(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子曰、「君子恥其言而*過其行*。」
校訂
武内本
清家本により、文末に也の字を補う。唐石経之を而に作り句末也の字なし。
→子曰、「君子恥其言之過其行也。」
復元白文(論語時代での表記)
恥
※論語の本章は「恥」の字が論語の時代に存在しない。「之」「行」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、君子は其の言之其の行に過ぐるを恥づる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「教養ある人格者は、その言葉がその行いを超えるのを恥じるのだ。」
意訳
できもしないことをベラベラしゃべるな。
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は言葉が過ぎるのを恥じる。しかし実践には過ぎるほど努力する。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子認為說到而沒做到很可恥。」
孔子が言った。「君子は言った事を行わないのを、とても恥ずべき事だと思う。」
論語:語釈
君子
論語の本章では”教養ある人格者”。孔子生前は下級の士族を含む”貴族”を意味するだけだったが、孔子より一世紀後の孟子は孔子の教説を書き換え、用語も意味を変えた。「君子」もその一つ。詳細は論語における君子を参照。
而→之
「而」は論語の本章では”…であって同時に…”。漢文の接続辞の一つだが、前後の概念が分かちがたく一体化しているときに用いる。詳細は論語語釈「而」を参照。
論語の本章では、古注と新注でこの部分が異なっている。
古注『論語集解義疏』
子曰君子恥其言之過其行也疏子曰至行也 君子之人顧言慎行若空出言而不能行遍是言過其行也君子恥之小人則否
本文。「子曰君子恥其言之過其行也」。
付け足し。先生は行いの至りを言った。君子の人は、言葉に気を付け行いを慎み、もし言っただけで行えないことがあれば、それは全て言葉が行いより大げさだ、と思う。
新注『論語集注』子曰:「君子恥其言而過其行。」行,去聲。恥者,不敢盡之意。過者,欲有餘之辭。
本文。「子曰、君子恥其言而過其行」。行は尻下がりに読む。恥とは、積極的にはやり尽くさない、のことだ。過とは、やり過ぎるのを望む言葉だ。
新注は唐石経と同じく「而」だが、それより古い古注では「之」になっている。この部分は漢石経が残っていないようだが、版本の時系列に従い「之」と改めた。
(甲骨文)
「之」は論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
恥
(篆書)
論語の本章では”恥じる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同訓部品は存在しない。同訓近音は金文以前で確認できない。『学研漢和大字典』によると、耳は、柔らかいみみ。恥は、「心+音符耳」の会意兼形声文字で、心が柔らかくいじけること、という。詳細は論語語釈「恥」を参照。
”はじ”おそらく春秋時代は「羞」と書かれた。音が通じないから置換字にはならないが、甲骨文から確認できる。『定州竹簡論語』の置換字「佴」は、「恥」とは音も語義も違うが、こちらも論語の時代に存在しない。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行動”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
論語:付記
論語の本章は、文意は明確だし、定州竹簡論語になく、かつ「恥」の字を使っていることから、後漢儒者による贋作は明らかで、現代日本の論語読者としては、特につけ加えることはない。だが中国人にとって、論語の本章の「而」を用いた修辞は奇妙に思えるらしく、『論語集釋』はあれこれ書いている。
皇本作「君子恥其之過其行也。」潜夫論交際篇「孔子疾夫言之過其行者。」亦作「之」字。論語衍説、諸説皆以此為一事、謂恥其之過於行也。於義固通、但須易「而」字為「之」字乃可。天文本論語校勘記、足利本「而」作「之」、古本、津藩本、正平本末有「也」字。
按、礼雑記「有其言而無其行、君子恥之。」又表記「君子恥有其辞而無其徳、有其徳而無其行。」皆足与疏説相証。邢疏、「此章勉人使言行相副也。君子言行相顧、若言過其行、謂有言而行不副、君子所恥也。」拠此、則邢本亦当皇本同、似今注疏本皆依集注校改、非其旧矣。玩本文語気、不当為両事、集注失之。
本章を古注の皇侃本は、「君子恥其之過其行也」と書き、後漢初期の『潜夫論』交際篇は、「孔子疾夫言之過其行者」と書いている。どちらも「而」ではなく「之」と記す。『論語衍説』によると、諸説みなここを「之」と書き、「恥其之過於行也」と記す。「之」と「於」は言うまでも無く語義を共有するが、「而」の字に限っては、「之」に改めた方がいいだろう。日本の天文本論語の校勘記には、「足利本は而を之と書き、古本や津藩本、正平本には、文末に也の字が無い」とある。
私の考えでは、『礼記』雑記篇に「有其言而無其行、君子恥之」とあり、また表記篇に「君子恥有其辞而無其徳、有其徳而無其行」とある。どちらも古注の説と一致している。北宋邢昺の注釈では、「本章は人に言行一致を勧めたのである。君子は発言と行動を照らし合わせ、発言が行動より大げさなら、”口先だけで行動が伴わない”と判断し、恥じたのである」と言う。これによると、邢昺本も古注の皇侃本と同じであり、今通用している論語の注釈本は、全て朱子の新注によって書き改められたもので、古い姿を留めていない。本章の言葉をよくよく吟味してみると、「而」でつないで「言」と「行」を対立させているのは、新注の間違いだと思う。
また元の陳天祥の『四書辨疑』を引いてこうも記す。
註文以耻其言與過其行分為兩意解耻字為不敢盡之意解過字為欲有餘之辭聖人之言恐不如此之迂曲也且言不過行有何可耻行取得中豈容過餘過中之行君子不為過猶不及聖人之明論也註文本因而字故為此說本分言之止是耻其言過於行舊說君子言行相顧若言過其行謂有言而行不副君子所恥南軒曰言過其行則為無實之言是可耻也耻言之過行則其篤行可知矣二論意同必如此說義乃可通而字蓋之字之誤
注釈。朱子の新注では、「耻其言」と「過其行」を分けて二つの意味に取り、「恥」の字を解説して”意図的にやり尽くそうとはしない”と言い、「過」の字を解説して”やり過ぎようと望む”と言っている。聖人孔子が言ったのは、こんな回りくどい意味ではない。それに「言葉が行いより大げさでない」のなら、何で恥じなければならぬのだ? 行動がほどほどに収まっていれば、どうしてやり過ぎを望んだりするのか?
やり過ぎは君子の戒めるところで、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と聖人孔子も仰っている。新注は「而」の字に基づいて、こういう説を述べているのだが、もともと「而」は「之」だったのであり、行動より発言が大げさなのを恥じているだけだ。
古い注釈では、「君子は行動と発言を照らし合わせて、言葉が過ぎていたら、それは口先ばかりと反省し、恥じる」と言っている。南宋の南軒曰く、「行いより言葉が過ぎていたら、それはつまりハッタリであり、恥ずべきだ。十分反省したら、手厚い行いの何たるかを知るだろう。」
二つの説はほぼ同じだが、論語の本章の要旨は、この通りだと思う。そして「之」の字が正しく、「而」の而は間違っている。(『四書辨疑』巻七33)
新注=宋儒の朱子による論語の解釈は、中華帝国の公式解釈で、それへの批判は、時に刑死の覚悟が要った。中国では古典や文芸の評論が、一大政治事件に発展する例は珍しくない。殺戮の限りを尽くした文化大革命が、『海瑞罷官』という戯曲の評論から始まったように。
科挙=高級官僚採用試験も、朱子の解釈に従って出題され、採点された。だから科挙に挑む者は、必死になって朱子の注釈を丸暗記したのだが、幼少期から叩き込まれるため、オカルト満載の朱子学的解釈に、ほとんど疑いを持たない儒者ばかりが出来上がった。
- 論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」
だから上掲の批判は大胆に思えるが、実はタネも仕掛けもある。『四書辨疑』を書いた陳天祥は元代の儒者で、朱子学が帝国のイデオロギーに採用される明初より前だし、『論語集釋』を編んだ程樹徳は、清儒ではあるが活動時期は、清末から民国初期にかけてだった。
権力が一切に優先する。中国人の作る社会は、ロシヤよりなお恐ろしや。
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