論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「泰伯、其可謂至德也已矣。三以天下讓、民無得*而稱焉。」
校訂
武内本
釋文得一本亦徳に作る、後漢書丁鴻伝此章を引く皆徳に作る、一本と同じ。(→武英殿二十四史『後漢書』丁鴻伝)
復元白文
※泰→大・矣→以・讓→襄・焉→安。論語の本章は、讓の字が”ゆずる”の意であり、也の字が”である”の意である場合は、戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
子曰く、泰伯は其れ德の至りと謂ふ可き也已矣。三たび天下以讓く、民得而稱える無かり焉。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。泰伯の評価はただ一つ、最高の人格力を持っていたと言える。三度天下を助けたが、民はその話を聞いて讃えることができなかった。
意訳
孔子「まことに呉国の開祖泰伯さまこそ、最高の人徳を持ったお方でござる。三度天下を救い、それを民にも知らせたまわなかった。」
従来訳
先師がいわれた。――
「泰伯こそは至徳の人というべきであろう。固辞して位をつがず、三たび天下を譲ったが、人民にはそうした事実をさえ知らせなかった。」
現代中国での解釈例
孔子說:「泰伯的品德高尚極了!三次讓出王位,百姓無法用語言來稱贊他。」
孔子が言った。「泰伯の人徳は高尚の極みだ。三度王位を譲り、人民はどう言って讃えたら良いかも分からなかった。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
泰伯
「泰」(金文大篆)「伯」(金文)
周王朝の開祖文王の叔父に当たる人物。大王とのちに呼ばれた古公亶父の長男。まだ殷王朝の頃、弟の季歴の出来が良かったため、周を出て南方の蛮族の地に移り住んだ。二度と戻らない決意を示すため、蛮族の風習に倣って髷を切り落とし、体に入れ墨を入れたという。
「泰」の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しないが、大が語義を共有する場合にのみ、論語時代の置換候補になりうる。『史記』では「太伯」と記しており、「泰」の字にこだわる理由はか細い。詳細は論語語釈「泰」を参照。
德(徳)
(金文)
論語での「徳」とは”人徳”でないことがほとんどだが、ここだけはその可能性がある。
この泰伯篇から、後から挿入されたと見られる曽子の発言を削っていくと、孔子と呉国の人物との対話と読み取れるのが理由。つまり呉国の機嫌を取るため、孔子が「巧言令色」して開祖泰伯を褒めちぎっていると思われる。詳細は論語における「徳」を参照。
也已矣(ヤイイ)
(金文)
「也」は断定の”である”と解した場合、それは戦国時代以降の用法であり、論語の本章が捏造という事になってしまう。従って詠嘆の”だなあ”。「已」は完了の”し終えた”。「矣」は人の振り返った姿の象形で、”である”または”だぞ”という断定や詠嘆。伝統的な論語の解説本では三字で「のみ」と読む。感嘆と限定のことばを三つ重ねた、極めて強い強調。泰伯を褒めちぎっているのである。
ただし、曹銀晶「談《論語》中的”也已矣”連用現象」(北京大学)によると、「也已矣」は前漢宣帝期の定州論語では、そもそもそんな表現は無いか、「矣」「也」「也已」と記されたという。要するに、漢帝国から南北朝にかけての儒者が、もったいを付けて書き換えたのだ。
讓
初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はȵi̯aŋ。同音は旁に襄を持つ一連の漢字群。論語の時代には恐らく部品の「襄」(のぼる・たすける:カ音sni̯aŋ)と書かれたと考えられるが、「襄」に”譲る”の意味は無い。
従って”たすける”と解釈した場合に限り、論語の本章は本物という事になる。また下記するとおり、泰伯が三度天下を「譲った」史実は伝わらない。詳細は論語語釈「譲」を参照。
三以天下讓(譲)
「譲」(金文)
論語の本章では”三度天下を助けた”。通説では”天下を譲った”と解する。だが泰伯が譲ったのは一回だけであり、譲ったのも殷王朝下の諸侯の跡取りの地位であって、天下ではない。
なお中国人の物書きは奇数を好み、三は”それほど多くはないがしばしば”の意味で用いられることがある。「白髪三千丈」に代表されるように、数字に関して前近代中国のインテリは極めていい加減で、現代人が真に受けて計算すると混乱する。
奇数を好むのは、二つに割り切れる偶数よりなお余りあるからで、割り切れる=偶数=陰よりも、未来の発展をきざす嘉数として捉えた。それを引き受けた『古事記』の、「なりなりて、なりあまれるところあり」が、豊饒の大地に対してその駆動力を意味するのを思うとよい。
民無得而稱(称)焉
「称」(篆書)
論語の本章では”民はそれを聞いて讃える者がいなかった”。
論語の中でしばしば、「人に知られない」悩みを子弟共に言うように、無名であることは古代中国人にとってたまらない不満だった。従って国を譲ったなどという事実があろうものなら、鐘太鼓を叩いて宣伝するのが普通。それなのに、民に「(話を聞き)得て讃える者」が無かった、というのは、信じがたい謙遜であって、褒めちぎる要素に十分なる。
なお「得而稱」のように「得而B」の語形は、”~できる”と訳す。
「焉」(金文)
「焉」は論語の本章では強い断定で、裁判で判決が出てしまったように、”全くその通りだ”の語気を示す。詳細は論語語釈「焉」を参照。「民」について詳細は論語語釈「民」を参照。
論語:解説・付記
現代中国での解釈のように、「人民はどう言って讃えたら良いかも分からなかった」ような人物とは、毛沢東やスターリン、ヒトラー級の極悪人であり、そんな悪い意味での巨人が、古代の漁村にいたとは信じがたい。つまりは孔子のおべっかか、まるまるのウソである。
論語の本章が史実だとして、その時間軸は、哀公元年、呉が越を破り巨大な骨を得、使いが魯国に来て、その正体を孔子に尋ねたとき。
BC | 魯定公 | 孔子 | 魯国 | その他 | |
497 | 13 | 55 | 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 | 定公、孔子を遠ざける | 衛、孔子を迎える |
496 | 14 | 56 | 衛を去り陳に向かう。匡で陽虎に間違われ受難。蒲のまちでも受難するが、難を逃れ衛に戻る。 | 衛太子蒯聵、国外逃亡 | |
495 | 15 | 57 | 衛を去り魯に戻る。 | 定公死去。哀公即位 | |
494 | 哀公1 | 58 | 衛に行き晋に向かうが果たせず。呉の使いに骨の由来を説明 | 呉、越を破り巨大な骨を得る |
この時孔子は58歳、3年前に失脚して国外に出た浪人の身だが、一旦魯国に戻っていたらしい。魯の定公が死去する寸前、魯の隣国・邾の隠公が定公と会見した模様を見て、弟子の子貢が「お二人とも長くない」と言っている。その模様を『春秋左氏伝』は「十五年春…子貢観焉(子貢見たり)」と書いており、伝聞ではなくその時子貢は魯にいたと分かる。
特に子貢の任官の記録はないから、無位無官の子貢が単独で国公同士の会見という国事に参列したとは思えず、孔子も共にいたのだろう。おそらく定公の先が長くないのが誰の目にも明らかで、孔子はゆかりの深い定公の元に戻っていたのではないか。孔子は取り立てて罪のある身ではないから、一時帰国にも支障はなかったと思われる。そして同じ五月に定公は死去した。
翌哀公元年(BC494)、呉は越を破り、巨大な骨を得る。呉の使節が、博学で有名な孔子に骨の正体を問うた(『史記』孔子世家)。その縁もあって、孔子が呉使節の接待を受け持ったのだろう。論語泰伯篇の前半は、接待の模様を伝える記事と解釈出来る。
なお、本当に呉の開祖が周の王族だったわけはなく、蛮族扱いを嫌がり、呉が勝手に言い出した伝説に過ぎない。しかしそのでっち上げを指摘すると、日の出の勢いだった呉国軍に追い回されるハメになる。しかも孔子は、革命軍として呉国の兵を借りたくて仕方がなかったはず。
おだてこそすれ、都合の悪い事を言うはずもない。
コメント
はじめまして「三以天下讓」と「民無得而稱」の解釈をネット検索して辿りつきました。解説テンポの良さに感心しております。
ありがとうございました。
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[…] 孔子はお追従でさえ、下手だった(論語泰伯篇1)。どちらかと言えば良く見聞きし読む人であり(論語為政篇10)、だからこそ万能の人を、聖人と呼んだ(論語雍也篇30)。文字が耳と口から構成されているように、自分の苦手な口も達者なことを、聖人の条件としたのだ。 […]