(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
子曰、「臧武仲以防、求爲後於魯。雖曰不要君、吾不信也。」
校訂
定州竹簡論語
……「臧武中a以房b求為376……[於魯,雖]曰不要c,吾弗377……
- 中、今本作”仲”。古文中、仲通、『説文』云:”仲、中也”。
- 房、今本作”防”。可通假。
- 今本”要”下有”君”字。
→子曰、「臧武中以房、求爲後於魯。雖曰不要、吾弗信也。」
復元白文(論語時代での表記)
房
※論語の本章は房(防)の字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため概念が論語の時代に存在しなかったとは言えない。ただしもし也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
子曰く、臧武中房を以て、魯於後を爲てむことを求む。要めずと曰ふと雖も、吾は信ぜ弗る也/也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「臧武仲は防のまちで、魯国に自分の跡継ぎを立てるよう求めた。国君の支援を求めなかったと言われているが、私は信じないね。」
意訳
臧武仲は領地の防に引き籠もって、自分の跡継ぎを立てるよう魯国に求めた。殿様にすがろうとはしなかったと言われているが、私は信じない。襄公さまを信じていたのだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「臧武仲は、罪を得て魯を去る時、その領地であった防にふみとどまり、自分の後嗣を立てることを魯君に求めたのだ。彼が武力に訴えて国君を強要する意志はなかったといっても、私はそれを信ずるわけには行かない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「臧武仲以離開自己的封地作條件,要求冊立其後代做大夫,雖說表面上不是要挾君主,但實質上是。」
孔子が言った。「臧武仲は自領から立ち去る条件として、跡継ぎを家老として立てることを求めた。表面上は主君に強要しなかったと言っても、実際は強要したのだ。」
論語:語釈
臧武仲(ゾウブチュウ)
(篆書)
孔子が生まれた頃までに活躍した、魯の重臣。別名、臧孫紇。臧文仲(論語公冶長篇17)の子で、『春秋左氏伝』では成公十八年(BC573)に初めて名が見える。襄公二十三年(BC550、孔子生誕の翌年)、かねてより嫌われていた門閥三家老家の一家・孟孫氏に追われ、従来好意的だった季孫氏も同調して、国外に追われた。
臧武仲は一旦隣国の邾に逃れてから、自分の領地だった防に入り、宝物で占いに用いる大亀の甲羅を異母兄弟に贈り、家を断絶させないため、兄弟に跡を継ぐよう求めた。その結果弟が臧家を継いだが(『春秋左氏伝』襄公二十三年条)、その後臧家は振るわず、論語にもほとんど言及が無くなる。
なお臧武仲については、論語憲問篇13にも「知恵者」として言及がある。
防→房
論語の本章では、魯国の邑(城郭都市)の名。下図左下。面倒くさい住人が多くて統治に手間のかかった、赤字で記した「単父」(論語憲問篇3付記参照)のすぐ北にある。
出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/
漢字「防」と「房」は同音同調で、ともに論語では本章のみに登場。「防」の初出は前漢の篆書。「房」の初出は楚系戦国文字。共に論語の時代に存在しない。ただし固有名詞のため、論語の時代に都市名が存在しなかったとまでは言えない。詳細は論語語釈「防」・論語語釈「房」を参照。
後
論語の本章では”跡継ぎ”。『春秋左氏伝』の記事から、家名の断絶を恐れて、存続を願ったとされる。文字の詳細は論語語釈「後」を参照。
不要君
「要」(金文)
「君を要さず」と読むのは訳者も従来の論語解説本と同じだが、解釈は全く異なる。”君主を脅さなかった”のではなく、”君主に期待しなかった”のであって、”(武力で)脅す”という余計な情報が入ったのは、日本漢学界の「大人の事情」に過ぎない。
戦前の論語業界で権威だったのは、東京帝国大学教授だった宇野哲人で、宇野は本章についてこう書いている(『論語新釈』講談社学術文庫)。

臧武仲は防に拠って叛こうとする気勢を示した…この章は臧武仲の心の奸悪なことを誅めたのである。…君を要するのは上を無視するので、大きな罪である。武仲の領地は君から与えられたものである。罪を得て出奔した以上は、後嗣を立てる立てないは君の権限で、己の勝手にできることではない。しかるに、領地に拠って後嗣を立てることを請うたのは、彼が知を好んで学を好まないのに由るのである。(范祖禹の説)
最後まで読んで頭を抱えた。宇野の言葉として読み進めたのに、「ワシじゃない。どっかの儒者が言ってた」とは。ともあれこの作り事が一人歩きし、臧武仲悪党説が論語にぺったり貼り付くことになった。この膏薬はずいぶん頑固で、今に至るまではがれていない。
宇野の言う「范祖禹の説」とは次の通り。ついでに楊時の説も記す。
范氏曰:「要君者無上,罪之大者也。武仲之邑,受之於君。得罪出奔,則立後在君,非己所得專也。而據邑以請,由其好知而不好學也。」楊氏曰:「武仲卑辭請後,其跡非要君者,而意實要之。夫子之言,亦春秋誅意之法也。」
范祖禹「主君に強要するのは思い上がりであり、重い罪である。武仲の邑は、主君から拝領したものだ。罪を犯して国を出たあとは、主君の手に戻る。自分勝手に出来ないはずだ。それなのにその邑に立てこもって強要したのは、領地にこだわるあまり、道理を学ぶための学問を好まなかったからだ。」
楊時「武仲は下手に出て家名存続を乞うたが、跡継ぎを強要しなかったと言っても、実は強要したのだ。論語の本章に記された孔子先生の言葉は、先生が歴史書『春秋』を書いて、”過去の不届き者の悪行を、それとなく暴き立ててやる”と仰せになったのと同じ書き方で、武仲の強要をそれとなく、だ。」
以上をどう読むかは人それぞれだろうが、何の根拠も無く悪党呼ばわりしている。頭がおかしいとしか思えない。文化人類学的には、交通の杜絶した山奥の寒村などで、こういう集団発狂を観察できることがあるが、宋帝国は栄西が『喫茶養生記』で褒めちぎったように、紛れもないアジアの大国だったはずだが。
また宇野は「知」を”知識”と解したようだが、それでは文意が通じない。ここでは”知行”の意で、東京帝国大学教授の漢文読解力だろうと、所詮この程度である。ともあれこんなでっち上げは、どうせ軍国主義者の朱子も同じと思って、『論語集注』の残りを見てみると…。
やっぱりそうだった。
論語:付記
解説
既存の論語本で、従来訳のように「武力で脅した」と書いている本があるが、『春秋左氏伝』を読んで書いたとは思えない。宇野本などが儒者の猿真似で「武力で脅迫した」と書いているのを、そうした論語本は史実と鵜呑みにしているのではないか。
臧武仲が逃亡する際、門のかんぬきを切り落として逃げたことは『左伝』にあるが、それ以外は至って腰を低くしており、悪辣なことをしたという記録がない。孔子はほぼ同時代の人間だから、『左伝』にない情報を知っていたのかも知れないが、現代ではそれは憶測になる。
孔子が生まれた頃、魯国の政治権力は三桓=門閥三家老家に独占されていたわけではなく、臧家のような有力氏族もいた。三桓も季孫氏が圧倒的に強かったわけではなく、臧武仲の亡命騒ぎも、孟孫氏の代替わりを機会に、孟孫氏が季孫氏をそそのかした結果である。
『左伝』を読む限り、孔子は臧武仲が魯公を脅したとは思っておらず、むしろ自分と同様、殿様にすがろうとしたがかなわなかった、と論語の本章は解釈すべきだ。論語と言えば二言目には「三桓ガー!」と書くのは、知的に誠実な書き物とは言えない。
儒教にオカルトを持ち込んだのが、朱子を筆頭とする宋儒であることは、たびたび記したとおりだが、オカルトには例えば「政府は絶対に正しい」という思い込みを人に植え付け、それに都合のよい情報しか頭に入らなくさせる作用がある。愚民化政策の一種と言えよう。
- 論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」
愚民化は、漢儒の董仲舒が儒教を帝国のイデオロギーとして作り替えたころ以来の特徴で、儒教からこの作用を分別して「儒術」という。人を洗脳して従わせる技術を指す。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
そして平気でオカルトを儒教に持ち込んだ宋儒の高慢ちきは、科挙制度の確立と不可分だ。科挙制とは夢見がちな人類があこがれる賢人政治の一種で、試験秀才が社会を統治する仕組みだが、見事に失敗した。理由はいかなる賢人政治も、揃って一層の愚民化を目指すからだ。
そして何より差別と迫害と不公平を肯定し、反対者を虐殺する。住人の心は荒れ果てる。
余話
特権階級になりたい
その例。Redの本音は、自分から白状している。
Изменников подлых гнилую породу
”裏切り者は卑劣にも、腐り切ってはびこっている”
Ты грозно сметаешь с пути своего.
”君は奴らを震え上がらせて道から掃き出す”
Ты – гордость народа, ты – мудрость народа,
”君は人民の誇り、人民の英知”
Ты – сердце народа, ты – совесть его.
”君は人民の愛情、人民の良心”
(歌唱用訳)
党は砕く、腐り果てた
特権階級のウジ虫を
民の誇り、民の英知
民の愛が清め行く
それには一つの例外も無い。こんな歌を歌っている者こそが、特権階級そのものとなる。
このような「偉い人」に対抗する手段が一つある。それは孔子も説いた、「知らない事は知らないと自覚する」(論語為政篇17)ことだ。そうすればソーカル事件のような、例えば数理に対する劣等感に悩まされることもなくなる。こういうハッタリにも、怯えずに済む。
S(記号表現)/s(記号内容) = s(言表されたもの)、
S = (-1) によって、 s = √-1 が得られる(橘玲『”読まなくてもいい本”の読書案内』)
ラカンの理論を「疑似科学」とする見方もある。…ラカンは自らの理論を数式として表すことを好んだが、物理学者アラン・ソーカルらは、これが数学的にはまったくのデタラメであり、科学的な外観を装う虚飾であると批判した。(wikipediaジャック=ラカン条)
だが数理が不得手と自覚するなら、ごじゃごじゃした数式に、ただ一言問えばよい。「何ですかこりゃ」と。聞いても分からなければ、堂々と「分からん」と言えばよい。何せ孔子様が味方に付いている。怖がらずに断じたらよい。「はあ。あなた私を欺そうとしてますね。」
誰にでも出来る不幸予防法と思う。素人に分かるよう説明できない専門家は役立たずであり、素人に分かり得ない事物は危険物だ。かかわってはいけない。分かったことだけで楽しく生きる。孔子も次のように言って励ましている。
子路問於孔子曰:「君子亦有憂乎?」子曰:「無也。君子之修行也,其未得之,則樂其意;既得之,又樂其治。是以有終身之樂,無一日之憂。小人則不然,其未得也,患弗得之;既得之,又恐失之。是以有終身之憂,無一日之樂也。」
子路「君子になれても、まだクヨクヨと悩む羽目になるんですかね。」
孔子「そりゃあ無いな。君子が世のことわりを学ぶと、まだ自分に出来ない事は出来たあかつきを思って楽しみ、出来ることは、その成り行きを楽しむ。だから生涯悩みが無いし、毎日をクヨクヨ過ごすことも無い。
小人はそうでない。まだ出来ない事を、出来ないからと言って悩み、すでに出来ることも、成果を横取られたらどうしよう、と悩む。だから生涯悩むことになるし、悩まない日が来ることも無いわけだ。」(『孔子家語』在厄2)
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