアショーカ王の帰依によって経典の編纂が再興され、カニシカ王の帰依によって仏像が作られ、同時代人の龍樹によって「仏説」とウソをついた大乗経典が確立したように、国家宗教は壮大でないのを許されない。論語に重複が複数あるのは、壮大にしようとした結果の安普請である。

論語の本章、古注は疏(注の付け足し)のみで何ら注を付けていない。新注のみ記す。

新注『論語集注』

子曰:「君子道者三,我無能焉:仁者不憂,知者不惑,勇者不懼。」知,去聲。自責以勉人也。子貢曰:「夫子自道也。」道,言也。自道,猶云謙辭。尹氏曰:「成德以仁為先,進學以知為先。故夫子之言,其序有不同者以此。」


本文「子曰:君子道者三,我無能焉:仁者不憂,知者不惑,勇者不懼。」
知は尻下がりに読む。自分を厳しく責めて他人を励ましたのである。

本文「子貢曰:夫子自道也。」
道とは言うことである。自道とは、たぶん謙遜の言葉だろう。

尹焞「道徳を完成させるには仁を先に立てる。学問を進めるには知恵を先に立てる。だから孔子先生の言葉には、本章のように順序が違うことがあるのだ。」

蛇足ながら上掲語釈の通り、「道」→”言う”は殷周春秋戦国を含む先秦両漢の漢語としては明確な誤り。尹焞の発言は本章と子罕篇との間で、言葉の順序が違うことに理屈を付けたもの。閲覧者諸賢はお察しあれ、国家宗教とはこういう下らない言い訳を平気で大げさに言い回るのだ。

バカバカしいと思うでしょ? だから論語なんか読むのはやめようよ。

余話

(思案中)

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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