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論語詳解349憲問篇第十四(17)桓公、公子糾’

論語憲問篇(17)要約:孔子先生が、いにしえの名宰相・管仲について評論します。仕えていた公子に殉じなかったのは、仁者ではないのでは、という子路たちに対し、先生は言いくるめるような詭弁を弄して黙らせた、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文

子路曰、「桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死。」曰、「未仁乎。」子曰、「桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁。如其仁。」

校訂

定州竹簡論語

……死a,管中b不死。曰:379……子曰:「桓公[九合諸侯],不以兵車,菅中c之力也。如[其仁]d。」380

  1. 死、今本死下有”之”字。
  2. 中、今本作”仲”。
  3. 菅中、今本作”管仲”。
  4. 如其仁、今本重複句、簡本未見重文符号。

→子路曰、「桓公殺公子糾、召忽死、管中不死。」曰、「未仁乎。」子曰、「桓公九合諸侯、不以兵車、管中之力也。如其仁。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文路 金文曰 金文 亘 金文公 金文殺 金文公 金文子 金文丩 金文 召 金文曶 金文死 金文之 金文 官 金文仲 金文不 金文死 金文 曰 金文 未 金文仁 甲骨文乎 金文 子 金文曰 金文 亘 金文公 金文九 金文合 金文者 金文侯 金文 不 金文㠯 以 金文兵 金文車 金文 官 金文仲 金文之 金文力 金文力 金文也 金文 如 金文其 金文仁 甲骨文 如 金文其 金文仁 甲骨文

※桓→亘・糾→丩・忽→曶・管→官・仁→(甲骨文)。論語の本章は、「也」「未」の用法に疑問がある。

書き下し

子路しろいはく、桓公くわんこう公子糾こうしきうころす、召忽せうこつし、管中くわんちうせず。いはく、いまよきひとならざるいはく、桓公くわんこう諸侯しよこう九合きうがふするに、兵車へいしやもちいざるは、管中くわんちうちからかななりよきひとごとし。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子路 孔子
子路が言った。「桓公は公子キュウを殺し、召忽ショウコツは死んだ。」
別の者が言った。「管仲はその時まだ仁者ではなかったのですか。」

先生が言った。「桓公はしばしば諸侯を集めて従わせたが、兵車で脅さなかったのは管仲の力だ。それは仁と同じだ。」

意訳

子路 喜び 別の者
子路「桓公が公子糾を殺したとき、お付きの召忽は後を追って死にました。」
別の弟子「となると、同じお付きだった管仲は、その時点ではまだ貴族らしい貴族でなかったのですか?」

孔子 居直り
孔子「桓公は何度も諸侯を呼びつけて覇権を認めさせたが、兵車で脅さなかった。これは管仲の差し金だ。それは立派な貴族らしいふるまいではないかね?」

従来訳

下村湖人

子路がいった。――
「斉の桓公が公子糾を殺した時、召忽は公子糾に殉じて自殺しましたのに、管仲は生き永らえて却って桓公の政をたすけました。こういう人は仁者とはいえないのではありますまいか。」
先師がこたえられた。――
「桓公が武力を用いないで諸侯の聯盟に成功し、夷狄いてきの難から中国を救い得たのは、全く管仲の力だ。それを思うと、管仲ほどの仁者はめったにあるものではない。めったにあるものではない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子路說:「齊桓公殺公子糾時,召忽殉死,管仲卻不去死。管仲不算仁人吧?」孔子說:「齊桓公九合諸侯,不用武力,都是管仲的功勞。這就是仁,這就是仁。」

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子路が言った。「斉の桓公が公子糾を殺したとき、召忽は殉死したのに、管仲は生き残りました。管仲は仁者の中には入らないですか?」孔子が言った。「斉の桓公は九度諸侯を集合させたが、武力を使わなかった。これは管仲の功績だ。必ず仁者に違いない。必ず仁者に違いない。」

論語:語釈

、「 ()、 () 。」、「 。」 、「 ( 。」


桓公

斉桓公

? – BC643年、在位BC685年 – BC643年。春秋時代の斉の君主。姓は姜、名は小白、おくりなは桓。斉の公子で、内乱を避けて莒国に逃亡し、帰国して即位すると名宰相の管仲に政治の一切を任せ、初の覇者となった。

公子糾(キュウ)・召忽(ショウコツ)

糾 金文大篆
「糾」(金文大篆)

公子糾は斉の殿様即位レースで、桓公=公子白のライバルだった人。桓公の一代前、ジョウ公は暴君だったので、公子白と同様、国外の魯国に逃げていたが、襄公が死ぬとお付きの召忽・管仲と共に斉に向かった。公子白のお付き・鮑叔牙ホウシュクガの機転で先に桓公が即位し、公子糾は魯に追い返され、やがて斉の圧力で殺された。召忽は後を追って自殺した。

「糾」の初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。部品のキュウ(カ音不明)の語義は”まつわる・まとう”と『大漢和辞典』は言い、初出は甲骨文。詳細は論語語釈「糾」を参照。

「忽」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しないが、「曶」が論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「忽」を参照。

管仲

管仲
?ーBC645。姓は管、名は夷吾、字は仲。中国春秋時代における斉の政治家で、桓公に仕え、覇者に押し上げた。公子糾のお付きだったが、公子白のお付き・鮑叔牙とはかねてからの友人であり、鮑叔牙の推薦で命を助けられ、桓公の宰相となった。

定州竹簡論語の「管中」「菅中」について、前者は「仲」と「中」は金文以前では同形の場合もあるので異体字として解釈すればいいが、「管」”くだ”と「菅」”すげ”はかんむりが違う。『大漢和辞典』はすげについて「一に管(くだ)に作る」とあるが、どのような場合が「一」かは書いていない。

定州竹簡論語の持ち主は前漢の中山懐王・劉脩だが、帝室の一員で王爵を持つ大貴族の遺品に、誤字の多い論語本があるのは何とも不思議。不良品を罰されなかったのだろうか?当時印刷技術は無かったから筆写だが、王自身の手によるものかもしれない。

語義 くだ すげ やくにん じなん まんなか
金文 × × 官 金文 仲 金文 中 金文
上古音 kwɑn(上) kan(平) kwɑn(平) dʰ(去) t(平/去)
語釈 詳細 詳細 詳細 詳細 詳細

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

二度目の「いわく」を、既存の論語本では子路の発言だとするが、根拠がない。孔子と子路の他に、弟子がもう一人いたのである。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…でない”。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

未仁乎

論語の本章では”まだ仁者でなかったのですか”。孔子は論語八佾篇22で、管仲を仁の詳細なスペック=礼を知ると言っているが、その章は贋作。論語の次章では子貢に「管仲は不仁者か」と問われて、ズバリ仁者だとは言わないが、反論して言いくるめている。

九合

九 金文 合 金文
(金文)

論語の本章では”十を超えない程度にしばしば”。きっかり九回殿様を集めたのを言うのではない。中国人は数字の扱いが極めていい加減で、それを指摘されて都合が悪くなると、記録の方を書き換えるというすごいことを平気でやってのけるので、数字に関しては真に受けない方がいい。

儒者の教養的には、以下の通りといわれる。

戦車の会:北杏(BC681年)、ケン(BC680年・BC679年)、テイ(BC659年)、カン(BC647年)、ワイ(BC644年)
乗車の会:陽穀(BC657年)、首止(BC655年)、葵丘キキュウ(BC651年)

『学研漢和大字典』によると「合」は会意文字で、「亼(シュウ)(かぶせる)+口(あな)」で、穴にふたをかぶせてぴたりとあわせることを示す、という。詳細は論語語釈「合」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

兵車

兵 金文 車 金文
(金文)

論語時代の主力兵器・戦車のことだが、諸侯の会合には「兵車の会」=相互示威行為または軍事同盟と、「乗車の会」=親睦会とがあった。しかし実際にはたびたび兵車をあちこちに送りつけたから覇者になったのであり、南方の楚国に対してはあからさまな軍事示威行動に出た。

管仲が偉かったのは、無駄に軍隊を出さず、つまりは戦費を費やさず戦死者も出さなかったなかったことにあるので、必要とあればためらいなく戦争に打って出た。
四書引蒙略図解 墨車 乗車
論語時代の乗用車

『学研漢和大字典』によると「兵」は会意文字で、上部は斤(おの→武器)の形。その下部に両手を添えたもので、武器を手に持つさまを示す、という。詳細は論語語釈「兵」を参照。

不以兵車

不 金文 以 金文
「不以」(金文)

論語の本章では、”兵車で脅して呼びつけなかった”。孔子の美しい誤解か、あるいは夢想につじつまを合わせるための強弁だが、そう言っているからにはそう訳すしかない。

如其仁

如 古文
「如」(古文)

伝統的な論語本では、「その仁にしかむや」と読むが、詠嘆の記号は原文にはない。

武内本によると「如猶奈のごとし、又如何と同義、此章管仲の功績を称して而も其仁を許さざる也」とある。これに従うなら「いかんぞ其れ仁ならん」と読み下し、”どうして管仲が仁者であろうか”の意となる。ただしそう読み変える根拠が無い。

なお現伝本ではこの句は繰り返されているが、定州竹簡論語による校訂から、その重複は前漢末期以降の儒者によるデタラメか、筆写の間違いと思われる。

馬融 鄭玄
それを後漢の儒者が改めもしなかったのは、頭が悪かったからだが(論語解説「後漢というふざけた帝国」)、存外その連中の仕業かも知れない。

「如」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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孔子はめったに人を仁者と呼ばず、論語時代人では顔淵だけ、歴史人物では伯夷・叔斉兄弟と(論語述而篇14)、殷の王族微子・子・比干だけだった(論語微子篇1)。そしてどのような意味で「仁」を用いているかで、本章の真偽が判断される。

論語の本章とどちらが元ネタか判じがたい別伝がある。

子路問於孔子曰:「管仲之為人如何?」子曰:「仁也。」子路曰:「昔管仲說襄公,公不受,是不辨也;欲立公子糾而不能,是不智也;家殘於齊,而無憂色,是不慈也;桎梏而居檻車,無慚心,是無醜也;事所射之君,是不貞也;召忽死之,管仲不死,是不忠也。」孔子曰:「管仲說襄公,襄公不受,公之闇也;欲立子糾而不能,不遇時也;家殘於齊而無憂色,是知權命也;桎梏而無慚心,自裁審也;事所射之君,通於變也;不死子糾,量輕重也。夫子糾未成君,而管仲未成臣,管仲才度義,管仲不死束縛而立功名,未可非也。召忽雖死,過於取仁,未足多也。」

子路 孔子
子路「管仲とはどんな人ですか?」孔子「仁の人だな。」

子路「管仲ははじめ斉の襄公に進言して相手にされませんでした。人を見る目がありません。公子糾を跡継ぎに立てようとして失敗しました。能なしです。亡命して斉に残された家族は皆殺しになりましたが、平気な顔をしていました。愛情がありません。捕まって檻に入れられても、平然としていました。恥を知りません。自分が矢を射かけた桓公に仕えました。節操がありません。召忽が殉死したのに、自分は生き残りました。忠義がありません。」

孔子「襄公に説いて聞き入られなかったのは、襄公がバカ殿だったからだ。公子糾の擁立に失敗したのは、運が悪かったからだ。家族に涙しなかったのは、自分の使命を知っていたからだ。檻に入れられて平気で居たのは、自分で自分を裁いていたのだ。射かけた桓公に仕えたのは、世の変転に通じていたからだ。公子糾に殉じなかったのは、事の軽重を知っていたからだ。

そもそも公子糾は即位しておらん。だから管仲も忠義立てする理由がない。管仲の才能は、何を成すべきかを知るに十分であり、死なずに縄目を受けたが功績も大きかったから、殉死しなかったのをとがめるには及ばない。召忽が殉じたのはやり過ぎの仁と言うべきで、褒め讃える程のことではないな。」(『孔子家語』致思9)

子路と孔子が挙げた仁の要件は、貴族としての仁者を思わせる箇条もあるが、「忠義」を持ち出していることから、この別伝は戦国時代以降の創作と分かる。召忽を「やり過ぎの仁」と断じたのもそれに添う判断で、論語の本章の解釈に示唆を与える。

すなわち本章は、殉じたかどうかで召忽と管仲を対比させており、つまり焦点は忠義と思われる。すると本章もまた戦国時代の創作となり、文中の「也」も断定として解釈して構わないことになる。

また別伝は、”即位しなかった公子糾に、臣下としての忠節を尽くす必要は無い”と、まるで悪徳弁護士のような詭弁を弄しており、孔子の発言とは信じがたい。こんな詭弁を弄する師匠に、大勢の弟子が死の危険さえあった放浪に同行するとは思えないからだ。

そこで論語の本章に視点を戻すと、別の者が召忽殉死時点での管仲を”まだ仁者でなかったのか”と問うたのに、孔子は管仲が桓公の覇業を達成した後の事を持ち出して、仁者であると断じている。孔子らしくない言いくるめで、孔子の発言でないかもしれない。

そして孔子の後継者である孟子は、並みの褒め方でしか管仲を扱っておらず、次いで荀子は一層高く管仲を評価した。従って論語の本章も別伝も、その成立は戦国時代も末になってからで、おそらくは漢儒による作文の可能性が捨てきれない。

政治の全てを任せた桓公と、好き放題に政治をいじった管仲の君臣セットは、帝国儒者の憧れだったからである。

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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