論語語釈「われ」(吾/我)

語義・語源

『大漢和辞典』

  1. われ。わが。
  2. 相手を信愛して呼ぶ時に添へる語。
  3. 読書の声。
  4. 棒の名。
  5. 梧に通ず。
  6. 虞に通ず。
  7. 鋙に通ず。
  8. 五に通ず。
  9. 童の譌字。
  10. 古は𠮣に作る。
  11. 姓。
  12. 親しまないさま。
  1. われ。
  2. わが。おのれの。
  3. 私意。
  4. うゑる。
  5. にはか。
  6. 古は𢦓に作る。
  7. 姓。

学研漢和大字典

音符五の会意兼形声文字。語の原字だが、我と共に一人称代名詞に当てる。古くはおもに主格と所有格に用い、我はおもに目的語に用いた。ただし「不吾知=われを知らず」のような代名詞を含む否定文では吾を目的格に用いる。 刃がぎざぎざになった戈を描いた象形文字で、峨(ぎざぎざと切りたった山)と同系のことば。昔、「われ」のことをŋaといったので、我の音を借りて代名詞をあらわした仮借文字。吾は、おもに主格・所有格に用いたが、のち我と吾を混同した。私は、公に対する語で、ひそかに、自分だけの意。余(予)は、古めかしい一人称。

字通

五+口。五は木を交叉して器を蓋するもの。口はさい、祝禱を収めた器の形。その器に固く蓋して、祝禱の呪能を守るもので、まもる意。金文には五を二重にした形のものがある。〔説文〕二上に「我自らふなり」と一人称代名詞とする。〔毛公鼎〕に「王身を干吾かんぎょせよ」とあって、干吾は攼敔の初文。吾を一人称に用いるのは仮借。金文の〔也𣪘いき〕に「吾がちち」という語が両見し、所有格の用法である。主格・目的格には我を用いることが多い。 我は鋸刃の刃物の象形で、鋸の初文。義・羲は犠牲としての羊に我(鋸)を加える形。しかし我を鋸の意に用いることはなく、一人称の代名詞に仮借して用いる。〔説文〕十二下に「身に施して自ら謂ふなり」と一人称とし、また「或いは説ふ、我頃、つまづくなり。戈に従ひ、𠄒すいに従ふ。𠄒は或いは説ふ、古の垂の字なり」と字形を説き、さらに「一に曰く、古の殺の字なり」という。卜文・金文の字形は鋸の形で、仮借して一人称とする。鋸はその形声の字で、我の初義を留める字である。

論語での用例

  1. 曾子曰:「日三省身:為人謀而不忠乎?與朋友交而不信乎?傳不習乎?」
    *吾:主格/所有格
  2. 子貢曰:「不欲人之加諸也,亦欲無加諸人。」子曰:「賜也,非爾所及也。」(公冶長)
    *我:主格/目的格 *吾:主格
  3. 季氏使閔子騫為費宰。閔子騫曰:「善為辭焉。如有復者,則必在汶上矣。」(季氏)
    *我:目的格/目的格 *吾:主格
  4. 子謂顏淵曰:「用之則行,舍之則藏,唯與爾有是夫!」子路曰:「子行三軍,則誰與?」子曰:「暴虎馮河,死而無悔者,不與也。必也臨事而懼,好謀而成者也。」(述而)
    *我:補格 *吾:主格
  5. 子曰:「二三子以為隱乎?無隱乎爾。無行而不與二三子者,是丘也。」(述而)
    *我:目的格 *吾:主格/主格
  6. 大宰問於子貢曰:「夫子聖者與?何其多能也?」子貢曰:「固天縱之將聖,又多能也。」子聞之,曰:「大宰知乎!少也賤,故多能鄙事。君子多乎哉?不多也。」(子罕)
    *我:目的格 *吾:主格
  7. 子曰:「有知乎哉?無知也。有鄙夫問於,空空如也,叩其兩端而竭焉。」(子罕)
    *我:目的格/? *吾:主格
  8. 顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅;瞻之在前,忽焉在後。夫子循循然善誘人,博以文,約以禮。欲罷不能,既竭才,如有所立卓爾。雖欲從之,末由也已。」(子罕)
    *我:目的格/目的格 *吾:所有格
  9. 子曰:「回也非助者也,於言無所不說。」(先進)
    *我:目的格 *吾:所有格
  10. 陽貨欲見孔子,孔子不見,歸孔子豚。孔子時其亡也,而往拜之,遇諸塗。謂孔子曰:「來!予與爾言。」曰:「懷其寶而迷其邦,可謂仁乎?」曰:「不可。」「好從事而亟失時,可謂知乎?」曰:「不可。」「日月逝矣,歲不與。」孔子曰:「諾。將仕矣。」(陽貨)
    *我:補格 *吾:主格
  11. 公山弗擾以費畔,召,子欲往。子路不說,曰:「末之也已,何必公山氏之之也。」子曰:「夫召者而豈徒哉?如有用者,其為東周乎?」(陽貨)
    *我:目的格/目的格 *吾:主格
  12. 子夏之門人問交於子張。子張曰:「子夏云何?」對曰:「子夏曰:『可者與之,其不可者拒之。』」子張曰:「異乎所聞:君子尊賢而容眾,嘉善而矜不能。之大賢與,於人何所不容?之不賢與,人將拒,如之何其拒人也?」(子張)
    *我:被修飾/被修飾/目的格 *吾:所有格

付記

6. 吾有知乎哉?無知也。有鄙夫問於我,空空如也,我叩其兩端而竭焉。(子罕)

「吾知ること有らんや。知ること無きなり。鄙夫有り、来たりて我に問うこと空空如たるときは、我その両端を叩きて竭す。」

私は物事を知っていようが、実は何も知らないのである。しかし、いなか者が私の所へ来て、(なんの心得もなく)うつろなままで私に物事を尋ねたならば、私は、その事の始めから終わりまで、すべてはたき出して、ありたけの知識を教えつくすようにしている(藤堂本)

最終句の「我」は目的格ではないか? だとすると「叩」かれるのは我=孔子で、語順は決定的に重要ではあるものの、ここに限って受け身に読むべきでは?

「鄙夫有りて我に問うも、空空如たり。我その両端を叩かれて竭されなん。」
(田舎者に質問されようと、私は空っぽだ。容れ物の両端をとんとん叩いてはたき出すように、中身はあっという間に尽きてしまう。)

また。

孔子や比較的年配者は、我と吾をはっきり使い分けているが、年少の弟子はあまり気にしていないように見受けられる。

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