法とは規則ではなく刑罰である
「法」という漢字の原義は、『学研漢和大字典』によると”閉じこめる”ことであり、『字通』によると羊を使った神判と、それに伴う敗訴者の水死刑である。
いずれにせよ中国人にとって法とは英語のロー(社会規範)やプロトコル(原則)や、サンスクリット語のダルマ(理法)の意味では全くなく、刑罰と不可分だった。ゆえに現代北京語でも弁護士を「律師」(ルーシ、刑法使い)といい、この点ローヤーを弁護士と呼ぶ日本に似ている。
法は為政者の勝手気ままである
まず孔子の法観念を見るために、論語に次ぐ孔子と論語を理解する史料である、『春秋左氏伝』を引用する。
昭公二十九年(BC513)、冬、晋の実権者趙鞅(趙簡子)と家老の荀寅(中行文子)が晋国中から鉄を徴発して、約110kgを得て刑鼎を鋳た。そこに范宣子(士匄)が述べた刑罰を鋳込んで、刑法を公開した。孔子がそれを聞いて言った。
「晋は滅ぶぞ。古くからの掟を捨てたからだ。晋国はこれまで、ずっと古来の掟を守り、貴族はそれを尊び、だから庶民は貴族を尊んだ。身分秩序が明らかだからこそ、貴族は地位を守れたのだ。その掟によって、文公は天下の覇者となった。今やその掟を捨て、刑鼎を作った。民は鼎ばかり尊んで、貴族をあなどるだろう。貴族はどうやって地位を守ったらいいのだ。身分が乱れて、どうやって国を治めるのだ。」(『春秋左氏伝』昭公二十九年)
この時孔子39歳。まだ魯国に仕官する前で、洛邑留学から5年が過ぎ、初期の弟子はいたろうし、後ろ盾となる孟孫氏の下級役人は務めただろうが、まだ一介の庶民に過ぎない。その孔子が、法の公開に対して痛烈な罵倒を述べている。法は民が知っていいものではなかったのだ。
孔子の法に対する考えは、以下の論語為政篇3の言葉にも表れている。
ここで言う礼法とは、論語の時代に決まった礼法書があったわけではなく、言わば孔子の脳が礼法書そのものだった(論語における「礼」)。つまり孔子は、自分自身こそ人々の規範だ、といったわけ。
法は気ままに庶民を罰する道具である
また「命令と刑罰で…」と言ったが、当の孔子は行政官として、過酷な取り締まりを行った。
たったの三ヶ月で、「道を行く男女は別々に歩」かなければならなくなるほど、おまわりとチクリ屋をばらまいて、過酷に処罰したわけ。しかも法を公開しないから、何が罪でどのような罰が下されるのか、庶民は怯えながら暮らすしかなかっただろう。
そのことは後に孔子も自覚して、失脚し亡命するに至って、やっと覚ることになる。
それ以前の段階、つまり自分の政治構想を魯国中に押し付け、貴族からも庶民からも嫌われて追い出される前までは、法は為政者が勝手気ままに出来るものと信じ込んでいた。
「季孫家は以前から、公伯寮をよく思っていません。何なら私の裁量で、公伯寮を引っ捕らえて処刑し、目抜き通りでさらし者にしてやりましょうか?」
孔子「かたじけないが、およしなされ。子路の手でまともな政道が通るも通らないも、天命でござる。公伯寮ごときにどうこう出来はしますまい。」(論語憲問篇38)
処刑に反対はしたが、貴族の子服景伯が勝手気ままに公伯寮を処罰するのに、一切の疑念を持っていない。つまり法の公開や法治主義は、初めから頭の中になかったのだ。
全ての論語時代人は私に従え
しかも中国で最初に法を公開したのは鄭の宰相・子産だが、孔子は一切批判していない。それどころか孔子は、子産を褒めちぎっている。孔子が論語時代の人物で、一切けなさず褒めちぎったのは、弟子の顔回と子産しかいない。理由は、孔子が個人的に恩義を受けたからだ。
とんでもないダブルスタンダードだが、孔子はまったくそう思っていない。自分こそ法だからだ。法は統治者が勝手に出来るもの、法の代わりとなる礼法は、自分の脳内で想像したもので、つまり孔子は論語時代の天下に対して、おとなしく私に従いなさいと言っていたわけ。
これは孔子が失脚し、亡命し、放浪の苦労を経た後でも変わらない。違いと言えばせいぜい、してはならぬことを民に教える事、つまり庶民教育の必要性を言っただけ。貧乏人からはい上がった成功者が、概して貧乏人に厳しいように、孔子もまた、庶民に厳しかった。
孔子また、社会の底辺からのし上がった人物だが、その孔子が厳罰統治を行ったのは、貴族も嫌いだが庶民はもっと嫌いだったからだろう。孔子の前半生は、よほどひどい目に遭ったのだろう。つまり孔子にとっての法とは、気ままに庶民を躾ける道具でしかなかったのである。
もちろん孔子が、庶民をいじめて楽しむ嗜虐趣味者だったわけではない。しかし羊飼いが羊を可愛がり、時に命を投げ出しながら守っても、終わりには処分して食べるように、孔子にとって民とは経済動物であり、法や礼法はそのための道具だった。だから政治を「牧民」という。
語源
字通
「法」(金文・明朝体):法は古くは灋で、のち廌を略して法の字となった。もと羊神判の様子を表した字で、原告被告両者が、それぞれ訴状と羊を神に捧げる。神判が下って敗訴者が決まると、敗訴者の訴状を入れた𠙵器の蓋は、虚偽として外され「𠙴」と描かれた。それに敗訴者の姿「大」を加えたのが「去」。敗訴者が神判に供えた羊と、𠙴と敗訴者を合わせて水に投げ、その穢れを祓った。さんずいが付いているのはそのためで、投げ込んだ羊を解廌という。
学研漢和大字典
音 pıuǎp – pıuʌp – fa – fa〔fǎ〕。「水+廌(しかと馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)」の会意文字で、池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られなうようにしたさま。珍獣はそのわくのなかでは自由だが、そのわく外には出られない。ひろくそのような、生活にはめられたわくをいう。その語尾がmに転じたのが範(bıǎm)で、これもわくのこと。▽促音語尾のpがtに転じた場合は「ホッ」「ハッ」と読む。規はコンパスのことで、きまった標準。律は、即(くっつく)と同系のことばで、いつもそれにくっついて離れてはならないきまりのこと。
なお羊神判について詳細は、『墨子』明鬼下篇を参照。
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