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論語詳解335憲問篇第十四(3)士にして居を’

論語憲問篇(3)要約:門閥貴族に混じってのし上げるには、有能で高潔であるだけではなく、仕事にいそしむことが必要と孔子先生は考えました。ですから人に仕事をさせてのんびり成果だけ受け取るのは、泥棒にも等しいと考えたのです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰士而懷居不足以爲士矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰士而懷居不足以爲士矣

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……「士而懷居,弗足以為士矣。」364

標点文

子曰、「士而懷居、弗足以爲士矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 士 金文而 金文懐 懷 金文居 挙 舉 金文 弗 金文足 金文㠯 以 金文為 金文士 金文矣 金文

※論語の本章は、「以」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、もののふひまおもふは、もののふるになり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「士族であって安楽な生活を思う者は、それは士族とするに足りないのだ。」

意訳

孔子 不愉快
貴族でありながら、人に働かせて成果だけ盗み取ろうとする者は、ニセモノだ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「士たる者が、安楽な家庭生活のみを恋しがるようでは、士の名に値しない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「士如果戀家,就不配作士了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「士族がもし住まいを恋い慕うなら、とりもなおさず士族の資格が無い。」

論語:語釈

、「 ( 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

士(シ)

士 金文 士 字解
(金文)

論語の本章では”貴族”。春秋時代の身分秩序は、上から周王-諸侯-卿-大夫-士-庶民-奴隷で、士は最下級の貴族だが、論語の本章のように、士以上の貴族全般を指す場合がある。詳細は論語語釈「士」を参照。

なお「君子」も孔子の生前は、貴族一般を意味した。”教養ある人格者”という語義が付け加わったのは、孔子より一世紀のちの孟子からである。詳細は論語における君子を参照。

孔子の弟子はほぼ全員が庶民の出で、孔子塾で学び,稽古することによって貴族にふさわしい教養と技能を身につけ、仕官して貴族の仲間入りすることを目指した。これは貴族解の新参者になることを意味し、それゆえ孔子は弟子たちに、血統貴族以上の貴族らしさを求めた。

さもないと仕官できないし、してもバカにされるだけだったからだ。このように、弟子たちに孔子が要求した厳しい貴族らしさを、論語では「仁」という。詳細は論語における仁を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”~であり同時に~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

懷(カイ)

懐 金文 懐 字解
(金文)

論語の本章では”好ましく思う”。新字体は「懐」。初出は西周早期の金文。ただし字形は「褱」。現行字体の初出は秦系戦国文字。同音は同訓の「褱」と異訓の「壊」(去)。「褱」の字形は「トウ」+「衣」で、「眔」はのちに”視線で跡を追う”と解されたが、原義は「目」+「水」で”涙を流す”こと。「褱」は全体で”泣いて衣を濡らす”ことであり、そのような感情のさま。秦系戦国文字で”心”を示す「忄」がついたのは感情を示すダメ押し。原義は”泣くほどの思い”。金文では”思い”、”ふところ”、”与える”、「鬼」”亡霊”、”招き寄せる”の意に用いた。詳細は論語語釈「懐」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”座る”→””安楽な生活”。論語の本章は後世の創作を疑うべき理由がなく、「居」を修飾している言葉も無いので、原義に近い”安楽”と解するのが妥当と判断した。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

不(フウ)→弗(フツ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

弗 甲骨文 弗 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語は「弗」と記す。「弗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。

足(ショク)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”足りる”。初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~になる”→”~だとみとめる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

漢文では「おもえらく」と読んで、”思うことには”・”考えてみると”を意味する場合がある。「もって…となす」と読んでも構わない。論語の修辞的には持って回ったいい方で、”…であると判定する・評価する”を示すには、別に「謂」という言葉があった。

「謂」は同じ「いう」でも、”評論する・判定する”の意味をもつ。詳細は論語語釈「謂」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では”~てしまう”。字の初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史から見て全文春秋時代に遡れ、後世の創作を疑う要素が無い。史実の孔子の発言と扱ってかまわない。

解説

孔子の弟子たちは、庶民から士=最下層の貴族に成り上がろうとする野心的な青年だった。その中には、衣食の心配がなさそうな貴族の生活に憧れて、孔子塾に入門した者もいただろう。というより、大部分の動機は安楽そうに見える貴族の生活に憧れたからだろう。

そんな弟子に対し、「安楽な生活を夢見ているだけでは、士族になれない」と孔子はぴしゃりと説教した。春秋の貴族は戦時になれば従軍しなければいけないし、平時には行政という面倒くさい仕事と向き合わねばならなかったからだ。

それに、仕官するには武芸や教養が要る。それが孔子塾で教授した六芸だが、その習得も並大抵ではなかった。中には挫折しそうな弟子もいただろう。孔子はよき教師だったが、甘いだけがよき教師の条件でないこと、論語の本章が語っている。

余話

『論語集釋』に引く各種の儒者の感想文は、論語の本章に関しては至って少ない。古注は「居」を”住まい”と解し、新注は”安楽”と解している。また「懷居」という表現は、上古の漢文として極めて珍しく、論語の本章を除くと後漢の『申鑒』のみとなる。

或問曰難行。曰:「若高祖聽戍卒不懷居,遷萬乘不俟終日;孝文帝不愛千里馬;慎夫人衣不曳地;光武手不持珠玉,可謂難矣。抑情絕欲,不如是,能成功業者鮮矣。人臣若金日磾,以子私謾而殺之;丙吉之不伐;蘇武之執節,可謂難矣。」

儒者の捏造
ある人が為しがたい行いを問うた。その答え。

「もし高祖陛下が、兵士が気負って家に帰りたがらないのに任せて戦を進めたら、あっという間に天下を平定しただろう。だがあえて兵士を一時帰郷させた。文帝陛下は千里の馬を献上されても喜ばず、だから愛妃の慎夫人ですら贅沢なぞろ長いスカートを履かなかった。光武帝陛下は宝石を喜ばなかった。これらは為しがたい行いと言える。

感情を抑えて欲望を断たなければ、このようにはできないから、功績を挙げ得た者は世に少ないのだ。

武帝陛下の寵臣だった金日磾は、手の付けられぬ悪党になった我が子を殺した。丙吉は宣帝陛下の擁立に大功があったが、それを誇らなかった。蘇武は匈奴に使いに出てしくじりかけ、その責任を取って自決しようとした。これらも為しがたい行いと言える。」(『申鑒』雑言上8)

丙吉については、論語雍也篇11解説に載せた『漢書』和訳も参照。

編者の荀悦は、曹操の参謀として三国志に有名な荀彧の従兄だが、この一節以外誰も論語の本章を引用してあれこれ書かなかったのは奇跡に近い。本章の史実性は上記の通り疑えないし、定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期には存在したことは確実なのだが。

さて孔子は本章で言うように、弟子には仕官後の精励を求めたが、中には何もしないで治績を挙げた者もいる。子賤がそれで、面倒くさい住人が住まう単父ゼンホの代官として赴任したのだが、取り立てて何をするでもなく、チンチャカ琴を弾いていただけで、よく治まったという。

宓子賤治單父,彈鳴琴,身不下堂而單父治。巫馬期亦治單父,以星出,以星入,日夜不出,以身親之,而單父亦治。巫馬期問其故於宓子賤,宓子賤曰:「我之謂任人,子之謂任力;任力者固勞,任人者固佚。」

劉向
筆者・劉向

子賤が単父の代官になると、ひたすら琴を弾き、代官所の外にも出なかった。それなのにまちはよく治まった。そののち巫馬期も単父の代官になったが、夜明け前から夜遅くまで駆けずり回って、ようやくまちを無事に治めた。巫馬期が子賤に統治のコツを聞くと、こう答えた。

「私は人任せにし、君は自分だけで何とかしようとした。自力に頼れば、くたびれるに決まっている。人任せにしておけば、もともと手出しする必要が無い。」(『説苑』政理23)

これが史実かどうかは断じかねるが、面倒くさいまちだからこそ、地元の慣習につべこべ言わず従うことも、統治のコツだった可能性はある。おそらく孔子も結果を見て、子賤に文句は言えなかったに違いない。なおこの故事は、「掣肘」の語源にもなっている。

宓子賤治亶父,恐魯君之聽讒人,而令己不得行其術也。將辭而行,請近吏二人於魯君,與之俱至於亶父。邑吏皆朝,宓子賤令吏二人書。吏方將書,宓子賤從旁時掣搖其肘。吏書之不善,則宓子賤為之怒。吏甚患之,辭而請歸。宓子賤曰:「子之書甚不善,子勉歸矣。」二吏歸報於君,曰:「宓子不可為書。」君曰:「何故?」吏對曰:「宓子使臣書,而時掣搖臣之肘,書惡而有甚怒,吏皆笑宓子,此臣所以辭而去也。」魯君太息而歎曰:「宓子以此諫寡人之不肖也。寡人之亂子,而令宓子不得行其術,必數有之矣。微二人,寡人幾過。」遂發所愛,而令之亶父,告宓子曰:「自今以來,亶父非寡人之有也,子之有也。有便於亶父者,子決為之矣。五歲而言其要。」宓子敬諾,乃得行某術於亶父。

子賤
子賤が単父の代官に任じられた。

子賤「やれやれ。どうせ殿様は私の悪口を耳にして、思い通りに腕を振るえなくしてしまう。」そこで一計を案じ、副官二人を付けてくれるよう魯公に願い出た。殿様が許したので、子賤は二人を連れて単父に赴任した。

地元役人が出迎えると、子賤は二人に命じて、彼らの名を一覧に書き記すよう命じた。二人が筆を執ると、子賤は二人の袖を横から掣肘=ちょいちょいと引っ張り、邪魔をした。その上書き上がった一覧を見て、「何だこの下手くそな字は」と怒った。呆れた二人が辞任を願うと、子賤は「ああ帰っていいよ」と追い払った。

はらわたが煮えくり返った二人は魯の都城に帰ると、魯公にあらましを報告した。「子賤どのが字を書かせてくれません。」「なぜじゃ?」「我らが字を書こうとすると、横から袖を引っ張り、書き上がった字を下手くそだと叱りました。地元役人はそれを見てゲラゲラ笑い、我らはあまりの辱めに、こうして帰ってきたのです。」

魯公はため息をついて言った。「それはきっと、子賤がワシを諌めているのだ。ワシが君たちを遣わして、子賤の腕を振るえないようにすることを、見通していたのじゃろう。もし君らがいなければ、ワシはきっと子賤の邪魔をしただろう。」

そこで信頼する家臣を遣わして、子賤にこう言わせた。「今から単父のまちは、ワシのものではなく、そなたのものと心得よ。統治に必要ならば、思い通りの布令を出してかまわない。五年間は任せるから、そのあとで治績を報告しに来なさい。」

子賤は魯公の命令を拝受して、思い通りの統治を行った。(『呂氏春秋』審應覽・具備2)

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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