(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子曰、「晉文公譎而不正、齊桓公正而不譎。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「晉文公矞a(形近)而不正,齊桓公正而不矞。」378
- 矞、今本作”譎”。矞爲譎之省、見『集韻』。
→子曰、「晉文公矞而不正、齊桓公正而不矞。」
復元白文(論語時代での表記)
譎 譎
※桓→亘。論語の本章は譎の字が論語の時代に存在しない。「正」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、晉の文公は矞り而正しからず、齊の桓公は正しくし而矞らず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「晋の文公は偽って正しくない。斉の桓公は正しくて偽らない。」
意訳
同じいにしえの覇者でも、晋の文公は小細工が多くて悪賢い。斉の桓公は素直で嘘がない。
従来訳
先師がいわれた。
「晉の文公は謀略を好んで正道によらなかった人であり、斉の桓公は正道によって謀略を用いなかった人である。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「晉文公狡詐而不正直,齊桓公正直而不狡詐。」
孔子が言った。「晋の文公はずるくて正直でない。斉の桓公は正直でずるくない。」
論語:語釈
文公
BC696 – BC628年、在位BC636年 – BC628年。春秋時代の晋の君主。姓は姫、名は重耳(ちょうじ)、おくりなは文。晋の公子で、内乱を避けて19年間諸国を放浪し、即位後、斉の桓公に次ぐ二人目の覇者となった。→wikipedia
桓公
? – BC643年、在位BC685年 – BC643年。春秋時代の斉の君主。姓は姜、名は小白、おくりなは桓。斉の公子で、内乱を避けて莒国に逃亡し、帰国して即位すると名宰相の管仲に政治の一切を任せ、初の覇者となった。BC645に管仲が死ぬと即座に国政が乱れ、桓公は取り巻きに裏切られ、監禁されて餓死した。→wikipedia
譎(ケツ)→矞
(金文大篆)
論語の本章では”だます”。定州竹簡論語の「矞」は、「譎」に通ずと『大漢和辞典』に言う。
『学研漢和大字典』によると「言+矞(ややこしくいりくんだ)」の会意兼形声文字で、意味はいつわる。一方『字通』では矞は矛を台座の上に樹てる形で、これを立てて巡察を試みることを遹・遹正という。仰々しく飾って威を示すので、権詐・謬欺の意を生じたのであろう、という。詳細は論語語釈「譎」を参照。
正(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”正しい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。
『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。
論語:付記
論語の本章出取りあげられた覇者二人のうち、智力や品行の面で言えば晋の文公の方がはるかに上だが、文公はちまちまとした小細工を好み、苦労を共にした側近を見殺しにしている。
一方斉の桓公は無類の女好きで、管仲を「父上」=仲父と呼んで政治を全て任せ、自分は後宮に入り浸って享楽の限りを尽くした。その代わり大人物で、ちまちましたことを一切せず、管仲を信じ切って生涯信頼が揺るがなかった。
有司の齊桓公於事を請ふあり。桓公曰く、「以て仲父に告げよ」。有司又請ふあり。公曰く、「仲父に告げよ」。是の若き三たびあり。習ふ者曰く、「一に則ち仲父、二に則ち仲父。君為るは易き哉!」桓公曰く、「吾未だ仲父を得ざるや則ち難し、已に仲父之後を得たり。曷(なん)ぞ其れ易から不ると為す也。」
役人が桓公に決済を乞う。桓公は言った。「仲父に問え。」役人がまた決済を求めた。公は言った。「仲父に問え。」このようなことが三度あった。桓公の近習が言った。「一に仲父、二に仲父。殿様稼業も楽でございますなあ。」桓公が言った。「仲父がいない時には、私はひどい目に遭った。だがすでに、仲父の後ろ盾を得ている。楽をするのも当然だ。」(『呂氏春秋』任数3)
だが悪党呼ばわりされるほど、文公が悪かったわけではなく、桓公は天真爛漫だったかも知れないが、褒めちぎるほどの名君ではない。だからだろうか、『論語集釋』に引く中国儒者も、本章は「何か変や」と思ったらしい。
史記晉世家重耳奔狄是時年四十三又云重耳出亡凡十九歲而得入時年六十二矣果爾誠可為老然遷多妄說不若左傳國語足信左傳昭十三年叔向曰我先君文公生十七年亾十九年國語僖負覉曰晉公子生十七年而亾按此則文公入國甫三十六歲即薨亦只四十四耳杜元凱言戰城濮文公年四十近之
『史記』の晋世家では、のちの文公である重耳は、四十三歳で蛮族の地へと亡命したという。また亡命の期間は十九年に及ぶと言う。だから帰国して即位したときは、もう六十二になっていた。それゆえ老い先短いのを気にして焦り、悪事を働いたということらしい。
だが司馬遷は間違っている。『左伝』や『国語』の方が信用できる。『左伝』の昭公十三年、晋の家老の一人・叔向(=羊舌肸)がこう言ったと書いてある。「我が先君の文公は、御年十七で亡命され、十九年間放浪された」と。『国語』では僖負覉が言った。「晋の公子は十七歳で亡命した」と。
すると文公は帰国した時、やっと三十六歳だったことになる。そして亡くなったのもたったの四十四歳だ。杜元凱も言っている。「楚との間の、城濮の決戦の時、文公は四十かそこらだった」と。(『四書釋地』四書釋地三續卷中50)
文公の史実については、訳者の手に余るから何とも言えない。だが孔子が文公を悪党扱いしたというのには、訳者もまた「変や」と思う。その理由がこれ。
且芝蘭生於深林,不以無人而不芳;君子修道立德,不為窮困而敗節,為之者人也,生死者命也。是以晉重耳之有霸心,生於曹、衛;越王句踐之有霸心,生於會稽。故居下而無憂者,則思不遠;處身而常逸者,則志不廣。庸知其終始乎。
(孔子一行が陳蔡のあたりで包囲され、食を断たれて難儀した。怒り狂ってブツクサ言った子路に孔子が答えた。)
「…かぐわしい芝草や蘭草は、誰もいない森の奥に生えるが、人がいないからと言ってかぐわしくないわけではない。君子が修業して技能を高めるのは、困窮したときに血迷わないようにするためだ。人間は努力する、どうなるかは天が決める。ジタバタしても始まらない。
のちの文公が覇者への道を決意したのは、苦しい亡命の最中だったし、越王勾践が覇道を決意したのも、会稽の戦いで大敗した後だった。だから不遇にもめげない者だけが、やがて大望を達成する。目先のことにあくせくする者は、大した志望は持たないものだ。そんな者に、どうして事の移り変わりが分かるものか。」(『孔子家語』在厄1)
文公を悪く言っていない。むし不遇の時にも大望を忘れなかった大人物として説いている。ほぼ同じ話を『荀子』も伝えており、戦国時代が終わるまでは、文公悪党説は儒家の間で語られなかった。秦代の儒者は始皇帝が怖くて、ひたすら大人しくしており新説を立てていない。
「焚書坑儒」の後半はでっち上げで、罰されたのは始皇帝を欺したオカルト方術士どもだったと『史記』始皇帝本紀を読めば分かる。となると文公悪党説を言い出したのは、どうやら漢儒、それも論語の本章が定州竹簡論語にあることから、董仲舒あたりの創作らしい。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
というのも、漢儒で文公の悪口を書いた者が、他に見あたらないからだ。漢儒の先駆者は高祖劉邦に用いられた叔孫通だが、書いたものが残っていない。次に古いのは『新書』を書いた賈誼で、取り立てて文公を悪党だとは書いていない。
古者周禮,天子葬用隧,諸侯縣下。周襄王出逃伯鬥,晉文公率師誅賊,定周國之亂,復襄王之位。於是襄王賞以南陽之地,文公辭南陽,即死得以隧下,襄王弗聽,曰:「周國雖微,未之或代也。天子用隧,伯父用隧,是二天子也。以地為少,余請益之。」文公乃退。
むかし周の礼法では、天子の葬儀には墓穴に向けて斜めの道を掘って棺を運び、諸侯の場合は縄で吊り下ろした。周の襄王が亡命を余儀なくされたとき、晋の文公が兵を出して賊を討ち、周の内乱を鎮めた。襄王は復位すると褒美として、南陽の地を文公に与えた。
文公「南陽は結構ですから、私にも斜めの道をお許し下さい。」
襄王「ダメじゃ。周は衰えたとは言っても滅んではおらん。恩義ある伯父どのの願いじゃが、許せば天子が二人になってしまう。南陽が小さいというなら、足してやるから辛抱せい。」
文公は「では結構です」と願いを引っ込めた。(『新書』審微4)
物わかりがいいと言うべきだ。それにしても、なぜ悪党説など言い出したのだろう? 考えられるのは一つで、儒者官僚にとって、あれこれ口出すする君主は暴君で、何でも任せてくれるのは名君だからだ。要するに、儒者がワイロと利権を独占しやすくするための作文である。
なお「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
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