論語郷党篇は「愚かしい」のか

郷党篇=最も愚かしい記録?

福音書を読む者が、マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝と読み進めたあとで、ヨハネ伝に至った時、誰でもその独自性に気付くだろう。同様に論語を学而篇、為政篇…と読み進めた者が郷党篇に至ったとき、打って変わった文調に面食らう筈である。おそらく、「何じゃこれは」だろう。

ヨハネ伝は師の言行を記した点で変わらず、ただ記し方が変わった。対して郷党篇は、記し方は変わらないが、師の言葉ではなく行動の干物ひものを記した。これが弟子の行動規範集とは子供でも分かることで、それゆえ白川博士は「最も愚かしい記録」と郷党篇を言う(『孔子伝』)。

白川静 白川静 孔子伝
理由は孔子の目指したイデア=理想を放棄し、孔子の猿真似によりノモス=体制の中での出世を目指したからだという。そういう説教は有名大の教授を辞めてから言うべきだとは思うが、今は措く。それより博士に賛同し難いのは、自分の願望を孔子になすりつけたからだ。

孔子は確かに革命家だったが、抽象的な理想の実現を求めたことは、恐らくただの一度も無いはずだ。弟子を教えて仕官させ、出身にかかわらず誰でも貴族になれる世を目指したのであり、極めて現実的な願望しか持たなかった。それは孔子の偉大さを何ら損なっていない。

亡命したのも、自分が貴族団からの支持を失い、弟子を仕官させ難くなったからである。弟子の多くは、仕官に当たって孔子の口利きがあるから入門したわけで、例外はあろうが、学問がいくらあろうと、ただの素浪人を師匠と仰ぐ酔狂は、現代も春秋時代も中国人には無い。

孔子が口入れ屋を開業していたことは、論語にも記されている。

筆頭家老家の一員、季子然がやってきた。
季子然「子路と冉有は、有能な仕事人ですかな。」

孔子「おやおや、人をお求めですか。有能な者は、有能だからこそ道理に従います。主君が無茶を言えば、辞めるでしょうよ。だからあれらはまあ、とりあえずのアタマかず揃えにはなるでしょうが。」

「ほほう、では優遇すれば、バリバリ働いてくれますかな。」
「いやいや、謀反を企むようなら、刃向かいますぞ。」(論語先進篇23)

廃業して亡命した孔子を拾ったのは、記録の限りでは衛の霊公ただ一人だが、それを証して弟子の子路は、ちゃっかり衛国の町領主に収まっている。もっとも子路・顔回・子貢といった初期の弟子は、孔子と地縁血縁関係で結ばれており、口利き目当てで弟子入りしたのではない。

だがそれにもかかわらず、大げさに三千人と言われる孔子の弟子は、東大や就職課が有能な私大と同様、将来の出世目当てで入門したことに変わりはない。要するに孔子はイデアを持たなかった。持ったと思いたがったのは白川博士の願望で、あられもない夢想に過ぎない。

ただし、だからと言って論語郷党篇が愚劣でないかと言えばそうでもない。そのほとんどは漢帝国の儒者によるでっち上げで、さらに後漢になってから、篇の統一性をまるで考慮する能の無い儒者が切り刻んで竄入し、結果儒者による世間を威嚇するための道具に成り下がった。

その意味でなら論語郷党篇は、「愚かしい記録」に違いない。

論語郷党篇のうそデタラメ

訳者は郷党篇を19に分けたが、これは解説の都合上そうしただけで、歴代の儒者もそのように分けたわけではない。もちろん現伝の郷党篇を完成させた、後漢の儒者もそう思ってはいなかったはずだ。もともと郷党篇は、恐ろしく長い二つの章で構成され、そこに竄入が行われた。

もと郷党篇
郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 14 15 17 18
孔子…章 君子…章

現・郷党篇
郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
孔子…章 君子…章 君子…章 君子…章

と言うのも、論語郷党篇には主語が書かれていない章が多い。主語の明記があるのは1の「孔子の郷党に」と、6の「君子は紺緅を」だけで、あとは推定。12「康子薬を」は「丘」と自称した科白、13「うまや焼けたり」は「子、朝より退きて」とあることで、孔子と推定できる。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語 孔* 路/孔*

16「朋友死して」はさらに心細く、科白があるから孔子が言ったのだろうと思えるだけ。実は誰が言ったか書いていない。最終章19「色見て」でも子路の名が明記されているだけで、実は歌ったり「作」ったりしたのは誰か書いていない。おそらく孔子だろうと思えるだけである。

従って主語の書いてない章は、前からの続きと解する以外に無いわけで、となると少なくとも1~5,6~11は、長い一連の章だと言うしかない。では同様に14~15、17~18も、前からの続きで主語は孔子かと言えばそうでない。12・13・16・19は、他とは毛色が違うからだ。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語 路/孔

12「康子薬を」13「うまや焼けたり」16「朋友死して」19「色見て」、これらは他章と違い、個別の孔子のエピソードを伝えたナマモノであり、「こういう時にはこうする」という干からびた軌範集ではない。ゆえに14~15、17~18は、6からの続きと解すべきだ。

カタクチイワシの小魚は、水揚げされ釜ゆでされてしまえば、パック詰めジャコの一部でしかない。だが生きて泳いでいる閒は、それぞれの都合も欲求もある、一つの宇宙の所有者だ。論語郷党篇12・13・16・19は、それだけで完結した話であり、ジャコの一部ではない。

するとこう言える。論語郷党篇はもともと、「孔子」を主語とする1~5と、「君子」を主語とする6~11、14~15、17~18から成っていたが、その後何者かの手によって、「君子」章が切り刻まれ、独立性の強い12・13・16・19を竄入し、あるいはくっつけた。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語 路/孔

ここで注目すべきは、全十九章のうち十章の主語が、「君子」であることで、これらは孔子の行動を記録したのでも何でもない。後世の儒者が勝手に、君子の行動軌範をこしらえただけである。まるで頭の悪い教師がわだかまっている、肥溜め臭い田舎中学の校則そっくりだ。

では主語が「孔子」とされる章なら、本物かと言えばそうでない。主語が「君子」である章と変わりなく、そのほとんどはニセモノだ。同様に後世の儒者がでっち上げたのであり、論語郷党篇の中でホンモノと言えるのは、孔子のエピソードを伝える二つの章しかない。

その二つ以外の章について、冒頭から検討してみよう。

  • 論語郷党篇1
    孔子こうし鄕黨きやうたうおいては恂恂如じゆんじゆんじよたりあたはざるものたり。宗廟そうべう朝廷てうていりては、便便べんべんとしてふ、唯〻ただつつしめるのみ


    →恂の字が論語の時代に存在しない。本章は前漢帝国の儒者による捏造である。

  • 論語郷党篇2
    おほやけにて下大夫かたいふ”へば、侃侃如かんかんじよたり上大夫じやうたいふへば、誾誾如ぎんぎんじよたりきみいまさば、踧踖如しゆくせきじよたり與與如よよじよたり


    →踧・踖の字が論語の時代に存在しない。也の字を断定で用いている。本章は漢帝国の儒者による捏造である。

  • 論語郷党篇3
    きみしてあへ使むれば、いろ勃如ぼつじよたりあし躩如きやくじよたりともところをがみて左右さいうにす。ころも前後ぜんご襜如せんじよたりはしすすまば翼如よくじよたりひん退しりぞかばかなら復命ふくめいしていはく、ひんかへりみざるなりと。


    →躩・揖・襜・顧の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である…。

くだくだしいから一々書くのはこれでやめておくが、一覧にするとこの通り。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語 路/孔
真偽 × × × × × × × × × × × × × × ×

このうち15「太廟に入らば」は論語八佾篇15からの借用で、事実上郷党篇の一章ではない。また9「席正からざらば」は、一連の軌範集の断片であり、たまたまこの部分だけ、論語の時代に存在した漢字だけで述べられた可能性が高い。要するにホンモノは12と13だけ。

論語の約半分は後世のでっち上げで、今さらニセモノに驚くこともないが、借用の15と断片の9を引いた全十六章のうち、ホンモノはたったの二章。87.5%がウソで固められた話が、聖賢の書だとは笑わせる。こんなものを読んで真人間が出来たなら、それはもう人類界の奇跡だ。

クルクルパーの狂信者なら、出来上がるかも知れないが。

論語郷党篇をでっち上げた連中

では一体誰が、こんなニセモノをこしらえたか。武内義雄『論語之研究』によると、論語郷党篇は冒頭の論語学而篇と共に、もとは二篇の独立した本だったという。だが武内博士の論拠は、そうした版本が一冊残らず焼け消えてから約百年後の後漢の儒者の小論文。

詳しくは論語各篇の成立年代にまとめたが、ブツが無くなってから百年以上過ぎた儒者が、まるで見てきたかのように語るウンチクを、真に受けろというのは無理である。それより郷党篇に用いられた漢字に注目すると、ある特徴が有ることが判明する。

論語の各章で、他には使われていない漢字が使われていたら、一旦その章の史実性を疑っていい。漢字は時代と共に数を増していったから、最古の古典である論語は、現代や漢代よりもずっと少ない漢字で記述された。つまり漢字を使い回さないと、多種多様な話が出来ない。

使い回さず新しい漢字で新しい話をしているなら、その新しい漢字は新しい可能性が高い。つまり論語の時代に存在しない可能性が高い。論語の一字一字を辞書引きすれば、子供でもその原則に気付くだろう。

  • 論語郷党篇1
    →恂の字が本章だけに見られる。
  • 論語郷党篇2
    →侃・誾の字が郷党篇と先進篇のみで見られる。踧の字が郷党篇のみで見られる。
  • 論語郷党篇3
    →擯・襜の字が本章だけに見られる。勃・躩・翼・顧の字が郷党篇のみで見られる…。

これもくだくだしいからここで止めるが、論語郷党篇のアブノーマルと、先進篇との強い関係は明らかだ。誰が調べても同じ結論になるから、ウソだと思うならやってみるといい。

では誰が論語郷党篇を偽作したのか。精密には論語全章に渡って検証する必要があるのだが、おそろしく時間が掛かるため、その前に訳者があの世へ行く可能性がある。少なくとも先進篇の検証を終えてでないといけないのだが、お預けのうちに忘れてしまうかも知れない。

というわけで開き直って書いてしまえば、肥溜め中学の校則のようなことを書き始めた連中は、前漢の儒者であろう。用いた漢字に、漢代にならないと現れないものが、多数使用されているからだ。孟子や荀子と言った戦国の世間師は、頭の悪い中学教師のような暇が無かった。

諸侯に売り込むのに必死だったからで、規則を言い出す当人以外、誰も得をしないべからず集など、いったいどこの殿様が買うのだろう。そんな図々しいことを言いもしなかった、孟子の教説を買った斉や滕の殿様ですら、言う通りにして国を滅ぼす痛い目を見ているというのに。

では漢代だとして、前漢後漢のどちらか。おそらくべからず集として一応完成させたのは、前漢の儒者だろう。高校教科書が言う、いわゆる儒教の国教化とはうらはらに、前漢帝国は儒教国家ではない。事実上武帝のあとを継いだ宣帝は、「役立たずの儒者ども」と言っている

前漢の儒者は偉そうに説教するだけで、のほほんとワイロで食える結構な稼業ではなく、他学派を叩き潰すに忙しい思想的戦士だった。前漢の景帝と言えば武帝の父で、双六のいさかいで親戚を殴り殺した名君?だが、その御前も恐れず、命がけで道家と論戦した儒者もいた。

竇太后好老子書,召轅固生問老子書。固曰:「此是家人言耳。」太后怒曰:「安得司空城旦書乎?」乃使固入圈刺豕。景帝知太后怒而固直言無罪,乃假固利兵,下圈刺豕,正中其心,一刺,豕應手而倒。太后默然,無以復罪,罷之。居頃之,景帝以固為廉直,拜為清河王太傅。久之,病免。(『史記』儒林伝)

景帝の母であるトウ太后は、老子の書を好んで読んでいた。あるとき儒教を奉じるセイ=学者のエン固を呼んで老子の書について意見を聞いた。轅固「これは奴隷根性のたわごとです。」

太后は真っ赤になって怒った。「お前を牢に放り込んで、毎朝城壁造りにコキ使ってやろうか!」というわけで固は牢に放り込まれ、それもイノシシの檻に入れられて戦うよう命じられた。

景帝「母上は怒っておいでだが、轅固の正直はお認めの筈だ。」というわけで轅固に切れ味のいい刃物を渡し、イノシシの檻に閉じこめた。轅固は一突きでイノシシの心臓を貫いたが、それが通じたと見えてイノシシは倒れた。見物していた太后は黙ってしまい、といって新たな罪をでっち上げることも出来ず、うやむやになった。ほとぼりが冷めるのを待って、景帝は轅固の正直を愛でて、息子の清河王の守り役頭に取り立てた。轅固は長く務め、老年を理由に退職となった。

前漢の儒者にはこういう一徹者もいた。確かに論語をいじくってでっち上げを書きはしたが、よく勉強しよく考え、命がけでものを言った。だから論語郷党篇から、他篇からの借り物と個別の孔子ばなしを取り除くと、べからず集としてでっち上げながら、一貫性が取れている。

後漢というふざけた帝国

それをブチ壊したのが後漢の儒者だ。いくらホンモノが2章あろうと、余計な挿入をしたことで、篇としての一貫性が崩れてしまった。後漢は創業者の光武帝が、信じがたいほどの偽善者の上、重度のオカルトマニアだった。希代の名君との評価は、儒者のゴマスリに過ぎない。

中国史上の名君という評判は当てにならない。恵帝とは恵み深い名君を意味するが、晋の二代・恵帝はガマガエルが鳴くのを聞き、「あれは官のガマか、私のガマか。官なら俸禄をやれ」と命じた。かようにあまりに暗愚だったため、八王の乱を招いて自分と国を滅ぼした。

だが皇帝は暗愚な方が、官僚≒儒者にとっては都合が良い。暴君だと困るが、ただのおタワケなら役人どもは、やりたい放題に民から搾り取れるし、ワイロも取り放題、公権力も私物化し放題。笑いが止まらないのである。その意味で晋の恵帝は、「恵み深い」君主だった。

帝政期から現代に至るまで、中国には政治家はおらず、いてもただ一人だけ。皇帝か総統か首席のたぐいが、まれにそうなる。他の儒者や党幹部や役人は、政治家に見える利権タカリでしかない。自分がどれほどカッパぐかのみを求め、中国全体がこの先どうなる、を考えない。

ごろつきエコロどもが大好きな言葉に、「共有地の悲劇」がある。共有地は誰もが収益を剥ぎ取りに掛かるから、あっと言う間に荒れ果てる、という理論だが、中国人にとって自分以外の一切は、親子兄弟孫祖父母含めて共有地で、一刻も早く収奪しないと枯れ果ててしまう。

ほぼワイロ取りとポエム書きしか能が無い中国の儒者官僚は、九分九厘は実家が地方の大地主で、小作人をコキ使い公権力の干渉を阻んで半ば自立している。その息子で頭が小ましな連中が官僚になるのだが、出身ゆえに政治の機能不全を願った。でないと実家が取り潰される。

そこへ行くと光武帝はゴマの摺りがいがある親分だった。「オカルトで政治を行うのもたいがいになされ」とまとも﹅﹅﹅なことを言った儒者の桓譚カンタンに「ぶッた斬ってやる!」と激怒し、頭を床にガンガンと叩き付けて血が出た所でやっと許し、た振りをし、七十過ぎなのに山奥へ左遷。

前漢の話だが、人の平均寿命は三十そこそこだった。現代で言うなら管だらけになった老人に、歩いて五十三次をしろと強制するようなものである。案の定桓譚は途上で死んだ(『後漢書』桓譚伝)。だがまともでない﹅﹅﹅﹅﹅﹅役人がワイロを取るのを、取り締まろうとした記録が無い。

上これを好めば下これに習う(→論語憲問篇44)で、後漢の儒者と言えば誰も彼も偽善者で、表ではお互いに歯の浮くようなおべっかを言い、裏では悪口ばかり言い、そして互いに足を引っ張った。身内・仲間びいきが横行し、儒者のもくろみ通り、行政は機能不全に陥った

こういう偽善がまかり通る世の中で、論理的な思考の習得や維持は難しい。

少なくとも明治以降の日本の漢学界と同様で、学界も救いがたい馬鹿者が要職を占める。論語各章の解説でさんざん紹介したから繰り返さないが、後漢きっての大学者と言われる馬融・鄭玄も、子供のわがままのようなことしか言っていない。つまり頭脳が幼稚だった。

古代だから幼稚に見えるのではない。孔子と同時代人、ブッダを幼稚と誰が言えよう。それはもちろん孔子も同じだ。自分の福禄寿を満たすためなら、うそデタラメも平気で言う、しかも人を指導する地位の者がそれを言う、そういう連中をクズと言い、その脳みそを幼稚という。

しかも悪い?ことに、親玉の光武帝が儒教を偽善的に褒めちぎったから、他学派はすっかり勢いを失い、官吏の登用も儒教的道徳の度合いを測って推薦する方法になった。これは恐るべき事で、実務の出来る者は出世できず、偽善と贈賄とゴマスリが得意な者しか浮かばれない。

結果後漢は自ら滅んだ。やがて皇帝さえ金に不自由し、三国志物語の始めごろに出てくる霊帝は、堂々と「小遣いが欲しい」と世間に言い、売官の店を開いて大繁盛した。宰相の位を買った男が世間から、「銅臭がする」と嫌われたのは故事成句になっている(『後漢書』崔駰伝)。

「其富者則先入錢,貧者到官而後倍輸。」=”金持ちはさっさと官職を買え。手元に金が無い貧乏人は、ツケでもいいから官職を買え。ただし倍返しな”と皇帝が言うようでは、その社会はもう終わっている。たとえ学習環境が整ったとしても、まじめに勉強する動機を人々から奪う。

霊帝が「ツケは倍返し」と言い放った背景には、官職に就けばワイロですぐ取り返せるだろう、という、後漢帝室の「常識」がある。ワイロを悪だと思わない皇帝は、儒者官僚にとってはいい皇帝だ。だがワイロのツケは下へ下へと行く。怒った民衆は黄巾の乱で応えた。

乱と言い条、民と国との戦争である。まずいことに前漢武帝以降、漢には国軍が無い。司令官の大将軍は皇帝の家内使用人で、それゆえ戦費は皇帝の私財からの持ち出しになる。戦争ほど金のかかる浪費は無い。もちろん皇帝の銭では足りず現地で略奪した。後漢社会は崩壊した。

なんだ霊帝か、むしろ三国志の話じゃないかと言われそうだが、論語に偉そうなデタラメをべらべらと書き込んだ自他称大学者、鄭玄の活躍は霊帝の時代である。皇帝がバカなら儒者もろくでなし。後漢は宦官が悪かったと言われるが、官途にある者、皆悪党だったのだ。

孔子は古代人らしからぬ合理性で、高々とそびえ立った。その光を受け継ぐ儒者は、前漢までは確かにいた。新が滅んだ頃、中国は互いに子を取り替え食らう地獄絵図だったが、まじめな儒者だとわかると、飢えた暴徒の群れでさえ、遠慮して襲わなかった(『後漢書』包咸伝)。

実は鄭玄にも似たような伝説があるが(『後漢書』張曹鄭伝)、赤眉軍に遠慮された無名の包咸と違って、鄭玄がすでに天下の有名人だったからであり、黄巾軍がただの強盗団でなく、世直しと王朝交代を目指す宗教結社だったからだ。鄭玄が立派な儒者だったからではない。

立派な儒者を根絶やしにしたのは他でもない。後漢開祖の光武帝である。その理由が救われない。新帝国を建てた王莽が、あまりに無茶な政治を行ったからだ。人口が1/3に減る地獄は、三十年戦争並みである。それを過去の事として処理してしまえるほど、人間は賢くない。

それでも郷党篇は「愚かしい」か

ただし前漢の儒者は論語について、上記の通り偽作はした。郷党篇のどの部分が前漢の作になるか、それを示す史料に定州漢墓竹簡論語がある。前漢宣帝期の竹簡で、埋蔵後早くに墓荒らしによって蒸し焼きにされ、発掘後は研究所に暴れ込んだ紅衛兵がめちゃくちゃに壊した。

蒸し焼きは却って腐敗を防いだので後世に益したかも知れないが、紅衛兵はただの幼稚な迷惑だ。ゆえに前漢宣帝期に論語のこれこれの章が「あった」ことは証明できても、「無かった」ことは証明できない。それでも論語を物語る最古の物証であり、一覧にすると下記の通り。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語 路/孔
真偽 × × × × × × × × × × × × × × ×
定州

△印は実は定州論語に無いが、前の話の続きであり、紅衛兵と墓荒らしの前はあったと考えていい。となると竹簡というブツからも、論語郷党篇の元べからず集は前漢の作であり、12・13・16・19といった、個別の風景を伝える章は、後漢の竄入であることがはっきりする。

これは何を意味するのだろうか。おそらく前漢の編者は、『論語』の本文﹅﹅を編纂する意図ではなかったと思われる。現在では孔子の言行録は『論語』しか無いと思われているが、前漢の時代では、孔子にまつわるさまざまな伝記や記録が残っていた、とされる。

論語、古(論語)は二十一篇。斉(〃)は二十二篇。魯(〃)は二十篇、伝(記)十九篇。(『漢書』芸文志)

古論語、斉論語、魯論語のそれぞれが、どーたらあーたらは別に記した。それをここで繰り返さないのは、論語を考える上でほとんど意味が無いからだ。情報が不可逆的に欠損しており、シュワルツシルト半径の彼此同様、見えないものはどう頑張っても見えはしない。

だがここで気に掛かるのは、「伝十九篇」があったということだ。現伝の論語は二十篇である。前後の漢儒者が膨らし粉をブチこんだから、篇の数は分量を必ずしも示さないが、それでも論語に迫る篇の孔子にまつわる「伝記」が、前漢の時代にはまだあったことになる。

なおこの「伝」については異説がある。後漢の王充は『論衡』で、「宣帝が古論語を解読しろと太常博士に命じたが、”わかりません”と突き返した。これに伝と名づけた」と書いている。だが王充は古論語などを「全て滅びた」といいながら、見てきたようなウンチクを垂れる。

後漢の儒者でもある事も手伝って、とうてい真に受けるわけにはいかない。武内義雄はじめこれまでの論語研究者が、オトツイの方角に結論を出してしまったのは、こういう息をするようにウソをつく、儒者のデタラメを真に受けて、矛盾する話に無理なつじつまを付けたからだ。

今のところの事実は一つ。定州竹簡論語は二十篇であり、ゆえに魯論語とも言えない。分割統合すれば篇の数は可変だからで、『漢書』芸文志が言う古論語その他と、現伝の論語との関係を考えても無駄である。芸文志の源流が、劉向の『七略』だったとしてもそれは変わらない。
劉向

劉向も『漢書』編者の班固とその家族も、事実を書いたのだとしても、ブツが残っていない以上、何も言うことはできない。しかも官学の地位にあった儒教の、開祖の言行録の諸本が、こうも簡単に、一冊残らず消え果てるとはどういうことだ? 本当に劉向は見たのだろうか?
劉向

『論語』という言葉が中国に現れるのは、『史記』よりやや早い『韓詩外伝』からになる。つまり戦国時代までは、雑多な言行録があったに過ぎず、孔子と弟子の言行録としてまとめられたのは前漢に始まる。そして論語にまつわる諸本として、芸文志は以下も挙げる。

魯夏侯説二十一篇。魯安昌侯説二十一篇。魯王駿説二十一篇。燕伝説三巻。議奏十八篇。

この記述を元にした、『論語義疏』の前文は、全く信じるに足りない。上が言うのは、「ボクは論語をこう思ったんだもん」というガキどものつぶやきが何種類かあったと言うだけで、それが孔子の言葉をそれぞれ伝えた、わけでは全くない。そうだというならブツはどこだ?

あまりに下らねえから、権力にもそっぽ向かれて滅んだんじゃないのか?

というわけで論語郷党篇12「康子薬を」・13「うまや焼けたり」が、史実であっても前漢論語に含まれなかったのは、おそらく「伝記」の一部だったからだ。前漢儒者はその存在を知りつつも、あえて郷党篇に入れなかった。郷党篇は論語ではない、と思っていたからだろう。

前漢代の郷党篇は、もちろん論語の一部を構成してはいたが、それは儒者官僚なりの統一した学説であり、あくまで付録のつもりだったろう。どうせでっち上げるなら、全章主語を「孔子」にすればいいものを、だから中途半端に正直になって、「君子」と書いておいたのだ。

孔子でも直弟子でもない「君子」のどーたらあーたらが、論語の本文として受け入れられるわけがない。もと郷党篇の「孔子」章は五に対し、「君子」章は十。倍という分量の差は、無視していいほど小さくは無い。前漢儒者は彼らなりに、誠実にもと郷党篇を作文したのだ。

だが後漢の儒者はあまりに頭が悪く、ついに郷党篇を論語の本文と思い込み、だから統一性を破壊するエピソードを「伝記」から切って貼り付けた。もうこうなるとだれにも郷党篇の意義は分からず、後漢末になって各篇に名前が付けられ、かくして現伝の論語郷党篇が成立した。

それを孔子の金口コンクから出た聖なる言葉と担ぎ回るから、現代の読者は違和感を感じるのである。日本には、自分で漢文を読めもしないくせに、論語の翻訳を騙るニセモノを出す詐欺師が跋扈しているが、郷党篇もそれら「こう思ったんだもん」本だと思えば、腹も立たない。

論語は趣味に留めておけ。それはこのサイトの表看板だ。どんな聖人君子だろうと人間であり、崇め奉る必要などありはしない。その言葉の中に、自分を励ます力のあるものが含まれているだけだ。デタラメを担ぎ回るのはもうやめよう。詐欺師は詐欺師とはっきり言おう。

それが怪力乱神を語らなかった、孔子の教えに習うことでもあるのだから。

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コメント

  1. […] 後漢の儒者がいかに頭が悪いか、デタラメを言いふらしたかは、「後漢というふざけた帝国」で記した通り。「祇」は”ただ…だけ”を意味するが、”かなう”は意味しない。「異」は”違っている”を意味するが、”ケシカラン”は意味しない。意味するようになったのは、儒者がデタラメを書き、後世の儒者がさらに猿真似したからだ。 […]