論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰邦有道危言危行邦無道危行言孫
校訂
諸本
- 武内本:唐石経遜孫、孟子趙注及後漢書注引皆遜に作る、此本(=清家本)と同じ。
東洋文庫蔵清家本
子曰邦有道危言危行/邦無道危行言遜
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「邦有道、危言危行。邦無道、危行言遜。」
復元白文(論語時代での表記)
※危→(甲骨文)・遜→孫。論語の本章は、「行」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、邦道あらば、言を危ふくし、行を危ふくす。邦道無からば、行を危ふくし、言は遜る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「国政に原則があるなら、発言を危うくし、行動を危うくする。国政に原則が無いなら、行動は危うくするが、言葉はへり下る。」
意訳
政治がまともなら、言葉も行動も危険を背負って思い切りやってもいい。だがまともでないとなると、行動は危険を伴うしかないが、言葉は目立たぬよう人に合わせろ。さもないとひどい目に遭うぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「国に道が行われている時には、信ずるところを大胆に言い、大胆に行うべきである。国に道が行われていない時には、行いは無論大胆でなければならないが、言葉は多少ひかえて、婉曲であるがいい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「治世中,言談正直,行為正直;亂世中,行為正直,言談謙遜。」
孔子が言った。「治まった世の中では、言葉を正直に、行動も正直に。乱れた世の中では、行動は正直に、言葉はへり下れ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
邦(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では本章を丸ごと欠いているが、通例は避諱して「國」と記す。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”政治の原則”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
危(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”危うくする”。危険を冒して言ったりやったりすること。この語義は春秋時代では確認できない。字は殷代末期から戦国初期まで出土が絶えており、殷周革命で一旦亡びた漢語である可能性がある。ただ、「危言危行」「危行言遜」と対句になっていることから、「遜」”へり下る”と対になる語義が想定される。
孔子とすれ違うように春秋末から戦国を生きた墨翟の『墨子』では、”あやうい”の意で用いており、現行の『墨子』の文字列がいつ記されたか明瞭でないものの、春秋時代にもっとも近い可能性がある語義として、ここでは”危うくする”と解した。
字の初出は甲骨文。ただし字形は「厃」。「㔾」が加わるのは戦国文字から。字形は諸説あるが由来不明。ただし、甲骨文として比定されている字形は曲がった下向きの矢印であることでは一致しており、”高いところから落っこちる”ことではなかろうか。「キ」は慣用音。甲骨文で”落ちる”の意に用いた。金文の出土例は殷代末期のみで、短文に過ぎて語義を判読しがたい。詳細は論語語釈「危」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”発言”。初出は甲骨文。字形の由来は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行動”。この語義は春秋時代では確認出来ない。漢代の漢語では「行車」のように、障害なく進む、あるいは進ませる事を意味した。
字の初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
孫(ソン)→遜(ソン)
論語の本章では”譲る”→”へり下る”。
(甲骨文)
中国伝承の唐石経では「孫」。初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。
(金文)
日本伝承の清家本では「遜」。字の初出は西周中期の金文。ただし字形は〔王孫〕。現行字体の確実な初出は後漢の『説文解字』。初出の字形の由来は不明。現行字体は〔辶〕”みち”+「孫」swən(平)”年少者”で、年長者に道を譲るさま。春秋末期までの金文で”譲る”の意に用いた。詳細は論語語釈「遜」を参照。
晩唐の開成三年(837)に完工した唐石経より、日本の正和四年(1315)に書写された東洋文庫蔵清家本の方が新しいのだが、日本には唐石経が刻まれるより以前、おそくとも隋代に古注系の論語が伝わって(慶大蔵論語疏)伝承された。
それに対し唐石経は、当時さまざま文字列に異同のあった儒教経典を統一するために刻まれたから、当時の都合によって文字を書き換えた箇所が少なからずある(論語郷党篇19など)。従って論語の文字列としては、清家本の方が古い姿を伝えていると言える。
これに従い、「孫」→「遜」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語:付記
検証
論語の本章は、字の用例に疑問があるものの、文字史としては全て春秋時代に遡れ、史実の孔子の発言として扱う。
解説
政治に原則のない国とは、村八分をやる寒村と同じで、誰が次の標的になるか分からず、目立つとよってたかって叩かれることになる。論語時代の政界では、暗殺や私闘による殺害、君主による刑死は毎年のようにどこかで発生していたから、各国政界で働くには注意が要った。
しかし目立たないのでは既存の貴族層に孔子一門が対抗できず、「技能教養を身につけた、庶民出身の新興士族による政治」という孔子塾の存在意義も達成出来ない。だから仕官後の弟子たちは、あえて目立つ「危言危行」で自分らの存在を明らかにする必要があった。
しかし殿様も家老もいがみ合っているような国で、目立つのは命の危険があることだった。だから孔子は政治の実践論として、あえて巧言令色(論語学而篇3)とまでは言わないが、言葉はごまかして弟子の危険を減らしてやる必要があった。それが論語の本章に言う話の眼目。
余話
危険が危ない
論語の本章、「危」を古注は”はげしい”と解した。
註。苞氏曰、危厲也。邦有道、可以厲言行也。(『論語集解義疏』)
ここでの注釈を記したのは孔子没後473年に生まれた包咸で、安易に同調するわけにはいかない。その他「危」を”はげしい”の意に用いる後漢末の例は以下の通り。
二事:臣聞國之將興,至言數聞。內知己政,外見民情。是故先帝雖有聖明之資,而猶廣求得失。又因災異,援引幽隱,重賢良方正、敦樸有道之選,危言極諫不絕于朝。
二つ目には、私が聞いております所、国が発展するときには、偽りの無い言葉がしばしば上奏されます。それで内廷の政治を知り、天下万民の様子を知るのです。だから亡くなられた先の皇帝陛下は、神の如き洞察力をお持ちでありながら、さらに政治の長所短所についての意見をお求めになったのです。
災害があっても、隠れた賢者に意見を聞き、まじめな者を取り立て、ごまかしの無い政道の確立に努められましたから、激しい言葉や政治への不満が、朝廷で聞こえない日はなかったのです。(後漢・蔡邕:『蔡中郎集』陳政要七事疏)
無論、前後の漢を通じてみれば、例えば「危」を”ただす”と読む例が無いわけではない。
冉伯牛危言正行而遭惡疾,孔子曰:「命矣夫!斯人也而有斯疾也!」
(論語雍也篇10を引用して)冉伯牛は言葉を正して行いを正したのに、疫病に取り憑かれた。孔子が言った。「これも運命なのか。まさか君のような人が、こんな病にかかるなんて。」(後漢・班固:『白虎通徳論』・寿命2)
これに倣うなら「危言危行」は、”発言を慎み、行動を慎む”の意となる。だがそれでは、「危行言遜」で「危」と「遜」がほぼ同義になってしまい、対句が成立しない。また孔子の生きた春秋末期は、新興士族と血統貴族の交代期でもあり、弟子は旧貴族に対する活動家でなければのし上がれなかった。後漢初期の天下太平の時期、強固な帝国の官僚として生きるのが常識だった、班固の時代とは違う。
また「危」を”はげしい”と解した包咸の生きた前後漢帝国の交代期は、蟹歯゛リズムが横行するこの世の地獄で(論語先進篇8余話「花咲かじいさん」)、誰にもどうしようも無い政治状況だったからこそ、”危ない”行動で現実への対処が求められたのであり、単に行動をお上品にすることが、末世に生きる包咸の脳裏に上ったわけが無い。
同じく動乱期だった後漢末から三国に掛けて、食糧難に疫病、さらに寒波が追い打ちをかけ、庶民ばかりでなく貴族さえも、ただ食べるだけでも困難な時期だったことを、証言している記事がある。それは他ならぬ漢方・中国医学の開祖である、張仲景『傷寒論』が書かれたきっかけ。
余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。
私の一族はもとは大勢いて、二百人を過ぎていただろうか。だが漢末の建安年間(196-220)以降、十年と過ぎないうちに、一族の三分の二が死に絶えてしまった。その中で、寒さと栄養失調による死者は七割に上る。(『傷寒論』張仲景原序)
趙仲景は「孝廉」で取り立てられて地方長官を務めたが、「孝廉」とは地方貴族団の評判により、親孝行で・がめつくない、との評価を言う。地方豪族の一員でないと選ばれない称号であり、紛れもない貴族の一員と言ってよい。その一族の三分の二が、十年以内で死に絶えた。
「行いを激しく」せねば、食べ物にもありつけない地獄だったのだ。危ない、危ない。
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